平成18年2月23日
(2006)

 今や「お台場」は東京の観光名所のひとつとなっており、国内はもとより海外からの観光客も足を運ぶところである。
世界最大級の観覧車が完成し、ますますレジャーランド化しているお台場ではあるが、東京都の借金は臨海副都心
開発によるものが大きなウエイトを占めている。なにしろ、インフラストラクチャーに非常にお金がかかっているのであ
る。。しかし、東京都が開発したこの臨海副都心、もともとは業務地区と居住地区と商業地区がバランス良く配置さ
れた都市を描いて計画されたものである、
 このような都市景観を体験できることは、世界的にみても非常に希である。大きな建物と大きな空き地、ゆりかもめ
の新交通システムに乗って少し高い位置からこの両極端な街を眺めていると、つくづく異空間にいるような非現実的な
感覚を体験することができる。あと20年も経つと、ニューヨークのマンハッタンのような地区に変貌しているのであろう
か、今の新宿副都心が成熟したオフィス街になってきているように……。

 





 此処へのサイクリングは何度も気が向くと出かけている。行くコースもまちまちで街中や大横川親水公園遊歩道やその他、今回のコースと思いつくままにぺタルを踏んでいる。なぜか、気が和む。忙しない所は変わらないのに。海、船、橋、風車、ビル、倉庫、桟橋、台場跡、水辺、放送局、車庫、工事現場、砂浜ETC・・・・・・。
 なかでも今日は、珍しい隅田川の堤防内に造られたテラスの遊歩道を通ってお台場まで行こうと家を出た。しかしながら明治通りの白鬚橋袂から首都高速6号線の下、土手沿いに行かなければならなかった。なぜならまだこの辺りはテラスの工事も始まっていない。

● 白鬚橋 (西岸は荒川区南千住3丁目と台東区橋場2丁目、東岸は墨田区堤通1丁目と2丁目)

構造形式  橋長 幅員 着工 竣工
下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋 168.8m 22.1m 昭和3年7月 昭和6年8月8日

 「白鬚橋」が正しく。ちなみに、大辞林には〔「髭」はくちひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげ、の意で書き分ける〕と載っている。大正2年に木橋が作られたのが最初で、墨田区側の白鬚神社にちなんで命名された。 現在の橋は昭和6年の完成で、全長168m、全幅23m。在原業平が東くだりの折りにすみだ川越えをして詠んだとされる、「名にしおはばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしや」と、場所は、この白鬚橋のあたりだったようだ。
 江戸時代、江戸市域と郊外の境界を「朱引」と呼んだ。明暦3年(1657)の振り袖火事をきっかけに江戸市域は膨張した。江戸市域の町は町奉行の管轄で、郊外は代官支配地であった。それまで同じ代官支配地の橋場村であったのが思川(現明治通り)の南側を市域に組み入れ町方とし、北側は郊外の地方橋場とし朱引きした。
 (明治天皇行幸対鴎荘遺跡)白鬚橋西詰めにあった三条実美の別荘を、明治天皇は見舞いを兼ねて訪ね、維新後最大の国難を乗り切るため協力を依頼した。明治維新の元勲で、明治政府の最高権力者太政大臣三条実美(1837〜1891)の別荘が白鬚橋(当時は橋場の渡し)西岸にあった。政府部内では征韓論をめぐって激しく対立が続いていた。征韓論を主張する西郷隆盛と、これに反対する岩倉具視、大久保利通らの確執は日に日に激しくなっていた。三条実実は心労のあまり倒れ、この対鴎荘で静養をしていた。

「隅田川小雨は晴れて夕日かげ ぬれたる花にさしわたる見ゆ
               世をいとふ人にはあらぬわれなれど いとまある日の かくれがぞこれ」
「見わたせば波の花よる隅田川 ふゆのけしきも、こころありけり」

 対鴎荘は昭和3年、白髭橋架設工事のため多摩聖跡記念館(多摩市連光寺)に移築されている。京王線の多摩聖蹟桜ヶ丘の地名は、明治天皇が三条実美の対鴎荘を度々訪ねられたことから付けられている。
 台東区側はテラスになっているが青テントが浅草まで数珠繋ぎに並んで、本来の憩いの場とは程遠いこちら側墨田区はカミソリ堤防脇の遊歩道にもあるが少ない、それでもズラリと並んだ所もあり、異臭のする青テントの前を抜けて元大倉別邸跡の倉庫、京成グループのマンション建設も5階あたりまで進んだ建築現場と高速道路の出入口を左に眺めながら昔、子供のころ眺めたボートレースや艇庫はこの辺りかなと思いを巡らしながら隅田公園少年野球場前まで来た。
 ここの野球場(昭和24年「少年に明日への希望」をスローガンとして、日本で最初の少年野球場)は、小中学生の頃仲間を集めて草野球のチームをつくり大会に参加し、出ると負けの弱小チームではあったが良い思い出となって今でも昨日のように蘇る。いまでは、プロ野球で活躍しホームラン王として知られる王貞治も、此処で少年時代は活躍した一人だと記したプレートもある。

 さらに、堤通りから二筋路地奥には、文豪”幸田露伴”が住んでいた屋敷跡に造られた児童遊園が、ひっそりとある。

露伴児童遊園

 ここは文豪”幸田露伴”が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治26年冬、この寺島町界隈に来住し、それから約30年最も力の溢れた時期をこの地に過ごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲などして、よく庭で遊んだそうです。
 このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場として、いつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。




隅田公園
向島界隈


 向島の地は江戸に入ってから浅草側から隅田川を隔てて牛島・寺島などを総称して呼んだものである。向島地域には、牛島神社、常泉寺、三囲神社、弘福寺、長命寺、秋葉神社などの名所旧跡並びに文化遺産が多い。
 とりわけ江戸時代末の文化文政の頃から文人墨客の好むところとなり、社寺の境内にはさまざまなたたずまいの句碑、歌碑類があり、あわせて100を軽く超える。
 向島百花園は文化元年(1804)に町人”佐原鞠塢”が武家屋敷の跡地に開いたものである。園内には多数の梅の木が植えられ、詩歌にゆかりの深い草木類が多い。
 園の名称は梅は百花に先駆けて咲くから百花園といわれる。
 隅田公園は、そもそも隅田川の両岸にあり左岸沿い、つまり墨田区側と右岸沿い江東区側に隅田公園が川沿いに続き、向島側の土手下には隅田川七福神そして向島の花街が続き、夏には”風の盆歌”の流し踊りも行われるようになり一段と一般行楽客を呼び寄せる手だてを講じているようだ。
 台東区側は1月の初詣で始まり、毎月のように浅草寺を中心に行事があり、特に7月の隅田川花火大会、8月サンバカーニバルは、100万人近くの人出だ。観光、行楽客の足を向けさせようと観光協会も知恵を絞っている。


隅田川七福神 

 
@毘沙門天(多聞寺)、A寿老神(白鬚神社)、B福禄寿(百花園)、C弁財天(長命寺)、
 D布袋尊(弘福寺)、E大黒神(三囲神社)、F恵比寿神(三囲神社)。




 

墨提のさくら

 北十間川から旧綾瀬川あたりまでの隅田川の堤を、墨田堤(墨堤)と呼んだ。とりわけ墨田堤を知らしめたのは、8代将軍吉宗の植えた桜から始まる桜並木であった。
 隅田川を眺めながら桜のトンネルは江戸の花見の第1に目されていた。堤沿いに点在する神社仏閣とあいまって、近郊行楽地としての向島は、対岸の吉原と”竹屋の渡し”、”隅田の渡し”で結ばれ、文人墨客を始め、江戸市中の人々に愛され、多くの文芸作品や芝居の舞台にもなってきた。
 文人墨客の中心人物でもあった太田南畝、酒井抱一、佐原鞠塢等は向島百花園に伝わる”福禄寿尊”にちなみ、堤沿いに七福神を配し、墨堤散策に一層の花を添えた。その伝統と情熱は今も残る。



第74回早慶対校競漕大会
(平成17年4月17日)

 100周年記念大会観客2万人(主催者発表)が見守るなか、好スタートを切った慶大が見事なチームワークでリードを広げ、17秒54差をつけて先着した。
 早慶レガッタの歴史は古く、1905年(明治38年)に隅田川向島で第1回大会が開催されたが、野球応援の過熱から対校戦全面禁止に到り、第2回は25年後(昭和5年)でした。
 その後、毎年開催(戦争の影響で昭和19年〜21年は中止)されて来たが、高度成長期に隅田川の水質汚染が進んだことにより、昭和37年以降は、競技の場を戸田コースや荒川に移さざるを得なくなった。
 河川の浄化対策が進んだこともあり、隅田川レガッタファンや地元の努力により、昭和53年に復活し現在に至っている。
 メーンであるレガッタファン注目の早慶対校エイトは慶応が早稲田の3連覇を阻み勝利を修め、通算成績を34勝39敗1同着。隅田川に舞台を戻した78年の第47回以降の対戦成績は、慶大が14勝13敗1同着でリードした。
 コースは3000Mで、両国橋上流からスタートし、上流へ向けて蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋を次々とくぐり抜けゴール。8分40秒の戦いに沿川の隅田テラスや橋上からの声援が選手を奮い立たせます。
 戦前は、鐘淵〜吾妻橋間2マイルコースで開催。参加校は、大倉高商を加え、東大、商大(一橋大)、早大、慶大、明大、日大、高工(東京工業大)、高師(筑波大)、外語(東京外国語大)の10クルーで、新聞などでは10大レガッタ。
 ゴジャゴジャと立つ早慶その他の艇庫村を見ながら行くと、川岸の土手から木の桟橋が傾斜しつつ川の水に突っ込んでいる。艇庫からボートをトロッコに乗せて運び、この桟橋の真中のローラーの道を転がして川に浮かべ、その反対をやって納庫する。
 明治16年(1883年)には最初の対校レースが行われ、隅田川の竹屋の渡しと言問橋の間で、東京帝国大学と東京高等師範学校(現筑波大)が競った。また、明治38年(1905年)には早稲田大学と慶応義塾大学の対校戦が始まっている。両校の対校戦は早慶レガッタと呼ばれ、昭和5年(1930年)に第2回が行われて以来、戦争による中断を除いては現在までほぼ毎年行われてきている。
 大正9年(1920年)には、日本漕艇協会が創立された。当初の参加校は東京帝国大学、早稲田大学、明治大学、東京高等商業大学(現一橋大)、東京高等工業大学(現東工大)、東京外国語学校(現東京外国語大)、東京高等師範学校の7校であった。以後、大会はほぼ毎年行われた。会場の変遷を見ると、当初は隅田川の向島付近で行われることが多かったようである。向島で行われるレースは隅田川の春の風物詩として、人々に愛され、多くの観戦者を集めていた。



 隅田公園の土手の遊歩道が首都高速6号下り線向島ランプ際の”常夜灯”、桜橋袂の”周辺観光案内プレート”隅田公園は言問橋下を潜り吾妻橋袂の墨田区役所まで約1.3q、桜並木と旧跡が南に続く。台東区側もほぼ同じ長さでやっぱり桜並木と旧跡が所々で見かける。



向島料亭街
 

 
東京に現存する花街は、一般に東京六花街と呼ばれる新橋・赤坂・芳町・神楽坂・向島・浅草。昔日の風情が失われたとはいっても、向島は今も都内最大の規模を誇る花街で、50軒近い置屋と、120人以上の芸妓・半玉を擁しています。
 昭和15年頃の全盛期には、1600人もの芸子さんたちがいた。戦後、昭和27年頃でも600人程はおり、向島は日本でも歴史の古い大きな花街だったんです。

「水のと」
墨田区向島5-17-13





 初代揆一が自分の名の一字から癸(みづのと= 癸ととは、東西南北の北を意味し、二つの
異なる物が交わりて一つの新しい物を生む作用を成し、お互いに心を打ち明けて虚心坦懐に話
し合い、親交を厚くし)を屋号として江戸前料理の看板を掲げたのは明治40年。四季折々の材
料を吟味した会席料理
●料理、飲み物、玉代込みで、お一人様3時間50,000円ほど
●ご宴会コース2時間・・・お料理・飲み物・芸妓・サービス・税込み(18:00〜20:00)
 10名様以上  お一人様20,000円より
●ご婦人夜のコース・・・2時間・・・お料理・飲み物・サービス・税込み芸妓による歌舞音曲付き
 10名様以上  お一人様15,000円より
「櫻茶ヤ」
墨田区向島5-24-10
 客を楽しませるために日々芸を磨いている芸者が常時15〜20名。
敷居が高いという声より料金を体制化し、伝統ある向島花街のなか、主人が庖丁を握り、頑な
に守り続ける心のこもった季節の喰切料理
「千代田」
墨田区向島5-20-13
新装成ったしっとり落ち着いたお部屋で、女将を中心に内芸妓衆の若さあふれるおもてなしと、
季節感たっぷりの料理 
●料理、飲み物、玉代込みで、お一人様3時間50,000円ほど
「波むら」
墨田区向島2-15- 8
 昭和42年に開業し、当時は料亭が90軒、芸子さんたちは370名おりました。 現在、料亭は
18軒にまで減ってしまい、若い内芸妓衆の芸と、四季折々の会席料理をお楽しみになりながら
●料理、飲み物、玉代込みで、お一人様3時間60,000円ほど

 黒塗りの自家用車やハイヤーが料亭近くの道路や路地裏などに停車して、年中、芸妓・半玉を相手に季節料理に舌鼓を鳴らし、酒を酌み交わし互いに心を打ち説けて虚心坦懐に話し合い、商談、宴会とせっせと足を運び、また、政局が不安定なときほど、密室会談が頻繁におこなわれいるともいわれるが、主の戻るのを今か今かと運転手がドアを忙しなく開け閉めしている光景を見かける。





 話を戻して、河川内にあった民間業者の桟橋と飲食の出来る施設が昨年から取り壊しが始まり、その地点に今年新しく出来上がった土手からテラスに入れる坂道と階段が完成した。
 テラスには竹垣の中に小川が流れており、近所の老人がひねもすのたりのたり釣り糸を垂れているが、成果はないが、それでもザリガニやサワガニがウロウロ走り回ってはいる。また、カミソリ堤防の側面にはつるものの植物や植栽がありコンクリートは見え隠れしテント住人の庭先になっている。
 7月の隅田川花火大会の時には、両岸の青テントが一つ残らず取り除かれていたが、一週間もすれば元の木阿弥、今まで以上に両岸を席巻していて不愉快この上ない。やれば出来るのだから。
 熱帯夜と真夏日の続く残暑厳しい折でも川風は心地よく頬を撫でて気持ちいい。昔より水質汚濁も改善されて地元に住む私には余り臭気を感じさせないが、他所から来た人には一瞬で、鼻を摘む程ともまだいわれているが、それでも釣り人は竿を垂らして終日楽しんでもいる。たまにはボラも水上高く飛び跳ねたりもする。

桜橋

 
桜橋のデザイン、設計の特長は両端が分かれていて、上から見るとX(エックス)の形をしている。歩行専用橋で中央で重なりその季節によっては橋上でイベントも行われ、歩道だけにしては往来があり生活道路としても利用され両端にはモニュメントがある。 

橋の工事概要
工事名称 隅田公園歩行者専用橋(桜橋)
総工事費 28億3千万円
工期 昭和55年11月〜60年3月
上部工

型式/3径間連続X形曲線箱桁橋
橋長/169.450m
全幅/取付部6.0m、中央部12.0m、合流部19.6m
下部工

基礎工/ニューマチックケーソン 8.0×11.0m×29.0m2基
      場所打杭直径1.2×31.0m6本、直径1.2×28.0m6本
橋脚/張出し方式の壁式 2基

 隅田川の風物詩であるレガッタ競技のボート乗降施設を、今回のテラス整備工事で昔の艇庫付近に新設し、今後、隅田川で行われる競技会・練習等ボートの搬入・搬出、ボートへの乗り降りが大変便利になる。
 桜橋を渡ると、正面には台東リバーサイドスポーツセンターの施設が横に長く並んでいる。その南脇を通り抜けると、旧山谷掘りの今戸橋の欄干がわずかに残る江戸通りに出る。

台東リバーサイドスポーツセンター
体育館 屋外施設
第1競技場
36m×42m(バスケット-ル2面、バトミントン
8面、ハンドボール1面、バレーボール2面等)
テニスコート
コート5面(砂入、人工芝、ナイター照明
有)7220u×2面
第2競技場
36m×19.5m(バスケットボール1面、バレ
ーボール1面、バトミントン4面等)
野球場
野球場7220u×2面(砂入、人工芝、ナ
イター照明有)
第1武道場
柔道公式試合場(50畳)×2面 柔道・合気道等
少年野球場
野球場1面(3622u)(子供の野球の
み、大人の場合ソフトボールのみ可)
第2武道場

(夏期のみ開場)大プール 50m×19m
9コース/小プール 20m×15m/幼児
用プール 深さ30cm
屋外プール

(夏期のみ開場)大プール 50m×19m
9コース/小プール 20m×15m/幼児
用プール 深さ30cm
弓道場
和弓5人立(28m)アーチェリー8的(30m)
陸上競技場
1週200mトラック 6コース/直走路
100m 8コース(全天候型ウレタン)
相撲場、卓球場、エアライフル場、トレーニング室、会議室  

山谷掘

 
山谷堀は、江戸にたくさんあった堀を代表するもので、堀といえば、山谷堀を指したほどであった。堀の両岸には多くの船宿や茶屋があった。かつては「郭(くるわ)」と呼ばれる虚構と華麗が織りなす別世界があった。
 北区の王子権現辺から流れる石神井川は田端、日暮里、根岸を経て今の荒川区と台東区の区境を形成し一般には音無川と呼ばれた。この水が三ノ輪から土手通りに落ちる辺りから山谷堀と呼ばれる。堀は三ノ輪まで続きこの土手(土手八丁)を日本堤という。9つの橋が架けられ、大川から一番手前の橋が今戸橋である。
 今の日本堤に「新吉原」が出来たのは、明暦2年(1656)。新吉原は浅草寺裏の田圃の中に出来たので、遊客は駕籠か船で通った。猪牙船といわれる小さな船で柳橋から隅田川を上り、今戸の山谷堀まで来て日本堤迄出るのだ。今ではこの堀は埋め立てられて公園になっているが、橋は土手通りと並行して今も残っている。隅田川寄り下流から今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗い橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋。 山谷堀最下流の橋を今戸橋という。橋を越える通りは旧奥州街道で、浅草御門から蔵前、浅草を通り宇都宮までは日光街道と同じ道(現江戸通り)であった。しかし、文禄3年(1594)千住大橋が架設され、道筋は今までの浅草追分(言問橋西詰め交差点)から橋場に至り、橋場の渡しを使って大川を渡り常陸国へ出ていたのが、浅草追分.小塚原.千住と変更になった。
 山谷堀に架かる一番下流の橋が今戸橋で北岸が今戸町になる。この辺りは瓦等を焼く窯屋が多い。天正年間に千葉氏の家臣が住み着いて瓦や土器を焼いたのが始まりだという。江戸名所絵図にも「都鳥ノ名所ナリ 此辺瓦ヤクナリ」と書かれている。千住大橋が出来るまでは、浅草御門から続く奥州.日光街道で「橋場の渡し」につなぐ重要な町であった。
 山谷堀とは、東京都下水道局日本堤ポンプ場から隅田川へ注ぐ約700mの掘割であった。その源は北区音無川の北側、王子権現の下だという。山谷堀は隅田川と合流し、そこで終わる。合流部分(河口)にある写真は山谷掘水門で一番下流に架かるのが今戸橋である。いま橋はない。正確に言うと親柱のみ残されている。山谷堀は埋め立てられ暗渠(あんきょ)となり、蓋をされて緑豊かな遊歩道に変身しているのだ。

待乳山聖天

 正しくは金竜山本竜院。本尊の歓喜天はもともとヒンズー教の神で健康、商売繁盛、夫婦和合にご利益。その信仰に由来する寺のシンボルの二股大根や巾着が、境内のいたる所に印されている。
 関東三聖天のひとつ待乳山聖天は正しくは待乳山本龍院といい、浅草寺の子院である。縁起によると、推古朝の3年(595)に突然、待乳山が盛り上がり、金龍が天下ってこの山を守ったというから浅草寺創建よりも古い。なお、聖天は「しょうてん」ではなく「しょうでん」と読むのである。
 境内の各所に施された「大根、巾着」の意匠は当時の御利益を示すもので大根は健康で和合、巾着は商売繁盛を現すものだという。大根は人間の深い迷いの心、怒りの毒を消すといわれており、大根を供えることにより聖天さまがこの体の毒を洗い清めてくれるという。そしてその功徳によって、身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護するのだそうだ。例年正月7日の大般若講大根祭は大勢の信者でにぎわう。

江戸の端唄
「夕暮れに、眺め見渡す すみだ川
月に風情を待乳山 帆あげた舟が見ゆるぞえ
あれ 鳥が泣く 鳥の名も
都に名所が あるわいな」 
小唄
「さんやの小舟 ついたついた おゝついた
待乳山風 手拭でしのぐ
雨か、みぞれか
まゝよ、まゝよ 今夜もあしたの晩も
居つづけしよう しょうが酒  


「哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉」 戸田茂睡

浅草七福神

:浅草寺:本堂内に安置される米びつ大黒は財宝の神として信仰されている福寿や豊作の大黒天
:浅草神社:三社祭りで有名な神社、社殿は国重要文化財、大魚をもたらす恵比寿神
:待乳山聖:1月7日大根祭りで有名、浅草寺末寺、勝利から繁栄をもたらす毘沙門天
:今戸神社:招き猫由来の神社、今戸焼きの招き猫が売られる。幸福と良き縁結ぶ福縁寿
:橋場不動尊:鎌倉時代制作のお前立ち不動明王が有名、大きな度量清く正しく布袋尊
:石浜神社:聖武天皇創建(724)の古社、鹿を連れ長寿授ける寿老神
:吉原神社:江戸時代は大門の前方に有ったが、明治5年今の地に移転、江戸文化忍ぶ地の女神弁財天
:鷲神社:毎年11月の酉の市で江戸時代から有名な神社、お知恵を借りて学業成就寿老人
:矢先神社:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は弘法大師作と伝わる。福の鶴駿馬とともに復縁寿

泪橋

 鳥越の代地が山谷に出来て新鳥越と言ったが、鳥越にあった刑場も後にこの近くに移って、小塚原の仕置場と呼ばれた。囚人が刑場に引き立てられる時に渡った橋を「泪橋」と言い、今も台東区と荒川区の境になっている明治通りに名前が残る。因みに鳥越の刑場に向かう鳥越橋は「地獄橋」と呼ばれた。小塚原の名の由来は、昔、源義家が供養のために築いたとされる四十八の首塚があったことによる。小塚原近くの南千住の回向院には吉田松陰や橋本左内など幕末の思想家たちの墓に混じって高橋お伝、鼠小僧次郎吉の墓があり、杉田玄白「解体新書」の石碑が建っている
 現明治通り(思川が流れていた)と吉野通りの交叉する処に架かっていた泪橋。江戸時代には刑場に引き立てられる囚人のこの世とあの世との別れの橋であった。泪橋交差点を左に行くと地下鉄日比谷線の高架があり、超えると小塚原の旧刑場だ。この泪橋の名の由来は、現在の小塚原回向院のあたりが小塚原刑場であったところから、刑場にひかれていき処刑を受ける囚人たちが、この橋を渡りながら、この世との別れに涙し、また身内たちも悲しんで涙を流したところから泪橋といったという。これは俗説のようである。
 泪橋を超えると小塚原の刑場であり、処刑される者との別れの橋であり、また江戸の境界として千住宿への旅の一歩を踏み出す(江戸処払いはここから外へ追い払うのである)分かれの橋なのであった。千住小塚原に刑場が移った時期は明確ではないが、元禄年間(1688〜1703)には聖天町から移転して来たと思われる。
 鉄道工事や道路拡幅工事によって、僅か1メートル半位の地中から樽詰めの頭蓋骨が二百ほども掘り出されて、往時の刑場跡地が露呈することになったという。この地は江戸から明治にかけて、何と二十万人の怨念と血と涙を吸い取った土地なのである。
 そして、手前東浅草2丁目の交差点を左折して、さらに行くと吉原大門、旧吉原遊郭の入り口である。

吉原

 
江戸時代初期まではこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火災後、幕府の命令で湿地の一部を埋め立て、日本橋葺屋(ふきや)町の吉原遊郭が移された。葺屋町の時の吉原を元吉原といい、移転先の日本堤の吉原を新吉原という。
 新吉原は浅草寺裏の田圃の中に出来たので、遊客は駕籠か船で通った。猪牙(ちょき)船といわれる小さな船で柳橋から隅田川を上り、今戸の山谷堀まで来て日本堤、つまり土手八丁を行った。郭内は医者以外は馬の乗り入れは禁止だった。絵の手前の土手が日本堤、衣紋坂(えもんざか)「ここへ来ると衣紋を作ろうというのでこの名が付いた」。
 その右に高札場、左に「見返り柳」がある。50間道(約175メートル)を行くと「大門」である。郭の周りは 鉄漿溝(お歯黒溝 おはぐろどぶ)に囲まれていた。中央の通りが「仲の町」で両側に楼閣が並び、水道尻(みとじり)まで続いていた。大門を入るとすぐ会所があり出入りする人を見張っていた。その隣に七軒茶屋があり最高級の茶屋として有名だった。
 「見返り柳」は、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ってしんみりとしたところから、この名がついたという。多くの川柳の題材となっており、台東区教育委員会の看板まで立っている。かつては山谷堀脇の土手にあったが、区画整理に伴い現在地に移され、震災や戦災によって数代にわたり植え替えられている。しかし、時代が過ぎれば「遊郭」も教育委員会の看板が立ってしまう「名所」となってしまうのだから、現在の新宿歌舞伎町などの風俗街も、3〜400年も経つとかつての東京の繁栄として、教科書で紹介されるのだろうか。
 1958(昭和33)年の売春防止法の施行にともなう赤線廃業によって吉原は幕を閉じる。その後、元赤線業者が経営するトルコ風呂がオープンし、現在のようなソープランド街が形成されている。

遊郭内の町名

 吉原「仲の町」をはさんで大門から水道尻に向かって、右手前から「江戸1丁目」「あげや(揚屋)町」「京町1丁目」、左には「伏見町」「江戸町2丁目」「角町」である。
 これらの町名は昭和30年代前半まで「浅草新吉原江戸町1丁目」「浅草新吉原揚屋町」「浅草新吉原京町1丁目」「浅草新吉原江戸町2丁目」「浅草新吉原角町1丁目」「浅草新吉原京町2丁目」として残っていた。
 昭和39年1月〜昭和42年1月までの間に

旧町名

新町名

沿革

浅草新吉原江戸町1丁目
浅草新吉原江戸町2丁目





千束4丁目






江戸町は、江戸繁栄のおかげで、この町も繁盛するようになったとのことで名付
けられた。大門口に近い方で七軒茶屋と呼ばれる高級引手茶屋があった。新
吉原は江戸唯一の遊郭として賑わい、文化・風俗面などで江戸八百八町に多
大な影響を与えた。旧地を元吉原、新地を新吉原と呼んだ。「吉原」といえば江
戸の遊郭を表す名称であるが、明暦3年以後は「浅草新吉原」が正式名称であ
り、移転にともない、従来2町四方(約48ku)の土地を給されていたのに対し
5割増しの2町×3町四方(約71ku)の土地を給された。
浅草新吉原揚屋町
千束4丁目
揚屋町は新吉原開設とともに起立した町で、町名は元吉原時代の揚屋を集め
て形成されたのにちなんだ。
浅草新吉原京町1丁目
浅草新吉原京町2丁目





 


千束3、4丁目








江戸幕府は元和3年(1617)、葺屋(ふきや)町(現中央区日本橋掘留町付近)
近くに土地を与え、江戸唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は葦葭の茂る土地に
造られたので葭原(よしはら)と名付け、のち雅字をとって吉原に改めた。明暦3
年(1657)の江戸大火後、幕府は浅草寺裏手の日本堤へ移転を命じた。元地
を元吉原、新地を新吉原と呼んだ。新地一帯は千束村の田圃で千束田圃(浅草
田圃)と呼ばれていた。その田圃を埋め立てて、遊郭として町造りをした。浅草
吉原には、中央には大門から水道尻まで仲之町が通り、両側には引手茶屋や
楼閣が並んでいた。
揚屋町以外の町名は元吉原時代に起立し、新吉原に引き継がれたものである。
京町の町名由来は、京都から来た傾城(けいせい)屋が多く移り住んだからと
言われている。
浅草新吉原角町1丁目
千束4丁目
角町「まちしるべ」 千束四丁目24番、そのうちの角町は寛永3年に京橋角町の
傾城屋(けいせいや)約10軒が移転してできた町である。

角海老楼 

 吉原遊郭京町1丁目にあった最高級楼閣。明治の初め、吉原の安尾張楼に奉公していた宮沢平吉氏が、角尾張楼の楼主となり、その後、海老屋を買取り京町1丁目2番地中之町通りに明治17年「角海老楼」と名付け時計台付きの大楼を建てました。
 吉原遊郭京町1丁目にあった最高級楼閣。 2台の車は大門に入った。霽波の車夫が「お茶屋は」というと霽波が叱るように或る家の名をどなった。何でもAstacidae族の皮の堅い動物の名である。(註Astacidaeとはドイツ語で海老のこと)
 12時を余程過ぎている。両側の家は皆戸を閉めている。車は、ある大きな家の閉まった戸の前に止まった。霽波が戸を叩くと、小さい潜戸を開けて、体の恐ろしく敏速に伸屈する男が出て、茶屋がどうのこうのといって、霽波と小声で話し合った。暫く押し問答をした末に、2人を戸の中に案内した。
 2階へ上がると、霽波はどこかへ行ってしまった。1人の中年増が出て、僕を一間に連れ込んだ。細長い間の狭い両側は障子で、廊下に通じている。広い側の一方は、開き戸の附いた黒塗りの箪笥の心中の金物を繁く打ったのを、押入れのような処に切り嵌めてある。朱塗りの行燈の明かりで、漆と真鍮とがピカピカ光っている。広い側の他の一方は、4枚の襖である。行燈は箱火鉢の傍に置かれてあって、箱火鉢には、文火(ぬるび)に大きな土瓶が掛かっている。
 中年増は、僕をこの間に案内しておいて、どこか行ってしまった。僕は例の黒羽二重の羊羹色になったのを着て、鉄の長烟管を持ったままで、箱火鉢の前の座布団の上に胡坐を書いた。『森鴎外=ヰタ・セクスアリス』(明治42年「スバル」に発表されたが発禁となった)。
 「吉原では、角海老はやはり一番大きかったようで、玄関の欄間に竜を彫ったりして、家自体にもたいそうなお金をかけ、部屋の中へも大金をかけて凝っていました。部屋部屋に高尾太夫がかむろを従えて、色々なさまをした人間より大きな人形があって、金糸銀糸で織った打掛けに、銀色の水玉がいっぱいついている。それはすごい衣装で、そういうのがある部屋が3つほどあったんですから。角海老はそういうので有名でしたが、稲本楼というのは、おいらんのひときわ美人ばかりを集めているので有名でした。 当時角海老楼は大見世と言い、吉原第一級の大楼で、格式が高く庶民は近付くことさえ出来ない大見世であったと記録されています。残念ながら明治44年4月9日の吉原大火でこの建物は焼失しました。

お歯黒どぶ

 名前の由来は、遊女が化粧をする際、お歯黒を流したためとも、また、溝の水がお歯黒のように黒く濁っていたからだともいう。「お酉様の手前、大音寺前から茶屋町というのがありますが、樋口一葉がいたというその向こう側に、糸切りダンゴというのがあって、そばにチャンユウという正月はよく凧を売っていた小間物屋もありました。吉原は、町からは木戸があって夜は通さなかったですが、大門の方は開けっ放しのようでした。おはぐろどぶは遊女屋の方は石垣になっていて、さし水で、もとは菊屋橋のほうからきていたと思うのですが、それこそまっ黒で、おはぐろのようにきたなく、流もそうないくらいでした。その菊屋橋の橋の下あたりも水はまっ黒でしたね。」



 桜橋を行過ぎると、テラスが階段状に下がっている最下段には、上潮で冠水したのか謎だが木片が水面に浮いていたり、ゴミ化して非常に汚らしい。桜橋から眺めている限り気が付かなかったが、掃除を怠るとこの様だ。小さな事から気を付けよう。

竹屋の渡し

 
大川を渡す「渡し」は上流から「橋場の渡し」「竹屋の渡し」「山之宿の渡し」「竹町の渡し」「駒形の渡し」「御蔵の渡し」「富士見の渡し」がある。「竹屋の渡し」は別名「花川戸の渡し」とか「業平の渡し」とか呼ばれた。山谷堀にあった船宿「竹屋」からとった名称、女主人が対岸の舟を呼ぶ「竹ヤー」の美声が有名だった。



今戸神社

 
伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナギノミコト)及び応神天皇を祭神とする。安産、縁結びの神様として崇拝されている。元の名を今戸八幡宮といった。京都石清水八幡宮から分霊されたのだという。新撰組の沖田総司終焉の地でもある。



今戸焼き

 今戸といえば「今戸焼き」で、豚の蚊やり、招き猫、稲荷の狐、鳩笛など高級品はないが素朴な味わいで人気が高い。明治年代ごろまでは焼物が作られていたようです。今戸から橋場にかけて14、5軒ぐらいが瓦を焼いた。もう焼物に使う泥はなく向島の小梅辺りから掘っていた。
 大正に入ると、今戸焼きが主流で、この辺では小物が作られ、通りから少し入った所に狭い作業場で窯場を持ち仕事をしていたが、次第に四つ木や小菅へと引越していった。





 言問橋の下をくぐりぬけ、ふと対岸を振り向けば、白鬚橋袂から飛び飛びに続き見えるマンション、今戸小中学校、野球場、テニスコート、陸上競技場、桜橋、台東体育館、ちょっと奥の高台に待乳山聖天。東武鉄道鉄橋、浅草松屋のデパート、水上バスの発着場などなどの数々が目に入る。
 東武線のガード手前でやむなくテラスも途切れ土手に上がらなければならないが、少しづつでも延長され繋がるのは何時の日か分らないが、こんな事を繰り返しながら最終目標のお台場まで走ろうと思っている。
 土手の遊歩道に上がると首都高速6号線と東武電車が立体交差する枕橋で東武鉄道のガード下の売店も店仕舞し自動販売機だけが並んでいる。






言問橋  (西岸は台東区花川戸2丁目と浅草7丁目、東岸は墨田区向島1丁目と2丁目)

構造形式  橋長 幅員  着工 竣工
3径間ゲルバー鈑桁橋 238.7m 22.0m 大正14年5月 昭和3年2月10日

 関東大震災後の「帝国復興計画」のひとつとして完成。橋の名は,在原業平の詠んだ「名にし負わば,いざ言問わん都鳥」の古歌に由来しているといわれている。古今集歌人の中でも人気歌人だった在原業平(ありわらのなりひら) が、京を離れ、当時湿地帯の広がる辺境の地だったこの地に左遷されて、はるばる隅田川の畔までやってきた時に、鳥の名に託して都の妻をしのんだという伊勢物語の故事からその名前を使うようになったともいわれ、古来この地は,言問の地名も渡しもあったわけではなかったようだが,上流に竹屋の渡し,下流に山の宿の渡しがあり,これを総称して言問の渡しと呼ぶことが多かったため,それに基づいて命名されたといわれている。

 

 東武伊勢崎線の始発駅浅草駅の北側から言問橋辺りまで広がるのが「花川戸」である.ここは靴の問屋街が広がるところで、約70店舗が建ち並んでいる。といっても原則として小売りは行っていないが、店先には靴が並べられており、結構、個人でも購入することはできる。靴(鞄も扱っている)に関してはありとあらゆる関連商品も取り扱っており、靴としては全国一の問屋街である。個人向けの店舗ではないので、渋谷や銀座などのようにショーウインドウなどはなく、一見地味な街並みであるが、靴屋さんに納品されている商品は、このような問屋を通じて卸されている。


 

山之宿の渡し

 東武鉄道鉄橋下花川戸辺りから向島に渡す「山ノ宿の渡し」があって、対岸のアサヒビール工場の角の源森川(北十間川)に架かる橋の名前から「枕橋の渡し」とも呼ばれた。枕橋の元々の名前は源森橋で、この源森橋の北に水戸屋敷の堀に架かる新小梅橋と並んであったことから、いつしか「枕橋と呼ばれるようになった。現在の源森橋は枕橋の上流の水戸街道に架かる橋となっている。


サッポロビール

 昭和24年に大日本麦酒が分割され、朝日麦酒と日本麦酒になるまでは、この地は札幌麦酒の工場であった。分割される際に朝日麦酒の工場となった。工場となりには「アサヒビヤホール」があって正に産地直送のビールが飲めたが、現在は黄金色に輝く朝日ビール本社となっている。


萬盛庵

 「明治、大正時代の浅草は、日本第一の盛り場であった。(中略)まず思い出されるのが奥山の萬盛庵である。三社さまの裏方、現在の浅草寺役僧の住宅が萬盛庵の敷地である。面積300坪、中央半分以上の庭園を囲んで、4、5の大小の離れた客間、三社(浅草神社)裏と富士横丁(浅間神社の「お富士さん」にちなむ通りで、浅草三業地にある柳通り)との二か所の門構えの入り口、そば屋とは思われない風格であった。(中略)大正12年の震災で焼失後、浅草寺と(東京府)との土地関係で失われてしまったことは残念である。いわゆる手打ちの代表的な店であった。」 『うどんのぬき湯』堀田勝三著より
観音堂裏は俗に「奥山」と呼ばれていた。大道芸をやっていたり、水茶屋も多くあって賑わっていた。






観音様
三社祭

 今は、浅草神社であるが、戦前までは一般には「三社権現」と呼ばれていた。浅草神社は、隅田川から観音様を引き上げた桧前浜成、竹成と、観音様を祀った土師中知とを祭神としている。三社祭は「三社さま」の愛称で親しまれている浅草神社の例祭で、江戸三大祭のひとつ。三社祭は正和元年(1312)から始まったといわれ、例年5月17日〜19日頃行われる。お神輿には一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮(三社の宮神輿)とあって、各基100人以上で担ぐ宮出しから始まり、氏子の各町会から出る100基以上の連合渡御で浅草寺裏手は神輿と人でいっぱいになる。3日後の宮入りでセイヤ セイヤのかけ声が響き渡り、浅草寺一帯はクライマックスを迎える。宮神輿が出るのは3年に一度の本祭りだけで陰祭りは町神輿だけである。三大将軍家光の代に作った神輿が三体あったが戦災で焼失し、現在のものは戦後作られたものである。

 



墨田区役所 

 橋を渡ると右角が、旧サッポロビールで昭和24年に大日本麦酒が分割され、朝日麦酒と日本麦酒になるまでは、この地は札幌麦酒の工場であった。分割される際に朝日麦酒の工場となった。工場の隣には「アサヒビヤホール」があって正に産地直送の麦酒が飲めたが、現在では黄金色に輝く朝日ビール本社ビルが建っている。
 明治39年に札幌麦酒が工場進出する前は、旧大名屋敷として、とりわけ邸内の庭が名園として知れわたり、文政5年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔、隅田川吾妻橋を望むものでした。
 明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていた。大正9年の工場拡張や続く関東大震災によってその面影は失われた。平成に入って、墨田区役所、アサヒビール本社、住宅整備公団ビル等が建ち、現状のたたずまい。
 現場の交差点を右にカーブして隅田川に面した区役所前の広場の一角には平成15年7月海の日に”勝海舟”銅像が完成し、南に腕を突き出した独特のポーズで何かを暗示しているような。東武鉄道の鉄橋と吾妻橋の間にはテラスが出来ていて、隅田川花火大会には金5000円の有料桟敷席が設けられ、抽選でなければ観覧できない。
 第2次世界大戦が終わってまもない昭和22年(1947年)、本所・向島の両区が一つになり、墨田区が誕生した。人口はわずかに14万人でしたが、やがて焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業のまちとして復興し、工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、昭和30年代の高度成長期を迎え、急速な経済発展のなかで、工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出、道路などの生活環境も急速に整備され、区では教育施設の充実から区民生活向上のための施設、福祉施設や文化・産業施設などの増設、下水設備の改良や道路・護岸の整備、公園の増設、緑化の推進などを着々と行ってきた。テラスの坂を下りきると、吾妻橋の袂にここより隅田公園と書かれた石塔が建っている。




吾妻橋 (西岸は台東区雷門2丁目、東岸は墨田区吾妻橋1丁目) 

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工
 3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋 150.0m 20.0m 昭和4年6月 昭和6年6月

 吾妻橋の名は古東国・関東地方を総称するアズマの語に由来している。もとは”竹屋の渡し”のあったところで安永3年(1774)に住民によって有料の橋がかけられた。
 吾妻橋は、浅草花川戸の家主伊右衛門と下谷竜泉寺町家主源八の出願により架設された。他の大橋が幕府の手で建設されたのに対して吾妻橋は民間の架設であった。
 民間で最初「宮戸橋」と付けたが幕府は「大川橋」と命名、町民達は勝手に東橋(あずまばし)といい、のち雅趣のある吾妻橋と呼ぶようになった。江戸の東にある橋という意味だろう。
 明治9年(1876)には、吾妻橋を正式の名称として、本橋がかけかえられたが
この最後の木橋は1885年(明治18年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突。一緒に流失してしまう。そのために1887年(明治20年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていた。
 改架された吾妻橋は当時としてはモダンで東京新名所として人気を集めたそうだ。しかし、関東大震災(1923)には、橋床の木造部分が焼け、鉄骨の部分のみ残った。
 現在の橋は、昭和6年(1931)にかけかえられた。浅草観音・ビール会社・六区などは、古に都鳥の伝承とともにこの辺りの風物詩として、文芸の題材などに生かされてきた。

  後に関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられた
 地下鉄が古くから開通していたことで、ここには「浅草らしい」地下商店街である。上野や浅草というとこのような薄汚い地下街にラーメン屋などが建ち並ぶイメージがあるが、まさに昭和前期(といった感じの)時代の面影を残す場所である。現在では,虫食い状態になっている商店街であるが、シャッター通りのようで時代の産物にならなければいいが、リニューアルもされずに味わいのある空間が形成されてはいるが。

 
 隅田川めぐりを楽しむ約40分の船の旅。「浅草」と「日の出桟橋」との間にかかる12の橋は、吾妻橋や清洲橋など色や形の個性的な橋ばかり。名所・旧跡を紹介する船内アナウンスに耳を傾け、変貌する東京港の姿を眺め、夜間の運航も船内は、床に埋め込まれた超高輝度LED(発光ダイオード)が輝き、黄昏どきには幻想的に夜空を照らします。ブルー、パープル、レッドと光の演出を楽しめる。






 赤く塗られた欄干の吾妻橋を横目で見ながら横切り、一般道を100mも進むとテラスに下りる階段があり、そこの立て看板には、自転車でのテラスへの立ち入りは禁止と書いてあったが、ウィクデーだったので、テントの住人以外は余りいなかったので、思い切って自転車を押してテラスに潜入した。墨田区側は整備されていたが浅草側は屋形船の駐留場となっていてカミソリ堤防が灰色に黒ずんだまま剥き出しでテラスはないが、上流〜下流まで切れ間なく1日も早く土手を上がり下がりしなくて済むテラスの出来ることを望む。
 駒形橋まで進んだ。浅草側はテラスに入れるが厩橋の手前で途切れ駒形橋まで戻らなければ外に出られない。墨田区側は水色に塗られた駒形橋を横切ると、





駒形橋  (西岸は台東区雷門2丁目、および駒形2丁目、東岸は墨田区東駒形1丁目と吾妻橋1丁目)

構造形式 橋長  幅員 着工 竣工
中央径間:中路式ソリッドリブタイドアーチ橋
側径間:上路式ソリッドリブアーチ橋
149.6m
22.0m
大正13年7月
昭和2年6月25日

 橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因む。関東大震災後の復興計画により現在の橋がはじめて架橋された。それまでは「駒形の渡し」があった場所である。
 土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要地で”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な
”君はいま 駒形あたり ほととぎす”
 の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(1923年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和2年((1927)に完成した。
 歌人、正岡子規の和歌にも
”浅草の 林わかず 暮れそめて 三日月低し 駒形の上に
 というのがあり、当時の景況がしのばれる。

駒形堂

 「浅草寺縁起」によると、創建年代は朱雀天皇の天慶5年(942)で建立者は安房守平公雅。名称由来には、
@隅田川を舟で通りながら、この堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので「駒馳け」の転訛。(江戸名所図会)
A観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(燕石雑誌)
B駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(大日本地名辞典)
 これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は、現、駒形橋西詰道路中央付近、堂は

関東大震災で焼けた。
 境内には都郷土資料 浅草観音戒殺碑も左にある。そうだか183.5cm。元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹(すいじゃく)した霊地として駒形堂の地を中心に南は諏訪町より北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地とした。このことを記念し、元禄6年3月浅草寺第4世宣存が願主となり建立したものである。
 駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1757)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるか、再建のものであるかは詳ではないが、昭和2年(1927)5月に土中から発見、昭和8年修補再建されたものである。
 橋の下をくぐると、左側カミソリ堤防から階段があり、堤防にそってまだ植えられてまもなくの紀が土手の高さの半分ぐらいの背丈に伸びている。真ん中が遊歩道になっており、一番川側に手摺が着いていて遊歩道との間には、細い水路が厩橋まで続いていが、すぐに橋がかかってり、ムード演出なのだろうか。テラスに出入りする階段があり、道が三段の段差になっているあたりにはベンチが何個も並び休憩するにはもってこいで隅田川花火のときなどは最高の見物席かも。
 そしてこのあたりの水路は、隅田川の水が出入出来るようになっていて沢がにだか何だか分からない蟹が横歩きしてまとまって住んでいる。また子橋があって進むと工事現場のネットが張られていて、手前の階段を上がって厩橋の手前に出ると橋の袂には厩橋地蔵尊が祀ってあり、そばに厩橋の由来の石碑もある。信号を渡り再びテラスにはいる。何時もならばそのまま進めるのだが、今回は嫌でも出る羽目になった。
  対岸はほとんど同じようなテラスになっていたが、橋の傍に屋形船の駐留場になっていて上がることは出来ず駒方橋までとんぼ返りするしかなかった。





●厩橋  (西岸は台東区蔵前8丁目、および駒形2丁目、東岸は墨田区本所1丁目)

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工 総工費
 3径間下路式タイドアーチ橋 151.4m 22.0m 大正15年9月 昭和4年9月 1,125,340円

 橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、また橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。
 もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所である。1872年(明治5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。
 プラットトラス形式で長さ86間(約154m)。1893年(明治26年)5月6日に完成した。またこの厩橋鉄橋の建設に伴って1890年(明治23年)には現在の春日通りも建設計画が持ち上がった。当時の厩橋近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったためで、本所方面から上野広小路に直接接続できるべく東西に結ばれた。しかしながら土地買収や立ち退き交渉などで難航し、開通は1895年(明治28年)になってからである。のち関東大震災により被災し、復興計画により現在の橋が架橋された。
 明治7年に、隅田川では第6番目の橋として厩橋が架けられた。5番目の吾妻橋の架設から100年後のことだ。土地の者は「おんまい橋」と呼んでいた。この厩橋架設がきっかけとなり、春日通りの道路建設が計画されたのは明治23年のこと。
 広い道は必要がなかったのだが、せっかく厩橋が出来たのだから、それでは本所方面から上野広小路に直接出ることが出来るよう、東西に走る道があればいいということで計画が持ち上がった。土地の買収やら、立ち退き交渉などで難航し、出来上がったのは明治28年(1895)であった。
江戸時代には、本郷方面から来て湯島天神を右に見て、湯島切り通しを下ってくると、板倉摂津守の屋敷に突き当たる。これを左に行き、ついで右折すると池之端仲町に出て御成道(広小路)に出る。右に行っても湯島天神下の交差点には直接出ない。つまり、現在の湯島交差点から、昭和通りの仲御徒町にかけては直線道路はなかったのである。結局、上野松坂屋の前に春日通りを通して、天神下と御徒町を結んだのである。
 昭和通りから東方、元浅草3丁目までは、武家屋敷が並ぶ、曲がりながらも細い通りがあった。今の多慶屋、御徒町中、御徒町公園は江戸時代の加藤出羽守(伊予大洲6万石)の上屋敷があったところ。加藤邸の左先には立花飛騨守(筑後柳川藩10万9千石)の屋敷で、後に跡地の一部に西町小学校が建ち、現在永寿総合病院がある。
 さらに、右に佐竹右京太夫(秋田佐竹藩20万5千石)が隣接する。広大な屋敷で、両側には不忍池から流れる出た忍川が流れ、佐竹氏がさった後は、佐竹ッ原と呼ばれる原っぱになり、明治23年には下谷公園に指定されたが、見世物小屋などが集まって来たが、公園設備など一向に作らないまま市街地となった。東端は佐竹商店街となり、また一部は竹町小学校となった。佐竹屋敷の東には三味線堀があり、オワイ舟が鳥越川から隅田川に汚物を運んで棄てていた。
 佐竹屋敷の東北対角線に酒井大学頭(出羽松峰2万5千石)の屋敷があり、その大部分は現在、都立白鴎高校の敷地となっている。昭和39年からの町名改正前まではこの辺りは浅草七軒町といった。名前の由来は、酒井邸の西側の華蔵院門前に七軒民家があったことにちなむという。
 通りの向かいは小島町で、小島という商人が、三味線堀を掘った土でここを埋め立てて町屋としたからだという。下谷区と浅草区は、この辺りで、現在南北の走る清洲橋通りで境となっていた。氏子圏も小島町以南は鳥越神社で、七軒町以北は下谷神社となっている。
 江戸時代には、現在の春日通りは小島までで、その先は真っ直ぐな道はなかった。松平次郎邸を貫き、千束から流れてくる新堀川を越え、ひたすら隅田川に向かって道を開いたのである。通りの両側には浅草安倍川町(旧菊屋橋1丁目)、浅草三筋町、浅草桂町、栄久町(旧浅草寿町2丁目)とつづき、奥州日光街道(現江戸通り)と交差する。江戸通りの北側は諏訪町(旧駒形1丁目)、南は黒船町、三好町(ともに旧蔵前3丁目)である。

三味線堀

 清洲橋通りに面して、小島町1丁目の南北にかけ、2つの船溜まりがあった。2つとも、東西約50メートル、南北約30メートルで、それを長さ190メートル、幅約10メートルの堀割でつなぎ、三味線堀と称した。三味線の形に似ていることからその名が付けられた。不忍池から忍川をへて、この三味線堀に落ち、やがて鳥越川から隅田川に注ぐ。いまの都立忍岡高校のところにあった蓬莱園の大池にも水は流れていた。この堀は、寛永7年(1630)鳥越川を堀り拡げ、旧小島町一帯の沼地を埋め立てるために造られたが、大正6年までにほとんど埋めつくされ、いまは区設三味線堀市場の名称だけが残っている。
 
都電

 16系統の都電は、錦糸町〜石原1丁目〜厩橋〜三筋町〜竹町〜西町〜御徒町3丁目〜上野広小路〜本郷3丁目〜春日町〜伝通院〜大塚駅と走る路線で、現在の春日通りを走っていた。
 早稲田行も出ているが、これは厩橋を始発としていた。停留所の宣伝板には今は破綻した永代信用組合浅草支店の文字が見えるが、所在地は次の停留所、桂町電停前と出ている。昭和42年にはすでに蔵前4丁目と住居表示は変わっていたのだが停留所の名前として残っていた。

 大塚駅前-大塚車庫-大塚辻町-大塚仲町-大塚窪町-教育大学前-清水谷町-竹早町-同心町-伝通院-富坂2丁目-春日町-真砂町-本郷3丁目-春木町-天神下-広小路-御徒町3丁目-西町-竹町-小島町-三筋町-桂町-厩橋-厩橋1丁目-石原町1丁目-石原町2丁目-石原町3丁目-太平町1丁目-太平町3丁目-錦糸町駅前

 再び厩橋下流の出入口からテラスにはいると、手摺には屋形船の模様がペナンとされていた。厩橋かどの船宿が利用している階段があり一般が利用する階段までは、遊歩道の半分は植え込みになっていて、それから先はタイルが張り詰められた幅広い遊歩道が続きコンクリートの堤防には植え込みすらないが落書きのような曲線が描かれて、やがて小さな花壇が中央に見えると左に階段がある。そして蔵前橋が直ぐ傍まで来ると、お化粧直しの真最中で通行止めになっている。かなり手前の階段を上がり、土手の外に一時出なければならなかった。
 浅草側は殺風景なカミソリ提防でその上黒ずんだ見苦しいもので、蔵前橋近くに倉庫と下水処理場があり、取入れようの水門とその奥に処理場の綺麗な建物が好対照で益々無残だった。



 

● 蔵前橋 (西岸は台東区蔵前1丁目、東岸は墨田区横網1丁目)

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工
 3径間上路式ソリッドリブアーチ橋 173.2m 22.0m 大正13年9月 昭和2年11月

 蔵前橋の側に昭和29年9月〜昭和59年12月まで国技館があり相撲とつながりがありました。その蔵前橋の橋柵には,相撲ののレリーフのデザインがなされています。
 
 地名は、江戸時代に、当時の大川(現在の隅田川)沿いに幕府の米蔵(浅草御蔵)があったことに由来します。元和7年(1621年)、浅草御蔵前片町という町名で初めて蔵前という町名が使われました。この「片町」という名称は、米蔵の前に片側だけ町が並んでいたことからだそうです。
  この米蔵は、元和元年(1614)ごろ、鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を埋め立てて作られました。 この米蔵は、幕府の直轄地からの米を蓄えるための米蔵で、領地を持たない旗本・御家人の禄米として支給されました。このころから御米蔵周辺に札差業という職業が興り、蔵前の地も商人の街としてそれまで以上に益々繁盛していきました。当時、武士よりも蔵前界隈の商人の方が羽振りが良かったとも言われています。
 関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所である 昭和9年(1934年)、御蔵前片町、福富町、新旅籠町など9ヵ町を整理統合して浅草蔵前となりました。そして昭和39年(1964年)、浅草桂町と統合し、現在の蔵前1丁目〜4丁目となりました。

首尾の松

 この碑から約100m川下に当たる浅草御蔵の四番堀と五番堀の間の隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
@寛永年間(1624〜1643)に墨田川が氾濫したときに3代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊  後守忠秋が、列中に伍している中から進み  出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事  対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の   松」  と称したという。
A吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの  舟が途中この松陰によって「首尾」を求め  語ったところからの説。
B首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説、江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水  中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあ  った松を「首尾の松」と称したという。」
 初代「首尾の待つ」は、安永年間(1772〜1780)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854〜1959)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和37年12月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は7代目といわれている。
 首尾の松とは、寛永年間隅田川氾濫の折に阿部忠秋が三代将軍徳川家光の前で、松から対岸まで馬で乗り切り首尾よく将軍の勘気がゆるされたとある。なお現在の松は昭和37年11月に植樹したもの。

浅草文庫跡碑

 浅草文庫は、明治7年(1874)に創設された官立の図書館である。翌8年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊とも13万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館、内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治14年5月閉館。跡地は翌15年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。明治23年3月東京工業学校、明治34年東京高等工業学校と改称された。
 当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、当校の出身者は、「蔵前の出身」という愛称で重用された。
 しかし、大正12年9月1日の関東大震災により、校舎・工場が灰燼に帰したため、学校当局は当地での再建を断念、大正13年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。当地の敷地は正門の位置に建てられている本石碑を中心に隅田川に沿って面積4万3千uに及んでいた。
 昭和3年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かって、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4mの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年11月建立された。

蹟碑文(石碑裏面)

 浅草蔵前ノ地ニ東京職工学校ヲ創設セラレタルハ実ニ明治14年ノ事ニ成ス。爾来ヲ閲スルコト六十二星霜。技術者ヲ輩出スルコト万ヲ超エ、此間時勢ノ進運ニ伴ヒ校名ヲ明治23年東京工業学校ニ、同34年東京高等工業学校ニ改メラシタルが、偶々大正12年大震ニ遭ヒ、其復興ヲ企図スルニ当り、寧口都心ヲ離レテ郊外ノ地ヲトスルニ若カズトナシ、翌13年大岡山ノ地ニ移リ、昭和4年昇格シテ東京工業大学ト呼称セラレルニ至ル。其校門ヲ出ヅル者、何レモ質実剛健ノ校風ヲ継承シテ、今ヤ所謂蔵前出身ノ技術者ハ、全東亜ニ亘リ建設ノ重要部門ヲ担ヒ、各其特色ヲ発揮シテ産業報国ノ実ヲ昴揚シツツアルハ、世ノ等シク認ムル所ナリ。然ルニ此工業発祥ノ地トモ謂つベキ蔵前学園ノ蹟ニ至リテハ、既ニ全ク変貌シテ其面影ヲ偲ブニ由ナク、今ニシテ之レヲ表示スルニ非ラザレバ、此由緒深キ学園ノ地モ、遂ニ湮滅セラレンコトヲ惧ル。恰モ好シ、往年其正門所在地附近一帯ハ榊神社ノ境内トナリ、之レヲ標識スルニ便アリ。是ニ於テ本会ハ神社関係者ト相図リ、石ニ刻シテ治蹟ヲ表シ以テ蔵前工業学園ノ蹟ヲ永ク後世に伝ヘントス。  昭和17年1月吉日 社団法人 蔵前工業会

柳橋

 江戸時代より隅田川とともに歴史を刻んできた柳橋花柳界は、平成11年(1999年)、その長い歴史に幕を閉じた。現在の柳橋周辺において、かつての料亭街の名残はかすかに感じ取れる程度でしかない。 
 柳橋花柳界の衰退は昭和30年代後半から始まっていた。昭和36年(1961年)には、41店あった料亭が、昭和47年(1972年)には13店、昭和56年(1981年)には6店となり、店舗数の減少はもはやとどまるところを知らなかった。それに伴い、芸者置屋の数もどんどん減少していった。そして、平成11年1月、唯一残っていた料亭が廃業となり、柳橋芸妓組合も解散、柳橋の花柳界は終焉を迎えたのである。
 柳橋花柳界が衰退した原因はいくつか挙げられる。一つは、柳橋花柳界が芸の伝統を重んじる保守的な面が強く、時代に合わなくなったこと。座敷では日本舞踊、長唄、清元、常磐津、古曲、小唄以外はあまり披露されず、他の花柳界が輩出した歌謡曲などの流行歌手が柳橋では育たなかったのである。
 二つ目は、昭和30年代後半の高度経済成長期を境に、客層が変化したこと。つまり伝統芸が分かる旦那ではない、一般客の増加である。昭和39年(1964年)頃、ヤトナ(雇仲居こと。料理屋、茶屋などに臨時に雇われる仲居。)の需要が柳橋の料亭にもあったということからも、客層の変化をうかがい知ることができる。
 また、その頃から、銀座でキャバレーが流行し始め、接待の場として使われるようになり、客が銀座へ流れていったことや、待合政治(料亭での接待を伴う政治)への批判が高まっていたことも挙げられる。柳橋の場合、新橋や赤坂と比べ、政界とのつながりは薄かったが、料亭そのものに対しての世論が好意的ではなくなっていたのである。
 そして、柳橋衰退の最大の原因は、やはり隅田川の変化と大きく関係している。すなわち、カミソリ堤防による料亭と隅田川の遮断、高度経済成長期の隅田川の汚染、という二つの変化である。
 昭和30年代後半、隅田川の洪水防止のための護岸工事が始まっている。この工事で隅田川沿いの町には、カミソリ堤防と呼ばれる水面に対し垂直なコンクリート製の堤防が次々に建設された。そしてこのコンクリートの塊によって、隅田川と陸地は完全に遮断され、人々の生活から隅田川の存在が完全に隔離されてしまった。当然ながら、料亭の座敷から隅田川を眺望することはできなくなり、料亭の庭から直接屋形船に乗る舟遊びもできなくなった。
 また、高度経済成長期前後において、隅田川の水質は工業廃水などにより、著しく悪化していた。川からは悪臭が漂い、近隣の住居家財の金属は変色するなど、汚染の悲惨さは隅田川史上最悪のものであった。このような状況下で、料亭の客に隅田川を敬遠する傾向が生まれてしまった。これらの隅田川の変化が柳橋花街の衰退を決定付けたのである。

亀清楼 

 
神田川と隅田川が交わる柳橋のたもとで140年、江戸の味を頑固に守り続けてきました。四季折々の山海の味を江戸前に仕上げた懐石料理 ●昼/言問弁当7,000円等
 ミニ懐石4,500円〜
 夜/13,000円〜30,000円
台東区柳橋1-1-3

 鳥越橋の名前は現在須賀橋交番で残っているが橋はない。江戸時代には鳥越橋(天王橋)地獄橋とも呼ばれた。下を流れる川は鳥越川といい上流は三味線堀から不忍池に続き、下流は隅田川に注ぐ。川を越えて上下に走るのは現在の江戸通り(江戸時代は浅草橋から続く奥州街道であった)鳥越川は現蔵前橋通りに並行して流れていた。隅田川側から須賀橋(鳥越橋)、稲荷橋、甚内橋、高橋(三味線堀の落口に架かっていた)などの橋があった。須賀橋のことを地獄橋と俗称したのは、江戸時代初期、囚人がこの橋を渡って鳥越の刑場に引き立てられた、処刑されたことにちなんでこのように呼ばれた。鳥越刑場はその後小塚原(現、南千住駅近く)に移転した。俗に天王橋と呼ばれたのは近くの団子天王様にちなむ呼び名。

 
 真黄色に塗られた蔵前橋からは手摺に相撲の決まり手が、等間隔で透かし模様で両国橋近くまである。橋下流の階段を下ると東屋があるが、この先両国橋まではカミソリ堤防が続き所々に青テントが並ぶ。そしてすぐ水道送水管橋が対岸へ、そして出入する階段があり、東京水辺ラインの両国乗船場があり、その乗降客が利用する階段がある。
 その先は改修工事が行われていて2006年3月まで通行止めになっている。左のカミソリ堤防には纏を形どった”隅田川距離標がある。それによると河口まで5.3km地点と書かれている。横の階段を上るとJR総武線の高架下に出てきた。両国国技館、両国駅前の高架下を通り陸奥部屋、ちゃんこ照国の前を通り京葉道路を横切った。
 対岸は相変わらずカミソリ堤防だったが、それでも一面真白に塗ってはあったが、人気もなく寂しいテラスが続いていた。




● 両国橋  (西岸の中央区日本橋1丁目と東岸の墨田区両国1丁目)

構造形式 橋長  幅員 着工 竣工
径間ゲルバー式鋼鈑桁橋 164.5m 24.0m 昭和5年2月 昭和7年11月

 両国橋の名前の由来は、武蔵と下総の二国を結ぶ橋ということから付けられた。江戸時代、明暦の大火で多数の犠牲者が出た。防災上の必要性と江戸市街の拡張を目的として万治2年に架けられたのが最初である。(回向院はこの明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられている)江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。
 しかし1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)の際に、「橋が無い」ことで逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た 老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。
 架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除け地としての役割も担った。その後、何回か架け直され今の橋は、昭和7年に震災復興事業として架けられている。
 橋を渡っていくと途中に円形のバルコニーがある。それは土俵となっていて俵も回してある。高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配をデザインする等相撲の小物があり、いかにも両国という感じがする。
 この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。
 現在の両国国技館は2代目である。旧両国国技館は明治42年(1907)に回向院境内(両国駅南側,京葉道路南)に建てられ,それまでは屋外でやられていた相撲を屋内でやるようになった、日本で最初の屋根付き国技館である。明治時代に東京ドームの先駆けのような屋内競技場ができていたことを考えると驚きに値する。その後、失火、大震災、戦災と幾たびも建て替えられたが、昭和29(1954)年に蔵前国技館が完成すると、相撲試合は蔵前で行われるようになった。
 蔵前では昭和59(1984)年まで相撲が行われていたが、昭和60(1985)年、新両国国技館が完成すると、再び両国で相撲が行われるようになった。土俵や吊り屋根は自動で昇降して格納することができ、相撲以外のイベントもできるという。館内には相撲博物館や相撲診療所、相撲教習所なども併設されており、災害時の食糧備蓄倉庫や自家発電装置、屋根に降った雨水を浄化する装置も備えられており、近代設備を取り入れた最先端の国技館となっている。

 竪川に架かる一之橋を渡り、右折してテラスに入った。右奥には隅田川と荒川までの運河、竪川の水門がある。江東三角地帯には、小名木川、竪川環状の内部河川が縦横に流れている。竪川水門は竪川が隅田川に合流する地点に設けられ、平常時は開放されるが、台風がせっきんし高潮の恐れのある場合はもちろん、台風以外でも満潮位が予想され時は閉鎖します。また、地震により津波の恐れが生じた時は、直ちに閉鎖する。このように水門は、通常は内部河川への出入口として、非常時には閉鎖して防潮堤として機能を持っている。
 特に、竪川水門は隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯は0メートル地帯といわれ、満潮時には大部分が水面下となり、過去に
たびたび大水害に見舞われてきた。外郭堤防・水門・排水機場は、高潮や洪水・津波などの水害から、この地域の安全を守る働きをしている。
 左側の堤防は相変わらず3、4mのカミソリになっている。堤防の外はマンションがずらりと並んで新大橋まで間断なく続いている。テラスは今までの平凡な遊歩道から段差が付けられ、個人的な感じでは水辺を表現しているのかなと思うのだが、上流から踏みしめてくると変化は歓迎したい。
 テラスの植込みもバラエティで手入れがよく行き届いていて心が和む。階段も2つばかり過ぎると新大橋となる。ここから植込みの前やテラスの柵の前などの所々に松尾芭蕉の選句が小名木川が合流する辺りまで、9句が表示されており読みながら行くとあっという間に小名木川に架かる万年橋北詰めに到着。


 

● 新大橋  竣工:昭和53年

初架橋 構造形式 橋長 幅員 着工 竣工 総工費
元禄6年 鋼斜張橋 170.0m 24.0m 昭和51年  昭和52年3月27日  

 新大橋は、元禄6年(1693年)12月7日に現在地よりやや下流にはじめて木の橋が架けられた。両国橋が、万治2年(1659年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
 隅田川3番目の橋で、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
 橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。

「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

 明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の八分の一、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。
 この橋は明治の終わりごろ東京の隅田川に架けられたもので、アメリカ製の鉄材が使われています。隅田川には、この新大橋のほか、吾妻橋、厩橋、両国橋、永代橋の四つの立派な鉄橋が架けられ、合わせて明治の五大橋といわれましたが、関東大震災でこの新大橋だけが残り、避難の人々の助けともなりました。この橋には市電も通り、交通の面でも大変重要な役割を果たしてきました。
 現在の橋は支柱からワイヤが伸びている独特の形の橋です。橋の中央近くに江戸時代、明治時代の新大橋のレリーフと、橋のいわれが記された銅板がはめこまれている。

貴族院議員正四位伯爵有馬頼寧 篆額
嗚呼想ひ起すも肌に粟を生するを覺ゆるは大震火災の状況なり時は大正12年9月1日
所は新大橋の上難を避くる數萬の大衆の九死に一生を保ち得たるは實に神人一致の力
と申すべきか此の時橋の兩側より狂ひに狂ひ燃えに燃え來る紅蓮の舌は毒焔を吐きつ
つ刻一刻と橋上に迫る退くも火進むも火身を躍らして河に投ぜむか滔々たる濁流は一氣
に呑み去らむのみ進退維れ谷り號叫の聲天に漲り慘状目も當てられす此の時大衆は橋
上に御遷座あらせられたる水天宮及小網稻荷神社玄冶店橘神社の御靈代を伏し拝み
神助を熱禱したり又警官在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐ある荷物を悉く河中に
投せしむ中には貴重の物とて泣きて拒みしも萬人の生命には替へ難しとて敏捷果斷な
る動作は寔に時宜を得たる處置なりき漸く人享を盡し神助を待ちたるに夜も明け火も鎮
まりて大衆は始めて我に還り知るも知らぬも再生の思をなして喜び合ひたり且つ五大橋
中此の橋のみ災害を免れ得たるは正に神助と人の力となりけり其後法木徳兵衛主唱し
森田恒一加藤肆郎庄野又兵衛之に賛して發起者となり此の橋上にて免れたる人々相
集り大震火災新大橋避難記念會を組織し毎歳當日を期して水天宮に報賽の祭典を行
ひ同橋上に集りて當時を追憶し來る乃ち本年は満十回に當るを以て思出深き新大橋西
側の一隅に碑を建て事を叙して之を永久に記念となす

昭和8年9月2日
 水天宮社掌 樋口悌次郎撰
 荷葉山岸惣書

 「人助け橋」のいわれ
 大正12年(1923年)9月1日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治45年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
 なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。


芭蕉庵旧址

 萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今も存せりという。延宝の末桃青翁伊賀の国よりはじめて大江戸に来り癜翌フ家に入り剃髪して素宣(そぜん)とあらたむ。また癜落qより芭蕉庵の号を譲り受け、これより後この地に庵を結び泊船堂と号す。
江戸名所図会

 万年橋を渡り、清洲橋通りまで行き橋の袂に明治維新百年と
彫られ下に明治天皇の歌も彫られた石碑があった。から、再び河川テラスに入り
 対岸は両国橋から浜町、新大橋、清洲橋、永代橋の先の日本橋川まで、それまでの殺風景なテラスから一転整備されていた。新大橋手前でテラスに下る道を走り新大橋下を通り日本橋消防署の水上艇が2艘係留している横を抜け、すると清洲橋がクッキリと見え、テラスにはパンパスグラスが植えられ、ススキの親分のような穂が白くズッシリと重さを感じた。
 清洲橋の下を通り、永代橋の手前でテラスはなくなり、階段を自転車を押しながら登り、土手沿いに一寸行くと橋の袂に出た。
 





● 清洲橋  (西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工
自碇式鋼鉄製吊り橋 186.3m 22.0m 大正14年3月 昭和3年3月

 「清洲という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から取られた。深川の清澄町は、わが国セメント工場の発祥の地であり、庭園でも知られ、また、芭蕉庵跡とも近い。日本橋中洲町は明和8年(1771)に埋立てを開始して、隅田川畔の繁栄の一翼を担った。
 その後、中州埋立は取り壊され元の水浸地になるなど、複雑な歴史をもつが、明治19年(1886)に再び埋立てられ新しい土地として生まれかわった。この二つの町を中州の渡しが結んできたが関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツ(ケルン市)にあった大吊り橋をモデルにしている(この橋は第二次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。
 東京大空襲の中でも、多くの被爆者を救って、幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
 もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

 橋の東詰袂には大きな石碑がある。この記
念碑には、明治維新百年記念と刻してある。
そばにプレートがあり、それによると明治10
0年を記念して、菅沢運勇氏(当時町会長)の
提唱により町会役員並びに町会員各位一同
の協力により建立した。石材は福島県三の
輪山(安達太良)麓の土湯荒川石を搬出した
もので明治神宮権宮司伊達巽殿の揮旁によ
る明治天皇御製であり、この御製を当町会で
元旦の祝賀式その他総会等町の皆さんが
集まる機会のある度に必ず合唱し明治時代
を偲び将来の私共の指針として心に刻むと
共に後世に伝えるものである。
 総工費¥364,000で町会役員及び福島
県安達太良町の菅沢伝氏並に町の方々の
奉仕によりすべて実費で完成した。
(このプレートは田村千代治氏役員退任の節寄贈さ
れたもの)
昭和43年11月3日除幕式当時の町会役員
会長 菅沢運勇、副会長 谷田貝三之助、
                                    亀本時男
会計 石塚豊治
役員 田村千代治、飯高勝次、牧野松三
         堺喜三郎、牧野治朗意、石福善次郎
         深谷真平、倉持忠造、戸井田富雄
    伊林庄蔵、、芦沼幸太郎
         谷田いちの、菅沢けさの       
昭和54年9月プレート作成時の町会役員
会長 石塚豊治、副会長 堺喜三郎、
                牧野治朗意
会計 菅沢運一、
役員 亀本時男、石福善次郎、倉持忠造、
    伊林庄蔵、菊池一三、深谷真一、
    田村通教、飯塚なを子、、石福君子
    堺綾子
アサノセメント
 押し寄せる近代化の波を、文明開化で片づ
けるには、あまりにも激しい変化であったろう。
佐賀町から隅田川沿いに北へゆくと、仙台堀
川沿いに日本のセメント工業の発祥の地、ア
サノセメント工場跡がある。現在も碑が残って
いて、当時を偲ばせる。立ち並ぶ倉庫群、縦
横に走る運河、セメント工場、木場の貯木場
など、この地区は文字どおり近代化の中心で
あった。
 此地は、元仙台藩の蔵屋敷跡にして明治5
年大蔵省土木寮に於けて始めてセメント製造
所を建設せり、同7年工部省の所管となり深
川出張所と改められ技師宇都宮三郎氏に依
り濕式成法を採用し初めて、外国品に劣らさ
る製品をえたり、明治10年1月深川工作所分
局と改称され工場の拡張相次て行われ同16
年4月遂に初代浅野惣一郎の経営に移り浅
野工場と称するに至る。明治31年2月浅野セ
メント合資会社創立と共に本社工場となり、
同36年11月本邦最初の回転窯を設置し事
業愈盛大となれリ、大正元年10月組織を改
め株式会社となり、東京工場と改称し今日お
よふ葢し、この地は本邦セメント工業創生の
地にして仍而茲に其然る所以て録し之を記
念す。
 昭和12年7月8日 浅野セメント株式会社  
               社長 浅野惣一郎
 清洲橋を渡った対岸を左折して、しばらく行くと左側に泣かすポンプ場がある。そして大龍王社元宮という小さな祠がある。めのまえに首都高速9号線の高架が見えてくると、右に行くと箱崎にインターが間近にあり、左に行くと隅田川大橋。
 隅田川大橋は二重構造で一番上が首都高速、下が一般道になっていて共に中央区から江東区へ隅田川を横断する幹線道路。東京の河川に架かる橋は100%坂道を登らなければ渡れないが、そのお陰で構造的には土手下の道は立体化の風になり、ここももれなく同じ構造で、土手の遊歩道に出るにはらせん状に造られ、橋の下流は大きく開けて、見晴らしのいい川幅も広々としていて、時には映画かコマーシャルだか分からないが撮影などが行われてもいる。






● 隅田川大橋 (左岸:江東区佐賀1丁目、右岸:中央区日本橋箱崎町、首都高速9号線)

構造形式 橋長 385.3m 幅員 完成
(主径間)3径間連続鋼床鈑箱桁橋
(高架部)7径間単純鋼床鈑箱桁橋
単純合成桁橋、単純PC桁橋
(河川部 210.0m、
左岸高架部103.1m、
右岸高架部 72.2m)
30.0m(4車線)

1979年
昭和54年10月

 隅田川唯一の二層式のこの橋は、首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が、完成の翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通した。建設当時の風潮によるものか、機能性重視の設計デザインになっていることもあり、本来対になって設計されていた清洲橋と永代橋 の中間にあるにもかかわらず、壁のようなその形状により、双方の橋から見通せなくなってしまっているため、隅田川の景観破壊として悪名が高い。
 中央区側で同高速箱崎ジャンクションを、江東区側で福住出入口をそれぞれ構造体に含む。また、地下に東京地下鉄半蔵門線が通っている。

デルタ地区


深川佐賀町界隈
 
 都心から東南の方向、つまり昔流にいえば「辰巳」での方角にあるところから、「辰巳」で、辰巳芸者は、南側がすぐ海で、汐風に身を晒されるため、羽織りを着て宴席に出たという。
 俚謡、俗曲、小唄などにも多く唄われ、深川即木場のイメージとともに、江戸を代表する地区であった。この地区の玄関口が「深川佐賀町」である。
 当時の辰巳芸者を表徴する言葉に「おきゃん」というのがあ。これは「お侠ん」が漁師言葉で訛ったもので、土地言葉として使われた。「粋で、伝法で、おきゃん」などという表現は、決して上品な意味を持たず、生意気で侠気だつたのが美化されてしまったのが、本当らしい。イキは決して粋ではなく、江戸っ子の心意気から来たもので、体育系大学生が使う「オッス」という言葉が、葉がくれの「押忍」が語源であるという解釈をしてみれば、逆説的にうなづける。
 幕府はこの惨事に鑑み、隅田川の東岸及び小名木川の南北両岸、多くの神社仏閣諸侯邸を移転せしめた、と記録にある。
 当時、この一帯は沖積土の淋しい漁師の集落で、文政2年の推定で戸数320、人口1192名、名主の相川新兵衛支配の無年貢地であったという。大火後、次第に開け、元禄8年の検地により深川佐賀町が誕生した。




● 永代橋  (西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区永代一丁目)

構造形式 工法 橋長  幅員 着工 竣工
中央径間:スチールアーチ橋
両側:鋼桁橋
ニューマチック
ケーソン工法
187.7m
25.0m
1923年(大正13年)
12月
1926年(大正15年)
12月20日

 永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698)8月であり、江戸幕府5代将軍 徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時深川の渡しのあった場所である。隅田川で4番目に作られた橋。
 「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。
 架橋を行ったのは関東軍代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ
る。
 当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録に残る。

 元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町の吉良邸に討入った赤穂浪士は、みごと主君の仇を果たし、主君の墓所のある芝高輪の泉岳寺に向かった。一行は、両国橋、新大橋を渡らず、隅田川沿いに南下、幕府の御船蔵のある安宅を経て、小名木川を万年橋で渡り、黒江町、佐賀町を通り、永代橋を経て、泉岳寺に向かったと史実にある,朝露の中、火消装束に身を固ぬた浪士の隊列を、どんな思いで深川佐賀町の人々はみたのであろうか。
 佐賀町付近には史跡が多いのも、これを表徴している。近くには幕府の御舟蔵総監であった向井将監の開基になる陽岳寺、伏見義民を匿まって有名な高僧八代目照道和尚で、現在も史跡として残っている。北へ向かえば霊岸寺、名君松平定信の墓があり、その末寺には紀之国屋文左衛門の墓がある。

陽岳寺

 陽岳寺は、深川亀住町三十番地に在り長光山と号す。臨済宗にして京都妙心寺の末なり。寛永14年の創立にて、

開基は向井左近衛将監源忠勝 創建文室祖郁 開山江厳祖吸

 世錐翁慧勤は、貞享4(1687)年2月20日没です。妙心寺開山の、関山無相大師は、元徳2(1330)年、京都を去り、伊深に庵を結んだ。その後、錐翁は、寛永元(1624)年、正眼寺山に草庵を結ぶの記録がある。そして後、雪潭紹僕が禅堂を建立した。妙法山正眼寺は、始め初祖山円成寺と言い、寛文9(1669)年に改称したのです。
 また、錐翁は、深川にあって、芭蕉の師匠の仏頂禅師が参禅したと伝えられる。
中興大室祖昌とす。 
 江戸っ子は宵越しの銭(ぜに)は使わないなどという伝説は、多分、紀文と奈良茂の馬鹿げた遊びくらべにその源を発し、後に大工職人をはじめ全国から集まった町民たちの、腕さえあれば新興都市江戸では仕事があったからであろう。
 生意気が粋となり、貧乏はしても贅沢が死ぬほど好きな町人気質が、形成されていったに違いない。贅沢とは無駄の集積であり、野暮より通(つう)を好んだ町民文化が、徳川三百年太平の世に次第に花開いて行ったのだろう。
 時は移り、幕末ともなると、深川佐賀町界隈は大きく変貌してゆく。

 近藤は、伊東甲子太郎を新選組参謀というトップの職に据えたが、所詮は思想の相異如何ともし難かった。やがて総長山南敬助の脱走失敗、隊規による切腹、近藤、土方の血盟団のごときラインアップに、彼は脱隊を考えるが果たさず、慶応3年11月18日近藤の妾宅に招かれ、帰途刺客の手により七条油小路で謀殺された。「油小路事件」である。
 在来、世界の大都市は河川に沿って成長発展してきた。ロンドンのテームズ河、パリのセーヌ川、ニューヨークのハドソン川とイーストリヴァーなど。歴史的にみても、河川に沿って形成されていった。
 水運の便利さ、防衛上の理由だけでなく、都市のもつ機能性からも、河川または河口が必要とされたのだろう。いわば人と水の関係が、都市と河川となって行ったのだろう。
 江戸も例外ではなかった。関東平野を流れ下った利根川や多摩川などが、肥沃な土砂を運び、数千年に亘ってこの平野を形成して行ったに違いない。台風や豪雨のたびに、大量の土砂や流木が地形をも変え、時には豊かさと恵みを、時には災害による悲惨さと荒廃を、幾度も繰り返して来たのだろう。
 大川(江戸の人々は隅田川をこう呼んだ)、荒川、中川、江戸川など、風水害のたびに、その流れを変えて、平地を形成して行った。太田道潅が現在の皇居、江戸城を築いた折は、まだその石垣近くまで、東京湾の波が迫っていたと史実にある。勿論、現在の銀座や日本橋は海の中だった
 現在、隅田川には、千住大橋から、最も下手の勝鬨橋橋まで13の架橋がある。油堀川を埋め立て、箱崎から湾岸道路へ伸びている首都高速九号線の下の隅田川大橋と浅草と向島にかかる桜橋、水神橋が開通、これを加えれば16橋にもなる。
 昭和10年代の前半までは、永代橋が東京湾の文字どおりの河口の橋であった。第二次大戦後、隅田川が汚染され、河川のもつ機能が失われ、その悪臭に迷惑がられた時代があったが、現在、汚水処理についての当局の指導や住民の意識の変化から、川も少しずつ美しくなり、昨今は釣り糸を垂れる人もみかけられる。近年、永代橋上流より向島の言問橋までの早慶ボートレースも復活し、隅田川開き花火大会も行なわれるようになった。
 現在の隅田川に架かる橋では、永代橋と二つ上流の清洲橋が、最も美しい橋といわれている。深川佐賀町の玄関に架かる永代橋は5代将軍綱吉の50の賀として架橋されたとある。海に近く大船が通過、そのため太鼓に作られ、中央部からは富士も箱根も、筑波山や房総の山々まで、良く見えたとある。空気の澄んだ当時、しかも高層建築の無かったことを思えばうなづける。
 その後、台風や火災で幾たびか流出または消滅したが、記録にはない。享保年間に、幕府は財政上の理由で、上流の新大橋か永代橋のどちらかを廃橋に決めたが、付近五十町ほどの町民が存置を嘆願して、橋の修復料を住民の10年間負担とし、通行料をとってこれに充当したと記録にある。
 明治8年4月に本格的な木橋を架橋、工費60838円90銭と記録にある。その後、明治30年には鉄橋に架け替え、長さ601.2尺、幅46.8尺とあるから、現在に直せば長さが180m、幅は15m位であろう。但し、この時代までは、鉄橋といっても床は木造で、大正12年の関東大震災では焼失し、多数の死者を出した。
 そこで大正15年12月、現在に近い橋が落成、長さ185.2m、幅22m、工費284万1000円と記録にある。
 昭和初期から太平洋戦後まで市電が走り、下町への動脈として活躍したが、老朽がしたため大改築を行い、幅を広げて補修し、現在に至っている。
 たぶん深川佐賀町界隈は、大きな変革であったろう。江戸から東京へ、武家社会から町民社会へ、チョンマゲからザンギリ頭へ、目まぐるしい変化を、住民たちはどう受けとめたのだろう。“ザンギリあたまを叩いてみれば、文明開化の音がする"と俗謡にも唄われたのも、この頃だ。
 
 明治30年(1897)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年には東京市電による路面電車も敷設された(昭和47年11月に廃止)。しかし、関東大震災に被災し、木製の橋床を損傷し大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。
 「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」といわれたこの橋は、ドイツライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある。
 明治37年5月、日本橋―深川間の電車がはじめて永代橋を渡る。この当時は、終点は佐賀町の南側を抜けて左へ曲がり、陽岳寺付近が終点であった。東京市街鉄道会社の経営で、住民たちは「街鉄」(がいてつ)と呼んで、親しまれていたらしい。
 明治の末期、永代橋のたもとに永代亭という西洋料理屋があった。当時としてはモダン造りで、大正の初期にかけては北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木、高村光太郎、石井柏亭、谷崎潤一郎などの文士が、月1回永代亭で会合し、“パンの会"と名づけ、古い江戸情緒を楽しみながら、近代文学論に花開かせていたであろう。谷崎潤一郎は、隅田川の対岸、日本橋蛎殻町の生まれで、少年時代を現在の人形町近くで送ったが、彼の出世作“刺青"の主人公は、深川佐賀町付近に住んでいた設定になっている。
 大正から昭和へ、時は静かに流れてゆく、佐賀町の界隈も、倉庫の町として次第に変わってゆく。下町の人々には、深川地区の玄関口とのみ記憶される街戸なってしまった。
 とくに深川地区、城東地区の人口の増加は激しく、やがて街鉄が東京市電となり、この地区を市電が東西南北に走り、第二次大戦までは、深川区、本所区、向島区、日本橋区など、東京の過密地帯であった。
 昭和20年3月9日夜、東京下町一帯は米軍の大空襲を受ける。来襲したB2型爆撃機の焼夷弾により、当夜、この地区の死者10余万人のすべてが、焼死と運河に飛び込んでの溺死であった。大正12年の関東大震災についでの大災害であった。
 当然、この地域一帯は灰燼に帰したが、何故か佐賀町の一部とそれに隣接する福住町の一角のほか陽岳寺も焼け残った。やはり西側に隅田川を控えている、歴史の因縁かもしれない。佐賀町界隈も、隅田川の流れとともに、時は移り人は変わる。
 今、この地域も御多分に漏れず、急速にインテリジェンスビル、オフィスビルの高層街へと変貌し、もはや、昔日の面影は取り戻せない。
 
 隅田川も東京市民の足として利用され川蒸気船が永代橋の近くから北へ運航されていた。だが、やがて鉄道の発達とともに、運河の水運としての利用は衰退してゆく。

深川猟師町跡(清澄、佐賀、永代、門前仲町、富岡の一部)

 江戸時代の初め、隅田川の河口付近に深川猟師町が開けました。これは現在の清澄・佐賀・永代・門前仲町・富岡あたりになります。寛永6年(1629)、摂津(大阪府)方面から来た8人の猟師たちが幕府に願い出て、汐除堤の外の干潟になっているところを埋め立て、自分たちの名前をつけた8っの町をつくりました。その時の町名は、弥兵衛町、次郎兵衛町、藤左衛門町、親兵衛町、利左衛門町、助十郎町、彦左衛門町、助右衛門町で、これに大島町を加えた9ヶ町を合わせて深川猟師町と呼びました。
 元禄8年(1695)、町名を清住町・佐賀町・相川町・熊井町・富吉町・諸町・黒江町・大島町と改め、8ヵ町となりました。やがて、深川猟師町には、その他の町も含まれるようになり、昭和の中頃まで漁業や海苔の養殖を続けました。

 
橋を江東区側に渡り、最初の道を左に戻りかかると黒い石に”赤穂浪士休息の地と刻まれた碑が建っていたが、思い直して、永代通りを横切り土手伝いに行くと辰巳橋に出た。どうせ作るならこの位な規模と風情を醸し出して欲しいものだ。子供の時から水遊びをしたものには、川や水はとうとうと流れ人間の心を清く安らかな気持ちにさせてくれる。
 橋を渡ると、右に入る道路があるが、山種という会社に入る道路らしいが、直ぐ手前を入ると越中島水門の脇から隅田川の二股に分かれる広々とした場所に出た。
 ここは東京商船大学の真前に行ける土手道路と下にテラスがあった。風の強い相生橋を渡り、右に曲がり石鹿島播磨重工の工場跡に建った超高層マンションが林立する中を進むと中央大橋がある。







相生橋 (清澄通り)

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工
ゲルバー式鋼鈑桁 146.6m 22.1m 1903年(明治36年) 1926年(大正15年)

 隅田川系川に架かる橋で、埋立が完成した月島に水道を引くために、明治36年(1903)木橋として創架され、永代橋に相対する橋としてこの名が命名された。
 この橋は,震災の折、上流から流れてきた焼船がぶつかったため延焼、落橋したといわれ、以後しばらくは渡船によっていたが、大正15年(1925)鋼ゲルバー橋として架け替えられ現在に至っている。


月島・晴海地区

佃島= 佃は、家康に従って江戸へ下った摂津国佃村の漁師が1664年に
     築いた島で、幕府と密接なつながりを持っており、江戸近海での自
     由操業権を与えられていました。また白魚を将軍の御膳に届けてい
     ました。高度成長期には石川島播磨重工業を中心として賑わいまし
     たが、現在、石川島播磨重工業は移転し、その跡地に高層住宅の
     建設がどんどん進んでいる。

月島= 本来は大東京港となるはずの埋め立て地でした。埋め立て工事は
     明治20年に始まり、20年以上の年月をかけて埋め立てが完了 し
     ました。明治36年、相生橋が開通してから、工業地帯としての発
     展を遂げました。しかし、高度成長期以後は工場の転出もあって、 
     住宅の進出が目立っている。

勝どき=勝どきという町名は比較的新しいもので、昭和40年4月1日に付け
     られました。しかし、「勝鬨」という名称は古く、日露戦争旅順陥落を
     記念して「かちどきのわたし」が開かれたことに始まります。有名な
     可動橋、勝陶橋が架けられたのは昭和15年です。以前は工場だけ
     の町でしたが、現在では住宅・倉庫・商店なども進出 している。

豊海= 東京水産振興会が漁業基地建設のため昭和34年から38年に埋
     め立てた地です。港湾地区のほかに魚類冷凍・冷蔵倉庫が林立 し
     ています。また、ここで働く人たちの高層住宅団地も建っている。

晴海= 東京水産振興会が漁業基地建設のため昭和34年から38年に埋
     め立てた地です。港湾地区のほかに魚類冷凍・冷蔵倉庫が林立  し
     ています。また、ここで働く人たちの高層住宅団地も建っている。








● 中央大橋  (八重洲通り、左岸:中央区佃1丁目、右岸:中央区新川2丁目)

構造形式 橋長 幅員 竣工

2径間連続鋼斜張橋

210.7m

25.0m

1993年(平成5年)
8月26日

 隅田川はフランスのセーヌ川と1988年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。

 橋を渡りきって左折し日本橋川と隅田川に囲まれ浮かんだような新川の町から南高橋を渡る。ひだりには

新川






● 佃大橋 

構造形式 橋長  幅員 着工 竣工
主桁:3径間連続鋼床鈑箱桁橋
工法:大ブロック一括架設工法
476.3m
25.2m
(1961年)
昭和36年12月
(1964年)
昭和39年8月27日

 (長さ40m、重量150トンに及ぶブロック別に当時日本最大の海上クレーン船にて一括で組み上げるという、大ブロック工法の先駆けともなる画期的な橋でもあった)
 昭和39年の佃大橋の完成まで最大で1日70往復も運航されていた。佃大橋が完成するまでは「本当の島」だったのである。かつての「佃島」は現在の佃1丁目である。
 本橋は個性的なデザインの多い隅田川橋梁群の中で、一見無個性で無粋な橋といわれがちであるが、大ブロック工法など、当時の技術の粋を凝らし、オリンピックに間に合わせるために急ピッチな架橋など、むしろ戦後に急速な復興を遂げた高度成長期の日本を象徴した橋といえる。
 佃島には氏神の住吉神社があるが、これは大阪の住吉神社を勧請したものだといい漁民などの信仰を受けていた。特産品には「佃煮」があり現在でも佃煮を販売する小さなお店には多くの買い物客が訪れている。
 路地の後ろには大川端リバーシティ21の高層住宅が見える
周辺には高層ビルが建ちこの「佃」だけ異空間が広がっている感じである
 「月島」の北側の突端部に存在する再開発事業である.都心部における居住空間の回復を目指して住宅・都市整備公団(現都市基盤整備公団)、東京都住宅局、東京都住宅供給公社、三井不動産の4者による再開発が行われたもので,東京における超高層住宅(三井不動産の分譲マンションは54階建て)の先駆けとなった開発である。昭和61(1986)年より着工され、地区面積は28.7ha、3886戸の住宅戸数を持つ。ちなみに、賃貸の場合の家賃は3LDK(75u)で月額25万円であるという。
 都市計画道路によって東京駅とも直結しており(約2km)、隅田川に面する部分はスーパー堤防の採用によって川面がみれるように親水性が確保されている。隅田川の水上バスに乗ると、この大川端リバーシティの案内放送が流され、近未来的な超高層住宅の林立する再開発を眺めることができる。
 再開発前には石川島播磨重工業(株)の工場が建っていた。ペリーが浦賀に来航した1853年、幕府の命令を受けた水戸藩がここに石川島造船所を創設したのが始まりで、日本人によって最初に設計・建造された蒸気軍艦「千代田形」など数多くの艦船が造られた場所である。明治に入ってから渋沢栄一などの協力によって民間会社としての石川島造船所となったが1939(昭和14)年の造船部門の豊洲移転によってこの地での造船事業は終わりを迎えた。その後は、重機械類の専門工場として稼働していたが1979(昭和54)年の工場移転により現在の再開発事業が行われた。

佃島由来

 天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣された時、田蓑島(現在の大阪西淀川区佃町)の漁夫等が漁船によって渡船を勤めたので田蓑神社にも参拝され、その時田蓑村の名称を佃と改められた。すなわち、漁業の傍ら田も作れという意であった。
 天正18年家康公が関東へ下降された時、佃村の漁夫30余名が従えられ、田蓑神社の神主平岡正太夫の弟権太夫好次という者が、住吉大神の分神霊を奉載して同行して、安藤対馬守、石川大隈守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に鉄砲州の向こうの三角州(百間四方)を幕府より賜り、築島工事を起こして正保2年、それが完成したので本国の村名を取って佃島と称えることになった。また、その一部を社地と定め社殿を造営した。正保3年6月29日と記録されている。

 東京メトロの月島駅前から左折して、佃島橋の延長した高架道路の坂を登り、晴海から来る道路とぶつかり左に曲がって、豊洲の方へ入っていった。
 右側に見える空地は石川島播磨重工の造船所の跡で、今盛んに造成工事の真最中だが再開発で高層建物が予定されている。更にその先には新しい橋(晴海と豊洲)を結ぶ仮称豊洲大橋も建設中。







● 勝鬨橋 (左岸:中央区勝鬨1丁目、右岸:中央区築地6丁目)

構造形式 橋長 幅員 着工 竣工
中央部 :跳開型可動橋(鋼版桁)
両側  :鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 :双葉跳開型(可動支間長 44m)
246m
(可動部分は約26m)
22m

1933年
(昭和8年)6月
1940年
(昭和15年)6月14日

 建設当時、隅田川を航行する船舶が多かったため可動橋とし、大型船舶の通航が可能となっている。高架橋とする案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。 
 1955年頃は年800回ほども開閉していたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により、次第に開閉回数が減少した。1967年 に通航のための最後の開閉が行われ、その後は試験のため年に一度の開閉であったが、1970年11月29日を最後に開閉することはなくなり、1980年には電力供給も停止された。
 橋のたもとの築地側には、「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館し、勝鬨橋に関する情報を得ることができる(開館日:火・木・金・土。入場無料)。




 
 「築地の魚河岸」は有名である。それは、築地に東洋一の取扱量を誇る中央卸売市場があるからである。現在の築地の魚河岸(築地では青果も取り扱っている)は、関東大震災後に江戸時代より日本橋にあった魚市場を海軍兵学校跡地に移転したことに始まる。中央卸売市場の中を「場内」と呼ぶが、場内では小売りは行わずに原則として仲卸業者へのみの販売となる。小売りは「場外」と呼ばれる晴海通り沿いの市場で行っている。
 中央卸売市場の中を「場内」と呼ぶが、場内では小売りは行わずに仲卸業者へのみの販売となる。個人客は、その市場の隣(中央卸売市場の晴海通り寄り、築地4丁目交差点に向かった側に広がっている)にある「場外」と呼ばれる市場で購入することになる。魚はもちろん、包丁屋、かつお節屋、卵焼き屋、漬け物屋など、さまざまな小売店が並んでおり、アジアチックな市場を形成している。
 この築地市場は都市計画市場として位置づけられているが、場内の老朽化や手狭な敷地を解消するために、豊洲への移転話が決定しており、この計画に地元中央区等では猛反対している。築地の魚河岸が過去の話として語られるときが、もうすぐそこまでやってきているのである。



河口付近





晴海埠頭


 東京の海の玄関にふさわしい建物をと、昭和63年9月より着工し4年の歳月をかけ建設されたのが、晴海客
船ターミナルです。近年のクルーズ人口の増加と客船の大型化に対応した先端の技術と安全性、そして斬新な
デザインが与えられ、東京港開港50周年となる平成3年5月に完成しました。−−−
 と、パンフレットには書いてある。つまり、2万トン級の豪華客船、にっぽん丸やふじ丸、飛鳥などといった大型
客船を係留するための埠頭であり、世界各国の豪華客船や軍船を見ることができる。館内には、今月の入港船
一覧表(時刻)が貼ってあるので、お目当ての船があれば、見学することもできるだろう。苫小牧や四国・九州方
面へのフェリーは、この埠頭からの出航ではなく、有明にあるフェリー埠頭ターミナルより出航する。晴海埠頭は
、あくまでもクルーズ船などの豪華客船が主である。建物は東京都の施設である。

主な入港船
船名 トン数 乗客定員 船籍
飛鳥 28,856  592人 日本
ぱしふぃっくびいなす 26,518  696人 日本
ふじ丸 23,340  600人 日本
にっぽん丸 21,903  600人 日本
SEABOURN SPIRIT  9,975  212人 バハマ
SEVEN SEAS NAVIGATOR 30,000  490人 イタリア

  まず晴海の展示場跡地ですが、一部は中央清掃工場に。

工      期
敷地面積
  m2
建設費
百万円
炉  型  式
設計最高
発熱量KJ/kg
規模
 (炉基数)
焼却能力
   t
余  熱  利  用
着工・平10.4
竣工平13.7

約26,000


29,400


炉型式
デーロール式
全連続燃焼式
火格子焼却炉
13,400,200


600t/24h
(300t×2)

600


発電出15,000kW
給熱
 蒸気
区立ほっと
プラザはるみ

晴海埠頭公園

 晴海(はるみ)は1996年まで広大な国際展示場で賑わいを見せていた。千葉県の幕張メッセや有明の東京ビッグサイトへの会場移転後は時代に逆行して過疎化が進む。当時の建物や倉庫は取り壊されて、中央清掃工場や大型カーショップに変わった。晴海は銀座から2qと近い埋立地ながらも、公共交通がバスのみという東京の「孤島」。2001年4月に超高層複合施設の晴海アイランド・トリトンスクエアがオープンすると、また人の流れが変わり始めた。晴海通りを豊洲・有明方面へ延伸する工事も進み、新交通「ゆりかもめ」の延長計画もある。
 埋立地の先端にある晴海埠頭は東京港が一望できる絶好のポジション。晴海客船ターミナルの展望台からは、停泊中の船舶を前景にしたパノラマが広がる。黄昏が宵空に変わるころ、まだ淡い色彩の残る西空に高層ビルの窓灯りが宝石のように輝く。ライトアップされたレインボーブリッジのメインケーブルが東京港の首飾りに見える。









豊洲埠頭

 新東京火力発電所(昭和31年操業開始、昭和59年停止)や東京ガス豊洲工場があり、エネルギーの心臓部でもあった。また各々の埠頭には貨物線が縦横に引かれ、石炭や鉄鋼が貨物線を通って各地へと運ばれていたという。貨物線の遺構は、今でも晴海埠頭などで、ごく一部だが見ることができる。
 もともと豊洲埠頭は,鉄鋼資材等を積み上げるための大型船舶が停泊できる埠頭が整備されており、東京ガスの豊洲工場や東京電力の火力発電所が建っている工場地域であった。近年の臨海部の再開発によって鉄鋼埠頭の機能や工場などは郊外に移転し、その跡地を再開発しているのである。
 臨海部(豊洲)土地区画整理事業が進行しており、住居・商業・業務・文化が複合した街づくりの実現に向けて事業が進んでいる。さらに、埠頭の先端部には東京の台所として有名な築地に存在している魚市場の移転先として「豊洲市場」の建設が決定されている。
 区分地図を眺めていて前々から気になっている場所があった。晴海埠頭とお台場の間にある「豊洲埠頭」と書かれている場所(豊洲6丁目)で、ここだけ道路も無機質に中途半端に引かれていて,東京鉄鋼埠頭と東京ガスと東京電力火力発電所の3つの施設のみが記載されている未知の場所である。バスも地下鉄も走っていないので、交通手段は徒歩かタクシーしかない。どんなところか行ってみた。
 道路の歩道には草がぼうぼうと生えており、綺麗に管理されているとは言えない道路を走っていった。周りには高い建物が建っておらず、殺伐とした空間が広がっている。お台場の開発前もこのような感じだったのだろう。

 左手には今現在有明が終点となっている「ゆりかもめ」の豊洲までの延伸工事が行われており、ゆりかもめ豊洲駅は少し奥まり分かり難いが、軌道は、将来の延伸を考慮してか、先端部が月島方に曲がって尻切れになっている。周囲を歩いていると新交通システムゆりかもめの工事や土地の造成工事、晴海埠頭と結ぶ橋梁の架設工事を行っていた。
 当初の計画では、当駅から住吉駅・押上駅方面に向かって有楽町支線〔地下鉄8号線(東京直結鉄道)〕が建設される事になっており、そのため駅ホームの中央にはそのための準備工事が施されている。しかし、着工の目処が立っておらず、長い間そのままとなっている。なお月島方には引き上げ線が設置されている。また辰巳方は有楽町線A線(新木場方面行)とそれ以外の軌道敷では高さが異なり、A線のみやや高さが低くなっている。この事から分岐線建設時には辰巳方でA線の上を乗り越える形にすると想定していたものと考えられる。2006年(平成18年)1月現在、新交通ゆりかもめの開業に伴う地下通路設置工事が行われている。切符売り場が工事前の位置から移動され、2面になり、運賃表や切符売り場表示が、新しいタイプと思われる物になっている。

 将来の街開きに向けて整備が進められているようである。現在は使用されていない東京鉄鋼埠頭の大きな建物が、解体の日を待ち続けていた。もぬけの殻となっている事務所や売店跡もあって、ひとけも全くないことからまさに「廃墟」といった空間である。すぐとなりは賑やかな「お台場」があり、また反対側には世界各国の豪華客船が停泊する「晴海埠頭」がある中、この「豊洲埠頭」だけは異様な光景が広がっている。
 もともと豊洲埠頭は、鉄鋼資材等を積み上げるための大型船舶が停泊できる埠頭が整備されており、東京ガスの豊洲工場や東京電力の火力発電所が建っている工場地域であった。近年の臨海部の再開発によって鉄鋼埠頭の機能や工場などは郊外に移転し、その跡地を再開発しているのである。臨海部(豊洲)土地区画整理事業が進行しており、住居・商業・業務・文化が複合した街づくりの実現に向けて事業が進んでいる。さらに、埠頭の先端部には東京の台所として有名な築地に存在している魚市場の移転先として「豊洲市場」の建設が決定されている。

 




臨海副都心

 幕府が鎖国令(寛政10年、1633年)を発して以来200余年もの間にわたって海外への門戸を閉ざしてきたが、寛永6年(1853年)6月3日アメリカ大統領の国書をもって東インド洋艦隊の司令長官ペリー提督率いる黒船4隻(蒸気船2隻、帆船2隻)が浦賀沖に姿を見せた。幕府は緊急防御対策としてお台場を設けた。
 今は公園として都民の憩いの場となっている。砲台の台座のレプリカだけが当時の面影として残されているが、いまは周りを芝生に囲まれ心地よい空間になっている。東京の台場だけでなく、北海道の五陵郭・兵庫の和田岬・西宮の砲台などがある。
 東京都の借金は臨海副都心開発によるものが大きなウエイトを占めている。なにしろ、インフラストラクチャーに非常にお金がかかっているのである。島内(お台場は建設残土等によって埋め立てられてできた島である)の道路下には地下鉄の規模とおなじような共同溝が網の目のように張り巡らされ、その中には電気・ガス・上水道・下水道はもちろん、ゴミ収集管なども埋設されており、ゴミは大きな掃除機のようなバキュームでゴミ収集場までパイプで吸い上げる方式がとられている。電柱はもちろん立っておらず、きれいな街並みが形成されているが、ヒューマンスケールで建物が配置されておらず、歩いて各施設をまわろうとすると、ちょっと歩き疲れる距離である。(つまり、机上で線を引いて計画された街なので、人間の生活する尺度・スケールで建物や道路(街路)の配置がされていないのである。この問題はお台場に限ったことではなく、世界の計画されて作られた都市(キャンベラやブラジリア、筑波学園都市など)でも同じことが人工都市の問題として議論されている。
 「東京ビッグサイト」はお台場にある「東京国際展示場」のことである。かつて晴海埠頭にあった東京晴海見本市会場の代替施設である。展示面積23万u、幕張メッセ(千葉県)やみなとみらい21(神奈川県)等、各自治体では競って国際展示場を作っているが、その東京都版が東京ビッグサイトである。
 かつて晴海で行われていた東京モーターショーは、手狭のため幕張メッセに移転して展示を行っているが、東京ビッグサイトのオープンをきっかけに,こちらに移転させる話しが持ち上がったが、幕張メッセ側の反対もあって実現していない。コンベンションホールも乱立ぎみの傾向にある気がする。

 
今や「お台場」は東京の観光名所のひとつとなっており、国内はもとより海外からの観光客も足を運ぶところである。昨年には世界最大級の観覧車が完成し、回転直径100m、地上高115m(日本最大級)の観覧車。臨海副都心一帯はもちろん、東京タワー、新宿超高層ビル群、羽田空港から離着陸するジャンボ機など東京を一望することがでる。
 
観覧車自体のライトアップも必見!13,000個のネオンを使用し、120種類のライトアップ、16パターンのイルミネーションは、全体的にカラフルでかつ楽しい印象。次々と変わる色の変化を眺めているだけでも楽しい。北側の駐車場からが良く見える。
 全8色のゴンドラは、定員6名×64台(うち4台が『シースルーゴンドラ』に変身!骨組み以外は全てポリカーボネート製の透明ゴンドラで味わえる)。人気があるため、週末の夜などは待ち時間を覚悟して出かけましょう。現在は混雑時でも相乗り乗車を行っていないため、1周16分の空の散歩を、2人きりで気兼ねなく楽しむことができ、待ち時間は長くても、カップルに嬉しいサービス。

 
ますますレジャーランド化しているお台場である。近年の不況により企業の進出が少なく、業務・オフィスの進出が少ない代わりに、レジャー産業である室内テーマパークや13スクリーンの映画館、車のショールームなどが進出しているため、お台場がレジャーランドの様相を呈しているのである。
 そんな中で文化が育ち、土日には空き地を利用したフリーマーケット等が開催されている。入場料300円を取られるが、中に入ると、自動車の横で古着やおもちゃなどを地面に並べてセールしており、こんな汚いクツを誰が買うのかと思ってしまうものもあるが、貴重なブランドの品物なのだろうか、たぶん購入していく人がいるのであろう。古CDやプラモデル、茶碗などの食器類、いろいろなものが売られている。

 建物に入った瞬間から江戸時代にタイムスリップしたような気分にさせてくれるテーマパーク系温泉施設。地下1400mから湧き出る天然温泉の泉質はナトリウム塩化物強塩温泉で、神経痛や筋肉痛、疲労回復などに効果がある。19種類から選べるオリジナル浴衣に着替え、まずは江戸の町民に仲間入り。大浴場やお台場の風が心地よい露天風呂を温泉を楽しむ他、浴衣のまま男女一緒に入れる日帰り温泉施設として親しまれる足湯、砂風呂、岩盤の湯などもある。
(一般料金 大人=中学生以上)2,827円、子供(4才〜小学生 1,575円)・駐車料金館内利用で1,000円(4時間まで)以降30分毎に100円/上限1,500円、湯上がりには「八百八町」で江戸前の味も堪能したい。
 あそび処=手裏剣道場、隠し金山小判釣り、輪投げ、矢場、忍者吹き矢、綿菓子、似顔絵、駄菓子大入り屋、占術屋など。
内風呂・露天風呂=
寝浴や半身浴などを満喫できる内風呂と、自然の岩肌が風情ある露天風呂でくつろぐ。
足湯=歩いたり、ゆっくり腰掛けたり。足裏に心地よい丸石の感触を、男女一緒に楽しめる。
岩盤風呂=「アルス玉」というセラミックボールのパワーで、体内細胞が活性化され、アロマ香る低温サウナ。
砂風呂=都内では珍しい砂風呂を体験。砂の心地よい重みと熱が、短時間でリフレッシュ。

 潮風公園はお台場の主要施設からは少し離れた東京港寄りにあるため、お台場の商業施設に来た人にとっては、この公園にわざわざ行こうと思って歩いてこなければ、気がつかない存在であろう。公園内には広い芝生や水遊びの出来る水のせせらぎ、バーべーキューコーナーなどがあり、家族連れでのんびりと休日を過ごすにはもってこいの場所である。また、風景が贅沢で、近代的なホテルやレインボーブリッジ、開放感ある東京港、そして羽田空港に離着陸する飛行機を眺めながら、非日常空間を体験するのも楽しいものである。
 昭和49年開園の『13号地公園』が全面改修工事を経て、平成8年に『潮風公園』として生まれ変わりました。約15万平方mという臨海副都心内最大の公園で、公園北側で『お台場海浜公園』、と隣接している。
 首都高を挟んで北側には、『夕日の塔』が建つ『展望広場』や広大な芝生エリア『太陽の広場』があり、西側は海に面した北&南コーストデッキで、潮風を感じながら気持ちよく散策を楽しめる。よく晴れた朝には、対岸の天王洲アイル越しに富士山がくっきり見渡せます。ウォータフロントのビル群と品川埠頭を前景にした富士山の姿は感動的な美しさ。

 
第一台場、第五台場、第二台場、第六台場だけが国指定史跡に指定されて現在も残っており、特に立ち入り禁止の第六台場は、植物や野鳥の宝庫です。、第三台場(11ヶ所計画された台場(砲台)は、結果的には品川沖に6つの台場が作られ、使うことなく放置されました。昭和の時代になり4つが撤去され、原形を最もよく保存している第三台場と第六台場、ペリーの黒船来航に備え東京湾上に作られた砲台の跡地を利用し、昭和3年7月7日に開園した公園で、お台場海浜公園の入り江に沿って行けます。一辺が約160mの正方形で、石垣積みの土手や砲台跡、内側の平坦なくぼみには、陣屋、弾薬庫跡などがある。海面から5〜7mの石垣の上となる公園からは、デックス東京ビーチやフジテレビ、観覧車やホテル日航東京などを、対岸から間近に眺める絶好のロケーション。特に、夕方〜夜にかけてのムードは抜群で、デートナビいちおしの夜景スポットの1つ。
 未成のままにて終りし第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎遊廓沖も砂村沖も、皆大抵春末の大干潮には現れ出づるほどの砂洲。

 
昔の東京都の区分地図を見てみると,現在のお台場は「13号地」と記されているだけの何もない茶色の埋め立て地の表記になっているが、潮風公園の部分はすでに緑色に塗られており「13号地公園」となっていた。
 かつての13号地の風景からは想像もつかないほど近未来的な都市に変貌したお台場であるが、公園の隣にある「船の科学館」とこの公園はお台場の老舗の施設と言ってよく、昭和49年(1974)の開園である。 その後,臨海副都心・お台場の整備に伴って,平成4年〜8年に再整備され現在の潮風公園となった。かつては、品川駅と門前仲町駅を海底トンネル経由で結ぶ都営バスが走っていたが、当時は「海上公園」というバス停があって船の科学館へのアクセスを行っていた。

海の灯まつり in お台場 (2005年から開催)

 (臨海副都心まち開き10周年記念・お台場冒険王サテライト企画)
7月17日(日)・18日(月・海の日の祝日)・お台場海浜公園おだいばビーチ(東京都港区台場1−4−1)
 この魅力的な東京の観光資源であるお台場海浜公園で海の安全を願い、景観の美しさと文化的・歴史的価値を維持するとともに、都民が身近に海と触れ合える『海辺の遊び場』として公園に訪れた人々が自由に参加できるイベントとして「海の灯まつり」がある。





● レインボーブリッジ (東京港、港区海岸3丁目〜港区台場1丁目)E139.46.0.1N35.37.59.8


東経:139:46:0:1、北緯35:37:59:8です。

構造形式 3径間2ヒンジ補剛トラス吊り橋(ダブルデッキ)
橋長(中央径間) 798m(570m)、遊歩道(芝浦〜お台場)1.7km
幅員 29m
海面高 52m
構造
上が首都高速11号台場線
下がゆりかもめ、一般道(臨港道路)、遊歩道
着工  1987年( 昭和62年1月)
竣工
開通
1993年(平成5年8月)
同年8月26日
総工事費
吊橋部全体(アンカレイジ含む)1281億円
首都高速道路(首都高速11号台場線)1865億円

 お台場のシンボルとなった名橋、昭和62年(1987)から6年の歳月を架けて完成した。首都高速11号線、臨港道路、ゆりかもめを含む複合交通施設でもある。塔の高さは120m。海面から橋桁までの高さは約50m。夜にはライトアップされるが、その点灯パターンは、季節や時刻によって変わるそうだ。
 
レインボーブリッジの名前は一般公募により決められた。通行路は上下2段になっており(瀬戸大橋同様のシステム)、上段に首都高速道路11号台場線、下段に一般道路(車道および歩道)と新交通システム・ゆりかもめが通っている。
 日没後にはライトアップされる。2005年10月1日に首都高速道路公団が民営化される記念として、9月30日の日没から翌日の日の出の 間、1回限りの「レインボーブリッジ七色ライトアップ」を行った。
 そのイルミネーションには、長寿命、省電力、高輝度などの特徴をもつ新しい光源“無電極ランプ”を採用し、また橋梁では世界で初めてイルミネーションを3色に変化させ、さらに、社会的背景から省エネルギーを考慮し、“クリーンエネルギー(太陽光発電)”を取り入れ、イルミネーションを点灯させている。
 アンカレイジの広さ、平面寸法は45m×70m。テニスコートが12面もとれる広さです。また、ケーブルを1本でつなぐと、レインボーブリッジでは、1本のケーブルに、素線127本からできたストランドを、中央径間で127束、側径間で130束使っています。つまり、2本のケーブルでは、素線の数は中央径間で127×127×2=32,258本、側径間で127×130×2=33,121本となります。これを1本につなぎ合わせると、3万1,000kmにもおよび、東京−ニューヨーク間を1.5往復する長さとなります。
 大部分が5パーセント勾配となっています。さらに、自転車が通行するための幅員は、道路法に基づく「道路構造令」により最低でも3m必要とされていますが、レインボーブリッジは最大でも2.25mのため、この基準も満たしていない。

 今年の3月に延伸開通するといわれている”ゆりかもめ”の頑丈な高架下を東京電力埠頭や丸い建物の電気館、その、横には新しい橋が晴海からここを通り台場の湾岸道路に合流する道路が建設中。ユリカモメ沿いに東京ガス館まで行ったが、追風だったのでスイスイと来てしまった。この辺に来ると工事は更に遅れているようだが、ユリカモメの高架と平行して作られている道路は台場へ直行する橋と共にかなりすすんでいる。これから先は、関係者意外な進入禁止だったので折り返した。豊洲の地下鉄有楽線の駅前を過ぎ橋を渡り直ぐ右に入って道也にマンションの横から東雲の倉庫街を抜け、橋を渡ると右折して開発工事中の東雲運河沿いに台場の建設ラッシュでホコリぽい拓けたところに出てきた。
 この辺りは、丁度先ほど入っていった豊洲と台場への連絡の橋が2つ工事されている対岸だ。疎らビルの間からは想像以上の強風が横から吹き付けるので吹き倒されそうでハンドルを握りなおして気を付けて進んだ。そして”のぞみ橋”を渡るが、ここがまた後ろからだが、またまた強風で被っていた帽子を押さえて片手で運転だったので危ないし怖かった。
 橋を渡るとレインボーブリッジの出口の道路の信号を渡り、次の門で右に曲がり突き当りのレインボープロムナードで対岸へ行くことにした。コースは北側行きと南行きと2つになっていたが、北側行きのコースから歩くことにした。
 左にカーブすると、まともに強風が吹きまくった。最初は手摺だけで風は遮るものがないので、冷たく何度も飛ばされそうになったが、負けずに進んだ。それでも支柱のかげに来るとホッとした。一寸悪戯心に家から持って来たミカンの皮をムキ食べながら歩いても見た。400mも行くと金網が張られ、大分風はおさまった感じになり、歩くのも楽になった。
 アンカレイジの傍まで来ると北側の建設中の写真や夜景写真が飾られ、眺めていたが寒くて早々に切り上げ、橋の勾配が一番高くなった所では、ヒューヒューというよりは何か金属音がするように感じた。水面から55mの高さは金網がなかったら高度恐怖症の私には吸い込まれそうだった。
 対岸に着くまでに5人しかすれ違わなかった。こちらの終点は自動ドアがあり部屋の中は7階だった。すぐエレベーターに乗り2階まで下りた。着いた場所は暖房の利いた通路とトイレがあり、トイレに入り通路を進むと反対側のエレベーターがあった。
 折り返すために直ぐにエレベーターに乗っかった。7階で下りるとドアが開くといきなり冷たい風が吹き込んできたが、北側と違い緩やかな弱い風で、こうも風も暖かさも違うかという環境の変化。日は当たるしゆっくりと景色も眺めていられる。のんびりと散歩を楽しんで、昔のままになっている第六台場を上から眺め、陸続きになっている隣の第三台場の砲台跡や枯れた芝生の上を自転車やデートを楽しむカップルが良く見え、先ほどの恐ろしさはみじんも感じなかった。往復の歩数は4,820歩だった。