江東デルタ今昔




≪江戸初期≫ (1590〜16457) 

 江東区の開発は、徳川家康の入府による江戸のまちの拡大とともに始まります。この頃までの江東区は、ほとんど湿地で亀島・大島・宝六島・永代島などの地名がわかるように小島が点在していました。

 開発は、現在の森下を中心とした深川村・佐賀・永代辺りの永代島・猟師町・小名木川南岸沿いの海辺新田・大島や砂町などで行われていました。この頃、石島・千田辺りは、まだ海でした。

≪江戸中期≫ (1658年〜1803年) 

 小名木川は、行徳の塩を江戸に運ぶために開削されました。利根川水系を利用した船運の終着口として物資・流通の要路となり、番所橋付近には、船の関所として船番所が設けられました。

 また、竪川、大横川、横十間川などの開削も進み、新大橋、永代橋がかけられ、江東区が大いに発展しました。現在の佐賀を中心とした隅田川の沿岸は、米、雑穀、油、干鰯等の倉庫が建ち並び問屋取引が盛んに行われました。

 木場には、材木商が、江戸市中から移ってきました。亀戸、砂村などは江戸の近郊農地として、つまみ菜、亀戸大根、砂村葱、砂村丸茄子などを供給しました。

≪江戸後期〜明治初期≫
 (1804年〜1876年)

 この時代は、江東区には多くの文人墨客が住み独特の文化が生まれました。今でも狂歌師、国学者、画家、横綱などの墓碑が数多く残っています。また、風光明媚な景色や社寺の開帳、祭礼などの年中行事を中心として、江戸市民の行楽地が区内各所にありました。
 
 辰巳八景や亀戸梅屋敷、五百羅漢さざえ堂などは、浮世絵や歌曲などで当時の賑わいをうかがわせることができます。明治維新(1868)により江戸は東京に改められ、現在の江東区の区域は東京府下となりました。

≪明治初期〜大正中期≫
 (1877年〜1922年)

 明治から大正にかけてのこの時代は、産業革命の時代です。江東地区に多くの工場が立地します。清澄の浅野セメント、亀戸の日清紡績、東洋モスリン、日本化学工業、大島の大日本人造肥料、富士瓦斯紡績、砂町の大日本精糖などです。

 埋立は、ごみ処理、隅田川のしゅんせつ土により、現在の東陽1丁目、木場1,6丁目、塩浜1,2丁目、古石島3丁目で行われました。荒川放水路開削、砂町下水処理場の完成したのは大正12年でした。

≪大正中期〜昭和初期≫
 (1923年〜1945年)

 大正12年、関東大震災は江東区にも大きな被害を与え、深川区の焼失家屋約49,000戸、亀戸町400戸、大島1,400戸、砂町1,300戸に及びました。復興事業が直ちに始められました。現在の街並は、この時の区画整理でできました。また、現在の大部分の橋が、この時整備され、主要なものは鉄橋となりました。

 住宅建設は、同潤会が発足し、砂町住宅、猿江共同住宅、清砂通りアパートの計画的集合住宅が始められてきました。

 重工業の発展とともに工場が進出し、京葉工業地帯の一大拠点となります。埋立は枝川1,2丁目、越中島3丁目、豊洲1〜5丁目、東雲1,2丁目で行われました。

≪戦災〜復興≫ (1946年〜1955年)

 昭和22年(1947)、江東区は深川区・城東区の両区を合併して誕生しました。戦争が終わり、疎開者の帰京、戦地からの復員・引揚げなどで人口が急激に増加し、都営住宅建設が進められました。区内では昭和20年代に51団地2671戸ができました。

 一方、この頃は、水害に弱くキャサリン台風、キティ台風で大きな被害を受けています。特にキティ台風では台風の通過が東京湾の満潮時と一致したため、区内のほとんどが浸水し罹災者154,134人・床上浸水23,493戸でした。

≪高度経済成長期≫ (1956年〜1973年)

 昭和30年代に入って、地盤沈下による水害の危険性が増大した江東区の区域を守るため、外郭堤防の工事が始まりました。また、地下鉄東西線、首都高速道路7号線も完成して、区民の生活の安全性・利便性が向上しました。工場の区外移転に伴って大規模な集合住宅が次々と建てられました。大島4丁目公団、大島6丁目公団、南砂2丁目公社、北砂5丁目公団住宅などは企業跡地です。
 南部地区の開発も進められ、夢の島の埋立、辰巳の建材埠頭、豊洲6丁目の東京ガス・東京電力・鉄鋼埠頭、新木場地区の整備が行われました。

≪1974年〜1998年≫

 昭和48年に江東区役所が現在地、東陽4丁目に移転、これまで第一、第二庁舎に分割されていた業務が統合されました。昭和50年代に入ると扇橋閘門の完成に伴う城東地区の内水位低下により、水害への安全性が一層増しました。まだ江東区を縦横に走っている仙台堀川、横十間川も親水公園化され、区民に親しまれる公園として変貌しました。

 昭和60年代に入ると川を利用した水上バスの運行や都心と臨海部を結ぶ有楽町線の開通に伴い、臨海部の開発が進んできました。江東区の面積も臨海部に増加していきました。この臨海部は江東区の海の玄関として、また、品川・江戸川を結ぶ拠点として発展していくことと予想されます。