明治通り




正式名称は以下のようになっている

  1. 江東区夢の島(夢の島)〜北区王子1丁目(溝田橋):東京都道306号王子千住南砂町線
  2. 北区王子1丁目(溝田橋)〜北区王子1丁目(王子駅前):東京都道307号王子金町江戸川線
  3. 北区王子1丁目(王子駅前)〜豊島区西巣鴨(西巣鴨):国道122号
  4. 豊島区西巣鴨(西巣鴨)〜渋谷区東3丁目(渋谷橋):東京都道305号芝新宿王子線
  5. 渋谷区東3丁目(渋谷橋)〜港区南麻布2丁目(古川橋):東京都道416号古川橋二子玉川線

 現在の墨田区は東西約5km、南北約6kmで、面積は13.75kuあり、東京都23区中17番目の広さ、人口約22万6千人という町である。私の住む八広は北の外れの町で荒川と、はなみずき通り、明治通り、曳舟川通りに囲まれた域内。
 今回は下町の0m地帯から明治通りをし西進して王子飛鳥山を最初の上り坂にし、本来の東京台地を登りくだりしながら、新宿区の最標高地点を通過して港区古川橋の明治通り終点を右折して、直ぐに二又になっている左側急坂の魚濫坂を登り、伊皿子坂を下って、泉岳寺まで出て、第一京浜国道を都心に向かい、札の辻交差点を右折し、東海道本線、山手線、京浜東北線や新幹線の陸橋を通って旧海岸線から首都高速1号線の下の海岸通りを直走りして、浜離宮や再開発された汐留を横目で見ながら新大橋通りに入り築地市場前から築地4丁目角の本願寺を右折して勝鬨橋を渡りそのまま晴海に入り新しく出来た晴海大橋を渡り豊洲から豊洲大橋を渡って有明コロシアムの脇を通り357号線(高速湾岸線脇)を新木場まで行き、夢の島から左折して亀戸そして地元へと一周するママチャリでの周遊を試みた。
 距離は53.54km、時間は3時間15分であった。日曜日のせいで交通量も少なく、伸び伸びと走り切ることが出来た。それにこの所入梅したのではないかと思わせる天候がゴールデンウィークから続いていたが、昨日今日と五月晴れでカラリとした本来の五月晴れで半そでから出た腕は今日1日で、1年分も日焼けしたように赤く染まりヒリヒリするが汗もそんなに掻かず、やり終えた充実感で満たされている。

 今、墨田区は平成11年夏までに建設される電波塔の決定で沸き返っている。4月には区長を先頭にした地元町会、商店街、商工会などが中心になり浅草通りを押上から区役所のある隅田川袂までパレードしたり、区内各商店街には決定のポスターや薄ピンク色の幟旗がはためき一気に活気付いて区長も区議も久しぶりに大仕事をしたといささか自画自賛に陥っている感が強いが、東京タワーの2倍の660mものタワーが建設されたら、眺望・圧迫感、地盤の問題、電磁波による健康への影響、交通渋滞など環境問題とともに、世界中からの観光客が押し寄せることはいうまでもなくテロ対策や繁華街独特の犯罪事件、事故が起きてから考えるのではなく事前に国家的安全保障対策も一考の値打ちがあるのではないか。 さて、難しいことはこの辺で、この明治通りにも漏れなく薄ピンク色の幟旗が風にはためき、昔の元気な墨田区が蘇るといいなと思いながら京成の踏切まで来た。
 平成14年3月に荒川の鉄橋工事と合せて八広の半分ぐらいまで高架工事が完了したが、東武線と京成線曳舟駅周辺の再開発工事と一緒に全線高架にするために沿線の買収もほぼ終わり一部では線路脇の道路の工事も始まり、踏切西側の立退きもパチンコ店以外は更地になった。この踏切も朝晩は特に酷く電車が3往復も4往復待たなければならぬ開かずの踏切りで、1日に延べ約8時間道路が遮断され、以前老人が待ちきれずに踏切内に入り進入してきた電車を見て踏切内で立ち往生し、見かけた若い大学生が飛び込み助け出そうとしたが共に電車に撥ねられ、かえらぬ人となる惨事もあったが、やっと渋滞も事故も解消され日が近そうになってきた。

京成曳舟駅

駅        名

開   業   年  月  日

所   在   地

乗 降 客 数

路    線

けいせいひきふね 大正元年(1912)11月3日 墨田区京島1丁目 約1万9千人 京成押上線
 京成曳舟駅は、京成電鉄初の開業区間押上〜江戸川・柴又間と同時に開業した駅。将来
的に高架化決定。ホームは地上相対式2面2線構造で、ホーム巾狭い改札口・出口はホーム
ごとに2ヶ所、計4ヶ所。

 そして、曳舟川通り、その昔はタッパ舟や曳き舟が行き来し荷物や人々の観光・代参として使われた時代も次第に交通機関の変遷で今では道路として水戸街道の渋滞の解消にも役立っている。
 曳舟川通りを過ぎると右に第三寺島小学校と左に生涯学習センターがある。

所在地 墨田区東向島2丁目38番7号  
構 造

RC造り、一部SRCおよびS造り
既成コンクリート杭基礎
地上5階、地下1階、高さ地上26.56m
敷地面積 3,400.06u
建築面積 2,245.49u 
延床面積 8,448.56u
延床面積 着工:平成4年7月:施工:平成6年9月
交流・創造・未来」というキーワードを基本姿勢として、健やかな成長を期待する
青少年の育成や、生活水準の向上や、あるいは高齢化による余暇時間の増大
が求める生涯学習の大切な拠点として、21世紀の区民のみなさんの充実した
人生と明るい毎日のために、
◎3つの役割
文化センターの役割   =伝統文化を継承し新しい下町文化を創造する
生涯学習センターの役割=学習・発表・相談・情報提供の場となる
学校教育センターの役割=研修や教材・機器・情報を提供する場となる
メディアコーナー、教科書センター、教科書センター、科学教室、視聴覚コーナー
アマチュア無線室、情報コーナー、教育相談室、プラネタリウムなどの施設

 東武線のガード下を抜けると、水戸街道と明治通りが交差する向島広小路交差点で、最近でこそ渋滞時間は短くなっているが、高速6号線が出来る前には葛飾区の青砥や環七辺りまで渋滞していたというのももう昔話になってしまった。周りを見渡しても角に店舗があった銀行も“みずほ銀行”、“大和銀行”は撤退し、残る“東京三菱UFJ銀行と東東京信用金庫の二つになって金融機関やその他の建物も撤退し、マンションの高層住宅が建ち並び、すっかり様変わりしてしまった。
 百花園へ通じる道路を入って行くと67年前に私が生まれた寺島町1丁目がある。この辺りのマンションは百花園からその上部が見えたりして昔の趣が変わろうとしていて寂しい感は否めないし、百花園は大名屋敷の庭園や社寺庭園のようにきちんとした所とは趣が違う町人たちの庭を今に伝えているかのような園内で道も野路のように入り組んで植え込みも多種多彩な草花が無造作に咲き乱れ多くの凡人が季節毎に変わる趣向を愛でて頻を切らない。小石川後楽園や六義園や浜離宮なんかに比べると規模は遙かに小さくて街中の一服の清涼剤的な地味な庭園、これ以上破壊することのないことを願望する。そして横断歩道を潜ると左奥にある“晴河山法泉禅寺”は16世紀からあるお寺で菩提寺でもある。
 白鬚橋東詰から13階建の白鬚団地は墨堤通り沿いに区立鐘ヶ淵中学校までも続きまさに壁のようだ。ただ、この界隈は“防災拠点”で、震災が起きたときには住宅地域からの火災をこの団地で食い止める本当の“防火壁”となり、裏手にある“東白鬚公園”は10万uの面積で避難広場になり大地震が発生した場合には4万人が避難することが想定されている。
 厳つい形をした白鬚橋を渡ると
荒川区だが橋を渡る度に、何度も行政の斡旋があっても景気が回復してきたといわれても限りなく減る様子のない河川敷の青テントにも景観上好ましくないにも拘らず殆んど手を倦んでいるだけで何の進展も見られないのが残念。
 橋の袂には“明治天皇行幸對鷗荘遺蹟”の碑が立ち説明板には、隅田川畔の橋場一帯は風光明媚な地であり、かっては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。對鷗荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(1837〜1891)の別邸であった。
   
いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て 橋場の里の 月をみるかな
 三条実実が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛し詠んだ歌である。橋場の地はその歴史は古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊な、風景を楽しむことができたのである。
 “征韓論”をめぐって、政府内に対立が続いた明治6年(1873)10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、1873年12月19日明治天皇は病床の実美を気使い、この別邸を訪れている。
 隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち對鷗荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3m余、側面に“昭和6年歳次辛末5月建之石井久太郎”裏面に“多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書”の碑文が刻まれている。對鷗荘は、昭和3年(1928)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
橋場【はしば】
 昔、この辺り一帯は石浜と呼ばれていた。天正19年(1591)の頃、石浜に変わって橋場と称することになった。天保(1644〜48)、元禄(1688〜1704)には橋場村となっていたが、ここ橋場の渡しから隅田川を渡り下総国へ出ていた。「今は武蔵国になるぬ..紫生うと聞く野も芦荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたるすえ見えぬまで高く生い茂りて、中を分けて行くに....」
上総(千葉県)の国府の官吏であった菅原孝標は長年の念願がかなって京に帰ることが出来た。上京途中橋場あたりに出たの様子を、孝標の娘が綴った「更級日記」(1021年)の一部。馬に乗って持つ弓の先も見えないぐらいに芦が茂っていた。
 石浜神社は聖武天皇時代・神亀元年(624)創建とされる。源頼朝、千葉氏、宇都宮市らの崇敬をうけた。江戸時代の夏越の祓(6月30日)はその壮麗さにおいて名高く“東都歳時記”夏の風物詩として紹介されている。石浜神社付近は石浜城がかつてあったといわれる。石浜城は、室町時代の中頃、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に100年余り続いた城である。以前の石浜神社は当地より西方500mほどの場所にあったのですが、戦災に遭った為に戦後になって現在地に移転して来たそうです。
 橋場の渡しは、対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160mの渡しで“白鬚の渡し”ともいわれていた。“江戸名所図会”によると、古くは“隅田川の渡し”と呼ばれ、“伊勢物語”の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしない。
 大正3年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人に利用された。隅田渡津の碑は文政7年に石浜神社境内に建てられたもので,江戸時代屈指の儒学者である亀田鵬斎の作ならびに書になるものである。
 江戸時代、江戸市域と郊外の境界を「朱引」と呼んだ。明暦3年(1657)の振り袖火事をきっかけに江戸市域は膨張した。江戸市域の町は町奉行の管轄で、郊外は代官支配地であった。それまで同じ代官支配地の橋場村であったのが思川(現明治通り)の南側を市域に組み入れ町方とし、北側は郊外の地方橋場とし朱引きした。
 隅田川西岸のスーパー土手もスッカリ綺麗に整備され、繊維関係や化学関係のメーカーも撤退し、高層マンション住宅群が並び公園や施設で様変わりした。スーパー堤防下の道路を先に進むと隅田川に新しく千住汐入大橋が架かり、北千住や堀切橋を渡って水戸街道への近道に利用されている。
 明治26年11月8日千住工場設置、昭和27年11月23日千住工場石油ガス使用開始、「油ガス発生装置」の技術です。これはまた、伝統的な固体燃料から液体燃料への転換というエネルギー革命の先駆をなす技術革新でもあり、環境基準又は含有量参考値を超えた主要な物質は、鉛、砒素、水銀、シアン、ベンゼンの5項目であり、千住工場跡地では土壌からのベンゼンの溶出量で環境基準の460倍であった。千住工場の跡地周辺については5地点の井戸を選定し、鉛など主要な汚染物質5項目について、調査の結果、環境基準を超える項目はなく、すべての井戸が環境基準以下であった。
 東京ガス千住工場ではガス発生装置は役目を終え、工場そのものも73年に閉鎖された。跡地は現在、燃料電池や水素ステーションも設置されている。千住工場に在った赤レンガ造り軽量器室は小平市にあるガス資料館に移設・修復され、古いガス器具などの展示のための場を提供し続けている。当時のたたずまい、そのままに来訪者に親しまれている。
 石炭から天然ガスなどエネルギーへの転換については、よく似た例を、ごく最近も見ることは出来る。90年代の英国において“ダッシュ・フォア・ガス”と呼ばれる現象がそれだ。
 80年後半、相次ぐ炭鉱労働者によるストライキがもたらす供給不足と不安定さ、そして国営企業であるが故のコスト高に見切りをつけた発電業者は開発が進みつつあった北海油田の安価な天然ガスへ燃料を切り替えた。90年代初頭には、殆んどゼロであった天然ガス発電が21世紀を迎える頃には総発電設備容量の30%までシュアを拡大させていた。
 今の白髭橋たもと辺りの隅田川から三ノ輪方面にむけて用水路が掘られていた。明治通りというのがちょうどその用水路の上にできた道のようで、この用水路が浅草方面から来て南千住、奥州街道に向かう道とぶつかるところには橋が架けられていました。この橋が泪橋、今の泪橋交差点のかつての姿、そこには当時「仕置場」と呼ばれた千住小塚原の処刑場がありました(今の回向院あたり)。処刑場に運ばれる囚人達がもう二度と戻ることのできないこの橋で、皆、泪を流したとも、見送りの人たちとここで泪で別れた、ともいわれ、この橋が囚人達が「娑婆」と最期の別れを告げる場所となっていたようでした。 泪橋交差点(明治通り)を中心に、台東・荒川の両区にまたがって広がる、簡易宿所の密集地域。面積は、約1.65ku。 現在では「山谷」という地名は存在しない。俗にドヤと呼ばれるものが密集していることが普通で、東京の山谷、大阪の釜ケ崎、横浜の寿町、名古屋の笹島、福岡の博多築港などがよく知られている。朝(普通4時半頃から6時頃)、日雇労働者と業者・手配師(ブローカー)が集まりその日の仕事の契約を結び、仕事の内容は、だいたい建設、土木、運輸関係の仕事に就く場合がほとんどで、そこではよく知られた大きな企業=資本がこれら寄せ場の労働者を何重もの下請けの最末端で非常にきつい肉体労働に従事。

 江戸五色不動とは、江戸府内の名ある不動尊を指定して江戸城の東西南北中央の五方角を色で示したものである。不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、密教が盛んになった平安時代にはじまった。

江戸五色不動
目赤 天台宗  南谷寺 文京区本駒込1丁目
目白 真言宗豊山派  金乗院  豊島区高田2丁目
目黄 天台宗  永久寺 台東区三輪2丁目
目青 天台宗  数学院 世田谷区太子堂4丁目
目黒 天台宗  滝泉寺(ロウセンジ) 目黒区下目黒3丁目

 都電荒川線の始点・終点の「三ノ輪橋駅」。とはいっても、近くにそれらしい「橋」は見当たりません。昭和の始めに音無川は暗渠になり三ノ輪橋はなくなってしまった。そのむかしこの辺りには音無川が流れていて三ノ輪橋も架かっていた。江戸時代以前からこの界隈は宿場町の要素があった。奥東京湾(現東京湾がさらに内陸部へ湾入していた当時の呼び方)に突き出た 台地の先端部であることから水の鼻(みのはな)といわれ、これがいつしか三ノ輪になった といわれている。
  「大関横丁」(黒羽藩江戸屋敷跡)の交差点には東西方向は明治通り、南北方向は旧日光街道、という交通量の多い交差点で、かつては旧日光街道には都電2系統が、明治通りにはトロリーバスが走っていた。

三河島駅

駅   名

開  業  年  月  日

所    在    地

乗 降 客 数

路 線

みかわしま 明治38(1905)年4月1日 荒川区西日暮里1丁目 約1万7千人

常磐線

 常磐線は元々田端が起点だったが、明治38年に現在と同じ日暮里からのルートが
開業した。ホームは高架島式1面2線構造。15両編成対応の長いホーム、田端から
のルートと日暮里からのルートの合流点に設けられたのが三河島駅である。
 昭和37年5月3日には駅付近で国鉄三河島事故が起き、死者160名を出す大惨事
となった。

 現在明治通りと呼んでいる通りは、1932年(昭和7年)に拡幅工事が完成するまで馬車引きがよくケンカをし、荷馬車がすれ違うのも容易でない狭い道で、中央はロータリーで、7本の道路が1点に集中しているので、昭和15年(1940)完成。交差点の中央に楕円形の緑地帯を築いて、交差点に進入する車輌は時計回りに進行方向を変える。車の少なかった時代は信号機よりも車の流れはスムーズで、「宮地ロータリー」といっていた。急激な交通量の増大でロータリーでは処理できなくなり、1974年(昭和49年)に立体交差の宮地陸橋になったのである。「宮地」の地名は交差点から南に徒歩5分、東側に入ったところに、かつて三河島村の総鎮守として村民の信仰を集めた宮地稲荷があり、これに由来すると言われている。

新三河島駅
駅             名 開   業   年   月   日 所     在     地 乗 降 客 数 路      線
しんみかわしま 昭和6(1931)年12月19日 荒川区西日暮里6丁目 約5千5百人 京成本線
 新三河島駅は、昭和6年の日暮里〜青砥間開業と同時に設けられた駅。ホームは高架島
式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。駅は、明治通りを跨いだ
位置にある。改札口・出口は1カ所のみで、地上1階にある。

藍染川【あいぞめ・がわ】京成高架線に沿って流れていた河川。京成電鉄上野本線が開通するより前の大正7年(1918)に造られた。日暮里の高台の文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠(トンネル)にて分水、それより下流は隅田川に合流するまで、開渠の川(排水路)として存在した。昭和7年(1932)から新三河島駅より上流などの暗渠化工事が行われたが、満州事変後中断した。昭和35年(1960)、保健衛生上の理由などにより全面暗渠化され、現在は道路となっている。(京成高架・東南側に沿う道路) 尾竹橋通りと京成線の交差する花の木橋などは、川があったその痕跡であり、現在でも欄干が残る。昭和32年(1957)現在で花の木橋、子の神橋(新三河島駅附近)、子育橋(町屋斎場前)の他、一号橋から八号橋が架橋していた。(ニ〜八は木造)

 
荒川区の中心部分から北区に入り何時通っても静かで人通りも車も少なくて走りやすいところだ。左側の所々で東北本線や操車場に止まっているカラフルな色の列車が目に入る。
 明治・大正期、“荒川”(現・隅田川) 沿いにはいくつもの煉瓦(レンガ)工場があった。付近の土が煉瓦の製造に適していたことと、舟運が期待されていたことがこの地に煉瓦工場が集まった理由である。
 中でも古いのが、明治 5年(1872) に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。その跡地に大正11年(1922)、民営の 「荒川遊園」 が造られ、当時は大変な賑わいをみせていた。太平洋戦争中は高射砲の基地となり一時閉鎖されていたが、昭和25年(1950)、区立の 「荒川遊園」 として生まれ変わった。
尾久の原公園【おぐのはら・こうえん】(東尾)旭電化跡地に開園した都立公園。荒川区内唯一の都立で区立公園を加えた中でも一番の広さを誇る(60,010.93u)。(なお、都立公園としては、区内ニ番目の汐入公園が、将来、開園の予定) 昭和50年代に旭電化が撤退し、跡地利用決定に時間がかかるうちに、様々な植物・生き物が回帰した。その結果、これらを活かす公園設置の機運が広がった。回帰した生き物の中でも、特にトンボはこれまでに、希少品種を含む30種以上が発見され全国有数の生息地として注目をあび、別名、トンボ公園として広く知られる。平成5年(1993)6月1日、旭電化跡地東側・区立原公園跡地に部分開園、下水道処理施設併設予定。(なお、旭電化跡地には、都立保健科学大学が開設されている。)

尾久駅
駅名 開業年月日 所在地 乗降客数 路線
おく 昭和4(1929)年6月20日 北区昭和町1丁目 約1万3千人 東北本線
 尾久駅は昭和4年、日暮里から尾久を経由して赤羽に抜ける新ルートととも
に開業した駅。東北本線と高崎線の列車は全て尾久を経由するので実質上は
コチラが本線である。ホームは地上島式1面2線構造。駅舎とは地下道で連絡
しているが、駅裏には、カシオペアや北斗星用の客車のネグラである尾久車
両センター(旧・尾久客車区)が尾久駅は「おく」と濁らないが、地名としての尾
久は「おぐ」と濁る。

かつて尾久町を発展させたラジウム温泉。大正3年(1914)、現在の尾久警察署から都電を挟んで、こちら側にある碩運寺で発見された。一躍、「寺の湯」として名声を博するにいたり、「寺の湯」は「不老閣」として独立し、周辺にも「小泉園」「大河亭」「光泉閣」など同様の施設が次々と作られた。同じ頃の、王電の開通、行楽地・あら川遊園開園といった追い風とともに発展していった。賑わいと共に湯女が必要となったのが発端となり、芸妓屋などの三業を生み出している。なお、小台電停近くで現在も営業している割烹「熱海」は、当時の温泉旅館の一つであり、大正12年(1923)発行の「新興の尾久町」にも登場している。
 
昭和前期にかけての尾久の繁華街。三業とは、一般に料理屋(旅館)・芸妓屋・待合の三業種をさす。いわゆる花街である。大正期末では、まだ、待合を除く二業のみであった。三業になったのは昭和に入ってからと思われる。現在の女子医大通りと一つ西側の通りとの間あたりが中心である。昭和40年代以降はすっかり寂れてしまった。今では、尾久三業の案内板と、芸妓屋や料亭の名前の入った看板や表札がかすかに読み取れるものがいくつか残っていること、黒塀がわずかに残っていること、にかつての面影を感じるのみである。なお、昭和初期のこの街において、時代を反映した「阿部定事件」が発生したことは、あまりにも有名である。

 尾久を過ぎると道が右にややカーブすると都電の踏切で梶原の停留所が道路の左右に分かれてあった。暫くすると高速中央環状線の橋脚が覆いかぶさり下を流れる音無川は暗渠になるでもなく水面は見え鉄骨が両岸に渡され蓋を被せようとでもするのかと思わせるが何の表示もないので分からない。溝田橋を左折すると左には印刷局の王子工場があり、再び都電線路を横断するが左に停留所、東北本線や京浜東北の王子駅がガード上にあり切符売り場や改札も見える。
 
印刷局の王子工場の奥に東京書籍株式会社が創立25周年を記念して、昭和11年に建設した日本初の教科書図書館です。明治以降から現行の教科書や外国のもの、更に江戸時代の藩校や寺子屋で使用されたものまで約15万冊が集められ、無料で閲覧することができる。道路を挟んだ向かいに位置する東京書籍印刷株式会社の工場・事務棟などがある。
 この辺り一帯は昔は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中に榎があり、装束榎と呼ばれていました。榎は昭和4年に伐採され現存しませんが、現在は榎のあったそばに装束稲荷神社と装束榎の碑があります。
 堀船(ほりふね)の名前は、堀之内村と船方(ふなかた)村とが合併してできたもので、隅田川と明治通りに挟まれた工業&住宅地。都電荒川線梶原駅周辺には商店街が形成されており、渡船場跡は福性寺裏の隅田川護岸にある。この渡しは明治42年から昭和36年まで利用されました。足立区の江北村(こうほくむら)から、堀船(ほりふね)の下野(しもつけ)紡績工場へ通う女工さんたちのために、両岸の有志が出資してつくられたもの。
 野菜の時期には駒込の市場への出荷の車を、戦争の頃は足立の軍需工場へ通う人々を、梶原銀座(かじわらぎんざ)への買い物客を、何往復もして運んだということです。堀之内村は、足利時代末に梶原政景氏が今のポンプ場あたりに屋敷を構えた。堀船のキリンビール東京工場跡地に、読売新聞・日刊スポーツ・日本製紙の3社合同で、場所は隅田川沿いで、東京都の築堤するスーパー堤防の上に、日本一の巨大な新聞印刷工場の建設工事が進められている。

 王子駅を通り過ぎると左にカーブしながら飛鳥山を登るのだから当たり前だが、急な坂道がお出でお出でと嘲笑っているようにも感じた。負けるものかと登り切り、ホッとするのも束の間、明治通りは右折し今度は直線でダラダラと高速道路が右にカーブして消えるまで続いた。

王子駅
駅名 開業年月日 所在地 乗降客数 路線
おうじ
JR…明治16(1883)年7月28日
東京メトロ…平成3(1991)年11月29日
北区王子1丁目
約12万5千人
東北本線
東京メトロ…南北線
 王子駅は、明治16年の日本鉄道上野〜熊谷間開業当初からの駅。JRの駅は築堤上にあり、島式
1面2線構造。JRの改札口・出口は、北口・中央口・南口の3カ所。東京メトロの改札口は地下1階に
あり、通常の改札口とエレベーター専用改札口の2カ所がある。王子は北区の中心街であるが、製紙
業の街でもある。王子製紙の創業地はここ王子である。都電王子駅前電停がある。

 八代将軍吉宗が江戸庶民の行楽のために桜を植樹し開放し1720年に山桜1270本を植えさせたのが最初で、その後1737年に、この地を王子権現に寄進し整備を命じ、そのころから江戸庶民に行楽地として開放する様になったという事で、いわば日本初の公園です。JR京浜東北線を王子駅で降りると、大人2人がやっとすれ違えるほどの幅しかない線路沿いの小道は350mも続く花のギャラリーに変身、1300株10種類のアジサイが咲き揃う。すぐ目の前は高台になっている。これが飛鳥山で、ここから広大な武蔵野台地が始まる。
 武蔵野台地の先端、東京の「山の手」台地はちょうど指先を開いた「手」の形をしていて、王子・飛鳥山から日暮里・道灌山(にっぽり・どうかんやま)、上野の山まで続く高台は北東端の「小指」に相当する。
 園内には概ね4つのエリアに分かれています。ひとつはすべり台ブランコ等、子供向けの遊戯施設が有るエリア、ひとつは人造の滝や川、噴水などが有る水辺のエリア、ひとつは「飛鳥山の花見」で有名な、桜並木が有る緑のエリア、そしてひとつは博物館のエリアで、東京都指定文化財の「飛鳥山の碑」や、江戸時代の学者・佐久間象山の「桜賦(おうふ)の碑」などがある。平成10年には公園内に北区飛鳥山博物館・渋沢史料館・紙の博物館の「飛鳥山3つの博物館」がオープンし、新たな見所となっている。
 平塚神社は平塚城跡でもある。平塚城は、中世の豊島郡一帯に大きな勢力を張った、豊島氏の居城といわれている。築城は平安時代末期に豊島近義によって行われたと伝わる。
 後三年の役を鎮圧した八幡太郎源義家が、凱旋の折に平塚城の豊島氏の元に立ち寄り、鎧一領と十一面観音像を与えた。これを豊島氏は元永年間に塚に納め、城の守護神としたが、その塚が平らだったため、「平塚」となったという。これが平塚神社の起源といわれ、社殿の後ろには「甲冑塚(かぶとづか)」がある。
 しかし、栄華を誇った豊島氏と平塚城も、豊島泰経の時代の文明10年(1478)太田道灌に攻められ落城。程なくして豊島氏は没落してしまった。
 王子は水が豊富で王子七滝とよばれるほど滝が多かった。滝を集めて流れる風光明媚な音無川は王子駅の西口正面からワァーと広がる。江戸期には今の北本通りはまだなくて、この王子駅前の線路沿いの細い道が「岩槻街道」すなわち御成道であった。今は線路や住居に挟まれているが当時は郊外の田園地帯であった。音無川の渓流沿いには水茶屋や料亭が並び、王子稲荷を詣でる人たちで賑わった。音無川の清流沿いには有名な料亭が並び、中でも扇屋と海老屋は、江戸っ子で知らぬ者無しの名店であった。扇屋は今でも江戸時代の製法を受け継いだ玉子焼きを販売している。音無川、飛鳥山、王子稲荷は神田から約8キロ。江戸っ子が徒歩で日帰りできる最大の観光地であった。
 音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていた。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、 広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、 投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、 飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれていると記されている。
 こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、 後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、 この音無親水公園を整備しました
      
 
たきらせの 絶えぬ流れの 末遠く すむ水きよし 夕日さす影
                                                   
飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より

 
 国道17号線と交差する西巣鴨交差点を過ぎると豊島区の表示があった。左には大正大学があって“弁理士”の試験会場になっていた。“掘割”の交差点の先は今まで登ってきた分をお返しすかのように下り坂だった。坂の途中で右は板橋と表示された辺りで右側に池袋清掃工場の四角い煙突が見え、更に下ると、左大塚、右池袋本町の表示板あたりから高速5号線の橋脚が見え、堀の内橋は山手線の線路が道路下に見え、池袋六つ又陸橋まで来た。
 陸橋を潜ると東口に並ぶ細長いビルが見え始めた。パルコ、西武百貨店が並び人人で一杯だった。昭和40年代までは亀戸から、明治通りを池袋までトロリーバスが運行されていて良くここまで乗ってきた。途中では私鉄線や都電や山手線などではパンタグラフを外してヂーゼルエンジンで走り線路を越えると車掌が降りて架線にはめる作業が行われ、なれない車掌などは手間取り運転手まで降りてくるなどユーモラスな思い出もある。尚路線は違うが品川駅前へも出ていた。駅前から東方面を眺めると東池袋方面に下る坂道の両側には建設途中のビルが数棟見え、是でもか是でもかと後を断たずに進行している。

池袋駅

駅   名

開    業    年    月    日

所    在    地

乗   降   客   数

路        線

いけぶくろ


JR明治36(1903)年4月1日 
東武大正3(1914)年5月1日
西武大正4(1915)年4月15日
東京メトロ昭和29(1954)年1月20日
(JR・西武・東京メトロ)
豊島区南池袋1丁目
(東武)
豊島区西池袋1丁目
JR 約115万4千人
東武約54万人
西武約53万6千人
東京メトロ約48万5千人
JR山手線
東武東上本線 
西武池袋線
東京メトロ丸ノ内線
 池袋駅は明治36年の開業。品川〜赤羽間の開業は明治18年だったがそのときに駅は設けられず、残りの田端まで
の区間ができたときにその分岐点に造られた。大正3年には東武東上線の前身の東上鉄道が池袋〜六軒町(現・川越
市)間を開業させ、翌4年には西武池袋線前身の武蔵野鉄道が池袋〜飯能間を開業させた。地下鉄はまず昭和29年
に丸ノ内線の池袋〜御茶ノ水間が開業。有楽町線は昭和49年に池袋〜銀座一丁目間が開業している。和光市方面へ
延びたのは昭和58年。和光市へつながったのは昭和62年である。
 JRホーム:地上島式4面8線構造、東武ホーム:地上頭端式3面3線構造、西武ホーム:地上頭端式4面4線構造で、
地下鉄ホーム:いずれも島式1面2線構造、各社のホームは全て独立・改札外乗換、乗降数は全国第2位。
 池袋は「東武が西口で西武が東口」というのは有名な話。

 南池袋1丁目の交差点を過ぎると下り坂になり、左に入ると大鳥神社参道と鬼子母神神社の参道と続き、目白通りとの立体交差の千登世橋が上にある。
 地下鉄「13号線」の池袋から渋谷方面への延伸の鉄道免許が1999年に交付され、2002年6月より明治通りでは終日地下鉄の工事が行われている。13号線は埼玉県の和光市から池袋を経て渋谷に至る路線で、現在、和光市〜池袋間は東京メトロ有楽町線として営業中。既設の有楽町線池袋駅から渋谷方面に地下鉄を延伸する同計画は、始点・池袋1丁目〜終点・渋谷2丁目を結ぶ延長約8.9km。途中駅の「雑司ヶ谷駅」「西早稲田駅」「新宿7丁目駅」「新宿3丁目駅」「新千駄ヶ谷駅」、そして「明治神宮前駅」(駅名はすべて仮称)の6駅が開設され、終点が渋谷駅。完成すると東急東横線と相互乗り入れが行われ、和光から横浜桜木町まで直通電車が走る。
 
 また最近、池袋名物になりつゝあるのが、毎年9月下旬に池袋駅西口で行われる“ふくろ祭り”。これは西口商店街の商工会が西口方面の鎮守様である御嶽神社 の秋の例祭に協賛して盛大に行うお祭りで“袋”に因んだ行事のハイライト。祭りの二日間は西口広場は全て交通止めとなりこの例祭に占有され、各方面の民族 舞踏や芸能が舞台で演じられ、祭りのピーク時には約25基の御神輿が大パレードをするなど 大都会のターミナル駅前の祭典としては最大のものではないか。西口のふくろ祭りに対して東口商店街では9月中旬に東口方面の鎮守様である氷川」神社の例祭に呼応してみみずく祭りが行われる。これは5〜6基の御神輿が 繁華街のサンシャイン通りをパレードする。
 みみずく祭りの呼称は東口方面にある雑司が谷鬼子母神の江戸時代以来の名物玩具である すすきみみずくにも由来して いる。耳のついている ふくろうを“みみづく”と呼びます。東と西に対して“ふくろう”と“みみずく”の対比、池袋の“”へのこだわりが面白い。西口方面の 袋池からきたふくろと東口方面の鬼子母神のすすきみみずくはいずれも古来から存在したもので幸福を望む池袋の住民の伝統的な願いが感じられる。
 サンシャインシティから池袋駅辺り迄は樹木が鬱蒼と茂り、昼間でも薄暗く気味の悪 い地域であったと云われています。当時は中仙道を通って日本橋から巣鴨・板橋へ抜けるのが一道般的でしたが、裏街道として雑司が谷から六郷社の森(今のサ ンシャインシティ)経由で池袋村(池袋本町)を通って板橋へ抜ける道がありました。 板橋には宿場に付き物の遊女がおり、そこで遊ぶ人が大金を懐に入れてこの街道 をよく利用したとのことです。このため、それを狙った追い剥ぎや辻斬りがこの地域で横行しひどい時には一夜で17人が斬り殺されると云う惨事まであったともいわれ、当時の池袋村の有志の人々は犠牲となった人達を憐れみ四面塔を建立して供養を し続け現 在に至っている。
 旧神田上水(江戸川)の北岸に位置する高田が、上高田と高田下の2つに分かれた。徳川勢が大坂に進攻しようという時に、上高田地区に軍馬をそろえたことから高田馬場と呼ばれるようになる。高田下は後に東京府北豊島郡に属し、現在の豊島区高田となる。講談で有名な堀部安兵衛「高田馬場仇討」の旧跡は現在の西早稲田。
 安兵衛の本姓は中山氏、越後新発田に生まれる。実父彌次右衛門は溝口信濃守の家来で、一族は家老上士の身分家柄であったが、故有って浪人した。父没後、19才の時江戸に出て、小石川牛天神下の剣客堀内源左衛門に師事し、たちまち高弟を抜いて実力を現した。師の代稽古を勤める様になっていた。四国の松平左京太夫の家臣、菅野六郎左衛門と親交し叔父甥の義盟を結んだ。
 浅野内匠頭、吉良上野介殿中刀傷事件が起こり、内匠頭切腹、御家断絶。武士道の忠義心に凝る堀部父子は大石内蔵助を盟主とする赤穂四十七士と共に吉良邸に討ち入り、名高き元禄快挙を遂げた。元禄16年2月4日幕命により身柄預け先の松平邸で切腹。行年34才。法名を「刃雲輝剣信士」。高輪泉岳寺に葬られている。などなどの逸話もあるが、地形的には変化も少なく山の手の良さが残っている。

 明治通りはここから新宿区で、この先はモット急坂になり千登勢橋から都電と平行に走ってきたが学習院前から高戸橋まで一気に下ると都電は左折していった。目白台から下って神田川の高戸橋を底辺にまた上り勾配となり、少しずつ上り、交差点を過ぎると戸塚警察署が左にあって急坂はここからドンドン登り今回のコースでは最高標高地点までジリジリと登った。旧蟹川(かに)の低地で下り、落合 高田馬場早稲田牛込神楽坂 大久保戸山 四谷新宿角筈 淀橋柏木となるが地形的にみると妙正寺川沿い、神田川沿いの低地、戸山が原(かつての尾張藩の下屋敷跡、戦前は陸軍の施設、戸山が原、戦後は進駐軍が一時住み、その後は都の住宅として現在に至っている戸山ハイツである。ここに箱根山という山があって標高44.6m。23区内で一番高い山といわれている。しかしこの山は人工の山で自然の山ではない)、市ヶ谷牛込の台地 四谷淀橋の台地など、新宿通りの最高地点に上っていく。平坦な台地の上をすぎ千駄ヶ谷の谷へ下りていく。
 
途中で早稲田通り、諏訪町交差点、学習院女子大学の旧正門(明治10年学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。製作は埼玉県川口市の鋳物工場で唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は明治初期文明開化と技術を伝える重要な文化財)と左隣りは広い空地になっていた。右隣は都立戸山高等学校と並び道路の左右には都立の施設機関が並び、大久保通り、職安通りと並び小刻みに上がり下がりを繰り返し尚且つ地下鉄13号線が道路中央を占拠して拡幅工事も平行して行われているが、この辺は遅れていて車線も歩道も狭かった。職安通りと交差する新宿7丁目の交差点から長い下りの急坂があって、二又の道路を右に行くと新宿3丁目の靖国通りで、突っ切ると直ぐ右に伊勢丹デパートそして新宿通り、人通りと車の多い明治通りを進むと左から新宿御苑下の自動車専用地下道から地上に出た新宿駅南口前の国道20号線の甲州街道と交差するが、歴史を少し遡り江戸時代のことですが、天竜寺の門前を含め、追分けから、四谷大木戸の間に、甲州道中を挟んで両脇に形成されたのが内藤新宿です。元禄11年(1698)6月、甲州道中の第一宿として開かれました。開いたのは浅草の住人高松喜六他4人で、上納金5600両を幕府に納めることが条件でした。財政難の解消が幕政の大きな課題であったときです。
 江戸時代の地誌・新編武蔵風土記稿(文政11年(1828)完成)は次のように伝えいる。 
 『内藤新宿は甲州街道宿駅の一なり、御打入の後内藤大和守に給ひし屋敷の内を、後年裂けて上地なりし頃も、萱葭原なりしを、元禄十一年(1698)江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛及ひ浅草の町人市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛と云者、願上て今の如く幅五間半の街道を開き、左右に宿並の家作をなし、喜兵衛は喜六と改め、五人共に移り住せり、
 元内藤氏の屋敷なりしゆへに其儘内藤新宿と名付、江戸より多摩郡上下高井戸まて人馬継立の駅亭とせしか、享保3年(1718)宿駅を止められて御料の町場となりしに、明和9年(1772)安藤弾正少弼道中奉行たりし時、元の如く宿駅に建てられ、定人足25人、馬25匹を出して、上下上高井戸宿へ継立せり、又同郡青梅道中中野村、相州矢倉沢往来世田谷村へも継送れり……(一部略)
 日本橋より二里、東は四谷大木戸、武家屋敷、東南は内藤大和守下屋敷、南は又武家屋敷、四谷天龍寺境内(現新宿四丁目)、坤は同寺門前地にて、西は角筈村、北は大久保百人屋敷、四谷太宗寺門前……東西九町余、南北一町足らず、皆家並をなし、七百三十八軒に及へり、・・・』
 安政年間(1850年代)の切り絵図から復元した内藤新宿の概略図です。左上の追分けから右端の四谷大木戸の近くまで、大名や武家屋敷に囲まれるように町場が造られています。追分け寄りを「内藤新宿上町」として、以下「中町」「下町」と三つに区切られ、寺にはそれぞれ門前町が付けられています。寺は町人に門前を貸して、寺の維持管理費を生み出したのでした。
 宿は「伝馬継立」が最初の目的でした。大名や武家の旅行、情報・荷物運搬が主とする役目でした。付随して甲州街道の交通、物流とともに多摩地方の野菜や木材・薪炭などの物産が運ばれ、多摩へは肥料が運ばれました。宿には、旅籠と米糠を扱う店、青物屋が混在していたようです。
 最初はこのような状況でしたが、やがて飯盛女を置く「宿場」の気配が濃くなったようで、むしろ一種の遊郭の様相を帯びてきて、
 吉原は鳳凰 ・ 四谷とんびなり ・ 四谷新宿馬糞の中に・・・
 などと、吉原や他の宿より一段下に位置付けられている間はともかく、次第に繁盛してくると、吉原をはじめ他の宿が黙っていない。内藤新宿の縮小や廃止の動きが出てくる。これが、新編武蔵風土記稿の云う「享保3年(1718)宿駅を止められて」で、内藤新宿は突然、廃宿になる。

 
ここから渋谷区、更に南下すると坂道の右には“高島屋デパート”がありここから北参道までは下る一方で、千駄ヶ谷5丁目交差点の御苑裏交番を過ぎ、右にニューヨークのエンパイヤステートビルのような格好をしたドコモビル、 代々木は代々木駅東側の住宅街、代々木神園町は明治神宮、代々木公園、オリンピック記念青少年総合センターの3施設のみで構成される町である。JR中央線、高速4号線の下を進み、きた参道から千駄ヶ谷小学校までは少し登り、交差点を過ぎると下り坂は急坂で神宮前1丁目の横断歩道辺りは右に大きくカーブし坂道は更に急坂になり竹下口交差点は車よりも人のほうが多かった。 明治通り沿いのファッションビル界隈から、「東郷の森」とその裏手へと続き、そして「駅前通り」へとつながる《ラフォーレ原宿〜神宮前一丁目交差点〜竹下口》を結ぶエリアだ。先端の若者文化のカラフルで賑やかな界隈を通り抜けると、その先は、学校や図書館、マンションが集まり、森の緑が基調となった落ち着いた街並みに変化する。
 表参道の神宮前交差点は人人で信号が変わると埋め尽くされるほどで携帯電話を耳に当てながら行く者奇抜な格好、探せば幾らでも見つかる若者なかには中年も多い。神宮前6丁目辺りまで下ってくると道は左にカーブし宮下公園交差点まではケヤキの木が道路被い被せるくらいな大木が街路樹として植わっていた。もう目の前は渋谷駅が目の前だった。宮益坂交差点、地下鉄浅草線のガードそしてJR渋谷駅東口バスターミナルは工事用の三角ポールがズラリと並んでいた。左の空地は旧東京文化会館
(老朽化により2003年6月末で閉館し解体された)だが、駅ビル直結の屋根付き連絡橋、映画館4フロアのシネマコンプレックスなど最新施設で話題をさらった時期もあったが、何時しか時代は過ぎそして解体され、なんだか殺風景になっています。東口のシンボル的存在であった「五島プラネタリウム」の白い屋根を含む東急文化会館のビルごとすっぽり無くなっている。その目の前では東急東横線の渋谷〜代官山間を地下鉄化して地下鉄13号線と相互運転するという壮大な工事が行われています。文化会館跡地はこの工事の作業基地として利用されているそうです。1968〜69年に明治通りと玉川通りに架かる長い歩道橋が完成、都電が廃止された頃から景観はほとんど変わらない。

渋谷駅

駅 名

開    業    年    月    日

所     在     地

乗   降   客   数

路         線

しぶや


JR 明治18(1885)年3月1日
東急昭和2(1927)年8月28日
京王昭和8(1933)年8月1日
東京メトロ昭和13(1938)年12月20日
(JR、京王、東京メトロ)
渋谷区道玄坂1丁目
(東急)
渋谷区渋谷2丁目
JR   約84万1千人
東急  約106万3千 
東京メトロ約60万3千人
京王  約32万3千人
JR…山手線
東急…東横線
京王…井の頭線
東京メトロ…銀座線
 渋谷駅の開業は日本鉄道品川〜赤羽間開業と同時の明治18年。明治40年には東急田園都市線の前身の玉川電気
鉄道(→玉川線)が渋谷〜玉川(現・二子玉川)間に開業した。昭和8年には帝都電鉄(現・京王井の頭線)が開業してい
る。昭和13年には東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線)が開業し、日本で初めての地下鉄が全通した。翌昭和53年に
は地下鉄半蔵門線が部分開業(渋谷〜青山一丁目、明治通り地下に東京メトロ13号線の渋谷駅が2007年の開業を目
指して建設中。JRのホームは高架式。山手線ホームは片面ホームが同方向を向いた2面2線構造で、埼京線ホームは
島式1面2線構造、東横線のホームはくし型の島式4面4線構造、田園都市線と半蔵門線のホームは渋谷駅前交差点地
下3階に島式1面2線のホーム、井の頭線ホームは、渋谷マークシティ2階部分に行き止まり式の2面2線ホーム銀座線
のホームは東急東横店3階にあり、地下鉄なのに渋谷駅でもっとも高いところに発着、相対式2面2線構造。
 渋谷駅の待ち合わせ場所といえばハチ公像とモヤイ像。ハチ公像はハチ公が亡くなる1年前の昭和9年に建てられたが、
現在の像は昭和23年に再建された2代目である。

 渋谷駅(しぶやえき)は、東京都渋谷区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京急行電鉄・京王電鉄の駅である。乗降客数はJR・私鉄・地下鉄を合わせて213万人。
 江戸時代の道玄坂は大山道の坂道で、付近は江戸の郊外地であり、大名の下屋敷が散在し、生産地としての性格が色濃く、のどかな田園風景が続いていた。由来は和田義盛の残党である大和田太郎道玄からという説と道玄庵という寺の名前からという説の2つがある。
 昭和8年以降に、東急東横線、京王井の頭線が開通すると、渋谷駅はターミナルとして益々発展し道玄坂も都内有数の盛り場となりました。昭和
20年の空襲で焼け野原と帰しましたが、戦災の復興を経て、日本経済の高度成長に伴い副都心として日本有数の繁華街に成長しました。
 渋谷センター街にはその昔、宇田川町の名の通り「宇田川」という河川がかつてあり、渋谷川に合流し、この地域は豪雨の度に水害をもたらしていました。街のビル化とともに歓楽街も近代化され、「宇田川遊楽街」と言われ、新宿歌舞伎町とならび称されるようになりました。文化村通りと井の頭通りに挟まれており、渋谷駅前交差点から東急百貨店本店付近の約350mの区間。渋谷にしぶちかなどを除いて地下街が少ないのも、川の上にあるという立地条件からである。恋文横丁: すずらん横丁ともいう。第二次世界大戦後に進駐軍と呼ばれたGHQの軍人に主に英文による恋文を代筆する代書屋があったことに由来する。

東口

駅ビルには東急百貨店東横店東館
オフィスビルや各種商業施設
バスターミラル

南口



駅ビルには東急百貨店東横店南館
高層ビルはセルりランタワー東急ホテル
大きなビルは複合施設・渋谷マークシティ内の渋谷エクセルホテル東急
ショッピングセンターの東急プラザ渋谷店
待ち合わせスポット・モアイ像

北口




JR山手線、埼京線、東急線、京王線が乗り入れる駅ビルには東急百貨店東横店西館
QFRONT、TSUTAYAが核テナントの複合ビル
ファッションビルの渋谷109-2
待ち合わせスポット・ハチ公像
スクランブル交差点
地下街・しぶちか

道 玄 坂 通 り


ランドマーク・ファッションビルの渋谷109
道玄坂交差点付近より東方向には飲食店やオフィスビルが目立つ
道玄坂通りと文化村通りを結ぶ道玄坂小路通り・飲食店が並ぶ
渋谷百軒店商店街・飲食店や風俗店などが並ぶ、歓楽街

渋谷センター街

中小商店が並ぶ、渋谷のメイン商店街
夢二通り・飲食店などが並ぶ、宇田川通り・中小商店が並ぶ

文 化 村 通 り

東急百貨店本店・総合書店のブックファースト渋谷店・各種商業施設
この通り沿いには飲食店やオフィスビルが目立つ

井 の 頭 通 り


入口交差点付近より西方向各種商業施設が並ぶ
西武百貨店・東急ハンズ渋谷店
スペイン坂通り、欧風の装飾を施した商店
ペンギン通り、スペイン坂を登った地点より東西に伸びる通り

公園通り

渋谷駅前交差点より北方向各種商業施設やオフィスビルが並ぶ
井の頭通り入口交差点より北方向中央付近にはマルイヤング渋谷店
渋谷区役所・渋谷公会堂・勤労福祉会館・東武ホテル・渋谷パルコ
渋谷中央通り商店街 三井住友・横浜銀行、商店街は飲食店が目立つ
ウェーブ通り商店街 エクセル東急ホテル、ウェーブ広場、こちらも飲食店が目立つ
プラザ通り商店街 中央三井信託銀行、飲食店が目立つ
セルリアンタワー通り商店街 通り名の由来になった、セルリアンタワー東急ホテル、飲食店
思い出通り オフィスビル、飲食店
メトロ通り オフィスビルや各種商業施設、飲食店
ケンウッド通り 東京メトロ、オフィスビルや各種商業施設
玉川通り 高層ビルがセルリアンタワー東急ホテル・高架橋は首都高速3号渋谷線、オフィスビル
六本木通り オフィスビル・高架橋は首都高速3号渋谷線
明治通り オフィスビルや各種商業施設

 109(いちまるきゅう)は、東急商業開発が展開するファッションビルの名称。由来は東急の読みの数字でのゴロ合わせから。 同じ渋谷で展開するセゾングループの渋谷公園通り開発に対抗して、1979年に東急本店通りに流れを作り出すために開店した東京都渋谷区道玄坂。
 
青山通り、高速3号線と通過し並木橋まで来ると右に渋谷区の焼却場が見え始める。そして東1丁目、2丁目、3三丁目と過ぎ、渋谷橋の交差点〜天現寺橋間約1qの道路拡幅整備工事が終わり、車道の両側は各4.5mの歩道で整備され、電線も地中に埋められるなど、歩行者にとっては快適なストリート環境が完成した現在、渋谷橋〜天現寺橋間の明治通りを指す名前は存在しないが、拡幅整備されて広がった道路や地名である広尾の文字の記され日も近かろう。広尾1丁目の交差点を過ぎ、天現橋交差点で右に渋谷川のコンクリート護岸の細い川がひょっこり顔を出したが直ぐ右側に消えた。渋谷川(しぶやがわ)東京都渋谷区内の宮益橋から天現寺橋までの2.6kmを流れる二級河川のこと。

 ここから港区の表示板があった。港区内の天現寺橋から浜崎橋先の河口までの4.4kmは古川と呼ばれる。天現寺橋から古川橋にかけて、川の南側は白金台、北側は麻布台となっている。白金台側には目黒の自然教育園(旧白金御料地)があり、湧水を水源とする池を囲んで鬱蒼とした森が残されている。この森は江戸時代以来有名な六本木界隈を縄張りとするカラス達3千羽のねぐらにもなっているようだ。
 一方麻布台側は下町っぽい風景と大使館が立ち並ぶ高級住宅地が入り交じり、各国の人々が生活する不思議な空間で、 台地の西側は笄川の谷で、有栖川記念公園が、ちょっとした谷頭の地形を残した湧水地を残していて、ここの湧水は3ヵ所、うち2ヶ所は滝になっているが、これは現在ではポンプによる地下水のくみ上げによるものらしい。もう1ヵ所は自噴の井戸で、わずかですが水が湧き出して、滝のうち1つは池まで100mほどが小川になっていて、蛍の養殖がされている。
 そして下り坂は平坦は道路になり右に高速2号線が古川を被い被るように走り道路も高速に沿うようにまでうねりながら古川橋まで続き一の橋方面に左に大きく曲がって行った。明治通りはここが終点らしい。
 そこで右折して桜田通りの第二京浜に曲がり、ほんの数10m走り、左に別れ魚濫坂通りには行った。「魚籃坂下」で、そのまま東に向かうと「魚籃坂」となる。この坂の頂上まで来ると、左に魚籃寺(浄土宗魚籃寺は元和3年(1617)開創の豊前中津円応寺(現大分県中津市)の寺中魚籃院に始まるという。寛永7年(1630)当地に移転。本尊の魚籃観音は中津から移した像で、右手に魚の入った籃を持ち、左手に天衣を携える唐女の姿をする)。次にくだりの坂になり、これが江戸名所図絵に「潮見坂」と画かれている「伊皿子坂」(伊皿子という地名の由来には諸説がある。「更級日記」の「いいさらう」の語、当地に住み承応2年(1662)に没した明人伊皿子にちなむという説、南方の如来寺にあった大仏から「おさらぎ」となったとする説、武蔵国に住んだ大仏陸奥守貞直の名字にちなむとする説など)である。するとイキナリ魚濫坂下と標識が目に入り、この目を疑がゃちゃった。それまで下る一方だったのでこの先も下り坂と決め込んでいたばっかりにとんでもない思い違いは急坂を登るにはとんでもない負担にもなり、喘ぎ喘ぎで何とか登り切ったが伊皿子坂の下りには本音ホッとした。
 泉岳寺(曹洞宗の寺院で、曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺で、道元禅師の主著は仏教の神髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
 さて、泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在のホテルオークラの近く)しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきたが、元禄14年(1701)、江戸城松の廊下にて高家筆頭であった吉良上野介義央を斬りつけた赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が即日切腹させられ、この泉岳寺に葬られた。翌年の12月14日には、御家断絶となり浪人となった旧浅野家臣(赤穂義士)が筆頭家老であった大石内蔵助良雄に率いられ、吉良邸へと討入る事件へと発展する。討入後、泉岳寺へと向かった義士たちは、吉良義央の首を供して浅野長矩の墓前へ報告し、その後、幕府によって細川家(伊皿子交差点を右折すると、交差点からすぐの右手が高松宮邸。今も広いですが、かつての敷地は江戸時代には細川下屋敷でした。ここに大石内蔵助以下、討ち入り後にお預けになっ場所で、石碑は都営住宅と港区立高松中学校の敷地の間にあり、ほぼ切腹をした場所)など4大名に預けられたが、元禄16年(1703)、幕府より切腹を命じられ、この泉岳寺の主君の墓の傍らに葬られたのである。今でも義士たちの墓には花が絶えることはないが、この赤穂義士の一連の事柄から泉岳寺はより名を高めた。入口左手にある義士館には47士の木像や衣装などが展示されている。)を横目で見ながら先へ進めた。
 第一京浜に出たので左折して都心に向かい、JR山手線の田町駅と品川駅の中間、高輪泉岳寺に近い第一京浜国道の脇に今も残る高輪大木戸の石組み。江戸中期の構築で江戸への入口である。江戸の南口の大木戸は、宝永7年(1710)芝口門に建てられたのが最初で、その後享保9年(1724)現在地に移転された。当時は大木戸の横はすぐ東京湾が広がっており、海浜の景色もよく、月見の名所でもあった。道の両側には、石垣がきづかれており、夜は閉めて通行止めにして江戸の町の守りとした。
 伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩いた。寛政12(1800)4月19日55歳の時。地図は忠敬が74歳で死んだ3年後、弟子たちの手によって完成し幕府に献上された。この地図を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放となったのがシーボルト。現在は、幅5.4m、長さ7.3mの石垣が残されており、史跡として保存されている。他に、甲州街道からの玄関口「四ツ谷」や、中仙道からの入口となっていた「板橋」にも大木戸はあったそうですが、現存しているのは高輪大木戸のみ。

 
札の辻から右折して東海道線、山手線、京浜東北線、新幹線を跨ぐ陸橋は急坂でおまけに左のカーブしていた。旧海岸通の八千代橋を左折してモノレールの下を進み、芝浦西運河に架かる潮路橋に来たが工事中で欄干には芝浦小学校の生徒の絵が何枚も張ってあった。そして高速1号線下の海岸通りに出て左折し日の出桟橋からはゾロゾロと水上バスから降りてきた中高年の乗船客の一団が歩道一杯になりお喋りに夢中で自転車のベルも聞こえないらしくトウトウ自転車を止めて怒鳴ってしまった。
 そして、JR浜松町から竹芝桟橋へ向かう人がゾロゾロと信号が変わっても渡り切れないほど数珠繋ぎの状態だった。“ゆりかもめ”(運転士や車掌が電車に乗務しない、完全な「無人運転」をおこなっている、都内で唯一の公共交通機関で、電車が駅を発車してから停車するまでの運転操作はもちろん、ドアの開閉に至るまで、そのすべての操作をコンピューター制御によりおこなっている)が横切り、左には再開発された汐留サイトのビルが高速環状線越しにチラチラ見える。
 右に浜離宮(寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなったが、東京都に下賜され、整備の甲斐在って、昭和27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定された)
左は再開発中の汐留、以前からあった門はかたく、閉められていたが少し行くと新しい入場門が出来ていて人の出入りが頻繁だった。

 ここから中央区で右に浜離宮の南門橋で右折して築地市場前を通り、築地4丁目で又右折して晴海通りを真直ぐに行くと勝鬨橋を渡り、清澄通りの勝どき2丁目の交差点を横切り黎明橋を渡り、晴海に入ると最近開通した“晴海大橋”があり豊洲へは近道になったが、この橋はとんでもない急坂で途中で登り切るのを諦めようかと思うほど何段も波打つように続き、周りの景色と涼しい風に助けられてヤットコサトッコ登り切り猛スピードで下ると、この先の橋はまだ開通しておらず左右どちらかに行かなければならず、やもえず右に曲がり“ゆりかもめ”の“市場前駅”とあるが、(現実には影も形もない将来の計画が実現されると駅前になるらしい)90度左にカーブした。
 ここの右側には東京ガスが一般に開放していた“ガス館”があったが、場所を移動したのか見えない。その先には“レインボーブリッジ”が間近に見える。高速道路、一般道の歩道があり徒歩では台場から対岸の“港区海岸”まで行けるのだが自転車での通行は禁止されていているので、港区海岸からならわずか1.4kmなのだが、大回りしてこのようなコースを取らなければ豊洲や台場へのサイクリングは出来ない。
 台場から対岸の海岸まで徒歩で何度か、正月の北風の吹きつける北側歩道と南側歩道を歩いてみたがほんの数人しか歩いているというよりもジョギングを楽しむ人以外は会うことがなかった。そんな歩道でも通行人専用で危険という理由で許可しないというのも自転車に乗る1人としては残念というより先に腹立たしい。そこで提案だがどちらか一方を通行人用でもう一方を自転車専用と使い分けてでも利用できないものか?
 東京湾内のお台場地区は、大規模な商業施設やテレビ局、超高層マンションなどが建ち並ぶ、東京の新名所となっています。台場とは、今から150年前の江戸時代末期、外国の艦隊から江戸を守るために人工的に築かれた海上砲台、つまり軍事施設です。アメリカ合衆国大統領の親書を受け取った幕府に対して、ペリーは翌年春の再来航と親書への回答受領を約して退去して行く。
 品川猟師町(現品川区)から深川洲崎(現江東区)にかけて、12基(海岸砲台含む)の台場を築くことが決定された。台場設計の基本理念として「間隔連堡(かんかくれんほ)」という考え方を導入しました。これは複数の台場を一定の間隔をもって築き、それぞれに役割を分担させる方式です。つまり、各台場に備え付けられた大砲の火線が死角なく交わるようにすることで、攻撃力と防御力を高めようとするものです。
 台場築造に必要とされた資材は、埋め立て用の土砂、基礎固めや石垣に用いる石材、土台を組むための木材を中心として、縄や釘、俵など多岐におよんでいます。この内、土砂は品川御殿山近くの畑地や高輪泉岳寺の岡土など、建設現場付近から調達されています。石材は大部分が相模と伊豆から切り出され、海路現場へと輸送されました。
 台場が、当初計画のいわば半分の規模となってしまった背景には、幕府財政の問題が大きく関わっていました。計画の半分といっても、最終的に台場築造には75万両あまりの巨額の費用が投入されています。さらに、この頃幕府には京都御所きょうとごしょ造営の計画があり、そちらに予算を振り向けたいという思惑も、台場築造中止の要因となっていたともいわれる。
 第三台場は一辺およそ172mの正方形(正確には波止場部分に約35mの辺を持つ五角形)をなしています。ちなみにその広さは、甲子園球場のグラウンドの約2倍。江戸湾内の澪みお筋(水深の深い水路)や隠れ洲す(水深の浅い場所)の位置を計算に入れて決められていました。大きな船は喫水きっすいが深いため、澪筋を通ってしか江戸湾の奥に進むことができません。
 牡蛎かきの養殖場として使われた第七台場、第二次世界大戦時に、帝都防衛のために高射砲が設置された第三台場など、その利用法も実にさまざまでした。第六台場は立ち入りが禁止されていて、草木の生い茂る緑の小島として、東京湾内の野鳥のオアシスとなっています。

 そして江東区、有明北橋を渡り有明コロシアム脇を通り、
有明テニスの森公園・有明コロシアム=芝生と木立の緑豊かなテニスコート中心の公園で、48面のテニスコート、芝生広場がある。国際試合、コンサートなどが行われる1万人の観客席があるセンターコート。
有明スポーツセンター・クリーンセンター
 水の科学館=水と水道のすべてを見つめる水のミュージアムで、日常生活では気づきにくい水の姿や性質、産業への利用、水道事業の最新情報などわかりやすく、楽しく理解でる。
 虹の下水道館
レインボータウン(臨海副都心)の下水を処理する有明水再生センターの見学説明室として開設。
ワンザ有明ベイモール=ビジネスとファッションの「複合集積拠点」として、1996年4月にオープンした。
東京ビッグサイト=晴海・東京国際見本市会場の後継施設として、作られた施設総面積230,000uにおよぶ広大なスケールに、展示ホールと会議施設をもつ総合コンベンション施設。
パナソニックセンター従来の博物館は化石標本を見て回るだけのものですが、ここダイノソアファクタリーでは、恐竜の世界をよみがえらせる研究の過程を発掘現場から一貫したストーリーで見ることができます。
パルティーレ・東京ベイ=オシャレな入り口!ドレスやフォーマルな服装の人が多くて、ココはオシャレな結婚式場です。敷地内にはヨーロッパの街並みを再現した建物が並びレストランやカフェ、丘にはチャペルがある。
癌研有明病院=戦火と戦後の混乱を乗り越え発展し続けて来た大塚の地を離れ、平成17年(2005年)春に、研究所、病院および附属諸施設の全てを臨海副都心に移転。
有明パークビル和洋中、エスニック、シーフード等バラエティに富んだ味覚あふれる店が集合。
有明ワシントンホテル地上70mの絶景を独占するスカイチャペル。
 湾岸線の有明インター工事の真最中の一般道を曲がりくねって“辰巳運河に架かる“新辰巳橋”を渡り湾岸線の辰巳インターの下を通り、

辰巳の森公園

種 目 貸出用具(1人1式)
グランウドゴルフ
ディスクゴルフ
パターゴルフ
シャッフルボード
フリーテニス

ぺタンク
マレットゴルフ
スティック1 ボール1
フライングディスク1
パター1 ボール1
キュー1 ディスク4
ラケット1 ボール1

ボール6 ピュット1 メジャー
(各1時間以内・150円)
少年広場
バーべキュー広場
ドッグラン
ラグビー練習場
遊具施設
 

 左には辰巳避難広場が有りガラス張りの大きな室内施設(辰巳国際室内水泳場)が見えた。そして京葉線が運河の広々した中にたくさん橋脚が建ち並んだ鉄橋が潮見に向かっていた。道沿いには松ノ木が並んで松葉が散らばっていた。夢の島の交差点を左に曲がると、基点だか終点だか知らないが明治通りの表示板が目に入ってきた。左には野球場、体育館、サッカー場が並び、右には陸上競技場、夢の島公園、体育館、第五福竜丸展示館、江東清掃工場そしてヨットやモーターボートの係留場が並んで夢の島大橋を渡ると、ここは新砂で貨物ヤードや流通ターミナルや地下鉄の車庫や工場が並んでいて住宅は目に入らない。砂町北運河の向こうには砂町下水処理場と高い煙突も見える。そして地下鉄東西線、日曹橋の右には、新しく開通した橋がある。左に行けば隅田川に架かる永代橋へ行ける。

弾正橋
 大正時代城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後明治通の道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。
 この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い、秋山橋も撤去されました。
 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架っていた橋の名前でしたが、大正13年からの震災復興事業のため境川が埋立てら、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。
 なお、現代の南砂付近一帯は江戸時代から、明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。
 この橋の下を流れる仙台堀川は昭和53年から埋立てに伴い、同57年に親水公園となり、地域の人々に親しまれてきました。平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。
                                                             (平成8年9月 江東区)
小名木川
 天正18年(l590)徳川家康の江戸入城に伴い、多数の住民が流入し、米・塩などの生活必需品をはじめ、多くの物資が諸国から江戸へ送られるようになりました。そこでその物資の輸送路として水路を開いたのが、小名木川の始まりといわれている。
 小名木川は江戸が大都市になるにつれ、消費物資搬送集散の重要河川となった。そのため、寛永6年(1629)に川幅を拡げ、また、船番所を隅田川との合流点付近に設け(後に旧中川との合流点に移転)航行する船舶を監視した。
 明治時代には、小名木川の水運を利用して諸工業が発展しましたが、近年は陸上運輸が発達し、運輸機能が次第に低下した。

小名木川貨物駅
 通称「越中島貨物線」の途中にある当駅は1929年の開業以来、近くを流れる小名木川等の水運と連携した「水陸の物流の結節点」として発展し、周囲には各運輸会社の基地等が多数存在してきた。
 しかし貨物輸送の構造変化等により当駅の貨物取扱量は減少を続けたため、JR貨物のリストラ策の一環として、2000年3月10日限りで当駅の貨物営業は終了、更に2000年12月1日限りで当駅は廃止され、跡地はJR貨物やパートナー企業等により再開発される事となった。当駅はJR移行後、総武本線で唯一コンテナ貨物を扱っていた。

 そのまま真直ぐに南砂に向かえば 葛西橋通り、仙台堀川川に架かる弾正橋そして左に城東警察署旧貨物線の小名木川駅跡の再開発で今建設重機が大きな音を立てて動き回っている、そして小名木川に架かる進開橋を渡ると大島で新大橋通りで、この下には都営地下鉄新宿線が通り、右角には五百羅漢寺がある。
 ここから高速7号線の橋脚も見え、7号線は竪川の上の作られていて川は被い被されている。高速を通り抜けると京葉道路で直ぐJRの総武線亀戸駅があり、日曜日には駅前から蔵前橋通りまで歩行者天国として車道が解放されているが人通りは年々少なくなっている。

亀戸駅
駅名 開業年月日 所在地 乗降客数 路線
かめいど
JR 明治37年(1904)3月29日
東武明治37年(1904)4月5日
江東区亀戸5丁目
JR 約11万3千人
東武約3万3千人
JR 総武本線
東武亀戸線
 亀戸駅は、明治37年に追加開業した駅。なんと、総武鉄道の駅ができた1週間後には東武鉄道
が乗り入れ、現在のスタイルが完成している。JRのホームは築堤上にあり、島式1面2線構造。東
武のホームはJRホーム北側に位置し、地上頭端式1面2線構造。JRの改札は錦糸町寄りの北口
と、平井寄りの東口の2カ所で、東武の改札は1カ所。亀戸は下町の天神様と称される亀戸天神の
門前町でもあり、亀戸大根の発祥地でもある。現在亀戸で亀戸大根を栽培している農家はない。葛
飾区で3軒栽培しているのみ。

HANEKAME
  JR亀戸駅前にある亀戸駅前広場公園に羽のついた亀の噴水が人々の目を楽しませ、池の真中にある噴水は親亀・子亀・孫亀がそれぞれ背中に重なった格好で、高さ3mあり、一番上の孫亀の背中から水が噴出しています。羽がついているのは、「亀戸地区が未来にむかってはばたくように」との願いがこめられている。

亀戸銭座跡
 江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636)に始まったため、幕末までに造られた銅銭はすべて寛永通宝と呼ばれ、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。
 寛文3年(1663)から天和3年(1683)まで、亀戸2丁目の都市基盤整備公団団地のある付近で寛永通宝が造られ「亀戸銭座」と称した。

亀戸香取神社
 創立は、中臣鎌足が東国へきたとき、この亀島に船をよせて太刀をひとふりおさめて旅の安泰を祈ったことが始まりであると伝えられ、鎮祭は、天智天皇の4年(665)と伝えられる区内で最も古い神社です。
 また、平将門の乱のとき、俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈り、祈願成就の後、弓矢を奉納し、以後武運長久を祈ることが多くなったといわれます。この古事に因む祭「勝矢祭」が、毎年5月5日に行われている。境内には、「亀戸大根の碑」や「亀ヶ井」という井戸がある。普通の大根(青首大根)より小ぶりで、にんじんを少し大きくしたぐらいの大根で、江戸末期の文久年間(1861〜1864)に栽培が始まり香取神社周辺が栽培の中心地となって、当時はほかの大根がまったく無いじだいでもあり、根も葉もともに浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子に大変な人気だったということです。
 昔、この地は「亀の島」と呼ばれる海上の島でした。早くから住民がいたようで、石器時代、古墳時代の遺跡があるといわれているほどです。やがてこの島に「亀村」と呼ばれる村ができ、村にあった「亀ヶ井」という湧水が有名になり、この集落が「亀井戸村」になり、江戸時代に「井」がなくなり「亀戸村」。

 北十間川の福神橋を渡ると墨田区で、左に“花王”東京工場がある。すみだ事業場は、化粧品工場、研究開発施設、消費者相談センターなど1万3千坪の敷地に約1800名の社員が働いていて、なかでも事業場内にある東京工場は1923年(大正12年)より操業しており、花王の中で最も歴史がある工場。見学コースが製造ラインに沿って配置されており、原材料の搬入から商品の搬出までの工程を順序に従って見学することができる。

小村井

 安藤広重の浮世絵にも描かれるほどの名所、当時は「梅屋敷」とも呼ばれ、香取神社の東側に3,300坪の広さをもち、毎年将軍家の御成りがあり、「御成り梅」と言われた梅の木もあったそうですが、明治43年の大洪水により廃園となってしまった。
 平成6年、江戸の名所「小村井梅園」ゆかりの地に「香梅園」が開園、以来毎年2月中旬に「梅祭り」が開催されるようになった。規模が小さいながらも85種120本の梅があり、大変珍しい品種など、紅白様々な色合いの梅が艶やかにその美しさを競い合い、鳥居をくぐると真っ先に飛び込んでくるその甘い香りに、琴演奏、抹茶や甘酒の接待(有料)、「すみだ親善大使」の撮影会等が行われている。
 立花2丁目を左横に入ると毎年2月にはうめ祭りで賑やかな“香取神社”があり、香取神社とは、旧下総の国の一宮(もっとも大きい、あるいはもっとも由緒がありその国一番と認められている社)の分社であり、平安時代末期、小村井の地を開拓する為に千葉県香取郡から6軒の人々が移住した後、この地の氏神様として鎮守したものとある。
 鎮座地 * * * 東京都墨田区文花2−5−8
 御祭神 * * * 經津主大神 ( ふつぬしのおおかみ )=伊波比主大神 ( いわいぬしのおおかみ )
 御由諸 * * * 經津主大神は天孫降臨に先だち、天照大神の勅を奉じ武みか槌神(鹿島の神)と共に出雲に降り、大国
          主命と御交渉の結果国土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで国内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武
          勇に優れた神様で国運開発・良業指導・海上守護・縁結び・安産の神様更には、武徳の祖神として廣く仰
          がれております。
 当神社は、永萬元年 (265年) の葛西御厨 (みくりや) の文書、應永5年(1398年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ平安時代の末期当地開拓のために千葉県香取群から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。現在の御社殿は、昭和29年の建築で、本殿は、流れ造り、拝殿は、入母屋流れ造りの総桧造りです。
 東武亀戸線の“小村井駅”の踏切で遮断機下りて来始め一時ストップ。

小村井駅

駅名

開業年月日

所在地

乗降客数

路線

おむらい 昭和3年(1928)4月15日 墨田区文花2丁目 約9000人 東武亀戸線
 東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中間の3駅はすべて昭和3年4月1
5日の開業である。ホームは地上相対式2面2線構造。改札のある1番線から2
番線へは地下道で連絡する。改札口・出口は1カ所、駅は明治通りに面す。

 踏切を過ぎると左にカーブして左に向島警察署があり、左に京島右に八広と進むと出発して丁度一周した事になる。

八広の由来
 新町構成が八つの町であることから「八」の字を導き出し、八が「末広がり」のめでたい文字であるところから「広」の字を添えて「八広」と決めた。密かに戦前日本のスローガン「八紘一宇」を意識しているかどうか?。同40年新住居表示により吾嬬町西5〜9丁目・寺島町8丁目の全部に寺島町6丁目・隅田町4丁目の各ごく一部をあわせた町域を現行の「八広」とした。
 八広中央通リ中ほどには、やくしみち(薬師道道標)八広4丁目12番の「4丁目交番」の横の植込みにある。ツツジの中で見落としやすいが、表に「右やくしみち」とある。現在東墨田にある白髭神社は荒川放水路開鑿で移転してきたものだが、古くは木下川村の木下川薬師の守護神だったと伝える。享保の頃8代将軍吉宗の薬師参詣に当たり、大畠(畑)村の村人に建てさせたとか。左横には「大畠(畑)村講中」と銘がある。
 三輪里稲荷神社(コンニャク稲荷)八広3丁目6番にある。慶長十四年(1609)に出羽湯殿山の大日房長が倉稲魂命(うかのみちまのみこと)を奉じたと伝えるが、当時鎌倉より移住する者があり、社殿を建て大畑村鎮守とした。湯殿山の秘宝として伝えられたコンニャクの護符を初午の日に授けてくれるが、疫病を避ける信仰によるものだ。石狐は大型ながら良い出来で、本所石勝の刻銘がある。


 東京も下町から山の手を走ると結構、山坂道がたくさんあることが分かったが、墨田区・荒川区・北区・豊島区・新宿区・渋谷区・港区・中央区・江東区(明治通りはピンク色の区名)9区にもまたがっていた。これからもこれに懲りずにモット挑戦したい気持ちが湧いてきたので又別のコースを考えている。