曹洞宗法泉寺

1) 千鳥庵鳥奏「散る日から」の句碑(「短冊塚」)

 寺門を入ってすぐの右側、藤棚の下に「短冊塚」の篆額のもとに、三世千鳥庵(川崎重亮・肥前唐津の人)の
次の4句が刻まれています。
   「散日から ちるを盛りや 花の山」
   「思ひきって 飛姿なり ほととぎす」
   「我を山に 捨て名月 入りに鳧」
   「夕煙 雪の野末に 里ありや」
 季語を配した一連の句碑と言えましょう。

2) 尚左堂俊満「故郷の」の歌碑

 本堂前の樹木の下に、表に彼の次の和歌、裏に友人石川雅望(宿屋飯盛)による彼の人となりを紀したものです。
 「故郷のおやの袖にもどるかと おもへば月はふたつなきもの」
尚左堂俊満(1757〜1820)は幕末の浮世絵師で戯作者でした。本姓を窪田(窪とも称した)安兵衛といい、生来、
左利きの故に尚左堂、また左尚堂と号しました。その色彩感覚は繊細であったとされます。また、多芸であったとみえ狂歌では一筋千丈、川柳では塩辛房、戯作では黄山堂、あるいは南陀伽紫蘭と称しました。窪俊満・石川雅
望ともに、台東区蔵前3丁目の正覚寺(榧寺)に、隣り合って葬られています。

3) 中山胡民の墓 

 中山家は寺島村の名主をつとめた家で、胡民は通称を祐吉という江戸末期の著名な蒔絵師です。大変緻密な
蒔絵を作ったことで知られ、古い蒔絵もよく研究し、巧みに応用した作品もあります。晩年、法橋(僧侶の叙階)に叙せられ、泉々と号しました。茶道・俳句にも優れていました。明治6年、齢63歳で没しました。胡民の墓は自然石
(高さ78cm)に「泉々胡民墓」とあり、台石に「名花山」と刻まれています。

4) 地蔵諸像等

イ、「寛文2年」銘 地蔵像、<区登録文化財>

 本堂横の、墓城入り口近くに起立するものです。錫丈こそ失われていますが、ゆったりした規格正しい舟型光背を持った眉目秀麗な地蔵尊と言えましょう。さすがに江戸初期(1662年)の雰囲気を十分にかもしだしています。
 とくに、光背部に回向文を有する点では、この一点のみではないでしょうか。「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」は法華経化城喩品の一節で、自他共に及ぼす無我の功徳をもって彼岸に達しようとする信仰心を表しています。

ロ、「寛文6年」銘 庚申地蔵像

 新墓城に安置されといる(他所からの移転か)もので、顔面に損傷はあるものの、高さ91cmの愛くるしさのただよう地蔵像です。「奉造立地蔵尊為ニ世安楽也 庚申講中」「寛文六丙午天(1666)8月12日」として居ます。

ハ、「延宝8年」銘 庚申阿弥陀坐像

 本堂の左側、墓城参道の左側にある笠塔婆型の庚申阿弥陀坐像です。今では宝珠・笠石は失われていますが坐像の半肉彫はできがよく、保存状態も良好のものです。銘を「延宝八庚申天(1680) 奉供養庚申ニ世安楽11月5日」としています。

ニ、「延宝9年」銘 念仏供養龕

 先の「尚左堂利満の歌碑」の近くにある96cmほどの、見落としがちな龕です。「龕」とは神仏を安置する小さい箱の意ですから、石造りの厨子と考えていいでしょう。区内にあっては、龕の形式をとるのは極めて稀なものです。
 龕正面の銘に「延宝九辛酉歳(1681)6月28日」右側に「念仏供養」と見えますが、龕に祀られているのは神像で、宝冠に鳥居、上部に日月をいただいているところをみると、神仏混交の姿をとどめていると言えましょう。

ホ、「元禄6年」(1693)銘 地蔵坐像

 墓城中央のやや奥まった位置にあり、持ち物等は一切失われていますが、頭部や右手の様子から見て、地蔵尊と判断されます。

へ、「享保2年」(1717)銘 金銅製地蔵像<区登録文化財>

 本堂に向う左手にあって、台座の上に立つ高さ160cm余の金銅製の地蔵像で、「延命地蔵」されるものです。
 台座の銘に「奉造納 東海道武蔵国葛西郡西葛西領寺島村仏頂山法泉禅時」とし、背後と袖の銘に「導師」前
永平吉祥15世大宣伝大和尚、「願主」念蓮社十誉、「施主」浅草御堂前俗名阿部主水としています。
 これだけの大作ですから、多くの資材を必要としたことでしょう。そのための喜捨に応じた人々の名が、全身(法衣)に隈なく刻まれています。十方万霊供養と施主の先祖、及び一家霊魂菩提のために建立されたことが記されています。この像には、作者名(鋳物師宇田川善兵衛)を陰刻し、結衆者の名前と職業(やかん屋、豆腐屋などと分かることは特筆されます)が宇田川姓の鋳物師は中世末期から続く名家で、代々小伝馬町(現日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけています。

5) 保護樹木「しいのき」「たぶのき」

 区内にはかって多くの名木・大木がありました。松浦上屋敷の椎の木、東江寺の「見あひの松」吾嬬神社の「相生の樟」高木神社の「臥龍の松」、秋葉神社の「千葉の松」、常泉寺の「十返り松」などがあげられましたが、これらは都市化の波と度重なる変災とによって、全て失われてしまいました。
 墨田区では、数少なくなった樹木を後世に遺すために、「緑化の推進に関する要綱」(昭和48年制定)に基づいて、その保護に乗り出しました。この法泉寺の「しいのき3本」「たぶのき1本」を含めて、現在(昭和55年3月末)69本が指定を受けています。
 記録によりますと、法泉寺の「しいのき」は(目通り)、1・30m(2本)、1・35m、「たぶのき」は(目通り)2・85mと成っています。