浅草観音と浅草神社
浅草寺
内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)とに分かれており、大扉が開いている昼間は誰でも内陣まで入って自由に参拝できます。お堂では毎朝、夏は午前6時、冬は6時半に一日の行事が始まります。
観音堂内陣内陣中央にはご本尊奉安の御宮殿が安置されている。三方扉になっている。御宮殿としては日本一の大きさ。
浅草寺に伝わる『浅草寺縁起』によりますと、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(現在の駒形橋下流)で漁労中、一体の仏像を投網の中に得た。それを当地の豪族であった土師中知(はじのなかとも)に見せると、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、中知は自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。これが浅草寺の草創の縁起であります。後に檜前浜成、竹成兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社」現在の浅草神社であります。
本尊聖観世音菩薩像は後の、大化元年(645)に勝海上人が「秘仏」と定められ、やがて平安時代の初期、比叡山の3世天台座主、慈覚大師が、この秘仏に模して「お前立」のご本尊(現在のご開帳仏)を謹刻されました。のちに勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」と仰がれるに至った。
浅草寺は、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、戦国時代、江戸時代とそれぞれの時の人々により信奉され、また多くの民衆の祈願霊場ともなっていったのであります。東京では最古の寺で、山号は金龍山、通称浅草観音で親しまれている。
雷門は浅草寺の総門として942年(天慶5)に建てられた。数度の火災による焼失、再建がなされたが、1635年(寛永12)徳川家光によって建てられた門は右に「風神」左に「雷神」を安置してあるところから正しくは「風雷神門」、略して雷門と呼ばれた。1865年(慶応元)の火災に遭って以来、昭和35年再建されるまで、95年間のあいだ雷門は幻の存在だったことになります。現在の雷門は鉄筋コンクリート製で、松下電器の松下幸之助氏の寄進で、昔の姿そのままに再建。「雷門」と書かれた大きな提灯がさがっていますが、江戸時代の終頃に書かれた、資料「名所江戸百景」の雷門には「しん橋」と書かれた提灯が描かれています。現在は本堂の提灯に「しん橋」、宝蔵門の提灯に「小舟町」と書かれている。
宝物殿
当初は仁王を納めていたところから仁王門と言われ、平安時代の中期から建てられていたと伝えられる。1649年(慶安2)に家光によって、本堂などと共に木造では最後の楼門が建築されました。
昭和20年(1945)の空襲で本堂と共に焼失したが、ニューオータニホテルの大谷米太郎氏の寄進で復興されたのは昭和39(1964年)です。
裏側には仁王様の大わらじが門の北面の両側にかけられています。片方だけの大きさが長さ4.5m、巾1.5m、重さ400kgもある大きなものですが、お参りが済んだ帰り道なのでうっかりすると見落とす。このわらじは村岡氏の出身地山形県村山市の「奉賛会」から奉納されたもので、現在のわらじは平成10年に新しく奉納された。
二天門
本来は浅草「東照宮」の随身門であり、俗に「矢大神門」とも呼ばれていた、切妻造り、八脚門様式で元和四年(1618)東照宮を浅草寺境内に勧請した際、建てられた門、重要文化財指定。
浅草寺には日光の東照宮と同時に東照宮が造られ、参拝のためにこの門が建てられたが、寛永19年(1642)浅草東照宮は焼失、この門と石橋(しゃっきょう)だけが残った。明治の神仏分離の際、鎌倉鶴岡八幡宮の「経蔵」にあった「四天王」のうち二天を奉安し「二天門」と称したが、戦時中修理先で焼失、現在の「増長」「持国」の二天像は、上野寛永寺の厳有院(四代将軍家綱)霊廟から拝領したものである。
「迷い子知らせ」石標
江戸時代仁王門前に安政7年(1860)に建てられた物の復元。昭和32年建立。江戸時代には至る所で目にした迷子しらせ石標も、現在では菊屋橋の永見寺と湯島天神境内、そして浅草寺のものだけとなった。この石標は正面に「南無大慈悲観世音菩薩まよひこのしるべ」と書いてある通り、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たした。石標の左側には「たずねる方」と刻まれている。迷子や尋ね人を探す方の人はここに貼り紙をして知らせ、右側の「しらす方」では、心当たりの方が知らせるようになっていた。裏には「安政七年庚申歳三月建、施主新吉原松田屋嘉兵衛」とあるように、安政の大地震による廓の犠牲者の慰霊碑である。
五重塔
五重塔は浅草寺本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶5年(942)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)により建てられたと伝えられるが、長久2年(1041)火災によって倒壊し、寛永12年(1635)再建、寛永19年炎上したという記録が残っている。その後慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公により再建され、寛永寺・増上寺・天王寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれ後の明治44年には国宝指定を受けていたが、惜しくも昭和20年3月14日戦災により焼失。江戸の大地震・関東大震災にも強かった五重塔は人災には弱かった。
昭和48年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りで回廊式"塔院"の上に五重塔を建てる「塔院造り」の方法で再建され、回廊式の塔院には霊牌殿があり百体の聖観音像と信徒の方々が納めた1万2千基の永代供養の位牌が安置されている。
五重塔の最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から奉載した「聖仏舎利」を納め、途中階には信徒奉納の「五輪宝塔」が奉安されている。五重塔は昭和20年戦災による焼失までは観音本堂に向かって右側に位置していたが、昭和五重塔は左側に建造され、地上53.32m(塔のみ48.3m)を誇る高さは京都東寺に次いで高い五重塔です。
江戸時代の五重塔跡
江戸四塔(浅草寺・寛永寺・増上寺・天王寺)と言われていた五重塔跡が浅草寺境内に残っています。
浅草寺の「塔」の創建は平公雅(たいらのきんまさ)によるといわれておりますが、江戸時代の慶安元年(1648)に再建され安藤広重や歌川国芳の浮世絵の画題にも登場する浅草寺五重塔昭和20年の戦災で焼失してしまいました。
10cm程度の石ですが境内に小さくその面影を残しています。(場所:浅草寺東側交番前付近・宝蔵門右)
伝法心院
浅草寺の総本坊で正しくは伝法心院、住職の居住する本坊の称号に用いられている。現在の建物のうち客殿、表玄関、使者の間、大台所の一部は1777年(安永6)の建造、今から200年以上も前のもので、関東大震災や戦災からも免れた貴重な建てものです。そのうち客殿には本尊阿弥陀如来像が安置されている。一時期上野寛永寺の宮様が浅草御殿として住まわれたので玄関上の瓦には菊の紋章が使用されている。この写真は伝法院の玄関で映画のロケに使われることもある。
この庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられる大泉池を中心とする廻遊式庭園で、一般には非公開になっており、賑やかな街の中のやく4000坪の庭園は水辺や多くの樹木が野鳥達の憩いの場所にもなっています。園内には京都表千家の不審庵を模した茶室天佑庵(都重宝)、1387年(至徳4)鋳造の古鐘(都重美)、石棺などもある。この写真は鎮護堂との境から写したものです。
鎮護堂・伝法院の鎮守
通称「お狸さま」と呼ばれ、明治維新に彰義隊と官軍が上野の山で戦ったとき逃げ出した
狸が浅草奥山に住み着き、いたずらをするので困っていた。住職唯我韶舜僧正の夢枕に狸が立って、自分たちを保護して下されば、伝法院を火災から守りましょうと言うので、明治16年(1883)鎮護大使者として祀った。火防・盗難及び商売繁盛を祈る人が多く、とくに落語家や歌舞伎俳優など芸能関係者の信仰が多いことで知られる。現在のお堂は大正2年(1913)の建立3月17日18日の両日に祭礼が行われる。
弁天山
時の鐘
浅草寺宝蔵門手前の右側に小高い丘の上に弁天堂があります。ご本尊は白髪のため、通称「老女弁天」と呼ばれていてご縁日の「巳の日」には法要が営まれ堂内に入ってお参り出来ます。布施弁天(千葉県柏市)、江ノ島弁天(神奈川県藤沢市)とともに関東三弁天とされている。(上野不忍池の弁天とする説もある)
浅草寺境内から除夜の鐘を響かせる弁天山の「時の鐘」は、1692年に5代将軍徳川綱吉の命により作られた。江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市市街地の拡大に伴い日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、9箇所でも時を知らせた。
鐘の大きさは龍頭、鐘身あわせて総高2.12m口径1.16m直径1.52m。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現・千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
この鐘は、時の鐘して、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松雄芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」はあまりにも有名である。
昭和20年(1945)の大空襲で戦火を浴びるが無事に残り、今尚昔のままの姿を見せている。鐘楼は焼け落ちたため昭和25年(1950)に再建された。正午前零時を期して最初に寺僧が捨て鐘を三つつき、続いて「百八会」の会員が1人ずつ交替でついていくのである。上野と浅草の時の鐘は尚、毎日午前六時にも時の鐘は正確に時報を告げる役目を果たす。
松尾芭蕉の句碑
「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲 」 はせを
俳諧紀行文「奥の細道」などを著した松雄芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現・三重県上野市)に生まれた。芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場「泊船堂」に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を聞き「俳聖芭蕉」の異名をとった松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日大阪の旅舎で51年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。奥山庭園にある「三匠句碑」(花の雲 鐘は上野か 浅草か)と共に、奇しくも「花の雲」という季語が読み込まれています。
扇塚
君諱徳太郎田代氏明治11年7月11日浅草に生まれる。6歳、叔父初代寿輔の養子となり、其薫陶を受けて明治24年、13歳、西郷邸に於て英照皇太后午前舞踊「鶴亀」を演ず、明治36年初代寿輔没後大正12年迄花柳家元を継承、明治38年柳櫻会創立、公演98回に及ぶ、大正7年初代寿輔嗣子芳三郎の家元を譲り、大正12年自ら分家家元となり昭和34年11月3日多年舞踊会に盡卒せる功に依り紫綬褒章を授与せらる。昭和38年1月12日没す享年86歳、安隆院達道寿徳居士と講して深川増林寺に葬る。2代徳太郎故人の遺志によりにこの碑を建つ。 蘭洞 野田 朗書
添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚(建碑)唖蝉坊碑・昭和30年11月28日、筆塚・昭和57年3月7日
添田唖蝉坊 本名・平吉 筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生まれる。昭和19年2月8日没。享年73歳。明治20年代に壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「あゝ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正史」ほか。
(らっぱ節、し乃のめ節、紫節等に庶民の胸にたぎる詩を吟遊した唖蝉坊=添田平吉氏を追慕しこの碑を建てる。氏は明治5年相州大磯に生て若くして自由民権の歌を巷に高唱し近代演歌の総師であったが昭和19年2月8日73歳で永眠した)
添田知道 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和55年3月18日没。享年77歳。父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川髄歩」「演歌の明治大正史」などがある。
ニ尊仏
二像のうち、向かって右は観世音菩薩、左は勢至菩薩である。諸経に、このニ菩薩は阿弥陀仏の左右に侍して、その教化を授けると説かれている。
このニ銅像は、蓮台の刻銘によれば、貞享4年(1687)8月江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで、神田錦町東横町(千代田区鍛冶町2丁目)の太田久右衛門(藤原正儀)が鋳造し、高瀬善兵衛が浅草寺へ寄進したものである。善兵衛は上野国館林大久保村(現・栃木県館林市)の人、かって奉公した江戸伊勢町(中央区日本橋本町1丁目)の成井善三郎の米店の番頭となり、後、主家への報恩菩薩のためにこの像を寄進した。観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、もと左手に蓮華を持っていたのであろう。
「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏はニ菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組石は、長さ約12m、幅6.21m高さ1.5mとなっている。
安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。なおこの像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄3年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。
平和地蔵尊 (戦災者供養)
第二次世界大戦その規模においても、その被害についてもまことに甚大であった。ことに昭和20年3月10碑の大空襲には、この附近一帯に横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではないこれ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ、世界平和建設の礎となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため、昭和24年4月2日ここに安置された次第である。
久米平内堂
久米平内石像で世に知られた平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失。現在のお堂は昭和53年10月浅草寺開創1350年記念に浅草観光連盟が建立・寄進したものである。「増訂武江年表」(東洋文庫)に、平内は天和3年(1683)に没したとあるが、その生涯については諸説があって明らかではない。
平内堂には次のような伝承がある。平内は剣の道にすぐれ、多くの人をあやめた。その供養のため、仁王座禅の法を修行し、後年、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこみ、自らの座禅の像を刻ませ、お堂に祀った。臨終にのぞみ犯した罪を償うため、この像を人通りの多い浅草寺境内に埋め多くの人に踏んでもらい、その後、お堂に納めたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願いが叶うとされ、江戸中期以降、特に縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
平内の墓は、海蔵寺(文京区向丘2丁目25番10号)にある。
影向堂
平成6年、浅草寺中興開山慈覚大師生誕千二百年を記念して建立された「影向堂」は内陣に聖観音菩薩像とその左右に十二支生まれ年の守り本尊八体の像が祀られている。
影向とは影が形にしたがい、響きが音に応ずるように仏さまの大きなお力が、それぞれの人の機縁に応じて現れ、利益を与える事であり十二支に応じて八体の影向尊がいる。
十二支生まれのご本尊とご縁日 | |||
13日 14日 15日 17日 18日 23日 25日 28日 |
丑/寅 辰/巳 戌/亥 子 午 卯 未/申 酉 |
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ) 普賢菩薩(ふげんぼさつ) 阿弥陀如来(あみだにょらい) 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ) 聖観音菩薩(せいかんのんぼさつ) 勢至菩薩(せしぼさつ) 文殊菩薩(もんじゅぼさつ) 大日如来(だいにちにょらい) 不動明王(ふどうみょうおう) |
浅草寺六角堂(浅草2丁目3番1号・東京都指定有形文化財・昭和27年11月3日指定・建造物)
六角堂は「浅草寺誌」(文化10年編)に元和4年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最古の遺構である。木造で単層の六角造り瓦葺き形式で、建物中央の直径は1.82mあり、一面の柱真々は0.91mである。
建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部は11段の石積をした1.5m余りの井戸状の穴が掘られている。六角堂という特異な形式であり、都内においては違例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
もとは東方21.8mの場所(現・影向堂=ようごうどうの南基壇上に元位置の明示あり)に建っていたが、平成6年10月境内整備のためここに移された。
(東京都文化財保護条例・昭和51年3月31日改正により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください)
橋本薬師堂(浅草2丁目3番)
当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安2年(1649)3代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年、現在の場所に移転した。
現在の建物は、桁行3間(約5.35m)、梁間3間(約5.10m)、屋根は入母屋造、瓦葦。外部はかなり改変され、前面にあった3間に1間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。
石橋
高さ2.3m、六角小松石造り。火袋に「六地蔵尊」を刻す。両側には幟が立ち、絵馬や玩具が付いており、参拝者は現在でも跡を絶たない石灯籠。六面にはそれぞれ地蔵尊が刻まれている。
「江戸名所図会」によれば、以前は雷神門の外、花川戸町の入り口角にあったとされ、それは奥州街道すじにあたり、馬駕籠の発着場であったとしている。現在の場所に移されたのは1890年。小林兼吉の手による。
建立に関しては、源義朝の浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする久安2年1146年説や、鎌田兵衛の寄立であるかどうかは不確かではあるが相当古いものであるとする戸田茂睡の説など諸説がある。(都旧跡)
淡島堂
元禄年間(1688〜1703)紀伊国(現・和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ座形の神像を安置する。
淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣者が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かっては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
建立の記
この針供養の塔は、大東京和服裁縫教師会が50周年の記念事業として発願し、全国和裁団体連合会のご協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和57年10月17日に建立されました。
省みますれば昭和10年2月8日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古来の伝承に従い浅草寺淡路島様の御宝前で、供養の法令を営ませて頂いてより、次第に同じ志の方々が増え都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇ろにご供養なさる方々が年々多くなりつつありますことは報恩の美風を普く世に伝えるためにも誠に有難く喜びに堪へません。
大東京和服裁縫教師会・針供養之塔保存会会長 鈴木f造
針供養之塔担当責任者
山崎章司
建設趣意書 (昭和38年8月15日)
思い出鶴づる調べも哀し昭和20年3月9日夜B29、150機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をまめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢のごとき夜が去れば、眼にうつるものは一面の焦土にて、一大一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す辜の犠牲者は10000余柱を数う。
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道ることなくされ、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安すらけく鎮まりまさんこと祈り、2度とあやまちを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。以て瞑せられよ。
新奥山
三匠句碑
ながむとて 花にいたし 頸の骨 宗因
花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉
ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角
江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。
◎西山宗因
慶長10年(1605)肥後(現・熊本県)の生まれ。後、大坂に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむ ちて 花にもいたく ・・・・・」からとった句。天和2年(1682)没。
◎松尾芭蕉
天正元年(1644)伊賀(現・三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、「おくのほそ道」は世に知られている。蕉
風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大坂で没。
◎榎本其角
寛文元年(1661)江戸(現・東京)に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、酒脱風などともいわれた。宝永年 (1707)の没。
碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年(1894)春の移築の由来が記されている。
瓜生岩子女史の銅像
岩子は通称。正しくは「岩」という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(現・福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、9歳の時、父を失い、母は「岩」を連れて生家へ帰った。そのため、「岩」は母方の姓瓜生氏を称した。14歳の時、若松(現・福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、1男3女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を忠、明治22年貧民救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
明治30年4月19日、福島で没す。享年69歳。生涯を慈善事業にささげた「岩」の善行を称揚し、明治34年4月、篤志家によって、浅草寺境内に、この銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
写経供養塔 | 石灯籠 | 天水鉢 |
◎昭和33年(1958)観音本堂再建を記念して、観音経百万巻写経運動が発願し、毎年4月から10月の間伝法院で行われる写経と各家庭 で 写経された「般若心経」「観音経」を10月28日写経供養会を行いこの塔に納めます。
◎「胎内くぐりの灯籠」と称して、子供の虫封じにくぐらせる。享保年代に造立。
◎太平洋戦争が激しくなった頃、浅草寺ご本尊をこの天水鉢に奉安し、本堂の地下深くお埋めした、本堂は焼け落ちてしまったが、この天水 鉢のおかげでご本尊は安泰を得た。
算子塚
算学者会田算左衛門の碑。文化14年(1817)71歳没。日常使用していた「そろばん」が門下生によって埋められた。
江戸時代の和算学者、会田安明の功績をたたえた「算子塚」の碑は、文政2年に儒学者の亀田鵬斎や門人によって立てられた。会田安明は、少年時代から和算に興味を持つようになり、土地の学者である岡崎安之について学んでいた。日本古来の和算は、江戸時代になると研究が盛んになり、23歳で江戸に渡った安明も、幕府の役人をしながら算学の研究に励んでいた。多くの学者達が、独自の円周率の計算方法などをあみだしていくなか、安明は算法に手を加えるなどして、難解だった算出法の簡易化をはかった。
「天元演段」などの名著も残している。
映画弁士塚
無声映画時代の往年の名弁士たちを記念して昭和33年建立。碑名は鳩山一郎書。
明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生、幾多の名人天才相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の進展に光彩を添えたが、昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った。茲に往年の名弁士の名を連ねこれを記念する。
建設者 大蔵 貢
曾我廼家五九郎顕彰碑・永世の壁 (建設委員長・上原長七=石彫・山崎義一)
◎円形の上部には五九郎の好きだった「群盲撫象」の文字と「ノンキな父さん」の像を描く。昭和38年建立。題字は大野伴睦筆。
あなたは小さな身体に大きな望みをいだいた。自由民権を・で迫害を受け属せずそのために劇界に身を投じた。ご苦労様といわれ、その言 葉を五九郎の芸名とした。山海の珍味をならべ、、みづからは土くさい芋と根菜をこのみ玉殿と美女を愛しながら舞台では庶民の喜びのた め泥まみれとなって汗を流した。この正義・矛盾が涙と笑いのあなたの人生喜劇の土壌と気質である。 金子洋文
◎世界平和を祈願して昭和40年建立。碑名は郭沫若氏から寄せられた文字。
1964年秋、日中文化交流協会の幹旋中国対外文仭之邀請、日本最初の民族芝能代表団訪中。両国文化交流の友好的は橋渡しを為 す。ここに記念し中国当代一、詩豪にして指導者郭沫若先生の題字を彫む。 団長 小生梦坊
一葉観音像(石造) | 高橋石斎の碑 | 滝沢世古の碑 | 福地桜痴居士紀功の碑 |
文政9年(1826)花隠道人司直が上屋田寉子女の貞節を賞して建碑。
尾張藩の剣道指南役で書もよくし、明治5年没。遺族の願いにより建立。熊谷武五郎氏の撰文。
伊予国出身。書家として名高く、天保5年(1834)没。弘化2年(1845)門人これを建つ。
文久2年(1862)幕府の使節に従い英仏二国に赴き、明治になって再度渡欧、東京日々新聞社長、小説や演劇の功績顕著。明治39年没。 題字は山県有朋の筆。
石井漠「山に登る」記念碑 (昭和38年4月8日)
日本の創作舞踊の創始者石井漠、明治19年秋田に生まれ昭和7年1月7日に昇天するまで、近代バレエの創造、浅草オペラの旗揚げ、300数曲の創作舞踊など、芸術活動は誠に偉大でありました。
舞踊生活50年の山坂道を失明にあえぎながら登りつめた不滅の魂を記念するために、実妹栄子と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻み石井漠を愛した多くの人々や八重子未亡人の哀悼の念を永久に伝えようとするものです。
題字 谷崎潤一郎 設計 谷口吉郎
彫刻 舟越 保武 施工 清水建設
戸田茂睡墓 (都旧跡指定・大正8年10月)
江戸時代の歌人。はじめ戸田茂睡と称し、のち渡辺氏に改姓した。名は恭光、通称は八兵衛、梨本庵または寒露軒と号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第6子として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。伯父戸田藤右衛門に養われ、のち木戸忠国に使えて300石を給されていた。延宝年間の末辞任し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を編集し和歌の制の乱れを正し、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で歿した。「紫の1本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などの著書がある。なお、
塵の世と 思う心の 積もりては 身の隠れかの 山となりける
とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。(所在地・浅草2丁目7番31号・浅草寺奥山苑内)
一葉観音像(石造)
文政9年(1826)花隠道人司直が上屋田寉子女の貞節を賞して建碑。
高橋石斎の碑
尾張藩の剣道指南役で書もよくし、明治5年没。遺族の願いにより建立。熊谷武五郎氏の撰文。
滝沢世古の碑
伊予国出身。書家として名高く、天保5年(1834)没。弘化2年(1845)門人これを建つ。
福地桜痴居士紀功の碑
文久2年(1862)幕府の使節に従い英仏二国に赴き、明治になって再度渡欧、東京日々新聞社長、小説や演劇の功績顕著。明治39年没。題字は山県有朋の筆。
本堂裏築山周辺
九代目市川団十郎
大正8年江戸歌舞伎ゆかりの地、浅草の浅草寺境内に’劇聖’と謳われた明治の名優九代目市川団十郎の歌舞伎18番「暫」の銅像が作られました。この銅像は近代彫刻の先駆者新海竹次郎氏の傑作であり歌舞伎の象檄として全国の人から親しまれておりましたところが第2次世界大戦中の昭和19年11月30日金属類回収のため、この「暫」の銅像も供出の命を受け40年余を経てまいりました。
この度12代市川団十郎襲名を機に復元の機運が高まり浅草寺のご理解のもと、多くの方々のご尽力を賜り、ここに「暫」の銅像が再現されました。11代目ならびに12代市川団十郎父子、地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります。
こののちも歌舞伎の隆盛とともに、この「暫」の銅像が歌舞伎の象檄として、日本国民はもとより世界の人々からもおく久しく愛されますことを願ってやみません。
昭和61年11月3日 宇野信夫
九代目市川団十郎 12代市川団十郎
復元建設委員会 浅草観光連盟
松竹株式会社
初代並木五瓶句碑
碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」右手側面に「なにはづの五瓶、東武に狂言を出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁栄を仰ぐ、つづくらん130里雪の人普子堂大虎」、左手側面に「寛政8年丙たつ2月10日建之 庭柏子書、印」裏面に「篠山金二迂造」と刻んである。
「なにはづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言作者として活躍した。生存年代は延享4年(1747)から文化5年(1808)まで。はじめ五八、のち吾八・呉八、呉兵衛と改め、ついで五瓶という。寛政6年(1794)江戸へ出て、非凡な才能をみせ、初代桜田治助とともに、江戸の二大作者といわれた。時代物・世話物に優れた作品を遺し、4代市川団蔵、4代松本幸四郎らによって演じられた。作品には、「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある。
山東京伝机塚の碑
山東京伝(1761〜1816)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾政演画号で浮世絵もよくした人物。
この碑は、京伝の弟京山が文化14年(1817)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)くじけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり」の歌が記されている。また裏面には、京伝と親父のあった戯作者太田南畝の撰による京伝の略歴を刻む。
京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成2年に台東区有形文化財として搭載。
大谷米太郎翁壽像記
二運歸監嚴ン壯社こと伽荘カルシ慈さ外ヲ輝生立大リノ仰二二創ニナ進信倶縣ヲ夙ト寄ノト山所ス代ノ庶龍富鋼ナ總門衆金秊製ヲ徒藏シク四谷大信宝刀永十大ノ寺二盡徳治京日草供二功明上今浅ト興ノハテ々シ人復其翁シ隆依夫ノス
宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年造立。「功徳大宝海」は清水谷恭順貫首の筆。
昭和42年10月1日
消防殉難者表彰碑
浅草観音の本堂裏にあるこの碑は、宮内省から200円の下賜金をもらった警視庁消防職員が大正元年1916年に建立したものである。碑の裏には幕末の町火消しや警視庁消防隊員など、計120人の殉職した消防関係者の名が連なり、その功績が顕彰されている。
また、毎年5月25日に「弥生祭」といって江戸消防記念会の揃いの半纏に纏を振って殉職者の慰霊祭が行われる。
なお、表彰碑の傍らにある2本の石碑は、1961年に建立された江戸消防記念会の碑である。
浅草神社
推古天皇36年(628)に隅田川浅草観音の像(浅草寺の本尊)を得たと伝えられる檜前(ひのくま)の浜成・武成兄弟と、その像を安置して浅草寺を創建したと伝えられる土師中知の三柱の神を祀る神社であるから三社様と通称されている。鎌倉時代末期には祭礼が行われたという記録がある。
慶安2年(1649)12月に完成した現在の社殿は、徳川家光が再建したもの。建築様式は本殿と幣殿と拝殿とは分離し、その間に渡り廊下(「石の間」〔幣殿・相の間ともいう〕を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高い)がある点が、普通の権現造と異なっている。朱漆仕上げで、本殿と幣殿内法長押以上は極彩色である。国の重要文化財の指定を受け、昭和38年6月、修理が終了した。
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成・武成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、明治6年浅草神社と改称した
毎年5月17・18両日の大祭は、江戸時代から三社祭と呼ばれ、特に第三日曜日には、本社神輿の宮出し・宮入があり、氏子町内の100基余りの神輿も集まり、拝殿では柏板舞((びんざさらまい)という神事舞も行われ、非常に雑踏する。
神木『槐』の木の由来
槐(えんじゅ)は中国原産のマメ科の落葉喬木で、葉は藤に似て、夏、黄白色の花をつけ、高さ10mに及ぶ。古来中国では宮廷に3本植え三公のつく位置を示したといわれる通り、高貴の木として珍重された樹木である。
浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩は推古天皇36年(628)3月18日、隅田川で漁をしていた桧前浜成・桧前竹成の2兄弟によって網得され川辺の槐の木の切り株に安置されたが、その主、土師中知の教導により、三人共々深く観世音に帰依し、草堂を結び自邸を寺にかえたのが浅草寺の始まりと伝えられている。その後この3人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神として祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、槐は浅草寺にとっても当社にとっても非常に因縁の深い木である。
その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶えることがない。まことに不思議な縁を感じさせる木である。
江戸・東京の農業檜前の馬牧
大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
東京には「檜前の馬牧」「浮島の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である桧前浜成・桧前竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草附近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮島の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペリー来航で「鎖国令」が解けたことなどから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の木住町、小島町、森下町、馬道と浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
被官稲荷社
安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
社殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5m、奥行約1.4mと小さいが、覆屋(おおいや)を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政2年9月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
粧太夫碑 (蕋雲=ずいうん女史書の柿本人麻呂歌碑)
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島かくれゆく 船をしぞ思う
有名な万葉集歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。蕋雲は文化年間(1804〜1817)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧(よそおい)太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を贈られたほどに人物であった。
この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)8月人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現・浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷神社のかたわらに移され昭和29年11月、現在地に移された。
川口松太郎句碑
明治32年10月1日浅草今戸に生まれる。昭和10年第1回直木賞受賞の「鶴八鶴次郎」を初めとして小説脚本に名作多く文壇劇壇に多大な足跡をしるす。
特に新派俳優花柳章太郎、水谷八重子等によって演じられた情緒豊かな諸作品は観客を魅了す。這般の功績により昭和38年菊池寛賞受賞、昭和40年芸術院会員、更に昭和44年「しぐれ茶屋おりく」の1篇により吉川英治文学賞受賞、昭和48年文化功労者に叙せられる。
最晩年渾身の筆で連載小説「一休さんの門」を脱稿後昭和60年6月9日永眠す。行年85才、三回忌に因み故人の終世の師久保田万太郎の傍らに同じく句碑を建てて逝者を偲ぶ。
生きると いうこと むずかしき 夜寒かな
昭和62年6月9日
松竹株式会社 劇団新派 明治座 文芸春秋社 講談社 読売新聞社 浅草観光連盟
友情はいつも宝物
1976年に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」ちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず、健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。 平成17年8月6日建立
河竹黙阿弥顕彰碑
江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作者である。文化13年2月江戸日本橋2丁目4代越前屋勘兵衛の長男として生まれ幼名を吉村芳三郎といった。
若い頃は遊楽生活を送ったが、20歳で狂言作者5世鶴屋南北に師事、はじめ2世河竹新七の名を継いだ。天保14年江戸三座が浅草猿若町に移転し、終わると間もなく黙阿称も芝からこの浅草の正智院の地内に居を移し、4世市川に多くの新作世話物を書いた。明治維新後は9世市川団十郎、5世尾上菊五郎・初代市川左団次のために世話物、時代物のほか舞踊劇などを執筆した。明治14年古河黙阿弥と改名し、その後も劇作を続けた。作者生活50年著作350余編、江戸歌舞伎後年期の第一人者の地位にあり、特に、世話物を得意とした。音楽的如来や味わいは黙阿弥として知られる。
代表作には、「青砥稿花虹彩絵」(白波五人男)のほか「三人吉三廊初買」(三人吉三)「天衣紛上野初花(河内山)」などがある。(明治36年1月没、78才、昭和43年10月 東京百年を記念して建立する。
仲見世
仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいましたが、それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688〜1735)の頃といわれる。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展した。
明治維新の政変により、寺社の所領が政府に没収され、浅草寺の境内も東京府の管轄となりましたが、政府は新しく東京に5公園を作り、公園法を制定して以前からの一切の特権が仲見世から取り上げられました。
参道の敷石は文政年間(1820ころ)信者からの寄進によって敷かれたものだ。最初に敷かれたものは全部で5543枚、91p×31.5pの石板の脇面には寄進者の名前が彫られているとか。
明治18年5月(1885)東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、泣き泣き退店した後、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が同年12月に完成、近代仲見世が誕生した。
今の仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、長さは約250m、美しい統一電飾看板と四季折々の装飾が石畳に映え、雷門をくぐった海外からの客などは、みごとな日本的情緒に思わず「ワンダフル」を連発。
早朝の仲見世を歩くとシャッター画を見ることが出来る。平成元年両側合わせて89軒の店のシャッターに、浅草の四季の風物詩「浅草絵巻」をている。