隅田川七福神



 隅田川七福神は、向島百花園を開いた佐原鞠塢の所蔵する陶製の福禄寿に目をつけた、太田南畝や加藤千蔭といった文人墨客たちが、すでに行われていた谷中の七福神をまねて思いついたものでした。

 多聞寺の毘沙門天、長命寺の弁財天、弘福寺の布袋尊、三囲神社の恵比寿と大国天、そして白く長い鬚をたくわえる寿老人のイメージから白鬚神社を寿老人にみたてて七福神をそろえ、江戸時代後期・文化年間(1804〜1817)に始まりました。向島の風光明媚な土地柄から、その人気は谷中の七福神をしのぐほどとなります。

 明治に入り、一時下火となりましたが、明治31年(1898)に隅田川七福神会が発足。同41年(1908)には、当時向島に住んでいた榎本武揚などが各所に七福神の石碑を建立したことから人気も復活し、都内随一の七福神めぐりとして現在に受け継がれています。


■茅葺き屋根の山門が目印の多聞寺

 区内最古の建造物として、区の文化財に登録されている茅葺き屋根の山門が目印の
多聞寺には、弘法大師作の毘沙門天像がまつられています。

 
またここには、狸塚といたずら狸の伝説が伝わっています。昔、境内を荒らす狸がいて、困り果てた住職が本尊の毘沙門天にお願いしたところ、毘沙門天に仕える善尼子童子が退治したというお話で、その狸を供養して建てた塚が狸塚です。これにちなんで、境内にはユーモラスな狸の像があちこちにおかれ、俗に「狸寺」ともいわれています。


■ 白鬚神社の名前から寿老神に

 江戸時代の
白鬚神社は、古木の松におおわれていたことから「白鬚の森」と呼ばれていて、近くには茶屋が並び、隅田川や遠くは富士まで見渡すことができた人気のスポットでした。

 その美しさから、向島八景や隅田川二十四景にも選ばれました。創建は古く天歴5年(951)、区内最古のお社の一つされています。

 本来の祭神が猿田彦命である白鬚神社が寿老人に当てはめられたのは、白鬚という神社の名前と、向島百花園のあった寺島村(現東向島)の鎮守であったことによります。そのため、七福神では
寿老神と表します。


■ 隅田川七福神の母!向島百花園

 文化元年(1804)、江戸の文人であった
佐原鞠塢は、寺島村(現東向島)に3,000坪の土地を購入し移り住みます。そして当時交流のあった著名人たちに、梅の樹を一本ずつ寄贈してくれるよう依頼をしたところ集まった梅がなんと360本!これが向島百花園の始まりです。

 当時の向島百花園は「花屋敷」や、亀戸の梅屋敷に対抗して「新梅屋敷」とも呼ばれ、春夏秋冬の風情を楽しむ行楽地としてにぎわいました。

 園内には、隅田川七福神めぐりを始めるきっかけとなった鞠塢愛蔵の
福禄寿尊像のはもちろん、月岡芳年翁之碑や大窪詩仏画竹碑、河竹新七(黙阿弥)しのぶ塚など、多くの石碑があります。国の名勝・史跡にも指定されているすみだを代表する観光スポットです。


■長命寺の名付け親は徳川家光

 寺号の由来については有名な故事がある。寛永年間(1624〜1644)のこと。墨水沿岸で鷹狩りに行った際、三代将軍・
徳川家光は急な腹痛に襲われ、この寺で休息をとることになります。そして境内にある井戸水で服用したところ、あっという間に回復。喜んだ家光は霊験に感じ、その井戸を長命水と名付け、寺の名前も改めさせたというのが弁財天をまつる長命寺の名前の由来です。

 長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。

 
残念ながら現在この井戸はありませんが、その由来を記した石碑は残されています。そのほかにも、雪景色の美しさをよんだ松尾芭蕉の句碑や、明治の三大新聞の一つである朝野新聞の社長をつとめた成島柳北の碑など、50を越える碑があります。

 芭蕉の句碑は全国で1500余を数えるといわれるが、本堂の前に総高
207cmもある根府川石(安山岩)の表面に「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」という雪見の句碑は、最も優れたものの一つである。句は、芭蕉が『卯辰紀行』中の貞享4年(1687)に、名古屋の本屋風月堂において吟じたものです。松尾芭蕉の門人”祇空”は、この地に庵をつくり、その後、祇空の門人自在庵祇徳は庵室に芭蕉像を安置し芭蕉堂とした。そして、3世自在庵祇徳が芭蕉の風と徳を慕って、安政5(1858)年庵を再興しこの句碑を建立した。

 芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間掘に芭蕉庵を構え、談臨風の俳諧を越えて「さび」、「しおり」の境地を「かるみ」にまで高め、俳諧を不動なものにした。

 元禄7(1694)年旅先の大阪で没したが、其角などの数多くの門弟を輩出している。

橘守部・橘冬照墓

 橘守部は、江戸時代後期の代表的な国学者で、天明元年(1781)に伊勢国(現三重県)に生まれ、晩年を現在の墨田区内で過ごしました。17歳で江戸に出て独学で国学を修め、一時武州幸手(現埼玉県幸手市)に住み、桐生・足利方面の機業家や豪農を門人として抱え、地方庶民文化の発展と国学の普及に大いに貢献しました。
 その後、浅草弁天山に居を定め、生涯に50種以上の著作を残しました。同郷の先学本居宣長が『古事記』重視の立場を取ったのに対し、守部は『日本書紀』を重視して神典解釈に新境地を開き、平田篤胤、伴信友、香川景樹らとともに「天保の四大家」と称されました。

 嘉永元年(1848)に肺を患ってから本所法恩寺橋筋に転居し、翌年5月に同地で没して長命寺に葬られました。 現在、守部の墓とともに長子冬照の墓が隣り合わせで並んでいます。守部の墓は花崗岩製、冬照の墓は玄武岩で、いずれも一石の自然石による素朴なものです。


■ 勝海舟も参禅した弘福寺

 
牛頭山弘福禅寺は、江戸時代に中国から伝わった黄檗宗の禅寺です。比較的新しい宗派なので寺院の数は少なく、区内では唯一です。唐風建築様式で建てられた山門・本堂は威風堂々としたたたずまいをみせ布袋尊の御像が安置され山吹たのも、実はその黄檗禅の性格が深く関わるのである。ここは延宝2年(1674)、石見国出身の鉄牛禅師が建てました。勝海舟が参禅したことでも知られています。

 
本尊は釈迦如来ですが、七福神めぐりの時には布袋尊もまつっていますが、布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は盡きることがなかった。その無欲恬淡(てんたん)として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。このほか、作者である風外和尚の名前から、風邪・咳にご利益があるとされている、咳の爺婆像があります。

 尊媼爺、この石像は風外禅師(名はすい慧薫、寛永年間の人)が、相州真鶴の山中の洞穴に於けて求道していた折、禅師が父母に孝養を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以て自らが刻んだ父母の像です。

 禅師はこれを洞内に安置し、も父母在すが如く日夜孝養を怠らなかったといわれております。小田原城主當山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されるを憐れみ城内に移し供養してましたが、たまたま同会移封の為、小田原を去るに當り、當寺に預けて祀らしめたものです。

 尚、右よりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、口中に病のある者は爺に、咳を病むものは、婆に祈願し、全快を得た折には、煎り豆と番茶を添えて、その礼に供養するという風習が伝わって居ります。

 
池田冠山の墓碑(墨田区登録史跡)、江戸時代後期の大名で因幡若桜(いんばわかさ)藩主で、儒学者としても地理物理学者としても著名です。明和4年(1767)に生まれ、幼名を鉄之丞、恒次郎、のちに定常と名乗りました。

 天明5年(1785)に家督を継いで藩主となり、従五位下縫殿頭に叙任しました。学問は佐藤一斎について学び、古今和漢の書、地誌仏典にいたるまで多くの書に目を通し、また諸芸にも通じていました。訪問する者の貴賎に関係なく接し、幅広い交流をもちました。

 享和元年(1801)健康を害して藩主の座を退いたのちは、もっぱら著述を楽しみとし、晩年、冠山道人と号しました。佐伯候毛利高標(たかすえ)、二正寺候市橋長昭とならんで文学三候と称されました。

 天保4年(1833)7月9日、67歳で没し、当寺に葬られました。著書には「浅草寺志」、「江戸黄檗禅刹記」、「墨水源流」など数多くあります。

大雄宝殿 一般寺院の本堂にあたります。正面約8間、側面約13間あります。関東大震災後の区画整理の中、昭和8年(1933)に第33代義角を中心に檀家の協力を得て、山門、鐘楼、客殿、庫裏などとともに建てられました。
 一見すると本山である京都宇治の黄檗山万福寺の大雄宝殿に似ています。欅を用いて、二層構造の外陣と本尊などを祀る内陣から構成されています。禅宗様の色彩が大変濃く現れていますが、棟梁和田政吉の独創性と苦心により稀有な建築空間を作り出しています。
 大雄宝殿前にある木製の賽銭箱の裏には建設に関わった様々な職人たちの名が刻まれています。また、建設までのいきさつが刻まれた「弘福寺重建之碑」もあります。

 弘福寺の鐘楼にかかる梵鐘は、高さ117.0cm、口径63.4cmで貞享5年(1688)6月に鋳造されたものです。


■ 三圍(囲)神社の名前の由来はきつね

御祭神  宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)
例祭日  
4月上旬
御由緒  元禄六年のひでりの際、俳人 宝井其角(たからいきかく)が雨乞いの句を詠んだことで世に有名となり、
       江戸市民に広く知られるようになった。

 商売繁盛の神様として、
恵比寿大国天をまつっているのが、鳥居と石碑の多い三囲神社です。特に墨堤沿いの鳥居は錦絵の題材として桜とともによく描かれています。昔は田中稲荷と呼ばれていた三囲神社、その名前の由来は。

 文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧であった
源慶が、巡礼中に村人に尋ねると、傍らの梅の木が弘法大師と関わりのあることを聞き深く感じ入り、梅の木に向かって「春はなほ色まさりなん梅が原宮戸にひらく花の玉垣」の一首を詠みました。

 牛島(現向島)で荒れ果てたほこらを見つけ、源慶は、その荒廃ぶりを悲しみ修復を始めたところ、堂の下を掘ったところ土の中から一個の壺が現れ、中には手に宝珠と稲を持ち、白いきつねに乗った翁の像が出てきました。

 そしてその時、どこからともなく白ぎつねが現れて、翁の像の回りを3度まわって、またどこかに消えて行きました。この故事から「みめぐり」の名前が付いたといわれています。

 三囲神社の別院には、古くから大黒、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。

 江戸時代終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。

 大国神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大国を同じ音の大黒とも書く。頭巾をかぶり、小槌を持ち、大きな袋を背負い、米俵にのる姿は、そのような御神徳を表わしている。

果たしてその夜、源慶の夢枕に弘法大師が現れました。お告げのままお白狐にまたがった老翁の神像が収まっていました。


真言密教で呪いに用いるのが三角の護摩壇であるということです。

 三本足で丸い屋根を支えた小さな建物です。この屋根が何を覆っているのかというと、高さ1m程の手水鉢です。屋根には家紋が入っていました。私のうろ覚えの記憶では「隅立てよつめ結び」の三井家の家紋でした。

 神社のさらに奥には奇妙な面持ちの狛犬が守る、立ち入り禁止の一角が。そこにも小さな祠がありました。ところが、これが驚くばかりの細やかな欄間彫刻で全ての面を飾っているのです。