外環道三郷
最近では八広中央通りにも、幾つもの。マンションが建ち並ぶようになった。通りをのんびり走っているとビル風に煽られて自転車がふらふらとふらつき自動車と触れそうになり新しい都市現象が、この町にも訪れてきた。
吾嬬町から八広に丁目が変わって、はや40年が経つと周辺の町工場もドーナツ現象で創業が怪しげになってきており、これからもマンションだらけの町に変貌することでしょう。
【八広=やひろ】(昭和40年12月1日施行)1丁目〜6丁目
大畑村〜吾嬬村〜吾嬬町〜八広。明治元年東京府所属。同11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により大木村・寺島村・吾嬬村に分かれてそれぞれの大字。大正元年吾嬬村が町制移行。同3年大木村廃村に付き大字大畑を吾嬬町大字大畑に合併。
大正3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村となり残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。
大正7年10月1日東京市周辺郡部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立した。
大正12年寺島村が町制移行。昭和5年吾嬬町大字西5〜9丁目・東6〜7丁目。同7年東京市に編入されて、向島区吾嬬町西5〜9丁目・寺島町8丁目。同22年墨田区に所属。
昭和40年新住居表示により吾嬬町西5〜9丁目・寺島町8丁目の全部に寺島町6丁目・隅田町4丁目の各ごく一部をあわせた町域を現行の「八広」とした。区の小さな博物館運動により、2丁目に江戸小紋博物館、5丁目に古伊万里資料館、6丁目に小林人形資料館ができた。
八広
新町構成が八つの町であることから「八」の字を導き出し、八が「末広がり」のめでたい文字であるところから「広」の字を添えて「八広」と決めた。密かに戦前日本のスローガン「八紘一宇」を意識している。八紘一宇は「八条の光の届くところあまねく一家」という意で「世界平和」のこと。
墨田区
東京新聞が募集した区名案には墨田のほか隅田・隅田川・吾妻・江東などがあったが隅田と墨田に絞られた末、当用漢字にない「隅」の字は「かど・すみっこ・はしっこ」の意味が含まれるので昔から文人に嫌われており、隅田川が墨水・墨江・墨堤などに書き改められてきた経緯を踏まえて「墨」に落ち着いた。「田」は隅田川の田だそうな。当用漢字以外は駄目だという割には隅田小学校だの、隅田中学校だの・・・「あずま区」が最も適当かと思うが、これに適う漢字がなかったので墨田に落ち着いた。
日本がアメリカの植民地・属国となってしまい、同21年9月27日民主化をスローガンのアメリカは「都制・府県制・市制・町村制」を改正して、地方自治体首長を任命制から公選制に切り替えてしまった。
これに慌てた内務官僚は当然反発したが、情けないことにアメリカ人に人倫の道を説かれ、独裁と私利私欲がどれだけ悪行であるか諄々と諭され、漸くにして人の非を知り、涙ながらに感謝して引き下がった。同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。
平成16年現在の町数は26、平成2年区役所は横網から吾妻橋(朝日麦酒吾妻工場跡地の北部)に移った。区役所は新調なったが、文化施設は両国国技館・江戸東京博物館・相撲博物館・花火資料館・東京都慰霊堂・向島百花園・本所防災館・墨田区すみだ郷土文化資料館・東武交通博物館。
ほかに区が進める「小さな博物館運動」がある。軟式野球資料室・セイコー時計資料館・プジョーモトサイクル歴史博物館・小林人形資料館・相撲写真資料館・羽子板資料館・古伊万里資料館・伝統木彫刻資料館(透かし彫り・飾り彫刻)・能面博物館・屏風博物館・金庫と鍵の博物館・建築道具木組資料館・新藤ギャラリー(印刷)・折箱博物館「木具輪」・藍染博物館・乾燥木材工芸資料館(指物)・ブレーキ博物館・NTTドコモ歴史展示スクェア・べっ甲資料館・足袋資料館・桐の博物館・鈴木木工博物館(ケンダマ・コマ)・木造建築資料館・江戸小紋博物館・合金鋳物博物館(ドアノブ・手摺金物)・袋物博物館・木彫資料館・合金鋳物博物館・屏風資料館・ライター博物館・羽子板博物館・硝子の本の博物館・千社札博物館などなど。
はなみずき通りを横切り木根川橋への坂を土手まで上がり左折すると、河川敷の中に”ヒヌマイトトンボ生息地の”アシ原”が京成の鉄橋の下をすぎ、ボートの乗船場まで続いている。何度もここへは来ているが姿かたちは見たことがない。
立て看板には、”貴重なトンボの生息地です中には入らないで下さい”と書いてあるから生存はしているのだろうと思っている。
最近では、水路際に青テントの住人までが生活を始めたり、堂々と植物の栽培やら環境は益々悪化している。
何も知らずにアシは春夏秋冬を繰り返して頑張っているが管理している人間が一番当てに出来ない不甲斐なさ。
気にかけながら、コンクリートで固められた土手も”スーパー土手”の工事で幅も広くそして高く河川敷内は草が生い茂り、内側から見る限り昔の土手に近づいてきたような気がする。
綾瀬川
一寸見にくいのですが、「一級河川綾瀬川起点」と標示されています。埼玉県桶川市小針領家の備前堤に源があります。現在の起点は田んぼの行き止まりの様で、尋ねて行っても感動を得るようなものではない。清水でもコンコンと湧き出て最初の一滴は?と期待していたのですが残念。
古代には荒川の一派流として流路の定まらない、しばしば氾濫を繰り返していた川でした。江戸時代に入って幕府や農民は水路の改修に努めてきた。桶川市、伊奈町、上尾市、蓮田市、岩槻市、大宮市、浦和市、川口市、越谷市、草加市、八潮市、と十市一町、に及ぶ地域の田園を潤してきたが、この上流の各市町村も純農村地帯から宅地開発、工場進出などで都市化が急速に進み、下水道などのインフラストラクチャーの整備が追いつかず、悪水を処理しきれないで川に流すために、悪評高い「汚れ川のワースト1」と長い間言われ続けてきた。
足立区内だけでは解決できないのに、足立区の内匠橋付近が「日本一」ではねえ「世界一」だったかも?一日も早く綺麗な川に戻したいものです。上流の皆さんご協力をお願いします。
綾瀬川は、埼玉県桶川市小針領家、蓮田市高虫、伊奈町小針領家などにその源を発し、東南に向かって流れ、八潮市で毛長堀(毛長川)に合流して東京都足立区に入る、全長約47q(埼玉県内約39q)の河川です。かつては荒川(今の元荒川)の一分流で、当時は現在と異なり、高台を流れる元荒川筋よりも低地を流れる綾瀬川の方が大きかったと考えられています。古くから蛇行が激しく、上流部では川筋がいく筋にも分かれて流れ、流路が定まらなかったので「あやしの川」と呼ばれ、そこから「綾瀬川」という名がついたと考えられます。
綾瀬川の水源は、桶川市小針領家、蓮田市高虫、伊奈町小針領家などの農業排水で、元来の源流であった元荒川からは、慶長年間(1596〜1614)の伊奈備前守忠次による備前堤築造工事の際に切り離されて、独立の河川となっています。当時の備前堤築造の目的は、
「1.荒川の水が綾瀬川に大量に注ぐのを制限する(水害予防)」
「2.1により綾瀬川の水位を下げて新田開発を促進する」
の二つであったと考えられています。その後も大小の改修工事が行われ、その名残である「古綾瀬川」などが残っています。現在も埼玉県川口市の佐藤橋上流の岩槻市側の護岸改修工事が実施されています。
綾瀬川は、建設省が管理する日本の一級河川のうち、BOD値が最も悪い、いわゆる「水質ワースト1位」の地位を1980年以来15年間続けていましたが、1995年、大阪府の大和川の水質が綾瀬川の水質より悪い結果となり、その地位を譲りました。
しかし、安心したのもつかのま、1997年の調査結果ではまたワースト1位に返り咲いてしまいました。
荒川、綾瀬川に架かる四ツ木橋を渡り、左折して斜め左に進むと首都高速の下を走る土手下の通りへ出る。土手沿いに北西へ進み四ツ木3丁目。堀切1丁目7番まで来ると”砂畑排水場”、堀切2丁目には首都高速中央環状線と首都高速6号線のインターチェンジの真下付近に有名な菖蒲園がある。
四ツ木
八百年ほど前、源頼朝が奥州征伐の折、この辺りに差し掛かって時刻を問うたところ家来 が「四つ過ぎなるべし」と答えたということがあり、それで「よつすぎ」というのが地名となったが、事情を知らない人が聞き違えて「よつぎ」というようになって「四ツ木」の字を当てたともいわれている
堀切
「堀切、掘り切り」とは「掘って切り止める」意で、堀の端っこのこと。用水のように流水を目的とせず、水を湛えておく掘川をいう。普通は城濠をのことだ。この堀切もお城のお濠のことらしく、小名に御城地(みじょうち)・向在家(むこうざいけ)・宿(しゅく)・下馬先稲荷などの古称があり、葛西清重の一族の御城蔵人正房(みじょうくらうどまさふさ)の城地があったとされ、それで堀切の名が生まれたとする。しかし城の跡や堀切の遺構などは判明していない。荒川放水路の開鑿で堀切村の一部は切り取られ綾瀬川の堀切橋は消滅した
堀切菖蒲園(区・史跡)
菖蒲園のある堀切は綾瀬川に沿った低湿地で、この附近は染井、向島などとともに昔より特に花菖蒲の栽培に適している所。
この地に、はじめて花菖蒲が伝承したのは、いつの頃か明らかではないが一説には、室町時代の頃堀切の地頭久保寺胤夫という人が、家臣宮田将監に命じて奥州郡山附近の安積沼から種子を持って来て自邸に培養させたのが始めと言われ、また一説としては、寛文・延宝(1661〜1680)の頃、堀切村の小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集し、自庭に植えたのが始めた。
享和年間(1801〜1803)には、花菖蒲の収集家として知られた松平左金吾という人の秘蔵の花菖蒲を小高伊左衛門が譲り受け、さらに万年録三郎の逸品「十二単布」をはじめ、相模、土佐などから10数種類を集め、天保10年の頃には園内には数多くの名花が咲き競うようになった。
現在の菖蒲園は、堀切園が「堀切菖蒲園」と改称したもので、昭和34年5月東京とに買収され、翌年6月1日から東京都立堀切菖蒲園として公開され、その後、昭和50年4月葛飾区に移管され、現在区が管理している。
現在園内には、約7700u、200種、6000株の花菖蒲が植えられており、毎年6月の開花時には、訪れる人の目を楽しませカメラに収める人多数。
花菖蒲について
花菖蒲・アヤメ・カキツバタはいずれもアヤメ科に属し、近縁関係にあります。形態的には、大変区別しにくいものです。一応の見分け方としては、アヤメは葉も茎も細く、濃いみどり色で花びらの付根部分は褐色の「綾の目」模様がるのが特徴で花の形は小さく、小輪咲きとなる。
また、カキツバタは、葉が幅広く、黄色味をおび葉の新は細く、花の付根部分は黄色で花の形は大きくて大輪咲きとなる。ところで、「いずれもアヤメかカキツバタ」などと昔からよく似たものの例えに使われているのに、アヤメという名が花菖蒲やアヤメ・カキツバタなどの総称として使われもしている
種別 | 花の色 | 葉 | 花の特徴と適地 | 開花期 |
アヤメ | 紫まれに白 |
主脈不明瞭・網目模様 |
外側の花柄に黄色い模様がある 乾いた所に育つ |
5月上旬〜中旬 |
カキツバタ | 青紫のほか紫・白・絞など | 主脈網小・網目ナシ | 水中や湿った所に育つ | 5月中旬〜下旬 |
花菖蒲 |
紅紫・紫絞・霞輪など |
主脈太い・網目ナシ |
花の色はいろいろある 湿った所に育つ |
6月上旬〜下旬 |
このほかに、アヤメ科に属する植物には、イチハツ・キショウブ・ニワゼキショウ。
●静観亭(多目的宴会場)
要予約 有料 一室 1000〜1600 夜間500円増
部屋数 8畳×2 10畳×2 12・5畳×1
休館日 1・6月無休 その他の月は、毎週月曜及び年末年始
利用時間 午前9時〜午後9時(午前・午後・夜間)
問合せ先 葛飾区役所区民課 03-3693-6636
☆堀切の謎
なぜだろう堀切。
ラーメン屋さんは多いものの、他のファーストフードが一軒もない。というのは、堀切だけでは?と思うくらいありません。
堀切橋、京成本線の鉄橋、綾瀬水門を過ぎると綾瀬川は荒川と離れて両岸がコンクリートが衝立のように連なり、右側には高速からも見える大きな看板が印象的なミヨシ油脂。マーガリン等々の食品油生産では日本一。石鹸や洗剤などの生活に関するものから環境分野まで、油脂に関するものの大工場です。本社と東京工場が堀切4丁目の一角を占めています。
綾瀬川を挟んで小菅水再生センターがある。
運転開始 | 敷地面積 | 処理能力 | |
昭和52年6月
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131,546m
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250,000m3/日
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広さ | 種目 | |
小菅東スポーツ公園 |
36,000m2 | テニスコート、運動広場、健康遊具、 壁泉浮御堂、噴水池、芝生広場 |
小菅西公園 |
14,000m2 | 花時計、壁泉、芝生広場、トリム遊具、 展望台 |
小菅水再生センターは、東側、西側に施設があり、施設の中にはいろいろな草花や樹木がある。
中でも桜は樹齢が20年以上の大木があり見ごたえがありこのたび、「ゆったり、のんびり」とお花見を楽しみ、東側施設の一部を「お花見広場」として利用できる。
坂を登ると右に小菅神社があり、坂を下ると旧水戸佐倉街道になる。その先に右に排水場と路地を入ると古隅田川の流れと遊歩道がある。これが足立区と葛飾区の区境になっている。
古隅田川
小菅インターチェンジを過ぎると、旧水戸街道の水戸橋を横目で見ながらを横切り、綾瀬川の左側は葛飾区、右側は足立区とお互いに競り込んでいる。しばらく行くと道路は土手の上に上がり左に見える東京拘置所。高い塀の向こうに見える高層ビルの屋上にはヘリコプターが発着できる設備を兼備え、近代化された獄舎。
左折が藤谷橋、直進が一方通行のJR綾瀬駅へ行く道です。車で土手沿いに行くには橋を渡りJR常磐線の鉄橋下を通り、右岸沿いを走らんとならない一方通行。環状7号線までの両岸は何度も何度もかさ上げされ堤防幅は上に行くほど狭く、今度、かさ上げする時は同じ幅にしかでき無いだろう。この道路から川の中は何も見えない。
小菅
室町時代に大胡氏が開発して千葉袋村から独立。古隅田川(こすみだがわ)に面した辺りはスゲ(カヤツリグサ科スゲ属の草本)の生い茂る湿地で、そんな様子から小菅の名は生まれた。日本のスゲは250種ほどもあり丈の低いものが繁茂していたとのだろう。スゲの種類は判っていない。
今一つは「こそげ」説、こそげとは動詞で「削り取る」という意味だ。洪水で土地が削られるような湿地帯をいう。こっちが強いか。
綾瀬川(新綾瀬川)は寛永のころ掘られた運河で通運のため隅田川に短距離で結んだ。江戸時代小菅村の大半は「小菅御囲」で、三代将軍家光が建てた御殿を関東郡代伊奈半十郎忠次が賜って下屋敷(10万坪)としたものであるが、将軍の御鷹狩の際の御膳所・御休息所とされた。しかし犬公方綱吉のとき鷹狩は廃止、御囲は収公され柳沢吉保の料地とされた。吉宗の代になって鷹狩が復活、御囲も伊奈氏に戻された。
昭和38年新住居表示を実施して一部を堀切に移し、翌年8月1日残りの大部分に下千葉町の一部・上千葉町の極一部を
あわせた町域を現行の「小菅1〜3丁目」とし、昭和43年上千葉町町の一部を「4丁目」として新住居表示を完了した。
小菅刑務所
明治2年小菅県の県庁が置かれ、同4年県庁には仮牢も設置された。廃藩置県によりまもなく県庁が廃されると民間に払い下げられ御囲の区画が外された。仮牢は成煉社(煉瓦製造所)となり、明治5年の銀座大火後に出現した煉瓦街は実にここで作られた焼煉瓦で建てられた。
同11年西南戦争の捕虜を収容する小菅監獄所(翌年集治監と改称)が設置されると煉瓦製造所は官営となり囚人たちの懲役作業として製造された。明治36年小菅監獄所に戻り、同38年から煉瓦工場は民間委託され関東大震災で倒壊するまで続いた。
同じ震災で倒れた銀座煉瓦街の瓦礫は、戸越村の排水の利いた整地のために埋め立てられ銀座商店街呼称第一号の戸越銀座となった。
そしてさらに奇異なことは小菅→銀座→戸越が同じ直線上にあることだ。大正11年小菅刑務所と改称した小菅監獄は、敗戦で巣鴨拘置所が米軍に占領されたため拘置所も併設することになり、それが昭和33年まで続いた。
同46年小菅刑務所は廃止となり跡地に巣鴨拘置所が移ってきて現在の東京拘置所となった。
やがて綾瀬新橋を渡り左折して高速道路下の綾瀬川左岸を北進して加平インターチェンジお手前を右折して”足立しょうぶ沼公園”に面したバス通りを左折して環七との交差点の右に”綾瀬警察署”見ながら脇道を行くと、小さな交差点をやり過ごす度に細くなってゆく道路を北進すると、右側に”東京メトロ”千代田線の電車車庫がある。
綾瀬、加平、北加平町では(B29墜落と無名戦士の墓=1945年・昭和20年4月13日)未明、B29爆撃機、352機により東京が爆撃されました。そのとき、B29爆撃機が、北加平町や谷中分解して墜落しました。遺体と機体の発掘終了後、この北加平公園の、現野外彫刻設置場所近辺に、墜落して亡くなった、B29乗務員の無名戦士の墓が建立されました。
この墓地には毎日訪れる人が絶えませんでした。時にはアメリカ軍の兵士がジープで墓参りしたという話です。
しかし、次第に訪れる人も少なくなり、物資不足の時代であったことから植木を持ち去る者、墓碑の御影石を持ち去る者など、墓地は荒れ果て、その後の土地改良事業で墓地は、道路の交差点になり、このモニュメントは、すっかり消え去ってしまいました。尚、B29無名戦士之墓建立銘稗は、現在、足立区郷土博物館に所蔵されている。
神明南で”花畑運河”の雪見橋を渡り、神明2丁目で右折して”葛西用水親水路”、
を左折すると、はや東京の外れ。そして、神明六木遊歩道が始まり、横を流れる川は「垳川(がけかわ)」ちょっと汚い。
水田が広がっていたこの地域一帯において、がけ川は川の南側に広がる水田に水を供給するために貯水池のような役割を果たしていました。主な水源はがけ川のほぼ中央を縦断するように流れる葛西用水で、「えり」と呼ばれる堰を作ってがけ川の両端をせき止め、水を溜めていました。「ための川」や「がけ溜」と呼ばれるのはそのためです。
がけ川沿いには、シイやタブ、クスなどの巨樹が広がっていました。現在も神明・六木遊歩道にその面影を見ることができます。巨樹たちが集まって大きな森を形成し、アマゾンのジャングルのようだったと、当時を知る人は振り返ります。昼間、フクロウを捕まえに出かけたり、大きな青い蝶があちらこちらで見られたそうです。
がけ川には、近所の家によって木の桟橋がいくつもかけられ、各家庭で洗物などが行われていました。ざるの中に米粒を入れてしばらく川底に置くと、魚がたくさん取れたそうです。
現在、わずかに神明六木遊歩道に残された巨樹は、毎年葉っぱをがけ川に落としますが、水生植物や魚などがいなくなった川で落ち葉はヘドロとなり、悪臭を放っています。
緑道のすぐ横まで民家が建っているので、窓などが開いていたら家の中が丸見え。昔からの古い家が多いので、家の周りには、木が生い茂り、緑道にするには、困らなかった?。垳川の水を浄化して平成泉橋のウォーターカーテンおよび公園の池の水に利用されています。ウォーターカーテンには、落水と噴霧の二種類があり、30分ごとに5分程度の割合で放水しています。川の水の浄化にも役立っていますが、みんなの協力がないと綺麗にはなりません。
”大場川”の垳新橋を渡ると、全国で市制を布いている都市で電車の駅のないといわれている”八潮市”(平成17年8月24日・常磐新線が開業=めでたく仲間入り)。
八潮市
東経139度50分32秒、北緯35度49分11秒、東西5.23km、南北7.45km、海抜2.3m以下、面積 18.03ku。 約6000年前(縄文前期)頃には、八潮市の位置する中川低地は奥東京湾と呼ばれる海の底であっ た。2000年前の弥生初期になると、淡水の湖沼の低湿地へと変わり、人々は広大な沖積地に生活の 場を広げていった。 たびたび洪水に襲われた中川低地だが、人々は自然堤防上に集落を作り、水田を切り拓き農耕を行っていた。 また、海を利用してさまざまな物資を内陸に運ぶ水上交通の拠点になっていた。 大化改新(645年)以降、大和朝廷は中央集権的な統制を打ち出し、八條から木曽根にかけて条里制開発が進 められていた。 平安末から鎌倉期にかけて荘園や御厨が設けられ、八潮市域は武蔵国大河土御厨の中の八條に属していた。 大小の河川に囲まれた八潮周辺は、水上交通の拠点となり、大瀬や鶴ヶ曽根には関が置かれ、伊草や八條など の集落も発達した。 慶長年間に八條・葛西用水が開削された。市域は20ヵ村に分かれ、北部は幕府領、南部は旗本領になっていた。 中馬場 村旗本幸田親盈は江戸期の数学者として名を残し、西袋村小沢豊功は西袋村名主や八條領大惣代として村政に 携わった。 明治維新により、市域は武蔵県、小菅県を経て埼玉県の管轄となり、1889年町村制にともない、八條村・潮止村・ 八幡村が誕生した。 市域は江戸に近く、生地の水洗いに使用する水が豊富なところから、明治以降には形付屋や紺屋が多く見られた 。昭和 31年、八條村・潮止村・八幡村の三か村が合併して八潮村となり、昭和39年には町制が施行され八潮町となった。 そして、昭和47年1月15日に市制が施行され、八潮市が誕生した。
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つくばエクスプレスが開通するのに合わせるように、町も首都高速6号線の左側ばかりが開発されていたが、垳川に桜橋が架けられ一気に道路整備叶い八潮駅前まで新道が完成して街造りも本格され、産業道路、高速下の道路(所々3車線)と3本の主要道路が出来た感じ。
この高速下の道路も両側に開発の手が入り、方々に泥の山や埋められ始めた田畑と付近は風が強いと砂塵で眼を開けて歩道を自転車や徒歩ではとても通れない物凄い埃が舞い、挙句に雑草が生えていて幅を狭くし危ないことこの上ない。
それでも我慢して、両側の工場群の中を進むと、歩道に彩の国ロードサポート(この道路はボランティアより清掃美化活動が行われています)団体名:八潮ロータリ・クラブと書いた看板はあるが、とてもじゃないが行き渡っているとは思えない惨憺たる状況だった。
八潮と三郷の市境は、中川で橋の上は片側1車線と歩道、高速も一般道も交通量は激しい。三郷に入ると東京外郭環状線はインターの左側草加方面は1992年開通しているが、右側市川方面は未だに工事中で開通は何年先なのか?
此処のインターは谷和原の工業団地にある得意先の工場へ良く製品を届けに利用したところで、夕方一般道で中川を渡り下りた所で斜めに右に入り、二郷半用水の橋を渡って右折して5つ目の道路を左折して尻切れになった高速の下の取り付け道路でICから常磐道へはいた。帰りも此処で出て2つ目の道路を走って帰ってきたもんだ。
今この付近をウロウロしても橋脚、桁が乗り防護壁も付けられて使用されているものと外から見れば変わりない。しかし、一般道の歩道はあちこちに草が生えており、なかには人の丈ほどもあるものもある。建設途中ということで泥の山や田んぼや畑とビニールハウスが乱立して数年後には綺麗な団地や建売住宅が連なる一大市街地に置き換わっているのが脳裏を掠める。
私が良く利用した場所も高速のこちら側の道路は少しも変わっていないが、向こう側は市街化されている関係で整備が行き渡っている。高速から出てUターンするように右折する彦沢の花町田の交差点などはすっかり変貌していた。
高架下の一般道歩道を金町方面へ行くと最新式の遮音壁と一般道、側道、歩道と限りなく安全性に気を使った県境を走る外郭環状高速道路の開通が待ち遠しい。
しばらくすると、谷口の交差点がったが此処はここから先、金町までの一般道では唯一の立体交差だった。将来この三郷市内の中心地になるのかなと勝手に想像してしまうくらいの出来。
三郷も、この辺はまだまだこれから開発される地域で、武蔵野線が開通している北部とでは雲泥の差があるが、此処からわずか先に”つくばエクスプレス”が開通して、三郷駅も出来た鉄道と高速道路が完全に完成すれば、あっという間に東京のベットタウンになり、一大商業地と住宅地域が混在する街になるのだろう。
古くて田んぼばかりが連なっていた昔は、子供が玉網を持て魚すくいや昆虫取りに夢中だった頃が今の私には浮かんで来るがその内直ぐに忘れ去ってしまうほど、時代の移ろいは速いもの。
今駅前は、日々移り変わり開通前には荒地だったところが綺麗な駅前広場になり、バスターミナルや区画整備されビルや道路が完成しているが、百mも離れると依然荒地と空地のオンパレードだが今のところ仕方ない。
三郷のインターから江戸川に架かる葛飾橋までは、先駆けて一般道が開通しているが、葛飾側は未整備なところがある。それでも完成しているところでは、高速下の道路と進入退出する所以外は高速道の壁面まで高い防音壁が付けてある。中には防音壁が剥き出しになっているところもある。
三郷市
三郷がまだ村だった昭和35年12月10日に選定され、三郷町、そして三郷市に引き継がれている
市章です。3つの「サ」「ト」をカタカナで図案化し「ミサト」を示しています。市民からの公募によるも
のです。
三郷市は、埼玉県の東南端に位置し、都心から最近地点15キロメートル、最遠地点で24q、東西5.6q、南北9.5qキにあり、地域の地形は低平にて殆ど高低なく、北より南に向かってわずかに低くなっている。
地質は関東平野の江戸川及び中川(古利根川)に沿った沖積平野に属し、江戸川対岸の東部は下総台地であるが、当地方の沖積層は、台地を河川が浸食し、奥東京湾を運搬堆積物で埋めながら形成されたもので、上層部は一般に軟弱地盤、深度30m〜50m位まで沖積層が続いている。
豊かな水とあふれる緑に恵まれた三郷市。この市の前身である三郷村が生まれたのは、昭和31年のことでした。町村合併促進法によって、東和村、彦成村、早稲田村の三ヵ村が合併して、三郷村となったのです。「三郷」の名は三ヵ村の「三」と、その昔「二郷半領」に属していたことから「郷」の字を取って、決まったものです。
当時の人口は、わずか1万7000人ほどでしたが、8年後の昭和39年、町制が敷かれ、三郷村も三郷町へ成長しました。
昭和40年には三郷町と対岸の流山町を結ぶ新流山橋が完成して、交通が一層便利になりました。昭和43年には、文化都市・三郷の将来を祝福するように、第一回町民文化祭も開催されました。このころには人口は3万人を突破。三郷は本格的な成長期を迎えたのです。
昭和40年には三郷町と対岸の流山町を結ぶ新流山橋が完成して、交通が一層便利になりました。昭和43年には、文化都市・三郷の将来を祝福するように、第一回町民文化祭も開催されました。このころには人口は3万人を突破。三郷は本格的な成長期を迎えたのです。
昭和48年には、武蔵野線が開通、三郷駅も同時に開業。また、みさと団地の入居も開始され、市は一層のにぎわいをみせるようになりました。そして昭和50年には「三郷市に高校を」という市民の長年の願いが実現、県立三郷高等学校が開校しました(後に県立の三郷北・三郷工業技術高等学校、三郷養護学校が開校)昭和50年から51年にかけては、早稲田公園の市民プールをはじめ、北公民館、勤労青少年ホームなどの施設が次々とオープン。昭和53年には移動浴槽車「さわやか号」の巡回もスタート、快適で豊かな生活を送れる市へと確実に成長を遂げてきました。
いよいよ昭和54年には三郷放水路が完成。さらに翌55年には松戸・三郷有料道路も開通して、悲願の治水対策、交通の便の向上がさらに進みました。また昭和57年は、三郷の市制施行10周年に当たる年。この年には、念願の「10万人目の市民」である赤ちゃんが誕生、三郷は県下14番目の10万都市となったのです。また、10周年記念事業として、三郷市文化会館の建設に着手したのもこの年でした。この文化会館が開館したのは昭和59年。この年の第十七回市民文化祭は、ここで開催されました。さらに、翌60年には、首都高速6号足立・三郷線と常磐自動車道が開通、武蔵野線新三郷駅が開業するなど、三郷は着実に発展を続けていきます。こうした市の歩みを記録に残すため、市史の編さん事業に着手したのもこの年でした。
この後、平成2年には、第二次三郷市総合計画を策定し、市民が快適に幸せに暮らせるまちをつくるため、様々な事業に取り組んでいま
す。そして平成4年、この年には東京外かく環状道路が開通し、さらに交通環境が整備されました。そして、平成7年には鷹野文化センタ
ーも開館。翌8年には、常磐新線三郷中央地区が都市計画決定されま
した。また、三郷インターA地区も高次商業都市を目指して、着々と
整備が進められています。平成9年には、健康福祉会館が建設着工さ
れ、平成10年にオープンしました。さらに、国道298号が県内全
線開通するなど、三郷市はこれからも文化自治都市として、すべての
人が心身ともに健康に生活できるまちを目指し、たゆまぬ努力と前進
を続けます。
三郷市民による活動は、その活発さで知られています。自由で文化的な三郷の気風が、市民を盛り立てているのでしょうか。まず、恒例のイベントとしては、市民まつり、市民文化祭、農業祭、合唱祭、さつき展、市民体育祭、商工まつり、消費生活展、健康フェスティバルなどがあります。市民まつりは、毎年11月に、にぎやかな手作りみこしや市民によるバザーなどが見られ、活気に満ちたお祭りが繰り広げられます。
市民文化祭は、その名のとおり、市民が日ごろから打ち込んでいる演芸が披露されるほか、展示や囲碁・将棋大会などが行われ、1万人以上が集います。こちらも毎年文化の日を中心に文化会館などで開催。当日は、子供たちによる鼓笛パレードなども行われ、文化祭は一層盛り上がります。
文化財といえば、迎摂院(こうしょういん)の観音堂。これは三郷最古の建物で、室町時代に建立されたと推定されており、堂内の肘木(ひじき)は法隆寺金堂と同じ様式です。また、樹齢約550年といわれている安養院(あんよういん)の大銀杏。戸ヶ崎香取神社所蔵の室町時代の鰐口(わにぐち)も貴重です。
仏像類も残されています。鎌倉時代の作と思われるものは、茂田井の石川新太郎氏宅にある銅造十一面観音坐像、円明院のひのき一木造り玉眼の木造不動明王立像、西善院(さいぜんいん)の木造阿弥陀如来立像など。
室町時代の作と思われる仏像は、香岩寺(こうがんじ)所蔵の寄木造りの木造阿弥陀如来立像、宝蓮寺の木造阿弥陀如来立像、こちらも、ひのきの寄木造りです。末期のものでは、円能寺の寄木造りの木造不動明王立像があります。
光福院には、安土桃山時代のものと推定される寄木造りの木造薬師如来坐像が安置。また、東光院閻魔堂(とうこういんえんまどう)にある十三仏青石塔婆(じゅうさんぶつあおいしとうば)は、総高217センチあり、この種の板碑(いたび)としては、国内でも有数の大きさと言われています。
昔ながらの祭礼では、「二郷半囃子(ばやし)・里神楽」。氏子の安全や五穀豊穣を祈願して毎年7月の第2土曜日に上口香取神社で行われる祭礼のとき、余興として披露されています。戸ヶ崎香取神社の「三匹の獅子舞」も有名です。長寿や悪病退散、五殻豊穣を祈願して毎年7月の第1日曜日の前日に浅間神社祭、7月の第1日曜日の香取神社祭のときに行われるもので、 天正10(1582)年から続いていると言われています。
古くから三郷に伝わる民俗文化財としては、「万作踊り」があります。関東一円に分布しているものですが、地方によってそれぞれ特色があり、豊年万作を祝う芸が地域の娯楽となったものです。三郷が誇る県指定無形文化財は「長板中型」です。江戸中期から浴衣の染めとして発達してきたものですが、大量生産の染色品が多い現在、その魅力が見直されています。
県指定旧跡としては、「万葉遺跡葛飾早稲産地」も見られます。万葉集巻十四の東歌に当地を歌った「鳰鳥(におどり)の葛飾早稲を饗(にえ)すともその愛(かな)しきを外に立てめやも」という歌がありますが、その歌を刻んだ碑が丹後稲荷神社境内にあります。いずれも三郷のかけがえのない歴史を伝える貴重な文化財ばかり。
造成中だったり荒地の間は舗装された道路が延び、野暮ったく見える河川にも近代的な橋が架かり300mも離れたところには外郭環状線が見えるが、その内にビル群で遮断されるだろう。
高速の高架下の一般道でさらに南下すると、鷹野辺りまではもう開通を待つばかりのように出来上がっていたが、松戸三郷有料道路辺りはまだ橋脚の工事が始まったばかりの状態で、江戸川を渡り矢切そして市川国府台、原木インターまでは、そう遠くはなさそうにも見えるが。