古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根
川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付
け替えられて、鹿島灘へ注ぐようになった。のち河道(古利根川)が中川として新宿(にいじゅく)地点から南流する
と、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は干上がり、河底部が大きく蛇行して残ったが、これが古隅田川
である。
 かくして広大な川原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がま
だ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(淵江領)は武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請し
て氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一ノ宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日まで及んでいる。
 古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村
々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が淵江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。淵江領
の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。
 古隅田川は、もと国境だったとはいえ、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたの
である。

 偶然通りかかり目にした古隅田川名残りの水路と緑道があった。足立区と葛飾区の区界として中川まで続いていることを後で知ったが、時間も遅かったのでそのまま遊歩道を通って帰宅した。
 早速次週の土曜日にはデジカメをぶら下げて辿ってみたが、とに角よくこんなにくねくね曲がって流れていたものだと感心するやら、さぞかし流れのあった頃には氾濫したことだろうと素人にも察しがつく。

 綾瀬川に入り込む水門(大六天排水場)前を通り、駐車場の脇から右折すると遊歩道に新しく造られた木造の幅1
m強ほどの木橋があり流れに沿って入ってゆくと鵜の森橋、右側に小菅水再生センターが綾瀬川を挟んで広大な広さで荒川の土手下まで続いているが、旧水戸佐倉街道が脇を通り警視庁亀有警察署小菅交番前の信号を左折するとすぐに、陸前橋がある。

 すぐ右に”小菅の風太郎”の説明板がある。それによると、江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列が、この辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿いに植えられた”もろこし”が殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。
 殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の
源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手打ちとなってしまいました。
 何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまた突風に吹かれました。すると、どこからともなく「
風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからとなく聞こえたそうです。

 看板の脇の水路に架かる遊歩道の橋を渡り、突き当りには古隅田川緑道案内図があり、そこにはカルガモとフジバカマの写真と解説が書かれていた。
 また、古隅田川自然再生区域としての注意書きがある。
○しぜん再生区域は自然が再び生き返るようにつくられた場所です。守 り育ててください。
○メダカやモツゴなどの小魚やトンボのヤゴを守るため、ブラックバス、コ イ等の魚を放流しないで下さ い。また区域に適さない魚・植物は排除 します。
○水辺は滑りやすいので注意してください。
○釣は、まわりに迷惑をかけないようにマナーを守りましょう。
                                            葛飾区

 左に曲がり、緑道沿いに行くと左が水路で右が工場だった。そこはレンゴー株式会社葛飾工場でクレーン車が建設資材を動かして、建屋の工事中だった。工場の前には古金橋かかりトラックが正門前から出入りし、渡った橋の右先にはガソリンスタンドだった。

蓮昌寺板絵

 蓮昌寺には、区指定文化財の木版彩色画(絵馬)が保存されています。記されている紀年から文久2年(1862)〜昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。

 描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか収穫図・能楽翁の図などがあり、蓮昌寺は正安2年(1300)創建と伝えられています。

 
境内に入ると、そこここに板碑が並んでいる。立派な本堂の右には、”立正安國”と書かれた台座の上に銅像が立っていた。

そのまま直進すると川は90度右に曲がり、川の左岸に渡る木橋の向こうには古隅田川の歴史年表の大きな案内板と蓮昌寺板絵説明板があった。

 
 東京拘置所は面積約21万uの国内最大の拘置所(監獄)である。ここが監獄として使用されはじめたのは明治11年であり歴史は古い。小菅刑務所が未決囚専門の拘置所となったのは昭和20年であり「刑務所」に「拘置所」が併設された。その後、昭和45年に旧東京拘置所(スガモプリズン=現サンシャイン60・敷地)が廃止され、名称を「小菅拘置所」から「東京拘置所」に変えた。
 東京拘置所は設備が古く、未決囚への人権配慮が足りない施設であるとのことで、現在建替え工事が行なわれている。東京拘置所の建替え工事は1997年に着工され、2003年4月段階で中央管理棟・南収容棟が完成している(約1500人の被収容者が移動したという)。北収容棟が完成すると、更に1500人が収容されることができるようになるという。

古隅田川と東京低地
 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。

 特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。

 利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。

 実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。

 古隅田川は足立区千住付近で入間川と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。

 現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。

 地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです。


 とにかくこの川の水路は、直角に曲がる。他ではこのような流域はお目にかかれない。右側は”白鷺公園”で100m余も行くと、白鷺橋で直ぐ左先には暗渠になった支流の上に駐輪場がJR常磐線、綾瀬駅まで流れのままにカーブして繋がり、線路を潜ると駅前に”東綾瀬公園”だが、これが又広い。そして暗渠は公園の端で八ヶ村落し親水緑道とつながる。所々に昔を忍ばす橋の橋柱に名前のプレートがはめられている。また、倒れていたりと痛みが激しい箇所も見受けられるが、初めて尋ねた人でもよく分るし、何年経っても橋の名前だけは永遠に残したいし、とにかく、昔流れがあったという証拠にもなる。綾南橋、堺田橋、富士見橋、袋橋、北野橋、と無料の駐輪場は長々と、そして屋根付の有料駐車場が右へ直角に曲がりながら千鳥橋、そして左に直角に曲がり常盤橋袂の綾瀬駅下の道路まで1.5qも続く、駅前近くの駐輪場は屋根付で料金徴収の入り口には徴収員が忙しく自転車を捌いていた。元隅田橋まで、そのまま戻り、橋の袂には東京法務局城北出張所と記した真新しい石塔が建っている。橋を渡ってとしばらく行くと右側に”東京法務局城北出張所”の4階建ての建物もあった。

 そして、前後左右の建物はほとんど登記関係の代書屋が建ち並び片側1車線の道路は行き交う自動車で徐行したり法務局の駐車場に出入りする車でごった返していた。

 その先の変則交差点は旧水戸佐倉街道で、その右先には蓮昌寺がある。そこから元隅田橋まで戻った。

 この橋を境に、上流は暗渠になり緑道は変わらなかったが、顔を出した水路は歩道に組み込まれた、ほんのお印程度のささやかな流れだった。

 そして広い道路と交差するが、左に行くとJR常磐線のガード下を通り抜けさらに進みと環状7号線で右先角には、警視庁綾瀬警察署がある。右に行くと、首都高速”小菅インター”まで、あと1kmと書かれた大きな標識がある所に出てきたが、ここは小菅4丁目32番地だった。

 ここの右先角には、コンクリートの鳥居がある。鳥居をくぐると小さな祠があり、石塔には

 このように書かれていた。

 道路の歩道部分の一部分となり、この辺まで来ると人通りもなく、広く場所が確保されたところには東屋があり、ベンチに老人が腰掛けて遠くの方をボーと虚ろに眺めていたり、2、3人でお喋りしている程度しか見当たらない。

上千葉遺蹟と普賢寺

 この遺蹟の発見は古く、寛永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇宋通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13〜14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。

 また、付近には治承4年(1180)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。都史跡跡に指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。ここには、古隅田川を巡る歴史年表も印されている。

 境一橋(暗渠になっていて水流はない)を過ぎると、車道の向う側のレンガ敷きの石畳の道では親子連れの3人の子供が入れ代わり立ち代り父親に餌を付けて貰い”ザリガニ”を釣り上げていた。

 この先も暗渠になっていて、道路と交差する所には橋とは名ばかり石柱が建って居る。続いて、旭橋、境三橋、南新橋、水路が開けて公園になり水路に降りられる石段になっている。そして、境四橋、暗渠化された細い路地を入って行くとJR常磐線と東京メトロ千代田線の高架下となる。通り抜けると右側に高いフェンスがあり中では、4階建ての東京都立葛飾ろあ学校の工事が最終段階で、特にグランドは整備用の重機械を入れて行われている。

 学校の前には、宿添橋、西隅田橋、左にカーブして中川まで立体化された常磐線を右に見ながら、左には公園があり、そして隅田橋、右に常磐線の高架下の道路を進むと拡幅された真新しい亀有駅前に行く道路にぶつかるが、横断歩道がなく中央分離帯設けられた本格的な片側2車線道路で、信号のある所で横断し、左角の”一之台中学校”の手前を左折した。ここらは、西亀有だった。

 学校の横は歩道があり、その中にささやかな水路が流れ交差点になる。ここに東隅田橋がある。まもなく行くと右にカーブする。郷乃二之橋、郷乃一之橋、と続き左に”軍用金伝説”の表示板がある。
 

軍用金伝説

 古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人やものを運ぶ大切な交通手段でもありました。

 この辺りは大きく曲がっているところから大曲と呼ばれ舟の舵の舵取りの難しいところとされていました。慶長18年(1613)2月の暴風の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることなく近年の区画整理などのため、今ではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです。

 この辺りまで来ると歩道の一部に細い水路が流れ、北三谷3号橋表示には凝った透かしの入った金属製のプレートが挟み込まれていた。水路の車道側や鋏むように植え込みもある。そして宝蔵寺橋北三谷揚荷橋交差点を越すと歩道の水路の車道側のには”赤芽の木”が植わり、その前方には大きな建物が見える。もうこの辺りは亀有5丁目だった。

 この辺りにはまだ鉄塔が建ち送電線が住宅街の屋根の上を横切っている。ここにも橋の名前だけが印された北三谷橋があり、右奥に入ると左に中之台小学校もある。ずうっと暗渠になっている道路の歩道には様々な草花が溢れるほど植えられ咲き乱れていた。右へカーブして行くと北三谷2号橋、更に右にカーブすると北三谷1号橋と続くが、住宅だと思っていたら東和銀座商店街の裏側だった。出っくわしたところは葛西用水で北三谷橋と書いてあった。そこには下のような説明板が石造りの立派な台座に嵌め込んであった。

 ≪概要≫
 古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊な水量を持つ大河でありましたが、中川の灌がい事業により水量を失い、やせていったものと考えられます。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。

 現在は下水道の整備によって、排水路として使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。

 また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに人と人との出会いの場でもありました。そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため「出会いの川、古隅田川」をテーマに、失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎを創出したものです。

 ≪位置≫
 当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
 また、古隅田川に隣接して5つの公園があり、「河添公園」「下河原公園」「は足立区、「袋橋公園」「白鷺公園」「小菅万葉公園」は葛飾区に位置しています。

≪延長≫
 古隅田川 約5,450m、裏門堰 約1,100m


蒲原村宿駅伝説

 
寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人のいい伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今でも宿という地名が残っている在原の業平が東下りした時「名にしおはいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのは、この辺りではないか。今、隅田川と称している地は240〜50年前は海だったから川があるはずがないという」とある。

 その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)現時の再起を賭けて伊豆の挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている。


 このような説明板があり、暗渠になっている葛西用水が通る道路を横切り亀有5丁目西沢薬局の横を入り2本目の道路が”らぶえいと”とペナントがぶる下がった商店街で亀有駅が500m離れているが、クッキリ見える。

 更に2筋行くと道路の向こう側に”東京介護福祉専門学校”があった。クランクの曲がり建物の横を入る。ずーと最後の排水場まで暗渠になっている。車道ではないので、人と自転車ぐらいしか通れないような裏通りになっているが、カラーの敷石が敷かれた特別な通りだと直ぐ分かる。

 直ぐに環状七号線に出る。中央分離帯があり右交差点の信号から渡り歩道を左に戻り、ラーメン屋の金龍とオートバイ販売のYSP葛飾の間をが水路跡、今までの中で1番細い路地だが、1本目の交差する道路(中川4丁目35番)からは両側に植え込みがありツツジが植わっている。

 そして、3本目道路角には

隅田子育地蔵


 元禄年間、17世紀から18世紀に移ると、村々もうようやく豊になったとみえ、地蔵尊などの石造仏が村内各所に建てられるようになった。特に、村の境や追分には、悪疫の侵入防除、悪例退散などを目的に界地蔵が道祖神代わりに建てられた。

 中川三丁目1の古隅田川岸にまつられた三体の地蔵尊は、足立・葛飾の村境であり、旧大谷田村道の追分三角地帯に建てられた典型的な界地蔵である。中央の大きな地蔵は「元禄元戌(1688)11月」の紀年が読み取れ、今日まで毎年8月24日に地域の子供を集めて子育地蔵祭りが催されている。

 隅田子育地蔵の説明板を過ぎると左側の民家の塀からはみ出すように葉っぱの長い松の木がある。そして緩やかに円を描き90度以上も右にカーブしている。

 交差する路地角は左が中川3丁目1番、右角は亀有5丁目59番左側の1本奥の道に面して、東京電力の東亀有変電所(中川3丁目2番16号)が見え、次に交わる道路角は中川2丁目1番、右は亀有5丁目60番、この辺りは、この川筋には珍しく ほぼ真直ぐで両側には相変わらずツツジの植え込みがあり、そしてJR常磐線の高架下をくぐり、交差する道路の左角は中川1丁目1番、右は亀有3丁目47番、少し広かった道路も一団と狭まり1m足らずとなり左右にカーブすると、広い空間に出てきた右に玄恵井の碑成るものの説明板が現れる。

玄恵井の碑

 昔、亀有方面の井戸は水質が悪く「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人水谷又助は、山崎玄恵という老人の助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人はたいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。

 この碑は文化10年(1813)に、この清水が湧き出た日を記念して村人たちによって香取神社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです。

 この右先には、環状七号線があり道に面して氷川神社があり神社角を入ってくるとこの場所に来る。一瞬水路跡は消えてしまったように思われる光景に出っくわせる。其処には日本紙業の工場があった所の裏手。

 今、7iイトーヨーカ堂(Ario)の建物とTHE RESIDENCE (tokyo EAST)のマンションが2分していた。すでにマンションは居住している。しばらく周辺を見渡しながらカラー舗装の道路を行き尽きるのを覚悟で奥へ入って行くと見事に行き止まりに成った。今来た道路はマンションの建物が無くなるまでの仮の歩道で車道は盛んに建設中で将来は何処に抜けられるのかは今の所分からない。

 マンションの外れまで来ると、マンション横に一段高くなった道路で自転車を持ち上げて、そちらの道路へ移動して走ると旧来からあった中川に架かる中川橋の袂へ通ずる道路に出た。左に行くとマンションの建物の真ん中を突っ切る通路になっていた。入口には建物の案内、図面が書いてあり2分するようにあった通路の下が水路の跡だと記されていた。

 ここの右側の先、約150mが中川の土手になり排水場の建物があり、土手に上がって見ると中川は1級河川よろしく土手も整備され悠々と悠久の流れは未来永劫のことだろう。