新交通・舎人線
(日暮里〜舎人間・9.8km)
平成16年7月4日〜平成17年7月3日

高架専用軌道を走行しますので、交通渋滞や交通事故の心配がなく、定時運行が可能です。    
車輪はゴムタイヤを使用していますので、騒音・振動が小さく快適な乗り心地です。 
道路上空を利用し、車両を小型軽量化することによって、建設費が地下鉄に比べ節約できます。
バスと鉄道の中間程度の輸送力をもち、道路スペースを立体的に利用した専用軌道上を走行する
  交通機関です。






 昨日7月3日(土)は、満65歳の誕生日だった。年金を申請する年齢にとうとうなってしまった。思えば家族や友人達に
60歳までで、「おさらば」だと公言していたのが、昨日のように思いめぐらす今日この頃です。半月前の「父の日」と「誕生祝」と、たて続けに娘婿からプレゼントを届けて貰い、子供の頃から、そんな習慣のなかった私の所に、毎年自ら忘れずに持参してくれるのに、たった一言「ありがとう」と、しかいえない素っ気ない父親です。

 梅雨の中休みには、いささか長すぎないかと思うほど快晴の続く毎日です。昨日は1日我が家でのんびりグウタラ亭主を決め込んでエアコンのきいた部屋でひねもすのたりのたりかな。

 65歳1日目は、
熱帯夜の明けた今日も朝からピーカンのかんかん照り、午前中はテレビの週間報道番組や参議員選の特番を見ながら昼食を終えると、日差しの強い中を我が家から飛び出し自転車は荒川の土手下通りを行くと左手に東武伊勢崎線の鐘淵駅から延びた線路が見えるあたりから道路は一気に土手の上に上がる坂道を力強く登り、川風の涼しい道を北上すると荒川と隅田川を繋ぐ運河(旧綾瀬川)の水門を横切ると左土手下に、ひなびた小さな堀切駅、駅の脇を過ぎるとまた土手下へ下り堀切橋、京成電鉄のガード下をくぐり、変則の三叉路交差点がある。

 今日は自転車なので直進するが、車のときは、左にカーブして桜並木の道路を信号2つ進み東武線牛田駅、京成線関屋駅方面から来る道路と交差するが、右折して、進み千住大橋を渡る。因みに右折せず直進すると、JR常磐線,東武鉄道伊勢崎線、東京メトロ(日比谷線、千代田線)と4線の踏み切りで、東京でも有数の
開かずの踏み切りで有名なところだ。来秋(平成17年)開通する常磐新線の立体工事も最後の追い込みで駅ビルと両方で北千住の駅と周辺はてんやわんやの明け暮れだが完成すれば、さぞかしスッキリするのだろうか。

秋葉原〜新御徒町浅草南千住北千住青井六町八潮三郷中央南流山〜   
流山セントラルパーク流山おおたかの森柏の葉キャンパス柏たなか守谷みらい平
みどりの万博記念公園研究学園〜つくば (全線所要時間45分)

 踏切をやっと渡ると、右側に旧区役所の空地に鉄板のゴツイ塀にいろんな絵が描かれ四方に張りめぐらされ、戸田建設の社名の入った「建築計画のお知らせ」の看板と基礎工事作業が始まっていた。将来は22階建ての(仮称・あだち新産業振興センター)が平成18年3月31日完成。

 ちょっと物見遊山で旧日光街道の”HONCHO CENTER”街(北千住駅前のメイン通りまで)を北上し中ごろを左折し突き当たりに、”
三宮神山大鷲院勝専寺”があった。通称赤門寺とも呼ばれているそうだが、境内には鐘楼もある立派なお寺です。

 また、少し北上した右角には、スーパー「トポス」があり、角を右折すると150m程先の右角、足立都税事務所植栽に橘井堂跡
(森鴎外旧宅)がある。 街道に戻って北に進み北千住駅前のメイン通りを横断すると宿場町通りとなる。1つ目の路地左に本陣跡の説明版(この一帯は花街で明治時代に芸妓組合事務所が置かれたため見番横丁と呼ばれていた)人通りも多くなり、ここが千住宿の中心らしい。右手の「千住ほんちょう公園」に高札場の説明板。しかし、メイン通りを一歩入った道は人が肩を擦りあってやっとという路地ばかりだった。

 元に戻り左折した左には千住
庁舎があり、左歩道上に高札場跡碑、右歩道上に一里塚跡碑があるはず・・・・だが無かった。渡った駐車場傍に問屋場跡の石標。 堤通りの千住仲町交差点まではちょっと人通りの寂しい商店街が続く旧日光街道だった。

  
ここの交差点の先がやっちゃ場通りの北詰で、千住大橋までは旧日光街道で通称やっちゃ場通りともいう。左右には昔の”屋号”の看板が軒並み掲げてある。今でも千住大橋のたもとには、”足立市場”が区民や近郊の区民の胃袋を満たしている。「やっちゃ場通り」約1q(江戸時代この通りで毎朝、野菜・魚を売る市が開かれ、元気な「ヤッチャヤッチャ」のセリの掛け声から呼ばれた)を行くと右に「千住宿歴史プチテラス」(千住宿の歴史館)

 橋の袂に「奥の細道矢立の碑」がある。
(芭蕉の「おくのほそ道」の旅が千住から始まったことを記念して建てられた) 国道4号線(日光街道)と分かれる市場前の旧道が日光街道だ。・・・・・千住は(日光・奥州街道)品川(東海道)板橋(中山道)新宿(甲州街道)と並び江戸四宿の1つとして数えられ、市中に近く遊興地としても大いに賑わった宿場であった・・・・・



元に戻って土手下の道路に入ると、左側に千寿の郷があり、細い路地を左に入っ
て行くと
柳原稲荷神社がある。このあたりの路地にはヤタラトあちらこちらに「新東
京タワーを足立区へ」と書かれた幟旗が立っている。

 更に進むと左側に千寿堤桜中学校の新築工事が進んでいる。200mも先には広々とした運動場のある区立第二日ノ出町保育園もある。

 東武線やJR常磐線、地下鉄千代田線、常盤新線の鉄橋が見えるあたりにくると、左に夏みかんの木が有るが実がたわわにぶら下がり手を伸ばせば届く所に有るが、あの酸っぱさを知っている私には脇を通るだけでも、ほほが硬くなるのを覚える。

 ガードをくぐり、右側に変わる歩道に移り、なだらかな登りから急坂を一気に登ると千住新橋の歩道になる。橋の上は、障害物がないので、川風は、がぜん強く自転車がふらつくほどだった。それでも坂道を上ってきたせいで、思いきりかいていた汗でびしょ濡れだったポロシャツも橋を渡り切る頃には、背中は気持ち良くなっていた。

 土手下に下りるには、右に2度回転するように廻りながら日光街道の下を通り、角にある真福寺の先を右折して、「ユメロード千代田」の商店街を横切り、

 KARIBUショッピングセンターの裏を通り、西新井相互タクシー営業所や両側にマンションが立ち並ぶ間を通り、梅島交差点を右折した。

 そのまま直進すると西新井駅と駅から手前に分かれた支線があり、古ぼけた細長い建物に線路が敷いてあり電車も止まっている基地もある。

 (1年後に、来て見ると建物線路が無くなっており見事に再開発で整地されて
一大プロジェクトが予想される)。

 余計なことだけど、西新井駅前の駐輪は酷い、歩道をはみ出して車道まで止めてあり、人も車も自転車も思う通りに進めない三歎たるものだった。
 
 こんな酷い駅前は初めてだ。日本一の汚名を与えたい。

 


 戻って立体交差する東武伊勢崎線の梅島駅の下を通り1.1km北上すると環状7号線だ。環状7号線島根1丁目の交差点の信号が青だったので渡って左折して、右側の歩道を400m程行って右折すると道路の真中に「東京都水道局」発注の「島根3丁目先〜小右衛門給水所」(東京都足立区中央本町3−8)間の配水本管(1000o)新設工事(シールド・施工者、フジタ・間共同企業体)の建物がデーンと建ちふさぐように建っている。

見学概要


(工事目的)
  金町浄水場の配水区域は、広大であり、配水区域を分割するため小右衛門給水所を撤去し、地域ごとに拠点となる、給水所に拡充・改築する。合わせて配水区域の一部整備を行うため、送水管及び 配水管の整備も行う。

(工事概要)
  ポンプ棟及び配水池築造に向け、地中連続壁(463m)の築造、基礎杭(リバース杭内径1.5m)、掘削(7万m3深さ18〜13m)及びシールド工事の到達立坑(圧入ケーソン内径8m深さ48m)を築造する。 また、新たに送水管を新設し送配水分離をするシールド及び配管(内径1.5mL=1.14km)工事を行う。

(見学内容)
  シールド(外径2.4m)は、掘進を完了し、配管準備中であり、配管及び立坑を地上より見学、トンネル写真及びパネルとシールド模型・坑内のエアーモルタルの製品にて説明を行う。
  配水池及びポンプ棟部は、桟橋、地中連続壁、基礎杭が完了し、掘削中であり、パネルによる説明と桟橋から掘削内の地中連続壁、桟橋、掘削作業を見学。到達立坑(深さ48.3m)は、築造が完了し、現在到達立坑 の薬液注入中であり、ビデオによる坑内状況とパネルによる説明を行い、地上より見学。

(見学工程)
  水道事業と工事概要説明→現場見学(シールド→桟橋(掘削)→到達立坑)を2班に分けて実施し、全員集合後、質疑応答を行う。

見学会実施日時 平成17年3月12日(土) 10時00分〜12時00分
見学会参加者数 小右衛門給水所の周辺にお住まいの住民の方 7町会、6自治体見学会参加者数: 185名

 この道路は何度でも行き来すので、たまたま見学日の1週間前に通ったときに見かけた。

馬水槽 

 東京近代水道創設当時に、ロンドン牛馬給水槽協会から東京市に寄贈されたもので、上部が牛や馬、下部が犬や猫の水飲み場で、人間用の給水栓は裏側にあります。この馬水槽は現在新宿駅東口駅前広場に設置されています。

東京の水
淀橋浄水場からの通水により産声をあげた東京近代水道でしたが、その歩みは当初から拡張に拡張を重ね、創設期の東京近代水道が、全て完成したのは明治44年ですが、早くも次の拡張工事が計画され、大正から昭和初期にかけて、村山貯水池(多摩湖)、山口貯水池(狭山湖)、境浄水場などが建設される。

 昭和7年には東京市の市域が拡大され、これに伴い、近隣の水道が併合され、金町、砧、玉川浄水場などが東京市営水道の施設となり、また、戦争での中断をはさみ、戦前から戦後にわたる20年の歳月をかけて建設を続けた小河内貯水池(奥多摩湖)は、昭和32年に完成した。

 現在、多摩川の水を貯える3つの貯水池は、都民の貴重な水ガメであるとともに水と緑の憩いの場として多くの人々に親しまれている。

 昭和30年代以降東京への人口集中と活発な都市活動により、深刻化する水不足は国家的な課題となりました。東京都からの強い要請が国を動かし、日本最大の河川である利根川の水源開発が急速に進められている。

 建設省や水資源開発公団によって、利根川にダムや取水堰、導水路などが建設され、東京都は、それらの建設費用を分担するとともに、朝霞、小作、三園、三郷各浄水場の新設工事や、金町、東村山両浄水場の増強工事等を行い、急増を続ける水需要に応えた。

 現在、東京の水源の約80%を利根川に依存している。

 建物の先の信号を過ぎると、右にこんもり茂った一角が目に入ってくる。持前の物見遊山で右折すると山門が在り、文字が書いてあるが一部が消えており判読が出来なかったが、さらに右に進むと、仁王門があり名前もハッキリ書かれよく読め右側には説明看板も立っていた。

国土安穏寺(こくどあんのんじ)

 日蓮宗、天下長久山国土安穏寺と称す。
 創建は応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は千葉太郎満胤である。
 当初は妙覚寺と称した本尊並びに中山三祖日祐聖人自作の祖師像がある。
  江戸時代に将軍秀忠および家光が当所巡遊のおり御膳所となり、八世日芸聖人の代宇都宮釣天井予言の功により寛永  元年(1624)、現寺号を賜り徳川家祈願所位牌安置所となる。したがって、当寺は、葵紋の使用を許された。
  寺宝として、日蓮上人の断簡、将軍家使用の、膳、わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正の書軸などがある。
 なお、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。

東京都足立区教育委員会

 周囲を回り元の道路に出て、北に向かうと左側は島根4丁目団地が続き、道路の右200m奥には鷲神社があった。

 この道路も東武鉄道沿線の都営団地と周辺の区画整理や道路の拡幅で整備されているが、いまだに両側の所々には畑が散在しており、農協の建物や道端の畑のクロに春と秋には交通安全のテントが建ち、長閑な景色も見られるが、沿線に建設されたマンションも目立ち始め、特に2棟は30階を越えているようで1km離れたこの道路からもよく見える。引き続き進むと、左右に竹の塚1丁目から竹の塚6丁目まで延々と続く竹の塚団地の建物が並んでいる。

 


 六月を過ぎ、竹の塚駅方面に曲がる左手前にきれいに整備された「萬福寺」があり、門前の2石塔には荒綾88ヵ所の第46番札所と、寺子屋竹嶋小学校と彫ってある。

 本寺は、真言宗豊山派で慈照山大悲院万福寺と号す。文明10年(1
478)の板碑墓石があり、草創の古さを知ることができる。明和・寛政のころが中興期であったようである。

 昭和35年に、諸堂を再建し、境内や墓域とも美しく整備され、荒綾88ヵ所の第46番札所にあたる。

 本尊は11面観音像である両脇に弘法大師・興教大師の木造の坐像があり、それぞれ厨子に納められている。その前に木造不動明王の立像が安置され、いずれも、江戸中期の作と思われる。

 なお当寺に、明治9年(1876)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が設けられ、竹塚・島根・栗原各村の子どもたちを教え、村民の開明に 尽くした。
                 (所在地 東京都足立区竹の塚1
--15)

 第一、第二、第三と3つに分かれた竹ノ塚団地を左に見ながら進むと、左に曲がると竹ノ塚駅南の踏切を渡って、左に行くと東京メトロの竹ノ塚検車区が広大に広がっている。


竹塚神社由緒
祭神 天照御大神
例祭 9月17日
 人皇六十四代圓融天皇の御守、天元年間、伊勢皇
神宮を遷し茲に祭る。後、天喜4年源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環壕が存し、本営の舊跡と傅えられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ800年星霜隔てる嘉永2年6月6日、雷火の為に枯れるに依りて、延慶2年以来の社殿造替の用材と為せり。
 明治以降氏子崇敬者よく神徳發揚、社地整備を図り面目一新す。
                              昭和61年11月10日建之
                             竹塚神社宮司 石倉利夫撰

 左に竹ノ塚神社、右にイトー・ヨーカ堂を中心に商店が並んでいるが駐車した車で、道路が何時通っても狭くて危険だ。


 駅前広場と第1、第2マンモス駐輪場



竹ノ塚6丁目の線路際には「takenotsuka motar shool」がある。このあたりは線
路も少しずつ高くなってきているが、完全な立体交差には成って折らず人と自転
車が通れるほどの高さしかない通路は探さなければ分からない程度しかない。

足立清掃工場

 足立清掃工場の高さ130mの煙突は東京タワーから目視できる建造物である。現在プラント更新工事中で一部施設のみ稼働中。竣工予定は来年3月になっている。

 西保木間4丁目アパートは昭和43〜44年にかけて建設されている。道の正面には西新井ゴミ焼却場の建物と煙突と、左側に東武鉄道のガードが見える。三叉路を左に進みガードを潜り尾竹橋通りへ、400mも行くと東京と埼玉の県境を流れる毛長川に架かる谷塚橋を渡り、埼玉県側に入ると安行街道(吉場安行東京線)となる。ここも、もれなく都県を越えると道路状況がガラリ変わってしまう歩道の無い片側1車線の狭い白い埃を濛々と上げて自動車が行き交う道路だ。通る車は、一段と大型車が増え形ばかりの白線が引いてある極めて危険な道路状況になった県道103号線吉場安行東京線。
 
 谷塚上町の交差点150mも手前には、かなり古ぼけて貫禄のある神明神社があり、柳島町へ入ると、右側だけの歩道にガードレールだけだが付いて区分されている道になり幾分かは安心して通れるようになると、草加川口線の柳島交差点で間もなく道路の右側に草加南高校の看板があったので右に入って行くと左側に正門があり、前を行き過ぎ辰井川を横切り塀沿いに左へ左へと行くと校庭の地下を通り抜けて流れる辰井川があった。川に沿って「柳島二の橋」、「柳島一の橋へとやってきた。橋を過ぎると木で出来た太鼓橋が見えた。橋まで行くと右側は大きな遊水池がほんの少し水を湛えていた。


 川はかなり強烈な異臭がしており草加市では整備をしながら、親水公園両側の歩道のカラー舗装をしたり親水護岸、親水階段、地域住民が水辺に親しめる河川作りをしている割には理解が得られていないようにも思われる。この川は元々「辰井掘」という川口市から苗塚町、西町、谷塚町を経て、「河内掘」と合流する幅1.8mほどの用水だった。辰井川は昭和55年から7年がかりで川幅10mの河川に開削され、同時に『辰井川10橋」を架け、「新しい草加らしさの創造」を目指して建設された。

 歩車道の区分を植栽で工夫した「柳島一の橋」を渡り、吉場安行東京線を戻るように進みガソリンスタンドを右折し細い路地右左に曲がって出たところが、遊馬通りだったが、右側に西願寺、門から松が植わった参道の奥まで入ってゆくとそこには「あずま幼稚園」があり、今日は幼児の声は聞こえてこなかった。左側は墓地になっていた。県道に出るとすぐ左に「日露戦争記念碑」の小さな祠があり遊馬町東の三叉路信号を過ぎると、左にビニールハウスが何棟も並び畑の隅には屋根の低い直売所があり、「えだまめ」、「トマト」「新鮮野菜」が所狭しと置いてあった。右側には完成した物件や立て始めた物件の売り出しののぼり旗が風にはためいていた。遊馬町西三叉路交差点。そのまま右に行くと左に大きく90度以上もカーブし終えたガソリンスタンドあたりが草加と川口の市境で、そのまま行くと国道122号線に出る川口方面だが、左折すると尾久橋通り。県境は毛長川手前100mほど入った所が東京都。見上げることもなく新交通の橋桁が道路の真中にデーンを立ち、初めてその容姿を目にした。


草加
保木間堀親水水路
見沼代親水公園


 新交通は足立区舎人町見沼代親水公園駅が終発着駅。日暮里駅(仮称)〜見沼代親水公園駅(仮称)9.8km、13駅(荒川区内4駅、足立区内9駅)、例:新交通ゆりかもめ)平成19年度開業予定。
日暮里・舎人線の整備により、足立区の舎人地区と日暮里駅が約20分で結ばれる。
(現在、ラッシュ時にはバスで約60分もかかることがある)と看板に書かれている。1年後の誕生日に通ってみると右のような駅名の入った看板が日暮里までの間に3,4箇所見かけた。

 軌道は、全線複線で高架構造、基本的に道路の中央を通り、荒川、隅田川渡河部分の取付区間は、尾久橋通りの東側寄りを通り、駅舎は高架2層構造で、3階がホーム、2階がコンコースとなり、一部京成線や常磐線などの鉄道との交差部では、門型の支柱で都市環境には十分配慮し、周辺の環境と調和したデザイン・色彩とし、支柱にある穴はコンクリートを流し込んだり、工事後は管理用に使用するため、人が入れる大きさで、普段はふたが閉まっており、支柱の上部にある突起は地震時に、けたが落下するのを防止するための移動制限装置。

 完成の暁には、自動車交通の混雑緩和に役立ち、日暮里・舎人線の1時間当たりの輸送能力(定員ベース)は、普通自動車に換算すると1700台分に相当。並行する隣接鉄道及び周辺バス路線の混雑緩和が期待できそう。 

 駅前広場の整備については、@小台駅―地区計画によって、700u、確保、今年度末にはひかり製作所あたりに工事に入る。A高野駅― 区画整理で1000uを確保する。B江北駅は拠点駅として2500uを予定。C見沼代親水公園駅は2500uを確保する

  駅前広場の駐輪場はどうか。―1980台を予定し、区は5割を確保する。延伸計画はあるのか―運輸政策審議会に埼玉県から何の要望もない。荒川区の状況はー日暮里駅前の再開発は準備組合ができた。熊野前、赤土小付近は地下埋設物の撤去と用地の買収が必要。

 見沼代親水公園駅予定地の周りには、まだ高層マンションは疎らだが、いずれ建ち並び空間を狭くすることでしょう。見沼代親水公園は、保木間堀親水水路と赤山街道が打ち合う古千谷から舎人緑道の間で、約2q。親水ゾーン・ふれあいゾーン・こもれびゾーン・水生植物園ゾーンと分かれ・木々も茂る。残念ながら、個々の木に名前が書いた木札でも、ぶら下がっていれば、なお一層親切というもの。木陰を、風を感じながらチリンチリリーン。

 その昔、見沼代親水公園は、見沼代用水が、江戸時代(享保年間)にそれまでの見沼溜井に代わる農業用水の供給施設として、新たに開削された歴史的な大用水路です。

 現在は埼玉県行田市から県東南部・東京都足立区にかかる地域約15,000haに農業用水を供給しています。水路沿いの環境整備も積極的に行われ、緑のヘルシーロードや水と緑のふれあいロード、親水公園等が設置されている。並行して流れている毛長川は川口市との県境で、お世辞にも綺麗とはいえないが、それでも3,4人が釣り糸を垂らして一時を楽しんでいた。親水公園を流れる水辺では親子連れ、家族連れが糸に餌を縛り岩窪や流れに任せてザリガニ釣り、結構バケツには成果が窺がえる。

 いよいよ、尾久橋通りを北上、氷川神社前から左にカーブして、舎人1丁目交差点で東武バスは左折して、竹ノ塚駅前行きのバス、直進するバスは日暮里行き、道路中央には橋脚や梁が出来上がり舎人駅も工事中でコンコースと一緒に建てられ、高さ制限が4.5mと表示され、舎人小学校東交差点左近くのビニールハウスには「トマト」「きゅうり」がタワワにぶら下がっており、これから収穫され市場に出荷されるのでしょう。このあたりは拡幅も順調で片側2車線と4.5mの歩道が出来ているが、ほとんど人通りはない。

 上り車線の歩道を走ってくると天府楼(四川料理)、釣具の上州屋とが並んでいる舎人公園の北の端の交差点だが、交差点の名前は表示されておらず分らない。公園内に構築されるという車庫は地下だそうだが、
車両基地の建屋が500m以上も続き、さらに右隣には約5mぐらいの土盛りされた土塁が同じ長さで築かれている。
 
 道路中央には、車庫に入線するトンネルも築かれている。また、反対側には高架線に合流するコンクリート製の坂があり、上り詰めたあたりが舎人公園駅で工事中。

人公園
所在地 足立区舎人公園、西伊興町ほか
開園年月日 昭和56年6月1日
開園面積 
513,715.82u
樹木数 高木:2130本、低木4900本、芝生900u
主な植物 メタセコイア、ナンキンハゼ、クス、シダレヤナギ、       ヒメガマ、花しょうぶ
施設 テニスコート、野球場、少年プレイグランド、自由広場    、陸上競技場、キャンプ広場、バーベキュー広場、浮    球の池

 舎人公園は、現在も造成中の公園です。最終的な計画では
69.5ヘクタールに及ぶ広大な敷地に緑地、池、テニスコートなどを配置する予定。現在はスポーツ施設、様々な広場、池などが整備された約51.3ヘクタールを開園。
 公園の中心部には、水路で結ばれた二か所の噴水があります。入口付近の小噴水は、みかげ石のオブジェから扇状に放水される独特のスタイル。また、池をを隔てた北東側には噴水やウォータースライダーのある浮球の池があり、子供たちの水遊び場となっています。

 自然環境に恵まれた舎人公園は、動植物の宝庫。園内北東側にある大池にはガマやアシが自生し、カルガモなどの鳥類をはじめ、さまざまな魚、昆虫たちの格好のすみかになっています。
 近くには木道が設置されたショウブ田があり、初夏に優雅な花を咲かせます。また、東南の小さな池の周辺には樹木が生い茂り、森林浴やバードウォッチングに最適。なお、一部はバードサンクチュアリとして、野鳥たちが保護されています。


 舎人公園駅の真下の交差点の右前方には、首都高速6号線と川口地駅近くに建つ高層マンション、左には竹ノ塚駅前のエミエルタワーの建物も見える。左右の公園敷地内は、まだ、未整備ということもあって都内の公園としては、珍しく草茫々。

 皿沼3丁目の交差点の手前と先3軒が拡幅に応じていないのか歩道が狭い、なぜかこのあたりまでは飛び飛びに建っているマンションが下り車線の方に偏って建ってる。

 谷在家3丁目まで来ると、町並みも揃い1丁目の交差点まで来ると、歩道が狭くなる。郵便局の奥には5階建ての団地も見える。谷在家駅はまだ駅舎の姿形もない。

 上沼田東公園駅は、駅舎は高架2層構造で、3階がホーム、2階がコンコースとなります。また、お年寄りや身体の不自由な方が、だれでもが安心できるようにエスカレーターやエレベーター等を設置する予定の同じ造りだが歩道を跨ぎ空地に階段が造られ、ここまでの駅にはない造り。

 江北6丁目東団地交差点から300m行くと環状7号線の江北陸橋だが、この辺から都心に向かっては基礎工事の鉄筋もさらけ出しているし、一段と工事は遅れている。その為か道路中央には関係車両や資材が高く積み上げられていた。

 高野小学校角交差点左には11階建てマンションまでは歩道が狭かったが、江北4丁目の交差点に来ると元の広さになった。この交差点は江北橋と西新井を結ぶ道路が斜めに交錯している。手前左角の胡録神社では、納涼盆踊りの飾り付けが盛んに行われていた。

胡録神社改築記念碑
 江戸時代、武蔵の国足立郡高野村の鬼門(この地)に阿修羅大六天を祀り、村民の安寧と幸福を祈願した。

 明治初期 神仏分離により、天神7代の第6代面足尊(於母院流命)を奉斉して胡録神社と改めた。

 大正3年 旧社殿に再築され、旧高野町の守護神として町民挙げて守り続けて80余年風雪による老朽は甚だしかった。

 平成6年 御神意・御神徳 高揚のため待望の社殿改築と神域の諸整備が完了した。これらは敬神の念が篤い氏子を初、多くの崇敬者が神明に奉仕され、浄財の寄進をもって、落慶をみた。

 扇3丁目付近は橋脚だけで、高野駅は駅舎の工事も手付かずで表示看板だけで、広々した空間が残っていた。それが、北宮城団地付近から橋脚の上に迫り出した梁が取付けられ、扇1丁目まで来ると右側から江北橋の造られたばかりの取付道路が完成してチラリホラリの車が行き交っている。

 左には、交差点から左に20m幅の車道と両側4.5mの歩道の付いた取り付け道路の延長部分620mの表示看板が交差点角にたっていた。この辺に扇大橋北駅が出来る。

 扇大橋北詰まで来ると工事は一段と進んでいて、ここから荒川を渡る橋は首都高速中央環状を跨ぎ10m以上の高さだが、梁には鉄板が張ってあり側壁には遮音のための壁も張り付けてある。

 扇大橋の上からは、右から首都高速中央環状、荒川、王子駅前のビル、荒川遊園の観覧車、サンシャイン、新宿のビル群団、建設中のマンション、北千住の駅前の商業ビルと360度の大パノラマだった。
 
 渡り切ると、荒川と隅田川との間が一番狭い場所ではないかと思う小台だ。ここに足立小台駅が今まさに建設されている。歩道脇にフェンスが張られ取付の階段が駅舎下へと出来上がり、駅舎の完成待ち、しかし、この狭い場所の付近には民家らしい家屋は見当たらないが、それでも江北橋との間には都立荒川商業高等学校を含めて区立宮城小学校と区立江南中学校の3つがあった。付近にはKSデンキと光家具、3棟のマンション、昭和石油と出光石油油槽所や多数の倉庫以外は見当たらない辺鄙な場所だった。

 隅田川に架かる尾久橋を渡ると、都電荒川線の熊野前の交差点には停留所があり、尾久橋からの車道と新交通工事は並行して立体交差し、ここに熊野前駅の工事も始まっている。

 700mも進むと左側には、赤土小学校がある。ここに駅が出来ると表示看板があるが、橋脚のみで駅舎の工事はかげも形もない。また、500mも行くと明治通りと交差する田端新町1丁目の交差点だが、新交通が北区に唯一かすめる様に通過するが、その距離僅か250mだ。

 そして再び荒川区になる。300mも行くと尾久の操車場から常磐線に乗り入れる貨物線のガードだが、道路は掘り下げられて立体交差し、基礎工事は道路両端に門柱型の橋脚が建ち並び、西日暮里駅前の道潅山通りの上を交差するが、ここにも駅舎が出来ることになっている。この交差点が今までで一番交通量が多く工事車両や行き交う車両を警備員が整理しているが、冷やりとする場面も見かけてしまった。

 交差点を過ぎると、上を常磐線のガード、京成電鉄本線下の道路を掘り下げたガードと相次いであり、門柱型の橋脚が出来ている。600mも行き右折すれば終発着の日暮里駅で右角は再開発のマンション工事が真っ盛り、JR山手線の日暮里駅は東口階段の改修中で、左側はバスの乗降者口になっている。錦糸町行きのバス停前には、馬上の武士像がある。付近には新交通のポスターや工事の進捗状況が書かれた掲示板もある。

 日暮里駅は、日本鉄道土浦線(常磐線の前身)の日暮里〜三河島間開業と共にできた。以前、常磐線の起点は田端駅で、上野発の列車はスイッチバックを強いられるという不便があった。

 それゆえ、常磐線の起点は上野駅ではなくてココ日暮里駅。宇都宮線と高崎線の線路にはホームすらないが、常磐線の列車は一部の特急列車も停車する。開業は明治38(1905)年4月1日。京成の日暮里駅ができたのは昭和6年のこと。

 4番線と9番線のあいだに中距離列車線と東北新幹線を挟んでいる。東北新幹線はこの駅の構内で地下から顔を出す。日暮里駅周辺でも、再開発ビルの建設などと併せて工事が開始されている。ホームは地上島式4面8線。駅舎は橋上式で、並行して走る陸橋にも出られる構造になっている。

 駅前から東日暮里繊維街通りは歩道はあるが片側1車線のバス通りで道幅一杯にバスが走る。左右に色んな種類の繊維店が店先の歩道まで商品を陳列し、老いも若きも首を突っ込んでいた。そして、左側にはEDWINのガラス張りのビルがあり、尾竹橋通りと交差する日暮里中央通交差点になる。次の信号角には第3日暮里小学校敷地内に食い込んで「夕焼け小焼けの塔」があり、歩道には説明板もある。右側奥の東日暮里4丁目には大相撲の武蔵川部屋がある。

 道は二股になるが、左の細い道は三ノ輪方面へ行く。右側は東日暮里2丁目から台東区へと入り350mも行くと、右側の金曽木小学校前を通り、金曽木小学校前交差点。そして下谷3丁目交差点は昭和通りだが、横切り竜泉1丁目交差点そして左、三ノ輪、右浅草の国際通りを渡り、飛不動前を過ぎ、左奥にある一葉記念館は改築中のため休館との張り紙を見かけた。

 東京クロージング角を右折して吉原へ入って行くと、もう赤いネオン青いネオンがクッキリ見える時間となっていた。お店の前には黒いズボンとワイシャツにキチンとネクタイを締めた、おあ兄いさんが、手持ちぶたそうに一軒づつ店前に立っていたが自転車に乗って汗臭い爺じいは早く立ち去れといわれているようだった。

 馬車道通りの吉原大門の交差点に向かうため、すぐ左折しS字カーブの中程の吉原交番前を過ぎると吉原界隈への東の玄関口、吉原大門の交差点では右折中の浅草雷門から南北に2系統に分けた「北巡り」の小型でシャレたシャトルバスとすれ違った。

 警視庁第6方面本部傍を通り、簡易宿泊所が建ち並ぶ旧山谷地区にやってきた。あいも変わらず飲んだ呉れて寝転んでいたり、コップ酒で気勢を上げていたり、こんな光景は近頃少なくなったようにも見えたが、この日は自棄に多かった。隅田川の青テントも、いろいろ、方策を執っているようだが、何時まで経っても舞い戻ってイタチゴッコで捗らないし困ったもんだ。

 東浅草2丁目の交差点から日の出商店街の通り走り、左にNTTの送受信アンテナと郵便局の北部小包集中局のビルが見え正面には、白鬚橋袂の大林ビルが、右には清川郵便局、橋場交番、隅田川沿いの江戸通りの三叉路角の産業労働会館前を左折して、白鬚橋西詰め交差点を右折。

 月末に行われる隅田川花火大会の防護柵の工事は、台東区側ではまだ行われていなかったが、橋の上から墨田区側は防護柵の取付け工事が始まっていた。向島百花園の朝顔展の横幕もブロック塀に縛ってあった。