草加

埼玉県東南部に位置する。
340-8550埼玉県草加市高砂1-1-1
面積=27.45ku・東西=7.24km・南北7.60km
人口=237694人(男・121693人、女・116001人)
世帯数=98466人
市章
 昭和33年11月1日制定。
草加の草の古字・艸とカの2文字を図案化し
たもので、3個の円は2町1か村の合併、3
つの線は3地区の編入を意味している。








市のシンボル
シンボルマーク

市制35周年記念に作成。
ハープを基本モチーフに
綾瀬の流れ、松の幹を
デザイン化しました。
市の木(松)

 昭和48年11月1日制定。
日光街道・草加松原の黒松並木は、草
加の歴史と文化のシンボルとなっている。
市制15周年を記して市民から募集して
制定された。
市の花(キク)

 昭和48年11月1日制定。
市内の谷塚・新田地区では夏菊や秋菊
の栽培が盛ん。市制15周年を記して
市民から募集して制定された。



 

市民憲章
わたくしたち草加市民は綾瀬の流れと松原をシンボルとして、おおきな夢をはぐくんできました。
人の心を大切にし、自然をいかした住みよい、ふるさとをめざして、ここに憲章をさだめます。
わたくしたちは
 ■平和を愛し、文化的でゆたかなまちをつくります。
 ■きまりを守り、安全で、せいけつなまちをつくります。
 ■健康に努め、親切で、さわやかなまちをつくります。

 


 

草加市歌
想い出はいつも


作詞 中村八大・西村達郎
作・編曲 中村八大
歌:デューク・エイセス
1・朝露を振るわせる 緑の風を追いかけて
  夢の国へと たどり着けたあの頃よ
  聞こえてたあの歌は 明日の空を越えてきた
  幼心に届けられた 小さなしらべ
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と ア
2・陽だまりに見つけた 可憐な花のいろどりが
  若い瞳に まぶしすぎたあの頃よ
  いとしさにせつなさに 誰かの胸に橋をかけ
  初めて一人むこう岸へ 心の旅を
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と ア 
3・夕映えにきらめいて 変わらぬ姿綾瀬川
  過去と未来を 永久につなぐはるかさよ
  草加人とそれぞれ喜び そして悲しみを
  時の彼方へ運んでゆく 大きな流れ
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と
   思い出は何時もこの町と共にある
   生まれ育ったこの町草加と ア

 

昭和63年、市制30周年記念事業の一環として制作
「快適都市草加21」の趣旨を生かし「いつまでもこのまちで暮らしたい」
というイメージをベースにしている





 東京から普通に草加市へ行くには、国道4号線(日光街道)を北上してバイパスで一気に県境の毛長川を跨ぐか旧道(県道足立・越谷線)を進むのが一般的で、その他に産業道路や安行街道を利用している。

 産業道路は八潮市の首都高速八潮南ランプから稲荷町2・3丁目〜松江町〜弁天町〜八幡町から越谷市に入り、越谷市千間台駅東口までの全長17.27qで市内分は3.4q。

 安行街道は足立区から草加市谷塚上町〜柳島町を経て、さいたま市吉場へ至る県道。市内は2,144m。正式には「県道吉場・安行・東京線」という。国道4号線、県道足立・越谷線、産業道路と並んで、草加と東京都を結ぶ幹線道路の一つである。

 県道足立・越谷線は、足立区と草加境の水神橋から越谷市下間久里の一般国道4号線との交差点までの13.3q。市内を南北に縦断し、旧日光街道とも一部重なる。昭和42年草加バイパスが建設され、昭和49年県道に移管。昭和57年、草加松原ほどのため、松並木の中を通っていた上り車線を西側の下り車線に移し替えた。

 草加市の西部を南北に縦断する国道。国内で一番長い国道で、東京都中央区日本橋から青森市に至る739.2q。市内分は6.24q。旧国道4号線(現在の県道足立・越谷線)の渋滞解消のために、昭和42年草加バイパスとして開通。のちに国道になった。

 草加市の玄関口は、東武伊勢崎線の草加駅。明治32年8月東武鉄道北千住〜久喜間の開通とともに営業を開始。昭和30年代前半までは、市外から吉町を中心とする皮革・被服などの工場への通勤客が主だった。昭和35年、東町(現中央2丁目)の公団草加団地(戸数410戸)の完成以後、住宅都市化が急速に進んだ。

 また、地下鉄日比谷線の乗り入れや市の発展に伴い、乗降客は大幅に増加。昭和63年、東武伊勢崎線の高架複々線かにより、高架ホームと新駅舎が完成した。

 2基の福祉エレベーターも設けられた。平成元年、駅の自由通路にマルチビジョンも設置された。また、東口には駅前広場と地下駐車場、西口にはロータリーが設けられた。1日の乗降客は約7万7千人。

 毛長川流域で縄文中期以降の土器などが出土している。草加は居住地というより狩猟などの中継地的な場所であったと思われる。古墳時代になると急激に遺跡が増える。毛長川流域からS字ガメという土器が出土しており、東海地方から入植があったことをうかがわせる。

 鎌倉時代には自然堤防上に街道が築かれ、人が往来するようになった。承久3年(1221)市域は、矢(谷)古宇郷という荘園として鎌倉鶴岡八幡宮に寄進された。室町時代には古利根川(中川)沿いの柿木などに集落が形成されていた。また、市域の各地から板碑が発見され、人々の生活があったことをうかがわせる。

 徐々に新田開発も行われ谷古田領と呼ばれるようになった。江戸時代、市域は柿木などを除き多くが天領であった。奥州・日光街道の整備による「草加宿」が誕生、綾瀬川の改修よる舟運、湿地等の開拓により市域は大きく発展、村落の大部分がこの時代に形成された。文政10年(1827)には草加宿改革組合村が編成され、市域のほとんどが組み入れられた。

 明治維新後、廃藩置県により市域は小菅県に属しのち埼玉県に。明治22年町村制施行により、草加町、谷塚町、新田村、川柳村、安行村が誕生。明治32年東武鉄道が開通。宿場町から駅を中心とした町へと変化していった。

 町村合併促進法により、昭和30年に草加町、谷塚町、新田村が合併、新生草加町が誕生した。その後も編入・分離の動きがあったが、昭和32年に現在の市域が確定した。

 昭和33年県下21番目の市として市制施行。その後、松原団地の建設、営団地下鉄日比谷線乗り入れなど、東京近郊都市として躍進した。昭和62年東武線の高架複々線化完成。平成4年外郭環状道路開通、草加駅東口再開発事業完成で草加市は発展から成熟の時代に入った。


草加宿 

 慶長元年(1596)、徳川家康は「陸奥の駅路」・奥州街道を定め、慶長7年(1602)伝馬を義務付けた宿駅制度を設けた。当時、奥州街道は千住〜越谷間は、八条、大相模を通る迂回路ルートだったため、宿篠葉村の大川図書が中心となり新道開削が行われ、茅原を開き沼を埋め立てて、千住越ヶ谷間をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。これが草加宿の基となったとされる。

 草加宿開拓者の一人、『草加宿由来』によれば、大川図書は小田原北条市に仕え、買っては土本氏を名乗る武士であった。天正18年(1590)の小田原城落城で浪人となり、岩槻に滞在して年月を送った。徳川氏の天下統一の後、盟友であった伊奈備前守のはからいにより、一時谷塚村に住んだが、その後、宿篠葉村に移った。

 慶長11年(1606)付近9ヶ村の人々と相談し、茅野を開き沼を埋めて、大きく東に迂回していたそれまでの奥州街道をまっすぐにする新道を開いた。また、草加付近に奥州街道の宿駅を置くよう幕府に願い出て、周辺で9ヶ村で構成する『草加宿』を開いたといわれている。
  
 さらに、新田の開拓、農業の奨励、寺の建立など、慈善公益の功績が大きかったという。図書の建立した『東福寺』には、『松寿院道樹浄西禅定門俗名大川図書』と刻まれた墓が残っている。

 大川図書の子孫で、かっては『中の大川』と呼ばれた草加宿の旧家。大川邸は江戸末期の慶応年間の建築で、市内に残る唯一の本陣形態を持つ名主屋敷。平成元年には市で制定している『まちなみ景観賞(第2回)』の保存景観賞を受賞した。

 明治天皇巡幸の際に行在所(あんざいしょ)となった邸宅。明治天皇はここに3度立ち寄られた。1度目が明治9年6月2日奥州巡幸の際、2度目は北海道巡幸の往路であった明治14年7月30日。3度目は同年10月11日の同巡幸の帰路時である。

 現在邸宅は解体されているが、綾瀬川左岸広場に移築予定である。住吉2丁目の門前には行在所を示す記念碑が残されている。

 草加宿開拓者の一人、大川図書直系の家に生まれた。大川平八郎(明治38年=1905)〜昭和46年=1971年)草加出身の映画スター。草加尋常小学校、郁文館中学を卒業後に渡米し、苦学しながら演劇を学んだ。その後、ハリウッドで映画に出演。昭和7年に帰国し、同9年東宝映画の前身・PCLに入社し「ほろよい人生」に出演。東宝映画設立と同時に同社に移籍し、「鶴八鶴次郎」「沼津兵学校」「南海の花束」など数々の作品に出演した。

 昭和18年、第二次世界大戦で軍属としてフィリピンに応召。終戦時、現地司令官山下奉文大将が米軍へ投降する際、通訳として抜擢された。その後、東宝に戻ってからも、東宝と米軍の交渉に当たるなど、大いに活躍した。

 昭和32年、米国コロンビア映画社の「戦場にかける橋」に助監督兼俳優として参加した。芸名はヘンリー大川で、大尉の役で出演した。昭和46年5月27日、病のため65歳で逝去。

 その後、日光参拝などの草加新道の交通量が増え、人馬継立てが間に合わなくなると、千住駅からの中間設置の願いが出された。

 当時、新道沿いには集落がいくつか成立していたが、一村で宿を編成できる大きな村がなかった。そこで、幕府は複数の村が宿を編成することを許可、千住・越谷間の「間の宿」として、9ヶ村組合宿による草加宿が誕生。寛永7年(1630)、幕府の伝馬制度の公認によって、日光街道第二宿駅となった。

 9ヶ村とは、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田をさすが、2つの新田はこのころはなく、7ヶ村であったという説が近年だされている。

 開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬役25人、駅馬25頭と小規模だった。旅籠屋も5,6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各々1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったという。

 その後、徐々に人口は増え、元禄期には戸数120軒になった。正徳3年(1713)5月、草加宿総鎮守として市神(神明神社)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁盛するようになった。

 正徳4年(1714)の『草加町組五人組一礼』によれば、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成とあり、このころから享保年間(1716〜1736)にかけて急速に発達した。人馬の数も享保13年(1728)には伝馬役50人、駅馬50頭となっている。

 天宝4年(1843)調査の『宿村大概帳』によると、当時草加宿の街並みは、南北12町(約1.3q)、道路脇には家屋が軒を接し、本陣・脇本陣各一軒、旅籠屋67軒(大2、中30、小35)、人口は3619人だった。

 日光街道の宇都宮、古河など城下町を除けば、千住、越谷、幸手に次ぐ規模で、当時、草加宿は交通上の要衝として栄えた。

 宿場機構では、問屋場(といやば=伝馬)継立業務を代行する役所)が一ヶ所、問屋の補佐役の年寄りが6人(3人で交代勤務)が置かれた。伝馬事務に当たる帳付は3人、馬や人馬の差配にあたる人馬指が6人、使い走りの定使(じょうつかい)という雇い人もいた。

 伝馬制度は公用のためのものだったが、往来が増えるにつれて木賃宿、旅籠屋などの私宿が繁盛し、商い店も増えた。一般の車両通行が禁止されていたので、年貢や生活物資の輸送は舟によった。栗橋以南の各宿場には河岸があり、宿場と河岸が対立することもあった。

 綾瀬川では、草加宿が開設され、現在の河道に改修された寛永年間(1624〜1644)後期に始まった。延宝8年(1680)、幕府が田畑のかんがい用の堰を禁止してから、さらに盛んになった。

 各地に荷物をを積み下ろす河岸が設けられ、年貢米などが運ばれた。17世紀半ばには宿場町との対立が表面化。旅客輸送禁止を幕府に訴えられ、河岸問屋の取締りが行われたが、あまり効果はなく、江戸期を通じて舟運は盛んだった。

 明治に入って、役場による取締りが軽くなったことから、船数、船種とも大幅に増加した。また、このころ代表的な河岸も出来た。甚左衛門河岸に沿ってできた私営の高瀬河岸である。

 この河岸は大正年間に隆盛を迎え、大正5年ごろが最盛期だった。しかし、陸上交通機関の急速な発達により大正末期には閉鎖された。以後、綾瀬川の舟運は農業肥料として下肥を運ぶだけになったが、化学肥料に発達により、これも昭和30年代には姿を消した。中川の舟運もこれと軌を一にして衰退した。


 綾瀬川

 市の中央部を南北に流れる本市の代表河川。県中央部の桶川市にある「備前堤」を発端とする。源流付近では川幅1mにも満たない。伊奈、蓮田、岩槻、川口、越谷をゆっくり蛇行しながら本市に入る。川口・越谷の境界付近では川幅が60mにもなる。川はさらに八潮市、足立区を流れ葛飾区で中川に合流する。流路延長47.3km流域面積178.3ku。

 名前の由来は、改修前の綾瀬川は川筋が定まらず、多くの「瀬」が乱流して、その様子が「綾」に似ていたする説と、流路を度々変えることから、「あやしの川」と呼ばれるようになり、それが転化したとする説がある。

 歴史的には、埼玉、足立両郡の境界をなす荒川筋の本流であった。寛永6年(1629)、伊奈忠治が利根川へ合流していた荒川を入間川の支流である和田吉野川へ付け替え『荒川の瀬替え』や備前堤の築堤により水量の少ない川になった。

 その後、蛇行によって生じる水の滞留を防ぐため、幕府により、しばしば流路の改修が行われた。資料によれば、現在の流路が定まったのは、寛永年間(1624〜1644)とされる。この時代に金明町地先から現在の古綾瀬川に入っていた綾瀬川は、現在の草加松原付近のように一直線に流れる流路に変えられた。

 綾瀬川の各所に田畑をかんがいするための堰が設けられていたが、延宝8年(1680)に幕府がこの堰を禁止。舟運はこれ以降開け、江戸時代、明治時代と隆盛を極めた。しかし、陸上交通の発達にともない、大正時代をピークに減少の一途をたどり、昭和30年以降は姿を消した。

 昭和30年ごろまでは、ホタルも生息していたきれいな川だったが、都市化の進展とともに、水質汚濁が深刻になる一方、大雨・台風時には洪水を引き起こすようになった。現在綾瀬川には治水対策や水質汚濁を防ぐためいくつかの計画があり、『再生』への努力が続けられている。

 綾瀬川放水路は、東京外郭環状道路脇の人工河川。綾瀬川の氾濫防止と浄化が目的。八幡町にある水門と八潮市鶴ヶ曽根を結び、延長4040m。放水路は北一条と南一条の2条を計画、このうち北一条は平成4年8月に通水が開始された。南一条は建設中。それぞれ、幅11m、深さ7m、毎秒最大50tの排水能力を持つ。綾瀬川増水時には中川へ排水し、さらに中川を経由して江戸川に放流する。また、中川の水を毎秒最大5t綾瀬川に導水して綾瀬川を浄化する役目も果たす。

 綾瀬川沿いの藤助河岸、札場河岸、魚屋(ゆうや)河岸、半七河岸、高瀬河岸、二ツ橋河岸の他、中川沿いには、音店(おとだな)河岸などがあった。寛永7年(1630)の草加宿開設から10年ほど後に綾瀬川の改修が完成、幕府より魚屋河岸、札場河岸、藤助河岸の開設が認められた。

魚屋河岸

 最も規模が大きかった河岸。旧手代橋際にあった。荷物の集積場、回船問屋の家、料亭、商家などが並んでいた。

藤助河岸

 越谷市との境界付近にあった。新田地区の米の輸送に利用された。

札場河岸

 神明2丁目にあった。河岸場の石組が復元され、公園として整備された。

音店河岸

 古利根川(中川)にあった。川への落とし(排水路)を利用した河岸。明治の後半まで栄え、渡し舟なども発着していたが、河川改修による水位の低下で廃止された。現地には河岸場を忍ばせる石組が残っている。




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