奥の細道
俳人・松尾芭蕉の筆になる壮大な紀行文。日本三代古典の一つ。現在の東北、北陸にかけての名所旧跡などを歩いた足跡である。旅行後の元禄7年(1694)に完成、芭蕉没後8年目の元禄15年(1702)に刊行された。書名は宮城野から松島へ行く間の地名によるという。
芭蕉が門人の曽良(そら)を伴って、奥州に旅立ったのは元禄2年(1689)3月27日。この時芭蕉は46歳。旅立ちのくだりはつとに有名である。「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり・・・・・」。草加松原遊歩道の「百代橋」は、この書き出しにちなんで命名された。芭蕉は江戸深川を船出して千住に向かい、ここで見送りに来た人たちに別れを告げた。
こうして千住を後にした芭蕉は、日光街道第二の宿駅・草加にたどり着く。「ことし、元禄二年(ふたとせ)にゃ、奥羽長途の行脚(あんぎゃ)ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の憾(うら)みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らねばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早(草)加といふ宿(しゅく)にたどり着きけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物、まづ苦しむ」。
草加は千住より2里8丁(約8.8q)。『曽良随行日記』によれば、その夜2人が泊まったのは、草加より4里10丁(約17q)先の粕壁宿(現在の春日部市)だった。芭蕉が草加と記したのは人々との別れを惜しみ、肩の荷の重さに苦しみながら歩いた第1日目のたどたどしさを強調するためだったのではないかという説もある。
いずれにしても『おくのほそ道』の中で最初に登場する地名であることは、大きな意味をもっている。当時の草加宿周辺は、綾瀬川が現在の流路になった後で、のどかな風情が芭蕉の目に留まったのかもしれない。
芭蕉は、その後、奥州、北陸を巡り、全行程2400km、5ヵ月にも及ぶ道のりを歩き、『おくのほそ道』を完成させた。
松尾芭蕉は正保元年(1644)〜元禄7年(1694)江戸前期の俳人。伊賀上野の城東、赤坂で生まれた。父は松尾与左衛門。幼名は金作。のち、藤七郎、忠右衛門、甚七郎と改名した。俳名は、宗房(そうぼう)、桃青(とうせい)を経て、芭蕉を名乗る。
幼少より、士(さむらい)大将で食録5千石の藤堂新七郎の嗣子、良忠の小姓として仕えた。良忠は芭蕉より2歳上。蝉吟(せんぎん)と号して俳諧をたしなみ、京の貞門俳人・北村季吟を師とし、芭蕉もその風に染まった。
寛文6年(1666)、蝉吟が25歳で夭逝すると、致仕(辞職のこと)を願い出たが許されず、無断で出奔したという。その理由は明らかでない。こののち、たびたび京都へ出かけたらしい。当時すでに発句、附句を発表した。寛文12年(1672)、29歳のとき、伊賀上野の天満宮に奉納した三十番発句合(あわせ)『貝おほひ』を著した。当時流行の奴(やっこ)俳諧の1種。小唄、方言を駆使している。
寛文6年春に、「雲と隔つ友かや雁の行きわかれ」の句を残して江戸に移った。日本橋周辺に暮らし、延宝3年(1675)には俳名を桃青とした。その年、俳諧に新風を起こしたと評判の西山宗因が江戸に来ると、芭蕉もこれに心酔。季吟門下の山口素堂や小西似春と交流を深めながら俳壇活動に力を入れ、『江戸両吟集』や『桃青三百韻』を出版した。
芭蕉34〜35歳当時の延宝5年〜6年(1677〜78)、俳諧宗匠であることを世間に認知される俳諧万句を披露して一門を確立、門人も急増した。延宝8年(1680)冬、それまで暮らしていた小田原町(現在の中央区)から隅田川の東、深川六間掘りに住いを移した。芦荻(ろてき)の茂った閑寂の地で、当所この住まいを泊船堂と名付けたが、翌年春、門下李下(りか)から芭蕉1株を贈られたことから、芭蕉庵と呼ばれるようになった。芭蕉の名も、ここに由来している。
この頃芭蕉は、老荘思想や杜甫、李白、蘇東坡などへの関心を抱くようになり、さび、幽玄への志向を示しはじめていた。また、芭蕉庵近くの禅寺の住職・仏頂と親交をもち、作品にも観照的な世界観がのぞくようになった。「暮れ暮れて餅を木魂(こだま)の侘寝(わびね)かな」、「芭蕉野分きして盥(たらい)に雨を聞く夜かな」などは、深川に移ってからの作品である。
漂泊の詩人といわれる芭蕉の旅路が始まるのは、貞享元年(1684=41歳)が秋、入庵後4年目のことである。かって大流行した宗因風がすたれ、俳諧は新たな世界を求めて模索していた。その先頭に立った芭蕉は、旅中の吟行でこれを実践しようとした。
まず、伊勢神宮を経て故郷・伊賀へ。さらに大和、未の、名古屋から再び伊賀、奈良、大津、名古屋をたどり、翌年4月江戸に戻った。
この紀行文が『野ざらし紀行』(貞享2年)である。「道のべの槿(むくがげ)は馬に食はれけり」、「山路来て何やらゆかし菫(すみれ)草」などは画期的な句として評判を得た。
また、道中の名古屋で門弟たちと巻いた五歌仙『冬の日』も好評を博し、『七部集』の第1を飾ることになった。貞享3年春には、「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を含む『七部集』第2の『春の日』を刊行した。
翌4年8月には、鹿島神宮に仲秋の名月を賞すべく小旅行に出、『鹿島紀行』を著した。直後の10月には『笈の小文』の旅に出る。「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の井出吟を残して、名古屋、伊良湖崎、伊賀上野、伊勢、高野山、和歌の浦、奈良、大阪をまわった。翌年夏、信州更科の姥捨て山に名月を賞すべく木曽路を歩き、江戸へ戻った。この木曽路の旅は『更科紀行』としてまとめられた。
翌元禄2年(1689)『七部集』第3の書『阿羅野』を刊行、年頭からまた旅心がおこり、3月末、門人曽良をともなって奥州、北陸の旅に出る。まったく未知の旅であったが、その成果が日本文学史上に大きな名を残した『おくのほそ道』である。
その後、伊賀、上野の間を行き来し、元禄3年4月から秋まで石山の奥の幻住庵に住む。8月には、近江の蕉門により第4の書『ひさご』が完成した。
元禄4年には、洛西嵯峨の落柿舎に滞在し『嵯峨日記』を書いた。7月には第5の書『猿蓑』を完成。さび、しをり、細みの理念を追求した選集であった。
江戸へ帰った芭蕉は、江戸俳壇の俗調に同調せず、元禄7年第6の書『炭俵』で”軽み”を実践した。5月には、西国の俳人たちにその句境を伝えようと旅にでた。「此道や行人なしに秋の暮」、「秋深き隣は何をする人ぞ」などの吟詠に、軽みの極み”無私”の世界が垣間見える。この旅は長崎まで行く予定だったが、元禄7年(1694)10月12日、大阪の旅舎花屋で51歳の生涯を閉じた。辞世の句は『旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る』
没後の元禄11年(1698)に『七部集』の最後『続猿蓑』が8年後の元禄15年(1702)に『おくのほそ道』が刊行された。
札場河岸公園には、奥の細道旅立ち300年を記念して制作されたブロンズ像がある。松尾芭蕉が江戸深川から『おくのほそ道』の旅に出立したのは、元禄2年(1689)3月27日。
平成元年はその300周年にあたり、市民団体(草心会)の呼びかけで、「芭蕉像をつくる会」が組織され、平成3年に像が完成。像は右手に杖を持ち左肩に笠をかけている。
像の制作者は、稲荷町4丁目に住む彫刻家・麦倉忠彦氏。像は、友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように、見返りの旅姿をしている。台座側面には、芭蕉研究の第一人者・尾形仂(つとむ)氏による芭蕉と奥の細道に関する一文が刻まれている。
神明神社と山寺
旧日光街道と県道足立・越谷線との分岐点付近に、天照大神を祭神とする神明神社がある。神明神社は、「風稿」の中で「宿内の惣鎮守として土人市神と称す、村持」と書かれ、「草加見聞史
全」によれば、元和(1615年〜1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりで、正徳3年(1713年)草加宿組9ヶ村の希望により宿の総鎮守として現在地に移されたという。
天保年間(1830年〜1844年)に社殿を焼失したが、弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基して、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」
山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院立石寺といい、山形市の東北部に位置している。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山し、その年代について「円仁置文」、「円仁注進状」は貞観2年(860年)と伝えている。
立石寺は、開山後すぐに380町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596〜1624)期は2420石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けて長期の歴史を刻み、徳川3代将軍家光の代に1420石の御朱印地となった。
立石寺の歴史を支えた人物としては、戦乱期に衰退した立石寺に根本中堂を再建した山形初代城主斯波兼頼のほか、天童頼長に破壊された諸堂を慶長年間(1596〜1615年)に修築した立石寺第38世円海和尚、諸堂の修理再建に努めた53世寛雄和尚、私財1800両余を投じて参道や諸堂を修改築した65世情田和尚などが挙げられる。
天台の教学道場として開かれた立石寺は、古来より「奇岩怪石」の霊窟として広く知られ、凝灰岩の岩質やその肌を抉(えぐ)る多数の風化穴は幽境の聖域に情趣に満ちた音響効果をもたらし、中谷に響きわたる蝉の音は芭蕉をして「岩にしみ入」と言わしめた。
対面石から大日堂を経て登山口に辿る。なだらかな石段を登った先に、貞観2年(860年)慈覚大師が創建した根本中堂がある。立石寺は一山の総称でその名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂且つ中心道場である。堂内には大師自作の薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されている。
根本中堂は正平12年(1357年)出羽按察使斯波兼頼が再建し、慶長年間(1596〜1615年)に大修理が施された。明治41年(1908年)に特別保護建造物に指定され、現在は、国指定の重要文化財になっている。昭和38年(1963年)、再建から600余年ぶりに解体修理が行われ、建立当時のものに復元された。
根本中堂には、千年以上の昔から火を灯し続ける法燈がある。これは、天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたもので、慈覚大師は立石寺開山の際、比叡山からこの火を伝え、奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈の3つに分けた。
しかし、大永元年(1521年)、天童頼長により一山が焼かれたことから、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受け、また、その50年後の元亀2年(1571年)、織田信長によって比叡山が焼き払われたため、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたという経緯もある。こうして「千年不滅」の法燈は今も山寺にあって火を灯し続けている。