保木間堀親水水路
由来
約250年ぐらい前のこと保木間の付近の農民たちは、毎年ように起こる利根川や荒川の洪水に悩まされていました。その頃日本を治めていた江戸幕府は、たくさんのお米が取れるようにするために川の流れを変えたり堤防を造ったりして、大水を防ぎました。もともと保木間あたりの田圃では、利根川や荒川が大水の時に溢れて溜った見沼(埼玉県)の水を使っていましたが、洪水が起こらなくなったために、見沼の水は少なくなり、下流の保木間まで届かなくなってしまったのです。そこで幕府ははるか遠くの利根川から見沼に代わる用水として見沼用水路を造ったのです。
見沼用水路に入ると神領堀、西新井堀、本木堀、千住堀、竹の塚堀、保木間堀の六つの堀に分かれていました。保木間堀はこのあたりの田圃に水を引く大切な用水路だったのです。
この水路沿いを進むと、左側、住居変更前の伊興町挟間には伊興寺町と寺ばかりと思われるほどの寺が散在している。道路沿いから法受寺、浄光寺、易行寺、善久寺、長安寺と並び、さらに横奥には西門寺、その奥には本堂の屋根しか見えない栄寿寺、正安寺、東陽寺、常福寺、本行寺、蓮念寺、さらに奥に応現寺、さらにさらに奥には東岳寺。
伊興町挟間地区は、大正12年(1923)の関東大震災後、浅草地区の区画整理などで転入してきた寺院によって形成されました。徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の菩提寺である法受寺、歌舞伎で名高い花川戸助六の墓がある易行寺などが甍を並べている。「東海道五十三次図」や「名所江戸百景」で知られる江戸浮世絵師初代安藤広重が眠る東岳寺。
関東震災後に移ってきた当時は静かな環境であったが、いまは、西新井橋から、安行に向かう補助100号線に面しており、車の通行量が多く、賑やかな町中になった。
浮世絵「東海道53次」を描いて有名な広重。そのの墓はもと浅草にあったが震災後にここに移ってきた。辞世の句:「あづま路に筆を残して旅の空、西の御国の名どころを見む」の直筆が刻まれている。
伊興は足立区でも早くから人が住み始めたところで、東伊興2丁目にある氷川神社付近を中心に弥生後期から古墳時代に至る土器や祭祀遺物、住居跡などが出土している。
道なりに進むと、まもなく伊興遺跡公園が左側に現れる。伊興遺跡は中心にある芝生の公園 (820坪)、復元住居、展示館 (入場無料)等があり公園と道路を挟んだ隣の氷川神社を北限とし、南北660m、東西690mの広がりを持つ、都内でも屈指の古墳時代遺跡である。
以前から多数の遺物が出土していたが、昭和30年代に入り、国学院大学の故大場磐雄教授雅が学会へ紹介したことにより、世に知られることになった。
大賀教授は郷土史家の故西垣隆雄氏の収集品の中から、他ではあまり出土例のない子持勾玉(まかたま)と古式須恵器を発見し、古代祭祀との強い関連を考える立場から、伊興遺跡を祭祀遺跡として全国的に紹介した。
その後、数回の調査が行われたが、広い遺跡範囲に比べ小規模な調査であったため、遺跡全体の姿を明らかにするまで至らなかった。
平成に入り、大規模な調査が公園地内で行われた。調査の結果多くの住居址があったことを推定させる溝跡やビット(小穴)、方形周溝墓、祭祀に用いられたらしいおびただしい土器、石製品、玉類、須恵器などが発見された。
この地点は、伊興遺跡ばかりではなく、出土品や確認される遺構が増えるにつれて、祭祀遺跡ばかりでなく、古墳時代における毛長川流域の政治、経済の中心的な役割を果した遺跡であったとも考えられるようになった。
★方形周溝墓
古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓である。周囲を溝で区切りなだらかな墳墓もあったとされている。稲作農耕の発展に伴い村々で力をつけた有力者の墓であり数体の遺体を埋めた場合もあった。やがて村々は統合されて国になり、強大な権力のもとに古墳が造られるようになった。
しかし、方形周溝墓そのものは古墳を造り続けられた。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造り出すことの出来ない地位の低い有力者の墓と考えられている。遺跡公園で見つかった方形周溝墓もこの頃造られた。
★土器出土状況レプリカ
遺跡公園南側の黒褐色をした土中から土器が見つかった状態を復元したものである。土師器、須恵器、玉類が集中的に出土している。出土土器には形が完全なものや大型破片のものが多く、東京湾と毛野地方(埼玉県、群馬県)を結ぶ毛長川の水運の安全やあるいは五穀豊穣を祈願する「まつり」が終わった後に、それらは意識的に捨てられたらしい。
このように、多量に遺物が出土していることは、まつりの規模が大きなものであり、しかも繰返し行われたと思われ、古代人の人々のカミへの祈りのさまが伺える。
古墳時代中期の壺や高杯(たかつき)の破片が多数出土している。合わせてみると、完全な形になるものが多い。破片がほとんど揃うという点は、これらの土器が他の場所で壊され、この地点に運ばれて捨てられたと考えるより、この地点で壊され、そのまま放置されたと考えたほうがより妥当である。
しかもこのような出土状態にある土器が多数を占めている。出土した土器には使用された痕跡はあまりなく、使用せずにそのまま壊されたことも想像される。
臼玉も散乱し、特殊な出土状態であることが理解され、祭祀が執り行われた跡と考えたい。公園地区にはこのような地点が多数存在した。
★竪穴式住居
竪穴式住居は縄文時代から続いた住居の形で貴族や武士が瓦葺や
古墳時代(6世紀)の竪穴式住居内部の様子は、土器や木製の容器を編んでつくったカゴには、お米をはじめ周辺で取れた食べ物が並び、川にはコイ・カラス貝など、海ではサバ・スズキなど、川と海の両方の魚や貝を捕ることができた。
川辺近くに広がる池や沼地では、ハスの実・レンコン・ヒシの実が、シカやイノシシのいる森からは、クリ・キノコ・ヤマイモが採れまた、ヤマモモ・カキなどの果物の種も見つかっている。
右前方には、伊興古墳の北限といわれる氷川神社(淵の宮)がこんもりと大木に覆い囲まれている。
氷川神社 (東伊興2-12-4)
祭神 須佐之男命 大己貴命 櫛稲田姫命
末社 浅間社 稲荷社 熱田社 白旗社
当社は、足立区内最古の氷川社で、往古、淵江領の総鎮守であった。江戸期に村々の開発が進むと共に、各地の鎮守が祀られ、この社は、伊興、竹の塚、保木間三村の鎮守となり、明治5年から伊興村の村社となった。奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化して行く過程で、この付近が最も早く陸地となり、大宮台地あたりからの移住者が武蔵国一の宮の氷川社から分霊を勧請したものと考えられる。
当時は、また、この周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として淵江郷、淵江領が生じたものであろう。
付近一帯は古代遺跡で弥生式土器、土師器、須恵器また鏡、曲玉、管玉、臼玉などの祭祀遺物や漁具として土錘、さらに住居跡、井戸跡など生活遺構がたくさん出土しており、伊興遺跡といわれる埋蔵文化財包蔵地を形成している。
昭和57年12月足立区登録記念物(史跡)として
氷川神社前の三叉路信号を右に200mも行くと毛長川に行き当る。真直ぐ行くと緩やかなカーブが150mも続くと交差点になり、そこからもっと緩やかなカーブを右左に、交差点を5つも行過ぎると赤山街道の三叉路、「はんの木橋交差点になるが、それまで続いていた細い水路が消える。どうやらここまでが保木間堀親水水路らしい。
この親水水路は、ずうーと右手奥を並行するように毛長川が流れている。そして、やがて表われる見沼大親水公園にも並行して、毛長川に架かる砂子橋辺りで南下して入谷中央公園辺りで消える。
見沼代用水は毛長川の下を通り川口市、安行、鳩ヶ谷市の桜町6丁目辺りまで溯上れる。れ