新川あたり



新川の跡

 新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川からの分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590m川幅約11mから16mと、狭い所と広い所があり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
 この新川は豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため万治3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えれています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれていました。
 昭和23年、新川は埋立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。

豊海橋

 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後、何回となく架け替えられ現在に至っています。現在の橋は震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者フィーレンデールの名をとったものである。悌子を横にしたようなこの名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので我が国では本橋以外に数例しかなく希少価値の高い橋です。
 日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で江戸の繁盛と共に生きてきた川です。
 日本橋川に架かる橋名は河口から、豊海橋、湊橋、茅場橋、鎧橋、江戸橋、日本橋、西河岸橋、一石橋の計八橋です。
 現在の豊海橋は大正15年(1926)5月起工、昭和2年(1927)9月竣工。日本橋川が隅田川に流入する河口部の第1橋梁です。橋の歴史は古く江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当、隅田川主流の河口部の第1橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、悌子を横倒しにしたような外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヶ所あるのみで近代土木遺産としても貴重な橋で区民有形文化財に登録されています。

高尾稲荷神社起縁の地

 豊海橋の右門に説明札がある。江戸時代この地は徳川家の船手組持場であったが、宝永年間(1708)の元旦に下役の神谷喜平次という人が見回り中、川岸に首級が漂着しているのを見つけ手厚く埋葬した。
 当時万治(1659)のころ、吉原高尾太夫が仙台候伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして、隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅に染めたといい伝えられ、世人は自然、高尾の神霊として崇め唱えるようになった。
 そのころ盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷の起縁となった。
明治の頃この地には稲荷社及び北海道開拓使東京出張所(後・日本銀行開設時の建物〕があった。その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移された。

湊橋

 この橋は、霊岸島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、宝永7年(1679)に架けられました。
 この地域は江戸時代から水路交通の要所として栄え、特に、江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所絵図」によると、この橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また、橋を挟んだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。
 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。現在の橋は関東大震災後の復興期に再建されたもので、平成元年の整備事業において、装いを新たにしました。

橋の諸元
形式 橋長 有効幅員 着工 竣工 総工費 施行者
三径コンクリート
アーチ橋
49.68m
18m(車道11m
・歩道3.5m×2)
昭和2年5月
昭和3年6月
208,000
東京市

新亀島橋

 新亀島橋が初めて架けられたのは明治15年(1882)2月、長さ15間(約27m)・幅3間(約5.4m)の木橋であったと記されています。その後、大正15年(1926)3月に関東大震災後の復興事業により鋼桁の近代橋として架け替えられ、幅も15mと三倍近くに広がりました。
 新亀島橋の名前は、この橋の下流に位置し、元禄の時代から架かる亀島橋に対して新の字を冠し新亀島橋と名付けました。
 茅場町側の橋詰付近には、昭和の初め頃まで亀島町と呼ばれており、その昔、瓶を売るものは多かったことに由来し、瓶島町がその起こりといわれています。江戸時代には町奉行配下の与力たちの屋敷が並び、また、亀島が環に臨む亀島町は水運を活用していたであろう米穀問屋が多い町でした。
 新川側は、菱垣廻船や樽廻船が往来し、上方から来る下り酒と呼ばれる酒を扱う酒問屋で賑わいを見せ「江戸新川は酒問屋をもって天下に知られ」といわれるほどでした。
 時代は平成となり、亀島川の耐震護岸整備の一環として生まれ変わった新亀島橋は、地域と亀島川の歴史的関わりを基調として、「廻船」をモチーフにデザインされました。「歴史と文化を後世に伝える架け橋」として江戸情緒をたっぷり取り入れ、各所に浮世絵風の意匠を凝らしています。

堀部安兵衛武庸之碑

 新亀島橋の袂には大きな碑が建っている。越後新発田5万石溝口藩中山野次右衛門の子寛文11年生まれ元禄元年江戸之合流堀内道場入門元禄4年玉木一刀斎道場師範元禄7年2月高田の馬場に於叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎太夫家の居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高200石元禄14年10月本所林町に於長江長左衛門の名で剣道指南元禄15年12月14日赤穂義士の1人として吉良邸に乱入仇討す元禄16年2月4日没 34歳 法名刀雲輝剣信士

亀島橋

 亀島橋は元禄12年(1699)の町触に橋普講の記載があり、このころ架橋されたと考えられる。大正12年(1923)関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和4年(1929)に鋼上路アーチ橋として復興されたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出された。「亀島」の名称は、昔、瓶を売るものが多くいたからとの節と、かった亀に似た小島があったからという説がある。
 今回の架け替えに当り、当時のデザインを生かしつつ、地域のシンボルとして21世紀に誇れる橋とした
 江戸時代の八丁堀には町奉行所配下の与力・同心の組屋敷が置かれ、新川は酒問屋を中心とした問屋の町として栄え、亀島川には全国から物資を運ぶ船が往来し、繁栄していた。
 現在亀島橋は東京駅と大川端リバーシティ方面を結ぶ重要な橋であり、亀島川は江戸時代の名残をとどめる貴重な川の一つとなっている。

東洲斎写楽

 亀島橋の袂には、江戸時代の浮世絵師の説明板がある。天明から寛政年間頃の人。寛政6年(1794)5月から翌95年の正月までの10ヶ月間で、役者絵、相撲絵の版画約140点を製作した。
 写楽はそれまでの常識を覆す雲母摺りの豪華な背景を、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の1人として世界に知られている。
 写楽の生涯や正体は不明な点が多かったが、幕末の考証者・斎藤月岑(げつしん)は「増補浮世絵類考」1844年で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。
 さらに、平成9年(1997)埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に住み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が文政3年(1820)3月7日に58歳で死亡した」との記述が発見され、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになった。

伊能忠敬

 延享2年(1745)〜文政元年(1818)。近代的日本地図作成の基礎を築いた人。下総国(現・千葉県佐原市)の名主を務めていたが、52歳の時に江戸に出て西洋天文学の勉強を始めた。56歳から72歳にわたり、延べ3737日、約40000kmの及ぶ徒歩の日本全国測量を行った。その成果を編纂した「日本沿海輿地全国・実測録」は我国の八点に大きく貢献し、海外でも高く評価された。文化11年(1814)深川の隠宅を八丁堀亀島町に移した忠敬は、地図作成を続け、4年後この地で歿した。

越前掘跡

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主・松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前掘」と通称されていました。越前掘の護岸は石垣で今でも建設工事や遺跡の調査中に越前掘のものとみられる石垣石の出土することがあります。堀の幅は12間〜15間(20m〜30m程)もあり、運河としても用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前掘」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も戦後完全に埋め立てられました。その後、町名が改められ「新川」となって現在に至っています。
 今では往時を偲ぶ「越前掘」の名は、ここの越前公園にみられるのみとなりました。
(石の由来)
 この公園で使用した石は、昭和60年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際、雉子橋付近から発生した石垣の一部です。
徳川幕府は慶長10年(1605)第2期江戸城建設にあたり、江戸城およびお堀の石垣採取輸送を中国、四国、九州の31大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、輸送、陸揚げ等一連の作業は困難を極め、大変なお金と労力と犠牲が払われています。
 また、石には各大名・組頭・石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。

河村瑞賢

 江戸前期の商人・治水・海運の功績者。伊勢国(三重県郡南島町)出身。土木業を営み幕府や諸大名の工事を請け負い治水事業に尽くすと共に海運事業でも東廻り航路と西廻り航路を確立した。
 〔新川〕は現在の新川1丁目を東西に流れていた運河で万治3年(1660)瑞賢が開削したと伝えられ、昭和23年(1948)埋立てられるまで重要な運河として栄えた。瑞賢は運河に面して広大な屋敷を構えた。この地で歿したといわれている。

御船手組(将艦河岸)

 江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。
 大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任じられた向井将艦忠勝(1582〜1641)を始め、向井家は代々、将艦を名乗り御船手頭を世襲したことから亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将艦河岸と呼ぶようになった。
 また、明治22年(1889)に東京湾汽船会社発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和にわたり港町の伝統を引き継いでいた。

徳船稲荷神社

 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲まれ、雄大に構えていた(旧町名・越前掘はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られたいたという。御神体は徳川家の遊船の舳を期って彫られたものと伝えられる。
 明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正11年に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年隅田川畔(現・中央大橋北詰辺り)に社を復活し守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年同処に再現のあと平成3年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
例祭は11月15日である。 新川2丁目越一町会崇敬会

南高橋

 この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業の一つとして、昭和7年(1932)に架けられた。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては最も古い橋です。
 また、構造上の特徴は、トラスの一部の端に丸い環のついた"アーイバー"が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝えるものとして中央区民文化財に登録されている。

橋梁の諸元
形式 橋長 幅員 着工 竣工 総工費 施工者
甲下路式単純
ブラットラス橋
63.1m
11m(車道6m・歩道2m×2)
昭和6年1月
昭和7年3月
76,600
東京市

 「歌舞伎座の前より乗合自動車に乗り鉄砲州稲荷の前にて降り、南高橋を渡り越前掘りなる物揚波止場に至り石に腰をかけて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行きの汽船2、3艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語う男女2、3人あり。岸につなぎたる荷船には、しきりに浪花節をかたる船頭の声す」。  永井荷風「断腸亭日乗」より