隅田公園
桜の名所として江戸時代には、今にも消えてなくなってしまいそうな”鐘紡本社”発祥の地の先の古隅田川(綾瀬川)が、合流するあたりまで隅田公園といわれていたが、今では精々少年野球場のあるあたりから吾妻橋ほとりの墨田区役所近辺までだ。しかし、こちら墨田区側と台東区側には、いろんな名所旧跡がある。隅田公園は現在も、春は墨田、台東の墨堤桜の花見とレガッタで、夏は隅田川の花火と、多くの人々が訪れてにぎわっている。隅田川といえば、江戸時代以来の庶民の行楽地。この江戸情緒が濃厚な川に関東大震災後、大正モダニズムの影響をうけた公園が建設された。浜町公園、綿糸公園と並ぶ震災復興の三大公園の一つ、隅田公園が整備建設されたのである。
隅田公園はそれまでの隅田川の風景を一新した。ローヌ河やナポリの美しい水辺をモデルにした設計は、当時きわめて斬新なものであったという。
なお、公園の管理は昭和50年に都から墨田区と台東区へと移った。
墨堤植桜之碑
明治20年(1877)に建てられた約3mの巨大な石碑です。向島に在住した榎本武揚揮毫による篆額、浜邨 大(はまむらたいかい)の文と撰による。
当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられましたが、水害等のために明治29年(1896)8月に現在の位置に移されました。
墨堤は、『江戸名所花暦』に「江戸第一の花の名所」と称された桜の景勝地で、堤に初めて桜を植えた来歴から大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し、顕彰したい願いが朗々と刻まれています。
明治時代始めに、桜の樹齢である60〜70年に重なり桜が枯れたため、この状況を憂えた大倉喜八郎が、その再生を成島柳北に呼びかけ、一千本の桜を植えました。これがきっかけとなり、安田善次郎などの財界人をはじめ村人までもがひとつとなり、石碑の建立が成し遂げられました。
常夜灯(墨田区向島5−1)隅田公園内
明治4年牛島神社が、この付近にあった頃、神社へ行く坂の途中に建立され、川船のための灯台で安全を祈るもののであり、墨堤の燈明をかねていた。
燈籠を目印に花見客が集まり、ここで一息入れて、散策を続けた江戸、明治の風情を回想させる懐かしい遺品である。燈籠に「本所総鎮守」と刻んであることが、本所一円の鎮守神である社格を証明している。
右石に刻んである奉納者の氏名は、本所にゆかりのある人々に親近の情を起こさせる。
明治4年牛島神社がこの付近にあった頃、神社へ行く坂の途中に建立され、川船のための灯台で安全を祈るものであり、墨提の燈明をかねていた。
燈籠を目印に花見客が集まり、ここで一息入れて、散策を続けた江戸、明治の風情を回想させる懐かしい遺品である。燈籠に「本所総鎮守」と刻んであることが、本所一円の鎮守様である社格を証明している。
台石に刻んである奉納者の氏名は、本所にゆかりある人々に親近感の情をおこさせる。
寛政11年(1799)4月銘の常夜燈は、総高250pで安山岩製です。裏面に年号、基礎部分には「武州八王子井田林右衛門 同青梅小林十郎右衛門 甲州郡内殿上佐藤嘉兵衛 同鶴川志村四郎衛門 武州中神中野久治郎 同油平戸田彦兵衛」と奉納者の名前が刻まれています。記された地名はいずれも関東絹の産地で、この6人は越後屋江戸向店の各地方における在方仲買人であることから、三囲神社を守護神と崇め経済的援助をしていた三井家、特に江戸向店(こうだな)との関係から奉納されたものと考えられます。
この常夜燈が奉納された年は、江戸時代において最も盛況だったと伝えられる三囲神社のご開帳がありました。また、倒壊してしまいましたが、新吉原中ノ町にあった三井家なじみのお茶屋・一文字屋嘉兵衛が奉納した常夜燈の竿も境内の隅に残されています。
昭和45年11月3日 建設
石造標柱
大正12年(1932)の関東大震災は隅田川沿いの人々に大きな打撃を与えました。住宅、工場はもとより、江戸時代から続く名所・墨堤の桜も壊滅的な状態となりました。そのような中、帝都復興計画事業の一環としての防災公園、隅田公園は大正14年から着工し、昭和6年に開園しました。
機能的ではありましたが、味気ない公園に憩いと潤いを与えようと、当時の吾妻橋親和会の人々44人が、江戸から続く墨堤の桜を復活させようと、多くの桜を植栽しました。その記念に翌7年4月に建立した標柱です。
当初、吾妻橋のたもとに建てられていましたが、平成元年のスーパー堤防及び墨田区役所新庁舎整備の際に現在地に移されました。
区登録名勝「墨堤の桜」、区登録文化財「墨堤植桜之碑」とともに、墨堤の歴史を物語る資料。
牛嶋神社力石群
江戸時代、腕力や体力を鍛えた者が、重い石を持ち上げて力競べなどを行いました。この時に用いた石を力石と呼びます。江戸や大坂では力自慢たちにより、‘力持番付’が付けられるほど、盛んに行われました。その発祥は、本所・深川であったと考えられています。また農村では、おとなに仲間入りするための通過儀礼のひとつとされました。力石を使った力競べは、明治時代以降は廃れていきました。
牛嶋神社の境内には9個の力石が集められています。力石には、重さや年号が刻まれるばかりではなく、強さの代名詞として刻むことも多くあり、「麒麟」石や「雲龍石」もこうしたうちの一つです。
中には、石を持ち上げた力持ちの名を刻む場合もあります。「内田店平蔵」とは、寛政6年(1794)から活躍していた‘石の平蔵’のことで、各地にその名を残した職業的力持ち力士だったようです。「馬石」は、馬の顔のように長い石で90cmもあり、「さし石」は、この石を差し上げたことから刻まれたようです。
コンクリートで固定されているために、重量については不詳ですが、刻まれた数値を信ずるならば、45貫目から55貫目(約169kgから206kg)もあることになります。
隅田囃子(箕輪囃子)
江戸の祭囃子の起源には諸説があり、享保年間(1716〜1735)に葛西神社(葛飾区)の神主が創作して、若者たちに演奏させたのが初めといわれます。後に多くの流派が誕生しましたが、代表的なものが隅田囃子(美濃がえくづし・三輪囃子とも)です。
屋台・昇殿・神田丸などの曲目を、五人囃子と呼ばれる形態で演奏します。大太鼓1、締め太鼓2、篠笛1、鉦1から構成され、完奏に1時間を要します。そのため、現在では15分程で曲を切りつなげる切り囃子(葛西囃子・神田囃子)が一般的です。現在、昔ながらの隅田囃子が保存・伝承される地域は、足立区柳原地域と墨田区墨田地域だけです。
箕輪家流墨田囃子保存会は、昭和33年に発足以来42年間、隅田川神社の祭礼を中心に活動を行っています。会員は88人を数え、周辺地域の囃子連への指導員の派遣なども行っている。
幸田露伴文学碑
世おのづから数といふもの有りや。ありといへ場有るが如く、無しと爲せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを始め、大旱地を焦がせども、湯の徳これを済へば、数あるが如くにして、而も数無きが如し。 「運命」より。
大蔵喜八郎別邸跡
この一角は、田沼意次にとり入り、養女を大奥にいれて権勢をほしいままにした。中野碩翁の別邸跡で隅田川に面してを贅こらしていた。そこを明治の政商、大蔵喜八郎が受け継ぎ、大蔵別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた「蔵春閣」は船橋の「ららぽーと」に移築されている。
(共栄倉庫株式会社)
立札
都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、野口雨情氏が昭和8年門下生の詩謡集の序詞執筆のため、当地に来遊の折、唱われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
(昭和63年10月9日)
長命寺
当寺の寺号の由来については有名な故事がある。その昔3代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ず、この寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後長命寺と改めたのである。
長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財産をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。写真は長命寺にある木の実ナナさんの石碑。
風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる
とあります。地元出身だからということでしょうか、それとも芸能の上達ということでしょうか、どんな経緯で碑が建ったんでしょうか?
芭蕉雪見の句碑
芭蕉の句碑は全国で1500余を数えるといわれているが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」というこの雪見の句碑は、最もすぐれたものの一つである。松尾芭蕉の門人蟻食う祇空は、この地に庵をつくり、その後、祇空の門人自在庵祇徳は庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂とした。そして、3世自在庵我徳が芭蕉の風と徳を慕って、安政5年(1858)庵を再興し、この句碑を建立した。芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林風の俳諧を不動なものにした。元禄7年(1694)旅先の大阪で歿したが、其角など数多くの門弟を輩出している。
弘福寺(布袋尊)
黄檗(おうばく)宗弘福寺は、300余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実は、その黄檗禅の性格に深くかかわるのである。
布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は盡きることがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけはないことを、身をもって諭した。有徳として、世人の崇敬を受け、七福神としても敬われたのである。
三圍神社(大国神・恵比寿人)
三圍神社神社の別殿には、古くから大国、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終わり頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人々によって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始された時、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。
大国神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大国を同じ音の大黒とも書く。
雨乞の碑
元禄6年(1693)は非常なかんばつで、困り切った小梅村の農民が三囲社頭に集まり、鉦や太鼓を打ち鳴らしていた。ちょうど俳人其角が門人の白雲を連れて吉原へ遊びに行く途中、三囲に詣でたところ、雨乞をしているありさまをみて能因法師などの雨乞の故事にならい「遊(ゆ)ふた地や 田を見めぐりの 神ならば」と詠んだのがこの句である。其角は寛文元年(1661)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、江戸時代中期の俳人で芭蕉門下第一の高弟として重んじられ、宝普斎と号し、とくに洒落風の句を得意とした。自薦句集の五元集に「牛嶋三囲の神前ならば、とうたえば翌日雨降る」と記されているように早速効果があったと伝えられている。この碑は明治6年再建されたものである。
老翁老娼の石像
元禄の頃、この三囲稲荷の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとする人が老婆に頼み、田甫に向かって狐を呼んでもらうと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうが、他人が呼んでもけっして現れることがなかったという。俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や 狐呼び出す 姥が許」と詠んでいる。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って老夫婦の石像を建てたい伝えられている。老娼像には「大徳芳感」老翁像には「元禄14年辛巳5月18日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれている。
宗因白露の句碑
文化9年(1812)江戸において、西山宗因の流れをくむ一葉井素外らが発起人となり、始祖宗因の中でもっともすぐれた「白露や 無分別なる 置きどころ」の句を刻んで建立したのがこの碑である。
宗因は慶長10年(1605)肥後に生まれ、江戸初期の著名な連歌師、俳人で、連歌ではおもに宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称した。のちに名をなして大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、当代連歌界の重鎮となった。俳諧をはじめたのは晩年に近く、それも余技としてであった。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人である。
朝川善庵墓(常泉寺・向島3-12-15)
江戸後期の儒学者で松浦候に仕えていた。名は鼎といい江戸に生まれた。父片山兼山と早く死別し、医師朝川黙翁に伴われ京阪に遊んだ。善庵はここに3年とう留、さらに寛政10年(1798)長崎鎮台肥田豊州に従って長崎に赴き、さらに南九州を遊歴すること5年、研さんを積んだ。高名になった善庵を松浦候は儒官として迎え、多くの列候が彼の教えを受けたという。弘化3年(1846)将軍に拝謁し、さらに名を高めたが嘉永2年(1849)2月7日、年69才で歿した。主な著書として「周易愚説2巻」「易説家伝旧聞4巻」「寺経六書」などがある。
隅田公園水戸低跡由来記
この地は江戸時代、水戸徳川家下屋敷、小梅別邸が置かれたところである。徳川家三家の一つである水戸家がお浜屋敷、中央区に替えて、この地を賜ったのは元禄6年(1693)三代綱條公の時である。
屋敷は西は隅田川に面し、南は北十間川を巡らし、面積はおよそ66,000u(約2万坪)、南北200m余、東西約300mにわたり、南に広がる梯形の地で、現在の向島1丁目のほぼ大半を占め、墨田区南部に置かれた大小名屋敷80余のうち最大規模を誇るものであった。
この屋敷は、現在後楽園の名が残る小石川本邸、駒込別邸いずれも文京区の控えとして、従者である蔵奉行水主鷹匠の住まいなどにあてられ、また、西側に接した一角には、お船蔵が置かれ水戸家所有の船、材木などが保管されていた。
弘化元年(1844)烈公として知られる9代齊昭公が藩政改革の一端から幕府の誤解を招き駒込別邸で謹慎を命じられた際に改革派の中心であり高名な水戸学者であった藤田東湖が責任の一斑を負い蟄居の日々を送ったのでこの屋敷内の長屋であった。
やがて明治維新となり11代昭武公の代を以って藩制度は解消、一時政府の管理する所となったもののう爾後、改めて水戸家本邸が置かれ、明治8年には「明治天皇」明治25年には「昭憲皇太后」のご訪問を受けた。しかし、大正12年関東大震災により烏有に帰し、230年に及水戸家の歴史はここで閉じたのである。
昭和6年帝都復興計画に基づき隅田公園が造営されると水戸低の旧跡は同園に取り入れられ往時をしのぶよすがを、その一角にとどめ広く市民憩いの場となった。
しかし、その後半世紀近い歳月とともに環境は変化し、また、第二次大戦の戦火の被害もあり、その面影もおおかた失われた。
昭和50年この公園を管理することになった墨田区は、同52年区政施行30周年を記念して改修に着手し、このたび昔日の風趣を伝える日本庭園を再現させた。
ここにかって水戸徳川邸の林泉の美が復元されたことを機会として一碑を建て、いささか、この地の由来を記し後世に伝えるものである。
正気歌碑(向島1-3)
江戸末期の尊皇夷論者として知られた水戸藩士藤田東湖の歌碑である。「天地正大の生粋然として神州に鍾(あつま)る。秀でては富士の嶽となり巍々(ぎぎ)として千秋にそびゆ」と、日本古来の国体を賛美した「正気の歌」は弘化2年から三年間、小梅の水戸藩下屋敷に幽閉されているときにつくられたもである。
東湖は文化3年(1806)水戸に生まれ、安政2年(1855)の大地震の時50歳で不運な死を遂げたが、この歌は水戸派のバイブルとなり幕末志士を鼓舞し、明治・大正・昭和の初期まで愛国の士の血をわかした。この碑は昭和19年6月東湖会が建立したものである。
明治天皇海軍漕艇天覧玉座趾
恭しく惟みるに明治天皇夙に叡慮を帝國海軍の発達に労し給い明治元年3月親しく大阪に幸して諸艦を天保山に関せられ爾来屢艦船部隊官衛学校等に行幸あらせ給い殊に海軍短艇競漕の隅田川に行はるるや、玉座は設けて、ここに在り親しく天覧を賜うこと前後4次に及べリ、明治15年には11月21日に、同16年には6月3日、同27年には4月2日に臨御あらせられ是は皇后亦行啓せられ、同29年には12月18日を以って親閲あらせ給へり其の間25年には6月19日を以って皇后竝皇太子の行啓を辱せり参加の将士齊しく恐擢感激して勇躍技を競い行事最も盛大を極わめリ斯の如きは皆是し震慮の深きに井で帝國海軍の無上なる光栄にして牢記すべき所なり只恐る。
当年玉座の聖蹟星移り物替りて滄桑の変を経成は湮晦に貴せんことを是し本会が天皇親臨のこの尊ぶべきの地を永遠に顕彰し奉り、永く聖徳の至大なるを仰がんことを期し帝國海軍及朝野の諸彦と謀りて、昭和16年の明治節日をとし一碑を玉座の趾に勤し之を不朽に伝える。
紀元2601年11月3日 隅田川聖蹟顕彰会
枕橋の由来
寛文6年(1662)関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現・吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。また、その北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
その後、堀は埋め立てられ新小梅橋もいつしか消滅した。明治8年(1876)残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和3年架け替えられたものである。昭和63年、本橋は東京都著名橋に指定されました。
富田木歩終焉の地
木歩は本名を一といい、明治30年に墨田区向島2丁目の鰻屋次男に生まれました。2歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼は“いろはカルタ”等で遊びながら文字を覚えました。
たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、二人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌、「ホトトギス」うぃ知り、俳句に惹かれます。
やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになりました。さらに、彼を理解し援助する新井声○という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもできました。しかし、妹も弟も肺患で死に彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
かそけくも 咽喉(うど)鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
木歩は関東大震災にあい、声○に背負われて墨提に非難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。26歳でした。
勝海舟建立の記
通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳は、文政6年(1823)1月31日、江戸本所亀沢町(現・両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦渦から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人々の夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
勝海舟生誕180年、平成15年(2003)7月21日(海の日)
浅草
浅草一帯は豊島の由来となる十島(としま)で、太古から水面下にない州(しま)だった。往古荒川・北・葛飾・足立・江戸川・墨田・江東・千代田・中央・港の各区はそのほとんどが海、利根川の運ぶ自然堆積で遠浅の州となり、砂州となり、陸地と化していった。その一つが武蔵野台地の外にできた外島で、そこに人が住み着いて聖域を設けたとしても不思議はない。
摂津国豊島郡(てしまごおり=池田・箕面・豊中市)の豊島連(てしまのむらじ)が移住してきて切り開いたので豊島と改め、訓(よみ)を「としま」とした。「てしま」でないことは、『風土記残編』にある「砥島」、『記録御用所』にある「戸島」でも明らかだ。
行く末は空も一つの武蔵野に草の原より出る月影(古今和歌集)
当時外島(外島)は武蔵野の身の丈を覆う「深草」に対して、丈の高くない草で蔽われていたので「浅草のところ」と呼んだのだろう。しかし今となっては誰も見た者がいないから想像の範疇を越えない。『江戸往古図説』に「武藏野の末にて草おのずから浅々しき故、浅草といいしなるべし」とある。またアイヌ語だと「アチャ・クサ」に「向こう岸へ越える」ところの意があり、橋場・花川戸・今戸は全て渡し場に関係している。
明治11年「郡区町村編制法」によりほとんど浅草を冠する浅草地区120町を浅草区とし、同22年「市制町村制」により北豊島郡下の千束村・今戸地方(ぢかた)・山谷町地方・橋場町地方を区に編入。同44年「市制町村制改正」により浅草区浅草○○町ではくどい
ので大部分が浅草の冠称を外した。昭和22年下谷区と合併して台東区となったとき浅草区の諸町は再び浅草を冠称した。同40年浅草公園地第1区〜6区・浅草北田原町・浅草新畑町・浅草北仲町・浅草雷門2丁目・浅草馬道1丁目の西半・浅草千束町2丁目の一部をあわせた町域を現行の「浅草1〜2丁目」とし、同41年・千束町3丁目・浅草象潟町・浅草象潟1〜3丁目・浅草馬道2〜3丁目・浅草聖天町・浅草聖天横町・浅草猿若町1〜3丁目・浅草田町1丁目・浅草地方今戸町の全部に、浅草日本堤1〜2丁目・浅草千束町1・2丁目・浅草隅田公園の各一部をあわせた町域を現行の「浅草3〜7丁目」とした。
浅草っ子がエンコ生まれ≠ニいうのはこの「公園」をひっくり返した言葉だ。浅草ロックはロックンロールのロックじゃなくて、映画館街のあったところを浅草公園地第六区としたことによる。戦前は東京一の大繁華街だった。
山の宿の渡し(花川戸1−1)
隅田川渡船の一つに「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡し、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250m。浅草花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を「山ノ宿ノ町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨提と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨提に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。
梅めぐり散歩道
梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました。平安時代になり、梅は上流社会の流行花木となり、和歌などに多く歌われました。
梅にまつわる話では、菅原道真が大宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」が有名です。安土桃山時代には、中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また、江戸時代には、梅の品種が改良され紅、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に作られるようになりました。江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。
系統と特性 | 代表的な種類 | ||
野梅系 |
野梅性 |
原種に近いもので、丈夫。 葉は比較的小さく、花は中輪で香り高い。 |
白加賀(しろかが) 道知辺(みちしるべ) 紅冬至(べにとうじ) 月影(つきかげ) 八重寒紅(やえかんこう) |
紅筆性 |
蕾の先がとがって、紅色をしてため 「紅筆」とも呼ばれている。 |
||
難波性 |
枝が細く茂り、葉は丸葉。 さし木でよく活着する。 |
||
青軸性 |
がくと若い枝が黄緑色をしている。 花は青白色である。 |
||
紅梅系 |
紅梅性 |
花色が明るい紅梅。若枝の色が緑色が かっかている。 |
紅千鳥(べにちどり) 大盃(おおさかずき) 鹿児島紅(かごしまべに) |
緋梅性 |
紅梅のうち、花の紅色が濃いものがこの 種である。 樹勢が弱く、若枝が黒褐色に日焼けする。 |
||
唐梅性 |
紅梅のうちでも花色がうすく花が古くなる と白っぽく変色する。 花柄が一般に長い。 |
||
豊後系 |
豊後性 |
杏との雑種性の強いウメ。 花はピンクが多い。 花ウメ、実ウメ両方がある。枝が太く大輪。 |
豊後梅(ぶんごうめ) 記念梅(きねんばい) 開運(かいうん) |
杏 性 | 紅梅系に似るが、枝の切断面が赤い。 |
花の碑(浅草7-1)
春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が かいのしずくも 花と散る 眺めをなににたとうべき
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。
本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年11月3日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
武島羽衣は、明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。
滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年6月29日、24歳の生涯を閉じた。
武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年2月3日、94歳で歿した。
手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川、その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
竹屋の渡し
隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷掘口から向島三囲神社(現・向島2丁目)の前あたりを結んでいた。明治40年刊「東京案内」には「竹屋の渡」とあり、同年発行「東京市浅草全図」では山谷掘口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは、「待乳山の麓にあたることに由来する。
「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818〜1830)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
昭和3年言問橋の架設に伴い、渡し舟は廃止された。
戦災により亡くなられた方々の碑
隅田公園のこの一帯は昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第2次世界大戦(太平洋戦争)中、空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後ダビに付され、東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
いま、本区は数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立しました。
浅草猿若町碑
天保12年(1841)老中水野忠邦の天保の改革(1841〜1843)で江戸市中堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座にあった芝居小屋は風紀を乱すからと猿若町という閉鎖された空間一カ所に集められ遊郭のように閉じこめられてしまった。猿若町の名は江戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎(中村勘三郎)に由来しているという。猿若町は一丁目から三丁目まであり、一丁目には中村座、二丁目には市村座そして三丁目には守田座があった。これがいわゆる江戸三座である。このうち守田座は休座が多く控え櫓の河原崎座が代って興行していた。猿若町に移転時も河原崎座が公演している。
明治5年(1873)になると守田座が新富町に移り、他の二座も明治25年までに鳥越町、下谷ニ長町へと移っており芝居町としての役目を終えてしまった。芝居町の時代もわずか30年ほどであった。