浅草田圃
「御府内備考」は「浅草という地は古へ千束郷のうちなりしと見ゆ(千束郷後に千束村といふ、今も千束の名残れり、)現に浅草寺至徳4年(1387)の鐘銘には、「豊島郡千束郷金竜山浅草寺」と記せり。」と述べている。これによると、浅草も千束に属していたのであって、千束郷の範囲は広かったようである。
小田原北条時代の古書には、金杉、石浜、今戸、山谷も千束の内だと記している。「下谷・浅草町名由来考」によると、「この地は古くから田畑であったとみなせる。稲千束、千束の稲田といったことで付されたのではあるまいか。束とは稲十把のことである。...」千束田圃という呼称があった。このことからも千束は稲作地だったことが知れる。
明治22年、東京市が誕生した。それにともない千束村は浅草区に編入され、明治24年浅草千束町が発足し、1、2、3丁目に分けられた。昭和になって町名が変更した。昭和9年、2丁目東部が象潟1丁目、3丁目東部が象潟3丁目、馬道1丁目、日本堤1丁目となり、ついで昭和18年、北側の一部を下谷区に割与して、下谷千束町と称した。
そして昭和40、41年、住居表示制度の実施で、町域が大きく変わった。浅草千束1丁目は、千束3丁目と浅草4丁目に、浅草千束2丁目は、千束3丁目、浅草3、4、5丁目に、浅草千束3丁目は、浅草5丁目となった。浅草猿若1、2、3丁目は住居表示制度の実施により全域浅草6丁目に編入され、その名を消した。
旧猿若町(現・浅草6丁目)
由来
江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(江戸時代始めの寛永1624年頃の人)の名前から、つけられたといわれています。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言をつくり、中橋(今は中央区内)と言うところに猿若座を開きました。
江戸時代の終わり頃(1841年)老中 水野越前守忠邦 の
天保の改革に伴い、当時日本橋にあった芝居小屋を浅草山の宿小出候御下屋敷の地へ引き移るべき旨の公命ありしが、当(注 天保13年)2月3日同所にて替地を下し給はる(三町分替地惣坪1万78坪)浅草寺裏の丹波国小出氏の屋敷に移転する事を決めました。
旧猿若1丁目 | 旧猿若2丁目 | 旧猿若3丁目 |
中村座 ・ 薩摩座 | 市村座 ・ 結城座 | 河原崎座 |
堺町(現・人形町)から移転 |
葺屋町(現・人形町)から移転 |
木挽町(現・銀座東)から移転 後に守田座さらに森田座へと変わる |
明治5年(1873)になると守田座が新富町に移り、他の二座も明治25年までに鳥越町、下谷ニ長町へと移っており芝居町としての役目を終えてしまった。芝居町の時代もわずか30年ほどであった。明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、二十数年間にわたる賑わいは終わりました。その後、比較的閑静な落ち着いた町になりましたが、大正の頃から履物屋が多くなり、以後鼻緒・装履・サンダル・靴・皮革等を扱う店が並ぶ現在の町へと発展してきた。
今戸神社
應神天皇(おうじんてんのう)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)・福禄寿(ふくろくじゅ)
6月第1土、日曜日
後冷泉天皇康平六年(1063年)、京都の石清水八幡を勧請し今戸八幡を創建。昭和十二年七月に白山神社を合祀、今戸神社と改称。應神天皇の御神徳は武運長久と慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としています。
待乳山聖天
寺号は待乳山本龍院、飛鳥時代、推古朝9年、人びとが早魅で苦しんでいるのを見て、十一面観音が聖天歓喜尊天となって姿を現し救ったので、本尊として祀られたという。聖天は歓喜天で知られ男天と女天の双身像インド・ヒンズー教の神。巾着と二股大根の組み合わせたものが紋章で、古来から花柳界などで深く信仰されてきた。砂金入れの形の巾着は金銀財宝で商売繁盛を表わし、大根は健康で一家和合を表わす。また大根は人間の深い心の迷い、囲借り嗔り(いかり)の心の毒を流すといわれ、大根を供えると聖天さまが、身体の毒を洗い清めてくれるという
山谷掘川(現・山谷掘公園)
山谷掘が何時頃掘られたかは、はっきりしないが江戸の遊里吉原との関係からみても、おそらく江戸初期に出来たものであろう。都水道局日本堤ポンプ場のところから隅田川へ注ぐ約700mにおよぶ山谷掘は、北区の音無川を源とし飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
当時この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名山谷通いともいった。猪牙船などを仕立てて、このコースを使う遊興は贅沢とされ、正に、お大尽遊びだった
堀の上流の方から日本堤橋・地方橋・地方新橋・紙洗橋・山谷堀橋・正法寺橋・吉野橋・聖天橋・今戸橋の9つの橋がかけられていたが、埋立てに伴いすべてが取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。
現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。
都水道局日本堤ポンプ場を左に曲がると大門交差点角に樋口一葉の小説「たけくらべ」にも出てくる「見返り柳」が土手通りの歩道にひっそりと立つ。
見返り柳(千束4-10-8)
旧吉原遊廓の名所の一つで、京都島原遊廓の門口の柳を模たという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊廓を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな 見返れば意見が 柳顔をうち
など、多くの川柳の題材となっている。
かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災、戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
旧浅草新吉原
元和3年(1617)幕府は日本橋葦屋町東側(現・日本橋人形町2丁目附近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は開始したが、葭の茂る所を埋立てて造ったことから、はじめの頃は“葭原”と呼ばれた。そして寛永3年(1626)に縁起のいい文字に変えて吉原となった。明暦2年(1656)になると、町奉行から吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌明暦3年に移転した。それから、この附近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
江戸町1丁目は、元和4年の吉原開設と共に出来たが、はじめは本柳1丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛
していたことから、これにあやかって江戸町1丁目と改称した。
京町1丁目は、元和4年にできた町で町名の起こりは、そこで営業していた者の多くが京都出身者であったことに由来し
ている。
京町2丁目は、1丁目よりおそく、元和6年(1620)頃にできた町で大阪や奈良から移ってきた人たちが営業をはじめた。
角町は、日本橋に開設された頃、吉原は江戸町1丁目、江戸町2丁目、京町1丁目、京町2丁目、角町の5ヶ町であった。
そのうちの角町は寛永3年に京橋角町の傾城屋、約10軒がいてんしてできた町である。
吉原
天正18年(1590)8月1日徳川家康江戸城に入る。元和3年(1617)江戸幕府は江戸各地に散在する傾城屋(遊女屋)を風紀上1ヶ所に集める為、現在の日本橋付近に土地を与え営業させた。
この土地は葭葦が茂っている。草原故に“葭原”と名付けられたが、後に、縁起を祝って“吉原”と称した。また、業者たちに東海道“吉原宿”の出身者が多かったためという説もある。
その後、当地を幕府用地にするため、浅草か向島に移るよう命じ、明暦3年(1657)江戸大火(振袖火事)で吉原も焼失したのを機に業者は交通の便を考え浅草田圃に移ることにした。以降旧地を元浅草、移転地を新吉原と称した。
新吉原は直接府内が見えぬよう入口を“くの字”形に造り、四方に堀(おはぐろどぶ)をめぐらし、遊女の逃亡と犯罪者の出入を防ぐために要所に九つの跳橋を設け、非常に備え、表通りの大門は引刻(午後12時)に閉じ、明朝(午前6時)に開いた。また、町造りは表門裏門を結ぶ通りを仲之町通りといい、その左右に江戸一(江戸出身者の業者)、江戸二(駿河出身)、京一(京都出身)、京二(上方の業者)、角町(京都角町の業者)、揚屋町(元吉原時代の揚屋業者)と大別し6ヶ町とした。
以後吉原は、明治44年(1911)の吉原大火、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲と3回焼失し、その都度急速に復興する。特に、空襲の3ヶ月後の6月に当局の命令で戦威向上治安確保のため、即、空襲下再建着手し、8月焼け跡のビル(4ヶ所)を改修して営業した。そして、その月15日に終戦となる。
戦後、政府は進駐軍高級将校慰安所を設けるよう要求し、業者はそれを隅田川沿いの橋場町の戦災を免れた料亭に設置した。一方、業者は、戦前の“新吉原三業組合”を“新吉原カフェ喫茶協同組合”と改称し、再建に努力したが、昭和32年(1957)売春防止法案成立により、翌年3月末を以て、300年の廓の灯は消えた。
江戸時代より明治後期まで、江戸文化と政治経済の裏面をほしいままにしていたこの街も明治政府誕生により、政府高官が勢い薩摩・長州・土佐の地方色となり、その遊び方に格式と内面的な“徳川びいき”と都会意識があったのか地方出身者の政府高官等には“なじめず”必然と新橋・赤坂の新開地に流れ、政界・財界離れとなりつつあったが、曲りなりにも戦前までは“日本の吉原として存在しつつあった。その華やかな社会にも、隠れた種々の悲劇があった。
即ち、三ノ輪の投げ込み寺(浄閑寺)、あるいは遊女が産んだ子供を毎月養育費を貰い、育てて生活をしていた人々(吉原出入の小商人・職人が多かった)がいた。また、この地の住む子供等は一葉“たけくらべ”とは別に近代社会の目に、その選挙・就職・結婚に悩み、多くは住所地を他所に求めていた。
浄閑寺 栄法山清光院浄閑寺、もと三田→江戸初期にここへ。 |
そして今、この地は現在、都内唯一の“ソープランド”許可地となり存在しつつあるのである。
吉原神社
御祭神:玄徳稲荷大神・開運稲荷大神・九郎助稲荷大神・榎本稲荷大神・明石稲荷大神・吉原弁財天
御例祭:五月第三土・日曜日
明治5年に新吉原遊廓の四隅に祀られていた四稲荷社と地主神である玄徳(よしとく)稲荷社を合否して、吉原神社を創建した。さらに昭和10年吉原弁財天を合否した。
当社は新吉原遊廓の鎮守の社であり、遊廓の盛衰と共に歴史を重ね、初午・祭礼の賑わい、ことに花魁参拝は古事にも記されている。現在も幸せを祈る女性への御利益はよく知られている。当社は浅草名所七福神の一社(弁財天)であり、新春には福笹・福絵馬を授与する。
華魁道中 |
昔、華魁が、揚屋(引き手茶屋)に揚った客を迎えに行く道程をいい、江戸町方面の客 を京町の花魁が迎えるに、“京より江戸へ”との事等から“華魁道中”といった。現在、料 亭“松葉屋”で昔の情緒をのこすために“華魁ショー”として観光客に供している。 |
見返り柳・衣紋坂 |
客が、吉原土手より大門までの50間(90m)町の坂の途中で衣紋を正した事より、此 の坂を衣紋坂といい、遊び帰りの客が衣紋坂を出たところにある大きな柳のところまで 来て、名残を惜しみ、吉原を振り返ったことから、この柳を見返り柳という。現在の柳は 3代目である。 |
吉原芸者 |
幕府の認知を持っており、仲之町芸者ともいい、遊女との兼ね合いから“芸は打っても 身は売らず”と、ただただ芸のみに生き、その名を“吉原芸者”としてプライドと格式を全 国に誇っていた。 |
仁和賀 |
毎年8月、男女芸者が種々の化粧をして、男芸者(封間)は、芝居狂言に洒落を加え、 女芸者は、踊り所作を披露、これを車の付いた小舞台を少数つくり、各々囃子方を連れ 仲之町の御茶屋を一戸毎に一狂言して廻った。 |
午の日 |
廓内の四隅にあった開運・榎本・明石・里助稲荷と50間の吉徳稲荷を集めて、吉原神 社として、祭ってあるが、その縁日(午の日)には、“水道尻通り”に屋台が出並び終日 賑わったが、戦後交通規則等で自然消滅した。 |
吉原狐 |
新吉原に限り、年越し大晦日に、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓をはやして遊 女屋に入った。この狐に捕まると“子をはらむ”と、いわれているので遊女等は、祝儀を 出して逃げ廻った。狐は白面にて赤熊の毛をかぶり錦の衣類をつけ見事な、長唄“吉原 の狐舞いがある。 |
くるわ言葉 |
わちき「私」、そうでありんす「そうです」、主さん「お客の事」等の廓言葉は地方での遊 女の“なまり”をかくすために作られた統一された言葉であった。 |
ひやかし |
浅草紙を作る職人が、紙洗い橋附近で材料を水に冷やして置く間、近くの吉原を一廻 りした事から、遊ばない客を“ひやかし”といった。 |
けっとばし屋 |
さくら肉(馬肉)で近在の百姓が馬を連れてきて、之を売り遊んだ。その肉をスタミナ食 毒消し食として一般の客に供した料理屋のことをいう。戦前日本堤土手に3階建ての大 店が軒を並べて賑わっていた。 |
吉原公園 |
通称名で廓裏門近くにある空地(現・NTT吉原)で“酉の市”には多種多彩の見世小屋 が連なり賑わった。その中程に大きな池があり、震災・戦災大勢の人々の生死に寄与 し、現在の弁財天は震災時、池で亡くなった人々を供養するため建立された物である。 |
新内流しと心中 |
大引け(午前2時)過ぎとなると新内流しの声が、ひときわ風情をまし、遊女は絶望へと 追い遣られるほど切ないく、遣り切れない気持ちになるそうだ。特に、蘭蝶等の曲は、遊 女は身につまされて客に情死を迫るほどの凄みがあり、江戸時代の後半、政府は遊女 の心中を警戒して、廓での新内流しを、たびたび禁止したことがある。 |
牛馬ときほどの令 |
明治5年政府が6月横浜港でペルー国籍船“マリア・ルーズ号”より中国人奴隷を解放 させた事で、ペルー側より“日本が奴隷制度を認めないと、いうなら吉原の娼妓は、どう する”と抗議され、その年10月“娼妓解放令”を出した。要約すると“娼妓は人権を失っ た牛馬と同じだから楼主は牛や馬に借金の返済を求めても無駄である。政府が遊女を 解放しようとした論理だが、後に、人権無視であると問題になった。 |
吉原遊びと引き手茶屋 |
一流の楼は茶屋を通さねば登楼できなかった。之は直接的な遊びは“野暮”として、先 茶屋で酒芸者で騒ぎ、それとなく、そういう気になって、それでは案内して貰おうかという 遊びで、あくまで心の遊びというルールであった。楼に行っても初めての客は“初回”と いい、座敷で相方が決まると、そこで相方と一緒に、また、芸者封間等と宴会をして、そ のまま帰り、2回目は“裏を返す”といって、初回と同じ事を繰り返し、3回目に“馴染”と 呼ばれ、花魁と枕を共にして良い事になるが、格式の高い太夫となると“いやなら”客と 枕を共にしなくても良いのである。それでは他の太夫をといっても、楼の掟として許され なかった。これが吉原の遊びであったから、客は“粋な客”と呼ばれるには、大変な努力 と大金と器量がいったわけである。然し、それはそれとして、その裏があり、廓通いの客 は茶屋で“お馴染で”と声を掛け、茶屋・楼の、それぞれに渡りを付ければ遊べるという 時間と費用と節約できる特急券もあった。このように引き手茶屋は、お客を手引きする茶 屋であろうが、お客の中には、ただ茶屋に上がり芸者封間等を呼び飲んで騒いで帰る客 も多かった。川柳に“吉原は 寝るところ 寝ぬところ”ともある。 |
遊女と解放 |
吉原は遊里とはいえ、江戸文化の発祥地、粋を好む江戸庶民の一大社交場として30 0余年その栄華を誇ってきた土地であるが、その反面、明治以降全国的に広がる廃娼 運動の中心となった。その運動も国の敗戦・民主国家えの推移と共に終わったが、それ ぞれ異なった状況の元に解放が3回あった。 @明治5年(1872)牛馬ときほどきの令 A昭和20年(1945)東京大空襲(吉原全焼)=終戦 B昭和33年(1958)売春禁止法令 これら時、意外な事実がある。解放された彼女らは半数以上、故郷には帰っていない 事実である。その原因は、彼女が故郷に帰っても生活の保証もなく、帰ったとしても、故 郷の人々は“あの女は元廓にいた人間だから”といい、家の兄弟親戚らも自分たちの生 活環境を守るためか自然と疎遠にする気配を示していた。また、故郷に帰らず一般社会 に出た人達にも、世間の目は冷たかった。彼女らは仕方なく、元の同じような職業に走 るか元の楼主を頼って戻って行くケースが多かったからである。そういう彼女らにも救い の道がないでもなかった。明治以降戦前までは、6年の年期が終われば、契約(警察立 会い)により、借金が残っていても楼主は彼女らを開放しなければならなかったし、昔か ら楼主の中には年期中彼女等に、世間に出ても恥ずかしいことがないように一般的な礼 儀作法・針仕事等を教え年期が明けた時、良い縁があれば一通りの嫁入り道具を揃え て祝ったものであった。その楼主が亡くなった通夜の晩に、昔働いていた彼女らが台所 でセッセと働いている姿を見たことも多々あった。とはいえ、彼女らは行政のためか家族 のためか人間として女性として最良の青春時代を犠牲にしたのである。 |
新吉原花園池(弁天池)千束3-2
江戸時代初期まで、この附近は湿地帯で多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立てて、日本橋の吉原遊郭が移された。
以来昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、特に、江戸時代には様々な風俗・文化の源泉となった。遊廓造成の際、池の一部は残り何時しか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰を集めたが、現在は浅草七福神の一社として毎年正月多くの参拝者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々が、この池に逃れ490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に立つ大きな観音像は溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現・吉原ビル)の建築に伴う埋立て工事のため、池は僅かに、その名残を留めるのみとなった。
花の吉原名残の碑(千束3-22)
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廓で、元和3年(1617)葦屋町東隣(現・中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は植物の葭の生い茂る湿地を埋立てて造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに、縁起の良い文字に改めたことによるという。
明暦3年(1657)の大火を契機に幕府により吉原遊廓の郊外移転が実行され明暦3年8月浅草千束村(現・台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前遊廓を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残りを記す当碑は昭和35年地域有志によって建てられたもので、碑文には共立女子大学教授で俳人古川柳研究家の山路閑古による。昭和41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町・京町・角町・揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
ニ神出世この方男女相聞の道開け 日本国は常 世の春となれり 中つ頃江戸の初世に庄司甚右衛 門をいへる人あり 府内 一廓の遊所を開きた 名づけて元吉原といふ 明暦三年あり手廓この地 に移り 名を新吉原と改む爾来年と共に繁栄し やがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ 万客粹を爭び 世俗いふ吉原を知らざるものは人 に非ずとの開基以来火災を蒙ること十数度 震災 又 戦渦を受くるとも微動だもせさりし北国の堅城 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行 を期として 僅か一夜にして消滅し了んね 人為 め天工を亡ぼす何ぞ甚もきや 二万七百余坪の旧 地悉く分散して 辛くも瓢池一半を残すのみ 有 志等がこの池畔に一基の碑を建てるは麗人吉原が 悲しき墓標の営みなりけりと云爾 昭和三十五年五月二十一日 白面清客 山路閑古 庄司甚右衛者小田原北條氏家臣庄司某之長男也幼名日甚内以天 正六年ニ月廿八生於小田原城中後天正二十年小田原落城之際喪 其父甫十五興家臣某移住于江戸日本橋柳町於市内各震憂風紀額 紊新設一遊廓企図○正則添附三箇條責任理由書請于町奉行米津 勘兵衛慶長十八年本田佐渡守拓数甚右衛門于評定所聴取其詳細再 三調査之結果於日本橋葦屋町堺町長谷川町等畫方二丁始許可遊廓 稱葭原為江戸遊里之嗃矢且開墾葭沼之地改称吉原元和三年三月遊 廓全成矣以甚右衛門為廊内総名主○設大門架親父橋以便交通蓋遊 女常呼甚右衛門日親父橋名因之也明暦二年此所為幕府用地拝領換 地於日本堤附近猶賜臣額移転料工事未成同三年正月十八日本郷丸 山本妙寺失火罹類焼之尼同年三月移転于現在之地更加一字称新吉 原遊廓矣甚右衛門住於廊内江戸町勤役同死総名主以行年六十七静 逝于自宅矣実正保元年十一月十八日也茶昆葬深川霊岸町雲光寺院 法謚日願与淨心信士 大正十五年五月 大野山僧正雲山書 |
鷲神社(千束3−18−7)
鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治の初め「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神、草創は不明である。社殿によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途熊手をかけて戦勝を祝った。この日が11月酉の日で以後、この日をお祭りと定めたという。
酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」浅草を「新鳥」と称した。浅草は、特に、浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。
一の酉・二の酉、年によって三の酉と有り、世俗に三の酉があると火事が多いといわれる。酉の市は当初、農産物や農具の一種として実用的な、熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運のお守りとして尊ばれてきた。また、八ッ頭は、人の頭になる。子宝に恵まれるといわれる。
おとりさま(起源発祥の地)
歳末にあたり1年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである。「酉の市」は、江戸の昔の華やかさと、その伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今の受け継がれている。「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味する。また、「市」は「斎く(いつ)」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。
このように、「祭(まち)」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表しており、縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂(よたれ)水)や神様を祭る場所であることを示す注連縄(しめなわ)がつけられる。この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表しており、佛教の寺とは何のかかわりのない祭なのです。
江戸時代の「酉の市」は、鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当寺は神佛混淆(こんこう)といい、神社と寺が一緒に運営されており、別当長國寺(別当とは、単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと)寛文9年に元鳥越より現在の所に移転して“鷲大明神社(鷲神社)”の別当となりました。
明治元年「神佛分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
その後、長國寺は明治43年、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正12年の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めている。
このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により11月の酉の日に「酉の市」が齊行(さいこう)され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動を呼び、人と祭りのふれあいを感じさせる。
鷲在山長國寺(「酉の市・鷲妙見大菩薩)
当山は江戸時代、寛永7年(1630)に日乾(にちけん)上人によって開山されました。山号は鷲在山、寺号を長國寺と称し、法華宗(本門流)の寺です。宗祖を日蓮大聖人として開運招福の守り本尊である。鷲妙見大菩薩が安置されています。
開山当時より、鷲妙見大菩薩の御開帳は11月酉の日に行われ、多くの参詣者を集めて門前に市が立つようになりました。それが浅草「酉の市」の発祥です。
長國寺の門前市であった浅草「酉の市」は吉原などの隆盛と共に賑わいを増し、市で売られる縁起熊手等も持てはやされ、江戸庶民にとっては春を迎えるための欠かせない行事となりました。鷲妙見大菩薩は、七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」「おとりさま」よ呼び親しまれました。また、「絵本江戸土産」では「破軍星」ともいわれ、開運招福・商売繁昌・武運長久の御利益を授け尊仏として厚い信仰を集めてきました。1年の無事を感謝し、来る年の幸を願う「酉の市」は江戸時代から続く伝統と文化を今も変わらずに受け継いでいます。
当山、長國寺では明治初年の神仏分離令で「酉の市」長國寺の一部が新たに鷲神社として分割されましたが、現在も11月酉の日には多くの善男善女を集めて、鷲妙見大菩薩の御開帳の法要を行ない「酉の市」を開いている。
竜泉寺町
本町名は、竜泉寺にちなんで付けられた。竜泉寺は慶長から元和の頃(1696〜1623)に創建された古刹である。そのため、この付近一帯は竜泉寺村といわれた。延宝7年(1679)の頃、吉原から金杉へ抜ける道筋に町屋ができ、竜泉村とは別に竜泉寺町と呼んだ。
明治2年下谷竜泉町と改称したが、明治24年竜泉寺村、千束村及び三ノ輪村の一部と共に下谷竜泉寺町として誕生した。そして明治44年に下谷を略して竜泉寺町となった。
明治の文壇の女性作家“樋口一葉”は、明治26年7月からここに住んだ。僅か10ヶ月だったが、ここの生活があってこそ一葉文学が生まれたといえる。
樋口一葉館
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大廈もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當ことごとしく、一家内これにかかりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ...」
樋口一葉『たけくらべ』の書き出し
一葉は、生涯に何回も転居を繰り返すが、この菊坂への転居は明治23年(1890)9月、一葉、18歳のときである。明治26年7月2日、下谷竜泉寺町に転居するまで、ここに住んだ。
明治22年7月、父が死亡し、一葉は母と妹3人で、芝に住む兄の虎之助の厄介になったが、虎之助と母の折り合いが悪く、悪化するばかりで、仕方なく、菊坂へ移ってきたという。
この頃、一葉は母の反対を押し切って、父が入れた私塾「萩の舎」(はぎのや)に通っていた。しかし、父なき後、一葉が戸主となり、和服の仕立てや洗い張りで生計を立てる状況で、生活は苦しかった。
当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭であり、収入は、3人で月5円から6円程度と計算される。家賃は2円50銭というから、その生活ぶりが想像できる。不足は借金や質入れで補った。
明治29年11月23日、24才で亡くなった。(丸山福山町4番地=文京区西片1−17−17)『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』『十三夜』などの佳作を残した。
言問い通り、菊坂下から「石坂」を上がって、半井桃水の家を通って白山通りに出て春日駅方面、地下鉄都営三田線春日駅を小石川方面口に降りて、白山通りを白山駅方面に向かって歩いても、ほぼ真ん中辺に、興陽社ビルがある。 1階に「コナカ」とカタカナで書かれたビルである。
銘酒屋の路地は、横断するのに息が切れるほど幅広い白山通りとなった。そのビルの前に、記念碑が建てられて、時代を画した才女をわずかに偲ばせる。
飛不動(竜泉3−11−11)
由緒
当寺は龍光山三高寺正實院と称し、享保3年(1530)正三津により聖護院派の祈願道場として開基された。その後、滋賀県圓成寺の末寺となったが、現在は修験流れをくむ天台系の一派をなしている寺である。本尊は不動明王で古くより江戸名尊不動の一に数えられ、特に、とび不動と呼ばれている。
この名は、むかし故あって当寺の住職が奈良県大峰山に本尊を安置し修行をしていたところ、一夜にして本尊がこの地に飛び帰り御利益を授けられたことにより発している。
この大明王は 大威力有り 大悲の徳ゆえに 青里の形を現じ 大定の徳ゆえに金剛の石に座し 大智恵いのゆえに 大火焔を現じたもう 大智の剣を執ては 貪瞋癡を害し 三昧の索を持しては 難状の者を縛す 無相法身虚空同躰なればその住所なし ただ衆世の心想いの中に住したもう 衆生の意想 おのおの不同なれば 衆生の意に隨って しかも利益をなしたもう |
当寺は寛成の大火を始めとして、数回諸堂を焼失しており社伝を詳しく知るすべはないが、江戸古図江戸砂子等に飛不動の名が見られ、1700年代にはすでに飛不動と呼ばれていたようである。御本尊は数回の災火のため、一部損傷しており、現在は秘仏として鉄筋入母屋造りの本堂に安置されている。この本堂は昭和46年に建立されたもので、中央にご本尊、右に鎌倉末期の阿弥陀如来、左に恵比須大黒天がまつられている。また、本堂の石仏は正徳3年作の如意輪観音である。
本尊は木造不動明王座像「飛不動」の通称で知られ正實院の通称ともなり、江戸時代前期、寛文年間(1661〜1673)の「新板江戸大絵図」には、すでに飛不動の名が見える。福利増長・息災・延命の祈願道場として庶民の信仰が厚く「日本国華万葉記」や「江戸砂子」などに江戸の代表的な不動霊場の一つとして記されている。近年は航空安全の守護神として有名になり、空の安全を祈願する参詣者も多い。
西徳寺 光照山 (真宗仏光寺派、竜泉1ー20ー19
)
真宗仏光寺派の東京別院。掲示板「人間中心の智恵がひっくりかえるところに本当の出会いがある」。山門を入ると広い境内。正面い立派な本堂、右に鉄筋コンクリート3階建の庫裏。左と裏は墓所。
西徳寺は京都仏光寺末の浄土真宗寺院です。寛永5年(1628)に本郷金助町(現文京区本郷3丁目)に建立され、天和3年(1683)に現在地に移転しました。本像は、当寺本堂内の須弥壇上に本尊として安置されています。
西徳寺の木造阿弥陀如来立像は、像高99・0cm。肉髻珠{にっけいしゅ}・白毫相{びゃくごうそう}には水晶が嵌め込まれ、左手は垂下、右手は腕を曲げて来迎印を結びます。左足を僅かに踏み出して立っている姿は、阿弥陀如来が浄土から来迎する様を表しています。
竜泉寺 (真言宗智山派 竜泉2ー17ー15 )
正面に本堂、鉄筋コンクリート2階建。右に庫裏、鉄筋コンクリート2階建。さらに右に墓所。