待乳山聖天
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人が苦しみ喘いでいたとき、11面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かっての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人“戸田茂睡”の作
あはれとは 夕越えてゆうく 人もみよ まつちの山に 残すことの葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物が焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。
歴史は古く、特に江戸時代中期には境内2,787坪、下町の平坦な土地の一角に海抜9.5mの欝蒼(うっそう)とした木立に囲まれた優美な小山はひときわ目立ち、本堂を初め山内の末社、山門仁王門神楽殿額堂等十数棟あり、付近の聖天町聖天横町金龍山下瓦町等を氏子に持ち、隅田川の眺望がよく有名画家の錦絵にも描かれ、詩や歌にもよまれて江戸名所の一つとして知られ、文人墨客の訪うもの多く、為に麓の参道には掛け茶屋が軒をならべたと伝えられている。
「武蔵国隅田川考」(中神守節述)によれば、「真土山は隅田川のほとりにて、西の方なり、此所を山の宿といえるのは、真土山ありてよりの名なりにや、古くはよほどの山にて、うち開きたる所とおもわるれど、いまはわずかな所にて、その上に聖天の宮居ありて、自然の山というべくも見えず、後世つきたるごとし」とあり、今からおよそ300年前、万治、寛文のあたりまでは、遙かに大きな山で、極めて風景のよき所であったろうと述べられている。
明治初年の頃までは、それでも僅かに往時の面影を止めていましたが、大正の関東大震災後、防災上の見地から山の周囲をコンクリートの擁壁で固められる結果になった。また当山の縁記録によれば、
推古3年9月20日、浅草寺観世音ご出現の先端として一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古9年夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、11面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩を救い、この山に尊天が鎮座ましましたと起源が記されている。爾来、今日に至るまで、1,400年、関東における尊天霊場の一つとして、その尊域を護り継がれてきたということは、いうまでもなく、当山の尊天のご霊験あらたかである証であると共に、幾多の先人の厚い信仰心のおかげでもある。
浴油祈祷の勧め
およそ、人間の浴には際限というものがありません。この「むさぼり」「あがく」心が、いろいろの罪や災いを招く原因ともなっています。そこで聖天様は、日常さまざまな願いごとを悉く叶えて下さることで、私達の「むさぼり」の心を取り除こうとされておられるのであります。
ここの道理をもとに組み立てられたのが聖天様の浴油祈祷で、密教の行法の中でも秘法の一つとして重んじられています。速やかな心願成就を望まれる方は、この浴油祈祷を御依頼になるとをお勧めいたします。
当山では1年をとおして休むことなく修法いたしております。尚、ご依頼の日から7日間、修法いたした後、御礼が授与されます。
大根と巾着
境内のアチコチに見かける大根と巾着は、信心祈願することで得られる利益を端的に表している。 大根は人間の深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表すといわれており、大根を供えることによって聖天さまがこの体の毒を洗い流してくださいます。 そして、その功徳によって、身体を丈夫にしていただき良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護頂けます。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰の御利益の大きいことを示されたものです。 |
土塀(築地=ついじ) 右側石段より延長25間(45m)江戸時代の名残をとどめる唯一の文化財。 歓喜地蔵尊 数度の火災に遭い、その尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている。 出世観音像 昭和11年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1600年頃)の作と鑑定された学業芸道に志すものの尊信を集めている。 糸塚 この糸塚は元治元年11世紀杵屋六左衛門が父10世杵屋六左衛門の遺志に依り供養のため建立せるものにして16世六左衛門、3世勘五郎共に長唄三法の名人といわれた人である。 浪曲相輪塔 昭和18年浪曲協会が建てたもので浪曲は明治の末に大阪から浪花亭駒吉が関東節として広め、更に桃中軒雲右エ門によって隆盛をもたらし、今日も庶民に広く親しまれている。 宝篋印塔 本堂左側にあり、天命年間に作られ、信徒千余人が一石一字集めて陀羅尼稽15巻分納められている。 天狗坂 山上より右東今戸橋下に下る石段で、その昔天狗も出そうな欝蒼とした樹々に覆われていて、山上は特に 眺めよく見晴らし茶屋もあった。久保田万太郎作「天狗坂 夕木枯らしの おもいでに」 戸田茂睡歌碑 茂睡は元禄の頃活躍した歌人で歌道の革新を唱えた江戸最古の歌碑と称されてが、戦災にあい昭和30年拓本をもとに 再建された。78歳で歿した。 紫の一もとをもれしてゆかり深き江戸の名勝をたたへ梨本集を著した近代歌学び魁所なしし元禄の歌人戸田茂睡翁は浅草に住みこの待乳山の風光をめで出御堂の傍○歌碑を建てたりき その石○にそこなはれし寛政9年姪孫櫛分規貞石室をつくり三面を覆ひたりしが昭和20年3月戦災にあひて殆ど煙滅に及びぬここ本龍院住職平田真徳師先住の息横田真精師等発起して再興をはかり今年翁の250年忌に刻石再び新たに成れりかくれ○翁かかりせにして喜びほほゑみてあらむ とこしへよかれじくせじ霊ごもるまつちの山のやまと言う葉 昭和30年4月10日 日本芸術院会員 佐々木信綱 |
トーキー渡来記
リ・デ・フォーレスト博士は明治6年米国アイオワ州に生まれ無線電信の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年更にトーキーを発明、紐育市に於けて上映世人を驚かせたり。大正13年故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作および配給権を獲得したり、依て米人技師を帯同帰国。大正14年7月9日宮中に於天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮殿下の御覧を仰ぎ足る後一般の公開せり。
トーキーの我国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後9回に及べリ。
大正15年大森撮影場において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫觴なり。爾来トーキーは日進月歩、昭和3年の衆議院議員選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。
今やトーキー我国に渡来してより35年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業績、偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れリ。昭和23年、フォーレスト博士は極東軍総司令部マッカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビの創設を慫通した。
余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり、フォーレスト博士の勘奨を機とし氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し、遂に昭和27年にテレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し、余もまた役員に加わる。翌28年8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力士の業績によると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基づくものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処、絶大なりというべし。茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え合せて報恩の微意を表す。 建碑者 皆川芳造
金龍山大聖歓喜廟碑
金龍山在武蔵国都島郡推古天皇時漁夫○○○三兄弟網于宮戸所得観
音大士金像廟紀○浅草寺至今香人庸三千載不絶二人傳言是之歳九月
廿日一普間此山地○湧出焉金色○龍神龍自虚空降住鳥山長留興龍呼○地
鎮護大士廟像枡蓋山名取於斬一名日真土山又待乳山○沖謂待乳左下総
者誤矣然紀伊近江駿河皆有待乳山僧弁辮基藤○光俊稔取歌云者椅在紀之
山也戌日揚在江之少也後鳥羽帝錫区釋頓阿各著○謂待乳在駿矣皆不言及
此在武者按江駿皆有菴埼関屋里隅田川在○待乳近地此山近地亦有菴
埼関屋里隅田川此国之川特入在五中将和歌為国以東一勝地以名墨偶與
在三邦者相同好事者○取彼名跡附此地之山田北不可知也然北山之所
以可貴者豈在予斬哉抑其所以可貴而伝者以有庚聖歓喜天自在天在焉也
縁起四大士出現後九年大旱災熱如爆赤池北里應改芸咨于時大士應作
歓喜天始○跡○此山○拔苦與楽大神力起慈雲洒涼爾蘇有情無情一切衆
生矣後
文徳帝天安元年自覺大師留錫於此山月昆郡夜○一字呪氾浄油
面観自在像廟中今所有本池佛是也柳歓喜天之為徳也陰陽和合之根元諸
神諸佛之父母一切恒河沙国二人大鬼畜一草一木之微莫非其應作○将領
九千八百諸大鬼三遊三千世界上奉衛三實下○益衆生故受持其法者諸
天加護之解脱災害○若如求官求福求縁求宮求貴求○求壽求色皆令随其
所願而得満○○有侵○信其法者則諸神震怒壁破之頭脳為七分○使呪
經○之詳矣千柄秋艇深帰依○山大聖天募四方信天善易女欲立碑○○徳
與快山河貴而伝以余郡人債余作記編観閻浮堤諸信者余作記以訊證其信
心三昧時文化元年臘○日記