小名木川と芭蕉庵跡









 隅田川に架かる清洲橋の手前を左に入ってゆく小名木川は江戸時代、徳川家康によって造られた。利根川から江戸へ生活物資を船で運ぶ時代には、古くから重要な川であった。その河口に架かっていた橋が万年橋であった。


 万年橋は、区内の橋の中でも古く架けられた橋の一つです。架橋された年代は、明らかではありませんが延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。
 江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取り締まる通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661〜1673)の頃に中川口へ写され、このため「元番所のはし」とも呼ばれましれ。
 小名木川に架けられた橋は、船の通船を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」として、とりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む洋画の影響を受けた錦絵を残しています。
 橋の袂には、川船番所跡(常盤1−1付近)、川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査した。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ、流通網は寛永年間(1624〜1644)にすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。
  明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとになり、当所は元番所と通称されました。
 万年橋の北岸から清洲橋を眺めるのが一番美しいともいわれいるがいかがでしょうか。ここからテラスへ下りて行かれる。新大橋にかけてのテラスには松尾芭蕉の9句が大川端芭蕉句選集として目に留まる。堤防の真上には芭蕉の像がデーンと鎮座している。ここ庭内には”深川芭蕉庵””俳人百家撰””芭蕉翁略伝””芭蕉翁絵詞伝””深川八貧図””俳諧悟影法師””埋木の花””芭蕉文集””芭蕉再興集”などの説明板がずらりと並んでいる。


深川芭蕉庵

 ここ深川芭蕉庵は、薫風俳諧誕生・発展の胡地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簣の番小屋であったともいう。繁華は日本橋界隈に比べれば深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人夲下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)に至る15年間に、三次に渡る芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と庵逆の生活の繰り返しの中で新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で大小の船が往来した

 それに因んで一時泊船堂とも号した。第一次芭蕉庵は延宝8年(1680)冬から、天和2年暮れ江戸大火に類焼するまでの足掛け3年をここに住み、貧実孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。


櫓の声波ヲ打って腸氷ル夜や涙 
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦しく偃鼠が咽をうるほせり


 天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄贈を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切抜き砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついの二つ、茶わんが十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」の旅はここから旅立った。


古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵


 元禄2年(1689)「おくのほそ道」の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、霞垣、抜折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。


名月や門に指来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川



 芭蕉庵の所在地は元禄10年松平遠江守の屋敷となり、翌11年には、深川森下町長慶寺門前に汁物もそのまま移築されたようである。

▼ 深川芭蕉庵

 俳誌「ホトトギス」明治42年1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は「芭蕉庵再興集」所載図の土橋と似たところがある。



▼ 俳人百家撰

 江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した「俳人百家撰」に掲載する図である。絵は、天保5〜7年(1834〜1836)に刊行された。「江戸名所図会」所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を読んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。


▼ 
芭蕉翁略伝

 天保14年(1843)は、芭蕉150回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻究湖中は編年体の芭蕉伝記「芭蕉翁略伝」を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。


▼ 
芭蕉翁絵詞伝

 
蝶夢芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で霞垣・枝折戸をめぐらしした草庵で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り、漆をかけて仕上げる。


▼ 
深川八貧図

 
蝶夢編の「芭蕉翁絵詞伝」の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の7人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興した。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。


 
俳諧悟影法師

 天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した「俳諧悟影法師」の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田栄泉である。構図は安永2年(1773)刊、小林風徳編「芭蕉文春」所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写も見事である。



▼ 
埋木の花

 明和8年(1771)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に平一貞がその著「埋木の花」に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安政2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある。「古池や」句碑はその模刻である。



 
芭蕉文集

 安政2年(1773)に小林風徳が出版した「芭蕉文集」に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれている。頭巾を冠った芭蕉が肩肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く「句餞別」の編者でもある。


 
芭蕉再興集

 明和8年(1771)に大島蓼太が芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集「芭蕉庵再興集」所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地究、枝折戸が印象的である。画者了興は浮世絵師松斎長喜。

 
庭内を出て戻ると、左に芭蕉稲荷神社がある。ここにも芭蕉庵跡と記された板石碑がある。そして150m北方には江東区の芭蕉記念館がある。白塗りの壁、緑青に染まった屋根、入口前には芭蕉の木もある。

芭蕉庵旧地の由来

 俳人芭蕉は杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病死するまでここを本拠として「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々をを残し、また、ここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末明治にかけて減失してしまった。
 たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造りの蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力により、ここに芭蕉稲荷を祀り、大正10年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
 昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽くした。しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。                 昭和あ56年3月吉日                 

大川端芭蕉句選



@みな出て 橋をいただく 霜路哉     (元禄6年・1693)吟
A郭公(ほととぎす)声横たふや 水の上 (元禄6年・1693)吟
B名月や 門に指くる 潮頭          (元禄5年・1692)吟
C芭蕉葉を 柱にかけん 庵の月       (元禄5年・1692)吟
D花の雲 鐘は上野か 浅草歟(か)    (貞享4年・1686)吟
E名月や 池をめぐりて 夜もすがら    (貞享4年・1686)吟
Fあられきくや この身はもとの ふる柏  (天和3年・1683)吟
G芭蕉野分して 盥に雨を 聞夜哉(な)  (天和元年・1683)吟
Hしばの戸に ちゃをこの葉かく あらし哉 (延宝8年・1680)吟












 小名木川には今12の橋が中川までの間に架かっている。河口から万年橋・高橋・西深川橋・東深川橋・大富橋・新高橋・新扇橋・小松橋・小名木川橋・新海橋・丸八橋そして番所橋と約5km余りだが、清澄通り、三つ目通り、四つ目通り、明治通り、丸八通りと南北に幹線道路が行き来し、その他の生活道路が交差している。まず万年橋と高橋の間を芝翫河岸という
 
芝翫河岸の由来

 小名木川に沿った細長い土地を芝翫河岸といる。江戸時代の歌舞伎役者2代目中村芝翫(後の4代目歌右衛門・1798〜1852)が住んでいたからです。
 芝翫は江戸に生まれ、江戸大阪両都で活躍した名優でした。天保2年(1831)3月に初演した名作所作事「六歌仙」の喜撰法師のくだりの清元に辰巳すなわち深川をよみこみ「我が庵は芝居の辰巳常盤町しかも浮世を離れ里」とうたわれているのは芝翫の住居がここにあったからです。また、清澄通り高橋の袂には、

2代目中村芝翫宅跡(常盤2−12−14)

 歌舞伎役者の2代目中村芝翫は、寛政8年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永5年(1852)2月17日に57歳で没しました。はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の3代目歌右衛門の弟子になり、文化10年(1813)に中村鶴助と改名、文政8年(1825)には2代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役・実悪・女方・武道・荒事など、さまざまな場面で活躍し、天保7年(1836)には、4代目中村歌右衛門を襲名しています。
 芝翫は、天保の頃この辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれていました。天保2年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙」を演じた時、喜撰法師(六歌仙の1人)の歌詞をひねって「我が庵は芝居の辰巳常盤町而も浮世を離れ里」と住居付近の様子をおりこんでいます。そして新高橋の所には民営機械製粉業発祥の地の碑があります。

民営機械製粉業発祥の地

 明治12年(1870)年、明治を代表する事業家雨宮敬次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした民営では最初の近代機械製粉所「泰靖社」を創設しました。
 欧米を視察して、製粉事業の将来性を確信した雨宮は蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器まどの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功を収めました。
 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰靖社は小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけとなったのです。
 なお、明治の初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨紛機械所(明治9年)大蔵省による浅草蔵前の製粉所(明治12年)の2つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉がその事業を継承しました。