河口近辺
(埋立地)
月島は、1892年佃島(現在の1丁目の一部)の南方に1号地(月島1丁目〜4丁目)の埋立てが完成して以後(月島2号地・勝どき1丁目〜4丁目)、新佃島(佃2丁目〜3丁目)、晴海と埋立てが進み、現在の月島地区が形成されました。
幕末に水戸藩の造船所が石川島に設立されて以後、月島は工場・商店・住宅地として発展しました。佃の渡しと月島の渡しの二つがあり、橋に取って代わられ渡船跡の碑がどちらも隅田川右岸に建っている。
佃の渡しは、1645年の佃島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に通ったのが始まりです。1876年には渡し銭1人5厘の掲示札の下付けを許可され、1926年東京市の運営に移り、翌年に無賃の曳船渡船となりました。1964年の佃大橋の完成によって、300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
また、月島の渡しは月島1号地(現・月島1丁目〜4丁目)の埋立てが完成して間もない1892年に私設の渡船が通航し始めたのがきっかけだといわれている。1901年、東京市営となり乗客数も多かったそうですが、勝鬨橋の完成と共に利用者が減少し廃止された。
佃島渡船場跡
佃島は隅田川の河口に出来た自然の寄州でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(現・大阪府西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されている。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。
明治9年(1876)には、渡し賃1人5厘の掲示札の下付けを願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手漕ぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなりましたが、昭和39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。渡船の歴史を記念する史跡として中央区文化財に登録されています。
佃島と石川島
家康が天正10年(1582)京都から堺の地を選んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれているとき佃村の庄屋孫衛門が多数の船を出して一行を助け、ここに徳川と佃漁民の間に固い絆で結ばれることになった。
その後、家康が江戸に幕府を開くに当たり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、慶長18年(1613)には「綱引御免証文」を与え、江戸近海において持続的に漁ができるようになった。
正保元年(1644)には、現在の地の百間四方の土地を埋め立て築造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。
石川島の灯台は慶応2年(1866)石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南側に常夜灯を築かせたもので、六角二層の堂々たる灯台であった。この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。
中央区の宣言碑 正面に平和都市 |
住吉神社
御祭神 底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命(住吉三神) 息長足姫命(神功皇后) 東照御親命(徳川家康)
祭 礼 8月6日
「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橋の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那伎大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
神功皇后、三韓征伐の祭、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成されました。その帰途摂津国西成郡蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神埼川の渡船を勤めた山縁で家康公が、この島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。
天正18年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫33人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正太夫の弟権太夫好次が分心霊を奉載して江戸に下り、寛永年間の幕府より鉄砲州向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保2年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保3年(1646)6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃神社の起こりです。
佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業や問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。
住吉神社の水盤舎・陶製扁額
住吉神社は江戸初期に摂津国西成郡(現・大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保2年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来佃島の鎮護のみならず、水運関係の人から厚い信仰を受けて賑わいました。
水盤舎は、ケヤキ材の切妻造り、瓦ぶきの建物です。明治2年(1869)に再建され、明治44年の改築されました。水盤舎の欄間は、明治2年再建のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また、内側にも潮干狩りなど、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保12年(1841)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に暮須で額字や雲文を染付けています。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟(たか)仁親王です。水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。
五世川柳 水谷緑亭句碑
水谷緑亭(1785〜1858)は、日本橋南茅場町(現・茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父母を失い、佃島の漁師で遠縁あたる水谷太平次に養われ、勉励して家業繁昌させ、佃島の名主を勤めたと伝えられています。また、商売の余暇には読書に勤め文化年間の始め、川柳2世の門に入り、鯉斎(なまぐさい)佃と号して、前句付を学びました。天保8年(1837)50歳の時、川柳4世の八丁堀の同心であった人見周助から譲り受け、5世を名乗りました。
緑亭は柳風式法および句案十体を唱え、俳諧や歌道にも通じていましたが、安政5年(1857)8月コレラの流行によって病死しました。編著には「狂句百味筆笥」をはじめ「佃島住吉社奉額狂句会」「歌書小伝」等があります。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正したなどの功績により、南奉行所から三度にわたり褒章を受けました。
雪降れば 佃は古き 江戸の島 秀司
劇作家北条秀司は佃島が好きであった。新派俳優花柳章太郎も佃島が好きであった。2人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。その結晶として「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが、昭和32年12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。
海水館
ここは明治9年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総半島の山々も雲霞のうちに望むことができた閑静な景勝地でした。ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は文士・詩人・画家など多くの文化人が下宿しました。
昭和40年、島崎藤村が「春」を、翌年藤村の紹介で小山内薫が「大川端」を執筆したのを始めとして、大正2〜3年頃には、佐藤惣之助、木村荘八、竹下夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等gここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われていました。
この日は昭和43年、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」の執筆由来の記が記されています。
佃掘と佃川
佃堀(佃川支川)は、江戸時代の埋め立てで残された東西の佃島間と、人足寄場として利用された石川島との間に残された運河の名残です。この堀に架かる朱塗りの佃小橋の下には、住吉神社の大祭で使う幟を支える抱木と棹が埋められており、大祭前に掘り出されます。
佃川は1893年、月島を埋め立て造成した時に形成されました。幅50m程の運河でしたが、佃大橋をかける際に埋め立てられ、現在は道路になっています。
住吉水門
住吉水門は佃堀(佃川支川)が隅田川に合流する地点にあり、1965年に完成しました。通常時には周りの月島水門、浜前水門などとともに閉鎖され、佃、月島等の防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守ります。
月島の渡し
「月島の渡し」は月島1号地の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が南飯田町(現・明石町14)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといわれる。明治34年(1901)月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌35年、汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡船も無料となりました。月島は東京臨海工業地帯として発展し、明治44年(1911)には乗客の増加に対応するために徹夜で渡船が開始されました。
その後、昭和15年(1940)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることになりました。
隅田川の生き物
隅田川では魚類・エビ・カニ・貝類が確認されるのをはじめ、数多くの動植物類が生息しています。また、隅田川は海に近いことから、特に、海水性・耐塩性の生物が数多く確認されています。(マハゼ・ボラ)
月島西仲通り商店街
月島といえば、「もんじゃ焼き」が名物といえるだろう。この西仲通り商店街はそのメッカである。ここはもんじゃ焼きを中核に活況を呈している。もんじゃには「浅草派」と「月島派」に分類できるそうだが、それは「せんべい」を作るかどうか、という焼き方に違いがあるらしい。
小さい頃普段見慣れていた風景、その情景を身の回りから徐々に徐々に失いつつあるが、記憶を呼び戻すにはもってこいの、小さくて狭い店と路地が並び、空間が広々した「もんじゃストリート」として知られる月島西仲通り商店街は、わずか約400mの間に、60軒以上のもんじゃ焼きの店が軒を連ねる。下町情緒が残っており、町歩きをするだけでも愉しい。その昔、駄菓子屋の店の奥に鉄板の焼台を置き、メリケン粉(小麦粉)を醤油で溶いて薄く焼いたものを食べさせたのが、「もんじゃ焼」の始まりだとか。
ウスターソースが登場すると、「もんじゃ焼」の味付けはソースが基本に。さらに年月を経て、キャベツ・切りイカ・あげ玉などを加えるようになったのです。また「もんじゃ焼」の語源は、子供たちが鉄板に文字を書いて焼いたことから「文字焼」と呼ばれていたものが、いつのまにか「もんじゃ焼」になったとも言われていますが。
もんじゃの香りと看板に気を取られがちだが、「三味線・江戸小唄教室」の看板が出ていたり、襖(ふすま)張り替えなどの経師店もあったりする。いわゆる街の商店が健在なのも下町の商店街ならではのことか。
月島の路地といえば、月島開運観世音を忘れるわけにはいかない。以前は路地の奥に赤い提灯(ちょうちん)が下がる、いかにも土地っ子のための観音様という感じだったが、今はマンションの“奥の院”という風情となった。
西仲橋
江戸・東京の水上交通の大動脈であった隅田川は、今から約100年程前、年々堆積する土砂により船舶の往来が困難になった。そのため、明治20年(1887)東京府は、隅田川の浚渫を始め、その土砂で埋め立て造成されたのが、現在の月島である。
明治25年(1892)に月島1号地(現・月島)、明治27年(1894)に月島2号地(現・勝どき)、明治29年(1896)に佃島(現・佃3丁目)が次々に誕生した。この1号地と2号地の間の月島川に架かる橋の一つが西仲橋である。
区では平成4年度に、かって海であった月島をイメージさせるため、江戸湊の波を浮世絵風に表現した高欄等の整備をし、橋全体として美しい波形を描き出している。
西仲橋は、人々が集い、語りあい、ふれあうことができる。月島の新しいシンボルとして生まれ変わり、歴史と文化を後世に伝えるためのかけ橋となるものである。
形式 | 橋長 | 有効幅員 | 建設年次 |
三径間鋼ゲルバー桁橋 | 43.2m | 11.0m(車道6.0m・歩道2.5m×2) | 昭和31年5月(東京都施行) |
月島川水門
月島川は、月島と勝どきの間を流れる川で、夏から秋にかけてハゼがよく釣れます。月島川水門は、月島川が隅田川に合流する地点にあり、1964年に完成しました。通常時は船舶が通行するために開放していますが、高潮あるいは津波時には、周りの住吉水門・浜前水門などと共に閉鎖され、月島・勝どき等の防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守ります。
勝鬨の渡し
明治25年(1892)銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展に伴い、両地の交通はこれのみでは裁き切れない状態でした。
明治38年(1905)日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて、渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」となり、側面には明治38年1月 京橋區祝捷會同士會挙行之建之 京橋區同士會」と陰刻されている。
設置された勝鬨の渡しは、ここから150m西の「波除稲荷神社」の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通り9丁目(現・勝どき1丁目、3丁目の境の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。特に、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動機が架せられることなりました。勝鬨の渡しは橋の架橋めまで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通と共に廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
波除稲荷神社
波除稲荷神社の起立は万治年間(1658〜61)といわれています。当時、築地一帯の埋立てに際し堤防が度々波に崩されて工事が難行していました。ある日、海中に漂う稲荷の像をみつけ、これを祀ったところ風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。「波除」という尊称もこの伝説に由来するものです。
以来、厄除や航海安全の神として、人々に厚く信仰され、祭りでは数多くの獅子頭が町を練り歩き、獅子祭りと呼ばれていました。今でも3年に一度、6月に行われる例大祭では、寛永元年(1848)に作られた獅子頭が築地周辺を練り歩き、その伝統を伝えています。
江戸時代、築地の南側には尾張徳川家の蔵屋敷があり、社殿前の天水鉢は、そこで船から荷物を陸揚げする小揚げの人たちから奉納されたもので、獅子頭と共に中央区文化財に登録されている。
すし塚碑
“すし”日本の風土に育ち、日本の誰もがこよなく愛し、自慢できる食べ物、それが“すし”永い永い伝統の中にある寿司、しかしその歴史の蔭に幾多の魚介が身を提してくれたであろうが、世人の味覚を楽しませ、そして、また、私たちのたつきの基になってくれた魚たち、それらあまた魚介の霊を慰め永久に鎮まれかしと祈り、而して永遠の食物としての寿司を表徴するため、ここゆかりの地に寿司塚を建てたゆえんである。
雌の大獅子「弁財天・お歯黒獅子」
江戸時代に東都名物と伝えられた雄の大獅子=天井大獅子が平成2年に再興され、更に9年に木の収縮を待ち、85年ぶりに担いでの大獅子御巡行が復活し、残る大きな宿題がありました雌の大獅子が、いよいよ平成14年の本祭りに、此れもまた名物でありました「お歯黒獅子」として高さ1.8m、幅2.5m、重さ約700kgの朱塗りに、歯に鉄かねをさした艶やかな姿を表しました。
此のお歯黒獅子の雌を表す宝珠の角の内に、江戸期の神社御創建と時同じくして境内社にお奉りされたおりました。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)いわゆる弁財天の御神像を、この慶事に古い紫水晶を御霊として抱く姿の木彫り座像で新調されて、お納めいたしました。また、担ぎます時の見返り幕も絶世の弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました。
学芸の才能と豊かな財をなす福徳の神「弁財天」として再興された「お歯黒獅子」。
海幸橋
海幸橋は、関東大震災復興事業の一環として昭和2年10月に当時の東京市により架橋されました。優美な形をしたこの橋は、ランガー式補鋼タイドアーチ橋という構造形式に分類され、わが国初のランガー橋として、この地に架けられました。また、点対称に配置された照明付きの親柱はアムステルダム派デザインといわれ、橋梁デザイン史上貴重なものでした。
このタイプで現存する橋は、江東区平久運河の白妙橋(昭和12年架橋)があります。皆様に70有余年親しまれたこの橋も築地川支流の埋立てに伴い、撤去するに至りました。中央区は親柱を現地に修復保存(塗装色は、架橋当初のもの)し、海幸橋を後世に伝えることにしました。
軍艦操練所
現在、中央卸売り場となっている一帯の土地は、かって、江戸幕府の軍艦操練所があったところです。安政4年(1857)4月、外洋航海の必要性から幕府は旗本・御家人・その他の希望者を集めて航海術・海上砲術の講習及びオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟の就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
元治元年(1864)に焼失して、南隣の松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866)7月、海軍所と改称しました。同年11月再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本初の洋式ホテルである築地ホテル館が建ちました。
築地ホテル館
1657年の明暦の大火によって生じた瓦礫などを使って「築き固めた土地」である事から「築地」と呼ばれていました。そこは伊勢長島藩増山氏上屋敷、備前岡山藩松平氏中屋敷、尾張名古屋藩中屋敷跡などが立ち並ぶ武家地でした。
幕末の慶応3年、幕府の命により築地海軍操錬所の跡地(現勝鬨橋北詰)に建設開始。施工は清水組。慶応4年(1868年)、築地居留地の設立にあわせて外国人の為のホテル「築地ホテル館」が完成しました。和洋折衷様式の築地ホテル館は日本初のホテルで、その姿は新しい時代を迎えた東京の新名所としてたちまち評判となり、多くの見物人が訪れ、絵師達は競って錦絵に描きました。
明治元年頃、開業。外国人からは「エドホテル」の別名で呼ばれていたとのこと。建物は木造4階建、中央には展望塔がつくられ、客室数は全部で103室あった。日本最初の本格的洋風ホテルであり、なまこ壁の外壁でかざりたてる和洋折衷様式の西洋館で間口42間、奥行き40間、高さ94尺という威容を誇った。外国人宿泊客から高い評価を得たが、明治5年2月、銀座の大火の延焼により焼失。築地ホテル館があった場所は、現在の中央卸売市場の立体駐車場あたりです。
明石町
現在は隅田川の西岸に位置していますが、当時は対岸が埋め立てられていなかったので、東京(江戸)湾に直接、面する形になっていました。幕末の黒船騒ぎで、防衛上から大砲を置くための台場が造られ、明治維新後、徐々に対岸が埋め立てられていき、隅田川が延長されていったのです。
現在の明石町は、明治維新後に旧明石町と十軒町、船松町2丁目の町地と大名・旗本屋敷とで形成されていきます。大名屋敷・旗本屋敷の跡地は、明治元年から一時、外国人居留地となりますが、わずか30年ほどで廃止され、その後、入船町・新栄町・新湊町などの町が成立し、これらを含めて現在の明石町が形成されたのです。
現在の町域を幕末の絵地図に当てはめてみると、8割以上が大名・旗本の屋敷地で、町地は2割以下、しかも旧明石町に至っては町地の10分の1以下でした。
大名屋敷の中で、最も有名だったのは、赤穂浪士で有名な播州赤穂・浅野家の表屋敷でした。ご承知のように江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩が、再び帰ることができなかった屋敷です。幕末には陸奥棚倉(福島)の松平家6万400石の下屋敷でした。現在の聖路加看護大学の辺りになります。浅野家の屋敷跡ということは、現在の築地川公園前に記念碑に記されています。
築地居留地
江戸幕府は、安政5年の欧米5ヶ国との修好通商条約(横浜、神戸など5港の開港)で江戸・大阪の開市が定められ、居留地の設定が義務付けられた。そして、江戸開城後、新政府は海と掘割で囲まれた入船町7丁目、新栄町6丁目、新湊町6,7丁目、明石町の坪数26,000余坪を居留地とした。
居留地内には、開港・開市の土地に設けられた。条約締結国の外国人の居住通商の関税業務などを行う運上所を設置、米英独など各国の商館も開業し専用特別区。また、居留地内を区割りし、居住を希望する外国人に、せり貸をして、せり落した人が自分勝手に好きな住宅を建てた。そして居住地に西洋館が建ち並び、異国情緒に溢れ、明治のハイカラ族の羨望を集めた。
江戸(東京)の開市は明治元年(1868)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。築地居住地は商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒溢れる街の様子がうかがうことができる。
また、キリスト教布教の基点であると共に最初に教会が設けられた所で、その後、日本人信者によって居留地外に進出していった。これらが立教大学や明治学院大学などの発祥となっています。また、1875年にはアメリカ公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで公館が置かれていました。
(ガス街灯柱)
此れは、ガス灯を点ずるための街灯柱です。高さは3.4mで柱は鋳鉄製、コリント風の様式をとり柱頭・柱身・基部の部分からなっています。柱頭のランプ部分は後に付けられたものです。柱頭の下には左右長さ20cmの腕金が出て、柱身の下部には繰型が見られます。この街灯柱は明石町の築地居住地で使用されたと伝えられています。
当時は夕方になると点火夫が長い棒の先に鍵と点火具の付いたものを持って、ランプの底を開いて点火し、夜明けにはガスのバブルを閉じて消火して歩いていました。
日本の都市ガス事業の始まりは、明治5年(1872)に横浜の外国人居留地でしたが、東京は翌7年銀座煉瓦街完成を機に西村勝三・フランス人プレグランらが、芝浜崎町にガス製造所を設けて始まりました。京橋から金杉町間にガス灯85基を建て、明治7年12月に点灯したのが最初といわれています。ガス灯の明るさは当時の人々を驚かせました。
アメリカ公使館跡(明石町・聖路加国際病院)
開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政6年(1859)に現在の港区元麻布1-6の善福寺の公使館を開設しました。ついで、明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に公使館を新築し、はじめて形容が整いました。
後に、これが手狭となり、明治23年3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。この公使館跡には、5個の小松石の記念碑が残っています。大きさは縦86cm〜101cm・横84cm〜118cm・暑さ8cm〜34cm、うち、2個には当時のアメリカの国章である盾、1個には星と鷲と盾、2個には五陵の星が刻まれています。うち2個はここに3個は旧病院前に設置。
この記念碑は築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
カトリック築地教会聖堂(東京都選定歴史建造物、設計者=ジロジアス神父・石川音次郎、昭和2年(1927)
築地一帯は、明治初期に外国人居留地に指定された。築地教会は明治7年(1874)に、パリ外国宣教会が居留地35番・36番を政府より借り受け、聖ヨゼフを守護聖人として設立したものである。明治11年(1878)から大正11年(1920)まで司教座がおかれた教会で、東京で最も古い教会の一つでもある。
明治11年(1878)に献堂された旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りであったが、大正12年(1923)に関東大震災で焼失。昭和2年(1927)に木造2階建ての現聖堂が献堂された。現聖堂は当時の東京大司教であるレイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、正面にはドリス式オーダーが建ち並ぶ。明石町一帯は空襲を免れたため、教会は戦災にあわず、壮麗な姿を今に伝えている。
(カトリック教会)
カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が鉄砲州の稲荷橋付近の商家を借りて開いた稲荷橋教会がその前身とされています。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35番・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。
関東大震災で焼失し、昭和2年に再建された聖堂は石造りに見えますが 、実は木造建築で壁面をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で使用された鐘は、明治9年(1876)フランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かって外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として中央区民文化財に登録されています。
工学院大学発祥の地
明治21年我国工業の黎明期に当り、この地に○○学校が創設された。爾来工業界の各分野に有能な技術者を送った数は実に参萬を超えての発展に多大の貢献をいたしました事は周知である。関東大震災後、昭和3年出資者の誠意と努力により新宿に広壮な校舎が建設され校名も工学院と改められ時世の進運に即して終始発展充実を続けてきた。更に昭和24年に至り学園に工学院大学が設立され最高の工業教育機関として工業報国の伝統精神と発揚しつゝある。近く創立70周年を迎えんとし先輩の遺徳を偲び後進の発奮を促すため有志相図り学園発祥の地に記念碑を建てる。
現在の明石町から湊各町の沿岸は、江戸時代は「鉄炮洲」と呼ばれていました。この辺りが隅田川西岸(当時は海岸)側の最後に埋め立てられた土地で、その埋め立てられた土地が、鉄砲のような形状をしていたことにちなんで付けられた地名でした。もっともこれにも異説があって、この辺りで鉄砲や大砲の試射をやったからだともいいます。
現在の町域は、隅田川の西岸で、佃大橋の南西詰にあり、北は銀座桜通りと佃大橋を結ぶ国道で区切られ、南はあかつき公園、西は築地川公園、東は隅田川。 町内の南半分のほとんどは、聖路加看護大学・聖路加国際病院・聖路加ガーデンで占められています。聖路加ガーデンにはツインビルの47階建ての聖路加タワーと38階建ての聖路加レジデンスとが天空にそびえ立っていて、隅田川沿岸のビルの中でも特に目立ったものとなっています。