正月2日
平成15年1月2日(木)快晴
元旦、2日と、夜中から明け方までは時雨れていたが、2日は日の出と共に急速に回復して真っ青に晴れ上がり、清々しい正月の天気であったが、徐々に北西の強風が吹き始めた。
昨年は、親の戒めに逆らって、1日から買いものに出かけたり、自転車に乗り運動がてらに浅草、上野、谷中、白山、春日町、水道橋、神保町、一つ橋、大手門から大手町の読売新聞社前に出た。これには一寸訳があって、それまで寝ながら箱根駅伝を眺めていたのですが、昨年初めてスタートする選手の写真を撮ろうと思いつき、その下調も兼ねてここまでやって来たのですが、ものの見事に写真撮影に失敗し、写真は写っていませんでした。実際に目の前を走り去って行きましたが、話には聞いていましたが、その速さにはタダタダ唖然とし、20数qをラップタイムを落とさずに走り、タスキを渡して母校の名誉の為に日夜練習してきた成果を東京〜箱根間の晴れ舞台に、仲間にも勝ち抜き、一区間を全力で力の限り走り、へたり込む姿に感激しました。
さて、こんなに早く「親の戒め」が現実のものになるとは、思ってもいなかったが、3日の夜になると持ち直していた義父の危篤の知らせがあり、妻は取りも取りあえず実家に飛んでいったが、一目あうと息を引き取ってしまった。
正月早々から、お葬式と相成ってしまった。小雪が舞い、冷たくて悲しい、あいにくの日であった。そして月日は立春を迎え49日を終え、初夏を迎える頃、弟(独身)の声が急にがかすれて聞き取りにくくなり、医者通いなどしたことがなく、一年中、一度も保険証使ったことがないということで何年に一度、記念品が届いていたくらい健康だったが、近くの耳鼻咽喉科に通院していたが、何か特殊な事から発症しているのではないかという事で、大学の付属病院を紹介して頂き、伺うと、何と恐ろしい「肺癌」で、その末期症状で、どう見ても「後三月の命」だといわれ、即入院となったが、手の施しようがないと2週間で一先ず退院して養生することになったが、本人には「肺癌」だと告知しなかったので最後の最後まで伏せていたので「頑張れ、頑張れ」と励ますだけで「3ヶ月」が過ぎると、どんどん衰弱してしまったが、主治医が、今、話題になっている肺癌の特効薬の「イレッサ」を使ってみませんかと持ちかけられて、兄弟で相談し、本人にはその時「イレッサ」を使うとはいえなかったが、運良く治癒したときには話そうと思い、最後の望みを掛けて使用したが、効いたのか効かないのかも分からない内に息を引き取ってしまった。
葬儀も無事に済ませたが、事後処理には、市役所や区役所、出張所などに何度も出かけ出された書類に記入してハンコを押し提出したが、その中でも厚生年金には驚いた。両親はトウの昔他界し、一生独身を通したので子供もなかったが故に、これまで掛けてきた掛け金は掛け捨てという結果に終ってしまい、一時金すら出ないというのが現況だと知り「憤まんやるかたない気持」だった。
法律がそのように決められているという説明には、何となく合点が行かないものを感じたが、今、働いている人達は、何らかの形で国民年金や厚生年金、その他の年金や基金に加入している方々は多いと思いますが、結婚もしないで独身を通す人達よ決して「若死にだけはするな」と忠告したい。
というような1年だったので、今年は何時もながらのゴロ寝の元旦だった。昔も今も2日は職人の世界では、仕事始めだ。今年の2日の朝は寝ながら東京〜箱根間の大学駅伝のスタート見、やおら、起きて朝湯に入り、おせち料理をつまみながらビールを飲み、雑煮を食べ、ママチャリ漫遊記の仕事始めと決め込み、初乗りに出掛けた。
腹は満腹、ほろ酔い気分、正月の東京は空気も澄んでいて冷たくて気持のいいものだった。家を出て、中居堀通りから南に走り出した。明治通を横切ると右に向島警察署があり、入口付近には長い棒を立てて立っている警官が一人警備していた。すぐに東武鉄道亀戸線の踏切、踏切の手前右には近鉄運輸の跡地にマンションの基礎工事が始まり、鉄板の高い塀には看板があり、ルネ・フロンティアマークスという名前が書かれていた。新聞の折り込み広告には、サウナ付き大浴場、IHクッキングヒーター&ディスポーター(生ゴミ粉砕処理システム)、自走式駐車場100%月額900円、全152戸と新聞紙の倍の大きさの派手なチラシも入っている。
踏切を渡り、香取神社の横を通ると初詣の振袖姿や普段着の人やら賑わっていた。そのまま道成に行くと右にオリンピックの墨田店があり、北十間川に架る境橋を渡り、浅草通りを横切り左に入り、右にある普門院の所を左に曲り道成に行くと亀戸香取神社の前に出る。参道を真っ直ぐに行くと蔵前橋通りに出る。右に曲がって都心の方へ行くと亀戸天神社の前の鳥居を潜る人達が後を切らず人、人でいっぱいだった。横十間川の手前の交差点を左折して、錦糸橋JR総武本線の間には船着き場があり日曜日の午前10時頃に行けば木造の和船に乗れる。ガード下を通り京葉道路を渡り、川向に見える都立墨東病院を右に見ながら、旅所橋の所から川の中に遊歩道があり、小名木川一緒になる所まで行き、川の上に十文字に架る歩道橋を渡り猿江側へ行き少し戻り大島橋の所を左折して、四ツ目通りを左折して左にある「島忠」の店をひやかしがてら覗いてから東陽町の方へ向った。小名木川を再度渡り、十間川に架る豊住橋を渡り葛西橋通りを左折して横十間川に架る豊砂橋を渡り、右斜めに入る細い道に入り、そのまま、南砂3丁目、6丁目、7丁目と進むと荒川の土手のすぐ傍までやって来た。ここで左折して、又、葛西橋通りへ戻り、右側の歩道を走り土手下まできた。土手の上に出るには、左に曲がって坂道を上がり、右に曲がり橋の左側の歩道を行くには、そのまま行けばよし。私は右側を行こうと思ったので、少し下り、橋の下を通り、そして土手に上がり、左に曲がって歩道を右に曲がり、下流に新しく造られている橋を見ながら風の強い新葛西橋を渡り、その時、ふと思いついたのが、常々、中土手を一度走ってみたいという気持があったので、敢えてこの強風の中、挑戦する気になったが。
中土手には、人や自転車は入れないように鎖が張ってあったが、鎖を跨いで土手に下りると、更に強風だった。そこの上は、首都高速中央環状線で橋脚が約50メートル置きに左右に立っている。橋脚と橋脚の間の風の強いこと強いこと、ほとんど真横から吹いているようだったので横に倒されそうだった。今、新葛西橋の「葛西橋耐震補強工事事務所」のプレハブの建物が何棟かが建っていたが、土手から川の中に向って桟橋がせり出ている。中川と荒川が下流の地下鉄東西線と並行するように新しく建設されている橋と高速湾岸線の間で合流する当たりまで波消しブロックが2重、3重にぎっしり上流の船堀橋の方まで並んでいる。正月休で誰もいないプレハブの前を、通り過ぎると、送電鉄塔があり、中央環状線を跨いでいる。ここに河口より2kmの標識があった。
この辺に来ると真正面から吹きつけるので遅々と進まなく、力の限りペタルを踏んだ。真横には富士山が真っ白くよく見えていたが、眺めている余裕もなかった。
しばらくすると荒川と中川との船堀水門があり、荒川の右岸には旧中川の小名木川水門が見え、盛んに改修工事が行われている。中川放水路の右側には第1製薬の建物が見え、その先には中川放水路と江戸川とを運河のようの繋ぐ新川があり、その新川西水門の辺りの土手の改修も行われている。この辺りから川は僅かに右にカーブし喘ぎ喘ぎ地下鉄新宿線の下をくぐると、高速中央環状線の外回りの入口と内回りの出口になる船堀橋の出入口の取り付け道路が横にはみ出してきたところで、河川敷の道路の方に誘導されたが、強風の方は相変わらず変わらずフラフラしながら必死でペタルを漕いでいた。すれ違う人も自転車も数人、数台だった。
そして、船堀橋の下を通ると、送電鉄塔があり、ビュービューと音をたて、土手は大きく左にカーブし強風は斜め左前方から否応無しに吹きつけるが、また、高速の下の中土手に上がると、右には江戸川競艇場があり、ブイや監視用のボートのエンジン音が聞えて来た。
近くに住んでいても、初めて競艇場内や競技を見るのは初めてだった。中土手のこちら側は俗にいう裏正面というところだ。注意深く見守っていると車のクラクションと同じような警笛がなると、待機しているボートに選手が白、黒、赤、青、黄、緑の帽子をかぶった選手が乗り込むと一斉に川の中央に勢いよく飛び出してきた。中央には私の方から見ると一番左に円錐形の赤と白と塗り分けられたゴムのブイがあり、その右に等間隔に固定されたポールが4本立っている。1本目が赤と白に塗り分けられ、2本目が黄色と白、3本目が青と白、最後が黄色と黒、そして最初と同じゴムのブイが一直線に上流から下流に並んでいた。活きよい欲、飛び出したボートは並んでいるポールの先、つまり裏正面寄りに横一列に並び、外側の3艇が左回りで、ゆっくりと正面側の岸の方へ陸上競技の100m競争のようにトラックからやや離れて後ろから直線コースを走るように、並び内側の3艇は、そのままポールを左回りに巻くように進み、正面の大きな時計の黄色い針が真上を指すと外側の3艇のエンジン音がけたたましい爆音と共にスタートすと一呼吸後に内側の3艇も爆音と共に走りだし、1周、2周、3周、4周と試走し終わると、待機所へ戻り、又直ぐ先程の位置に付いて外側の一台一台が等間隔でスタートし終えば、内側の3艇も一台づつ同じように走り、2周もすると元に戻り、選手はボートから降りて土手の上に続く階段を上り競艇場の建物の中に消えていった。
観客も、さっさとスタンドから消えていった。初めての私には、この光景がよく飲込めなかったが、よくよく考えるとテレビ放送でよくやっている競馬のパドックで直に馬の毛並みや入れ込み具合を見てから馬券を買うのと同じことだなと思った。
観客が戻ってくるまでには、おおよそ30分ぐらいだった。その間、監視ボートが上流側と下流側から1艘づつゆっくりと交差して走り去り、水面の状態を確認していたようだ。
また、建物の中から今度は12名の選手が階段を降りてきて各々のボートに乗った。クラクションが鳴ると左側の6艇が先程と同じように中央に勢いよく出場して、試走の時と同じ位置につき時計の針を合図にスタートし、4周するとゴールのようだった。終わると、さっさと戻り、もう1組のグループと交代し、後の組も同じように試走すると、観客席も堰を切ったように観客が消えてしまったので、自転車に跨り、強風に、また立ち向かった。
競艇場の端に来ると、下流と同じように左岸の方から半分ぐらいまでブイがが浮き、通せんぼをしていた。こちら側半分は浮桟橋とボートが、ゆっくりと回転しながら3艘が監視しているようだった。左側は相変わらず、富士山がくっきりと見え、江東区猿江に立っているツインビルがいつまでも真横に見え、その手前には地下鉄新宿線の東大島駅の辺りから小松川橋の手前まで高層の公団住宅が並んでいた。首都高速7号線は何時ものような混みかたはしておらずスイスイと車ははけていた。土手はこの辺から一層左にカーブし、強風は真横から吹いていた。小松川橋の袂に来ると、また、河川敷の遊歩道に下ろされ橋の下を通り、そして、また、中土手に上がり土手の右側には屋上にアンテナの立っている小松川警察署、そして赤くて大きな〒のマークの江戸川郵便局が並んで見えた。そして、しばらく行くと区立松江第2中学校の緑色の体育館の屋根が見え、続いて高校野球で有名な関東一高の校舎が並び、河川敷には、送電線鉄塔があった。この辺でも土手は左にカーブしていたので、徐々に強風は左斜め前から吹きつけ、総武本線の鉄橋が見え下を潜ると新宿線では感じなかった鉄橋の音が物凄い轟音だった。河口より6k(葛飾区新小岩)の標識もあった。この辺の葦の刈り込んである所ではショートアイアンでの練習をしている姿が見かけられた。
そして平井大橋が見え、あまりの強風と疲れで、この辺で止めてしまおうかと思ったが、思いなおして橋下を通り抜けようとしたら、今までどの橋の下を通っても高さの制限が書いてある所は無かったが、ここには4.1bとハッキリと書いてあった。ここからはカーブも無くなり土手は真っ直ぐになった。平井大橋には高速中央環状線の内回りの進入口と外回りの出口がある。河川敷を300mも行くと土手に上がれり、左前には墨田区の清掃工場の煙突、隅田川に架る白鬚橋の袂に立っている大林組の本社ビル、南千住駅前の公団住宅、6、7年元警察庁長官が狙撃された住宅など見え、右には公団住宅のツインビル、後ろを振り向くと船堀駅前の建物が見えた。そして荒川と中川放水路との木下川水門があり、100mも行くと右に綾瀬川と中川放水路が合流した所に上平井水門がある。そして首都高速中央環状線S字斜橋があり、ここから高速は綾瀬川の左岸側に移り、土手の上は青空だけになった。おまけに道路はコンクリートから砂利道になり、広さはあるのだが落ち着いていないので、けもの道のように細く轍を外れるとよろけて倒れそうになる酷い道路が四つ木3丁目ぐらいまで続いていて、ここから木根川橋まではアスファルト舗装がしてあった。新葛西橋から、ここまで荒川には青テントは数えるくらいしかなかったが、そのうちに隅田川のように建ち並ぶ日も近いのではないか?。
木根川橋までの間にすれ違った自転車が8台、人が19人と木根川橋の所で凧上げをしていた家族3人と土手に寝そべっていた若い3人連れだけだった。土手から橋の上に来ると風もそれほど強くなく、また、暖かく感じた。両岸の土手がつい立になって風の流れを速くし、水面をなめた風が気温をいっそう下げていたかもしれない。
家に着き何気なく水槽を見ると、産卵用に隔離していたグッピーが16匹も生まれていたので、親を水槽に戻した。この親グッピーは、これが半年間で4回目の出産だった。