曳舟川

 曳舟川は、江戸幕府が明暦3年(1657年)の大火の後に開発に着手した本所・深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開削された水路です。成立は万治2年(1659年)と言われ、亀有上水あるいは、本所上水・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曾根溜井(かわらそねためい(現埼玉県越谷市)で亀有に入ってからは、東側に中井堀を分水し、四つ木付近までは二条の水路が平行して流れていました。
 亀有上水の廃止は亨保7年(1722年)の事で、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水として残され、古上水堀と称されました。
 上水の廃水後、篠原村(現四つ木)から亀有村間の28町(約3キロメートル)の水路を利用して「サッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩に掛けて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ばれるようになりました。帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟は江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれています。(葛飾区の説明プレートより)






(上)曳舟川絵図(歌川広重)
(右)江戸六上水の給水系統図より

 明暦3年(1657)の大火後に隅田川東岸が開発され武家屋敷や寺社が移った。亀有上水は本所上水とも言われ、万冶2年(1659)に開設している。水源は北埼玉群蒲生村瓦曽根の溜井であった。色々の問題もあり1722年には廃止されている。(図面は上に同じ)
上水廃止後は農業用水として使用され引舟も通った。広重の「名所江戸百景」に「四ツ木通水引ふね」の絵が残る。
本所・府川では横十間川や大横川として運河の跡が残る。(これらは上水とは関係なかっただろう。上水を使用した地域は大横川より西の大名屋敷と神社仏閣である)。
 亀有上水(本所上水ともいう)は24年間
(1659〜1683)と34年間(1688〜1722)使用されて廃止となり、灌漑用水と曳舟水路として使われた。廃止の主な理由は、度重なる洪水で堀が埋もれることや本所辺りでは海水が混じること、簡単に井戸が掘れたことなどである。
他の理由として、易の思想から水道を廃止すると火災防止に役立つとか、水道管により地脈が乱れ風が吹き荒れて大火災になる可能性があるというのである。
1722年の廃止以後に残ったのは玉川上水と神田上水であった。
上水の水源は瓦曽根溜井(埼玉県越谷市)で葛西用水と平行して流されたらしい。明治38年の東京府南葛飾郡全図によると、亀有から南は中井堀、千間堀、古上水が平行して流れ四ツ木で古上水と中井堀に別れている。古上水は現在の業平橋に流れる。


下総国葛飾郡大嶋村

 墨田区という地を含めて、葛飾区,江戸川区,江東区は本来一つのまとまった地域で、昔から葛西という地名で呼ばれていた所である。昔は荒川放水路も無かったし、今の行政区画にもしばられていなかったので、一つの大きな一帯の地域を形成していた。 
 すみだは縄文時代には水の上に浮島みたいな小さな島(例えば弟橘姫の羽衣が流れ着いたという伝説がある吾嬬の森)が少しは顔を出していたかもしれないが、まだほとんど海であったと考えられている。その頃は利根川を主流として荒川・江戸川(太日川)、綾瀬川・中川も利根川が枝分かれした下流であったし,入間川も鐘ヶ淵のところで合流していたので徐々に土砂が堆積されてきた。
 弥生文化・古墳時代に下がると、その島の数があちらこちらに増えて(所謂、多島現象)、いくらか台地らしき景観が見える島も出現した。浮州の森・寺島・牛島・小村江・亀島等々である。古墳時代後半(6世紀〜7世紀前半)大和朝廷王権が地方豪族に国造、その下に部民制度など敷いて進出してくる。
 その頃のことを語る伝承史料に「高橋氏文」(編纂されたのは平安時代)がある。これは高橋氏の祖先がヤマトタケルノミコト(景行天皇)に食事を捧げる朝廷職務に着いていた由来を語る文章であるが、このなかで、天皇への食膳貢物に葛飾野と安房で獲れた鰹・蛤・猪・鹿等を奉仕していたことが書かれている。大王=天皇へ食膳奉仕の起源の地に葛飾の地が選ばれていることはある意味でこの地方の歴史的重要性を物語るに充分な史料である。
 飛鳥時代には、大化改新(645)を経て全国に国郡制がしかれ東国の交通路も整い、市川の台地に下総国府が置かれた。下総葛飾地方も交通路が開けた証拠である。
 奈良時代になると、養老5年(721)の「正倉院文書」に下総国葛飾郡大嶋村の税金台帳と言うべき戸籍のが出てくる。甲和里(小岩)・仲村里(中川周辺部の奥戸・立石と思う)嶋俣里(柴又)等の村名が記載されている。墨田区も地つずきの関係でこの地域に入っていたとみるべきである。また、「続日本紀」の記述に、神護景雲2年(768)に、下総国井上(松戸)・浮島(隅田)・河曲(小岩)の三駅、「山海両路を承けて使命繁多なり。」とあり、宝亀2年(771)10月に武蔵国が東海道に編入され、隅田の渡津は武蔵国と下総国を結ぶ河畔の要衝となってますます繁栄したという事実を物語っている。
 平安時代のはじめには、この地域を記録したものは伊勢物語の在原業平、業平塚の御霊信仰、梅若丸の墓=梅若塚の貴種流離譚がこの地を舞台にして現われている。隅田川ものと言われる数多くの文芸作品を生んだ梅若伝説は全国的にひろがった。また、康平2年(1059)以降成立した更級日記には、菅原孝標娘が父の任地の上総から帰京する歴史的物語にこの地域を書き残している。
 須田宿の渡しの二艘だった渡舟を倍の四艘に増やしたという太政官符の記録(承和2年・835)は、すみだの渡し場が須田宿という商業活動が営まれる人の集まる繁華街となり、、隅田千軒宿などというコトバにみえるほどの繁栄した場所でもあったことを裏付けている。
 鎌倉時代のきっかけをつくった源頼朝旗揚げの事跡、「吾妻鏡」に詳しいが、‘すみだ’がここにも出てくる。頼朝が豊島の江戸氏に川止めをくわされた舞台となった場所は、隅田川の須田の渡し(隅田川神社付近)であり有名な話である。都内随一古い板碑が隅田地区の正福寺にあるが、鎌倉武士の供養塔であった板碑が隅田・向島の地に数多く出土したことはやはりこの地がそれなりの拠点であったことを示している。
 以上のように考えてみると、葛西の一地区である‘すみだ‘は、結構日本史に残る大きな歴史文献史料に頻繁に登場してくるれっきとした場所であったことを示している。また、葛西御厨注文の記録から寺島・隅田など葛西地域の村々は、頼朝の重臣となった葛西清重が伊勢神宮に寄進した神領地であったこともわかる。最近の研究の成果によれば、葛西城などの発掘調査もあり、中世と古代のこの葛飾・すみだの様子が大分わかってきたようである。
 康保4年(967)律令法の施行細則を集成した「延喜式」兵部省条に書かれている浮島牛牧についても、当時の官営牧場が今の牛島の地名に関係があった可能性はある。牛が臥したように低く細長く延びた草原に牛が放牧されていたとしても不思議ではない。
 ところで、中世末期の室町及び戦国時代の墨田区を含めた葛飾地区は、江戸氏と石浜氏の争い(1346)、新田義興と足利尊氏の石浜合戦がある。関東管領上杉氏の支配を受けた間、東国国人の河越氏をはじめ江戸氏・豊島氏・葛西氏など平氏秩父流の平一揆や、関東管領上杉氏と古河公方足利氏の争いにも巻き込まれた。この争いの経過を簡単に述べてみる。青戸にあった葛西城はその頃上杉幕府管領側の最前線になる。管領側千葉氏に内部分裂が起こり幕府管領方は葛西と江戸に後退、太田道灌が援助する。隅田川東岸まで葛西城の守備範囲で古河公方方を牽制している。その内太田道灌が主君扇谷上杉氏によって殺害され、山内上杉氏との間に内乱をおこす。小田原北条氏がその機を狙い、江戸城を攻略し、天文6年(1537)に河越城、翌年葛西城も攻略される。天文6年には里見氏も太日川(江戸川)を挟んで北條軍と激戦を交える。結局北條軍が勝つ。永禄3年(1560)には上杉謙信が出陣、葛西城は反北條氏の手に落ちる。しかし翌年には謙信が撤退し葛西城はまたも北條氏のもとになる。永禄7年(1564)には里見義弘と北條氏康の第二次国府台合戦が勃発、葛西城のある葛西の地は両勢力の激戦の場となる。このように葛西は何度も戦乱の巷に陥り乱れた。最後は、葛西は後北條氏の関東進出によりその支配地となるが、荒廃した様子が推測できる。
 戦乱の合間永禄2年(1559)に出た「小田原衆所領役帳」にみえる寺島村を含めて葛西各村の役高・収穫量を示す数字は、葛飾郷が農村地帯であったこと裏付けていているだけで、地元葛飾の具体的な生きた村の様子を知る手がかりとなる史料はほとんど無い状態である。
 徳川氏が江戸に入り江戸幕府が開府されると、江戸が政治の中心地になった。隅田川を越えた東岸の地・寺島村に旗本多賀氏の陣屋、太日川(江戸川)市川の対岸篠崎村に旗本本田家陣屋が配備された幕府史料があるが、この寺島・隅田をはじめ、葛西(葛飾)の地は、御前菜畑を抱えた野菜産地・農村地域であること以外、江戸期前期に関するかぎり、歴史の中から姿を消したように表れてこない。
 近世江戸の葛西すみだは、むしろ中世の昔よりも遠い存在で、この頃の墨田区(旧寺島・隅田)の村の実生活を伝える記録が出てきていないので具体像は浮かんでこない。むしろ江戸という都の静かな近郊農村地域の地位におさまり、東国の重要な渡津として役割は返上したようである。徳川氏が江戸を政治の中心地を担って、五街道を新設し日本橋を五街道の起点として北国への出口に千住大橋を架設したり、隅田川に両国橋をはじめとして江戸中心地への交通路を通すことにより、地理的事情が変化した。それは隅田の渡しの街道上の役割低下を意味し、当然の如く重要性・必要性は落ちたことになる。隅田の渡しは脇街道となり、往時の繁栄は無くなり静かな農村へと変貌したのであろうと私は思っている。
 それがようやく江戸の後半になり、隅田川向こうの地・寺島隅田を含めた向島墨堤の地が、江戸市民の近郊農村・緑多き閑静な名勝の地・行楽の場・富裕層の別荘地として再び歴史の場に脚光を浴びて登場してくるようになる。このへんになるとさすがに多くの歴史文化史料(詩歌・文芸・演劇・絵画・庭園・史跡等々)が残っている。江戸文化の中心的役割を担ったわけである。


曳舟川通り

上千葉砂原公園
 アスレチック風の大きな遊具、自転車や豆自動車の貸し出し、動物ふれあい広場などがあります。ポニーやヤギなどの動物たちに気軽に触れ、一緒に遊べる『動物ふれあい広場』は子どもたちに人気です。ポニーやリスザル、ワラビー(小型カンガルー)、ヤギなど約17種230匹を飼育しています。動物に触ったり抱いたりすることもできます。ポニーの体験乗馬もできます。 補助付き自転車でも交通公園のコースに出られ、親もついて歩けます。
 交通公園では、SLに乗ることもできます。」ただ休日は混んでいて、乗り物は30分交代、ものによっては並ばなくてはならないようです。
 交通公園や動物ふれあい広場は休みの日があるので事前にチェックして。(交通公園管理事務所 
03−3604−2610)

川尻清潭の墓)(源光寺) 墨田区本所3−1303−3626−24711
 清潭は明治9年下谷ニ長町(現台東区)に生まれましたが、武野家より川尻宝岑氏(明治の劇通・劇作家)の養子となります。若くして劇界に入り、のちに松竹株式会社の嘱託となり、長年にわたり歌舞伎の演出に従事し、昭和29年12月14日に79歳で亡くなりました。中郷山源光寺は浄土真宗大谷派に属し、東本願寺(京都)末の名刹です。

桃青寺 墨田区東駒形3−15 
 江戸中期の俳人、長谷川馬光は、葛飾蕉風の初世其日庵山口素堂に学び、師の其日庵を襲ぎ二世となりましたが、点者となり門戸を張ることをせず、交友は各派に渉っていました。また亨保10年に「五色墨」の運動を起こし、俳壇の革正に尽くしたことは有名。著書には「湯山紀行」「薮鴬」「かさね笠」などがあります。寛延4年(1751)「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最後に65歳でこの世を去りました。
四世鶴屋南北の墓碑(春慶寺)墨田区業平2−14 03−3621−1338 
 宝暦5年(1755)江戸に生まれた鶴屋南北は、幼名を勝次郎といい、はじめは父親とともに紺屋の職人をしていましたが、生来の芝居好きと文才のあったことから、安永5年初代桜田治助の門に入り、桜田兵蔵と称して同年中村座の「将門冠初雪」にはじめてその名を連ねました。頭角をあらわしたのは文化元年の「天竺徳兵衛韓噺」で尾上松助(のちの松緑)の徳兵衛の水中早替りの至芸と相まって70余日の大入り興行を記録。安永8年に鶴屋南北を襲名し、「お染久松色読販」「東海道四谷怪談」などの傑作をうみだしました
高木神社 墨田区押上2−37 03−3611−3459
 社伝によると、応仁2年(1468)創建。祭神は高皇産霊神で、古くは第六天社と呼ばれていましたが、明治初期に高木神社と改称したといいます。かつては大きな臥竜の松があり、曳舟川を上下する舟の目印になったと伝えています。境内で目を引くのは、弘化2年(1845)銘の狛犬。乱石積みの上に安置され、左右同形で阿・吽の区別がありません。
円通寺 墨田区押上2−39 03−3611−5508
 地蔵菩薩立像は一部破損はあるものの、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏です。顔は童顔に満ちていて江戸初期の佳作にふさわしいものです。また、この石仏は寺島村新田(旧称)の、「寒念仏」を修復した記念に、結縁衆の「菩薩」を弔うために造立・奉納されたものでもあります。

飛木稲荷神社
 古老の言い伝えによれば、大昔のあるとき、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んできて、この地に刺さったとのことです。それがいつのまにか大きくなって、これはおかしいとあわてて稲荷神社をお祀りしたのがはじめであるといわれております。

曳舟川親水公園(亀有〜お花茶屋)
 むかし舟運に使っていた水路が暗渠になったその上を、ビオトープであり、夏には水遊びもできて、地域の歴史のわかる公園にしたもの。最近整備が完了したばかり。近所に住んでたら通っちゃうな。
葛飾区郷土と天文の博物館
 天文館と郷土資料館を兼ねた、とても立派な施設。入館料100円。大きなプラネタリウム(300円)では全天周映画もやる。天文関係は展示だけでなく、研究活動も常時行っている。郷土資料館部分は葛飾の歴史と風俗について充実した展示があって、徹底的に再現された昭和三十年代の家庭と町工場なんか、異常に細かいところまで作り込まれていて呆れる。映像展示もあって、ボタンを押すといきなり宇宙誕生から現在までの葛飾の歴史をたどるマルチメディアシアター(寺田農のナレーション)とか、キャサリン台風の被害、衰退してるけどまだ残ってる伝統産業の様子とか。企画展は「小合溜井(こあいためい) 水元公園の自然と文化」で、これもけっこう力が入っている。全体に表示の文字が見づらかったり、説明の足りないところが多いのが気になるといえばなるけど、博物館としては上等な部類に入ると思う。
 だかしかし、とにかく人が来ていない。本当にいない。同行人によると「いつ来てもいない」らしい。人のいない公共施設もいろいろ見たけど、ここまで立派で、ここまで客のいないところも珍しい。もったいないなあ。