夏の日の限界
(城南島)
平成14年8月11日(日)快晴
新大橋 |
浜離宮恩賜公園(浜離宮庭園) |
魚河岸の名で親しまれる東京都中央卸売市場築地市場。昭和10年の開設以来、巨大都市東京の食生活をささえて、既に60年の月日が流れました。今や日本を代表する市場となった築地市場は、東京都民いや日本の胃袋を支えてきた。
東京都中央区にある日本橋のたもとには魚市場発祥の記念碑が建っています。この碑文には今の日本橋室町一帯は「ことごとく鮮魚の市倉なり」とあり、漁場から新鮮な魚を運び、日夜市を立ててにぎわう魚河岸はこの辺りにあったと伝えています。
江戸時代初期(1603年頃)、幕府を開いた徳川家康は、江戸城内の台所をまかなうため大阪の佃村から漁師たちを呼び寄せ、江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになったのです。それが魚河岸の始まりといわれています。
江戸時代の魚市場では「問屋」と呼ばれる商人が店を構え、魚の仕入先である生産地と結び付き独自の流通組織を作り発展しました。
この頃の取引は、まず「問屋」が「荷主」から魚などの品物を買い取ります。「問屋」はこの品物を値段を決めないまま「仲買人」に渡します。「仲買人」はその品物を「小売商」に売らせたのです。「仲買人」は市が終わると、「問屋」に集まって、その日の売上結果を持ち寄りました。そしてこの時点で話し合いにより、値段を決めたのです。品物を小売してから、卸売の値段を決めるという今では考えられない取引が行われていました。
明治の時代、市場は新政府のもと近代化へ歩みはじめました。問屋や仲買人は組合を作ってまとまり、当時の魚市場は千住、新場、日本橋、芝金杉の4ヶ所に統合、整備されました。しかし都市の人口が増えるとともに、取扱量や業者の数が増えて取引が乱れ、その上、不衛生な状況にとかく人々の非難を浴びました。そこで公設の中央卸売市場を望む声が高まってきたのです。
大正12年3月、流通の歴史を塗りかえる「中央卸売市場法」が制定されました。市場は東京市が指導、運営し、衛生的で公正な取引による価格と品質の安定を目指したのです。
市場法にもとづいて東京市が中央卸売市場の計画を進めていた矢先の大正12年9月、関東大震災が東京を直撃、未曾有の災害はすべてを焼きつくし、長い歴史を誇った日本橋魚河岸はその幕を閉じました。
震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、同年12月には、交通の便が悪く、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、市設魚市場として芝浦から移転させました。中央卸売市場開設までの暫定市場として建設したものでしたが、これが築地市場の始まりです。
昭和10年2月、築地に広さ22万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設されました。市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線を通して貨物で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。このため扇状の建物が建てられたのです。市場は迅速、公正な取引を展開し、取引の結果を公表して価格を安定させ、市民生活を支える大きな力となったのです。
昭和16年12月、太平洋戦争が始まり、食料品は配給統制となりました。戦後も食料品の統制は続き、しばらくの間は市場本来の役割を果たせませんでした。
統制が解除された昭和25年以降は、市場の働きが回復し、入荷量が増えるにつれて人々の食生活も安定の方向に向かいました。
高度経済成長期の昭和37年、東京の人口は1,000万人を超えました。さらに、漁業技術の発達や冷凍技術の進歩によって新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、野菜や果物は、農協などの出荷団体の組織が整い、生産の規模も拡大しました。そしてトラック輸送の進展で全国各地から市場へ荷が集まるようになったのです。
高度経済成長期の昭和37年、東京の人口は1,000万人を超えました。さらに、漁業技術の発達や冷凍技術の進歩によって新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、野菜や果物は、農協などの出荷団体の組織が整い、生産の規模も拡大しました。そしてトラック輸送の進展で全国各地から市場へ荷が集まるようになったのです。
江戸から東京へ、日本の食文化をささえ、作り上げてきた築地市場は、また新たな歴史を刻み、巨大都市東京の食を守りつづけます。
9月の旬の魚
魚の名前の川柳や俳句
ありそうでないは人魚を食った人 江戸川柳
古来より人魚を食すると不老長寿を得るという言い伝えがあるが、実際の歴史上の人物である源義経の家来清悦という人は、奥州の山中で山伏から人魚の肉をご馳走になり、長寿を得て江戸時代まで生きたという。
人魚は実は水棲哺乳動物牛目のジュゴンかマナティーであろうというのが定説である。沖縄ではその昔このジュゴンをザンと呼び常食にしていた。なるほど沖縄の人は長寿だ。
鯨汁喰てしまえばいとまごい 江戸川柳
江戸時代には煤払いの後の身体を温めるためにクジラ汁を食べる習慣があり、町を流すクジラ売りの声は冬の風物詩であったという。
黒船来航によって、江戸の町は大平の眠りを覚まされるが、ペリーの目的のひとつが日本近海でマッコウクジラを追う自国の船に食料と水を供給する捕鯨基地をつくることだったのは有名な話。
そのアメリカからの圧力で1987年を最後に捕鯨は行われていない。
あら何ともなやきのうは過てふくと汁 芭蕉
フグは昔はフク(布久)、フクベ(布久閉)などと濁音なしに呼ばれ、フグとなったのは江戸っ子の早とちりからだという。フクは裕福の富で「富くじは当たることもある」という洒落でもあった。いまでも本場下関ではフクと呼んでいる。関西では当たれば死ぬことからテッポウと呼ぶ。
鱒跳ねて一山のしじま集まりぬ 蓼村
マスはややこしい。ニシン目サケ科の魚で大別するとニジマス(虹鱒)のような陸封型とベニマス(紅鱒)のような降海型に分かれるが、分類学上で単にマスといえば降海型のサクラマス(桜鱒)を指す。このサクラマスの陸封型がヤマメ(山女魚)になり、ベニマスの陸封型はヒメマス(姫鱒)となる。シューベルトが書いた「ます」はブラウン・トラウトと呼ばれる奴だ。しかし魚屋さんで「マスをくれ」というと出てくるのは必ずカラフトマス(樺太鱒)である。
大串に山女の滴なおたるる 飯田蛇笏
北海道や本州日本海側のヤマメは、生後1年を川で過ごした後、メスの大半に変化が生じる。体の斑紋が消えて銀色のウロコで覆われ、やがて川をあとにし、未知の海や湖を目指していく。山女という字が充てられているが、川に取り残された北方系のヤマメは、ほとんど男ばかりの「やもめ」である。
海豚囲う船守颪吹きにけり 麦草
イルカはもちろん魚ではなく、クジラ目イルカ科の海獣である。愛らしい姿とは裏腹に集団で回遊し魚を主食とするため、猟師からは目の敵にされたりする。実は東京の真ん中でイルカが獲れることがある。といっても獲れるのはその骨だが。河越逸行氏の「掘り出された江戸時代」によると、銀座や新橋あたりの土木工事現場からイルカの骨がしばしば出土するという。江戸時代には東京湾を回遊するイルカが堀割に入り、市中にひょっこり顔を出していたのだろうか
小石にも魚にもならず海鼠哉 子規
川柳に「このわたを舐めて酒豪の列にいる」とある酒肴の珍味コノワタは「海鼠綿」と書き、文字通りナマコのはらわたのことである。
「本朝食鑑」によると、近世にある僧がナマコの腸を取り、その中へ塩をこすり入れて木べらでかきまぜたあと、二、三日後に嘗めてみると言葉に尽くせないほどの美味だったというのがコノワタ食いの初めである。
笹添えし鰉料理や八瀬時雨 岳秋
明治天皇がこの魚を好んだので「皇魚」の意味でこの字が充てられた。たいそう名誉のある名前だが、江戸時代には「痩せて弱々しい」たとえとされていた。浄瑠璃の「八百屋お七」では「世にひがいすな娘をば、あの柱へくくりつけて」とあるし、近松の「曽根崎心中」にも「ひがいすな男」というのが出てくる。
ごんずいを海へ掃き捨てセリ終る 一竿子
魚市場ではセリも一段落し、作業員たちはゴミでちらかったセリ場の掃除に追われていると、そこに何匹かのゴンズイが転がっていた。けれども誰も気にとめることなくゴミと共に捨ててしまう。屑のことをゴンズイという地方もあるくらい、鼻もひっかけられない魚だが、蒲焼きや味噌汁の味にすると実に美味であるという。
魚市場を後にすると、大きく右にカーブし左に浜離宮恩賜公園「浜離宮庭園」があり、南門橋を渡ると入り口がある。私はこの中に1度も入った事はないが、前を通るだけではなく、今度ゆっくりと散策してみたいものだと思った。また、浅草から水上バスに乗れば3,40分でここの岸壁に到着する事も出来る。
首都高速環状線に沿って行くと庭園内から何種類もの蝉の声がうるさいほど大合唱していた。陽射しは、ますます強くなり日影を求めてビルの影や木陰を走らなければ、大粒な汗が止め処もなく流れ落ちた。
都立芝商業高等学校の前を行過ぎると、左折して竹芝桟橋の前を通り「ゆりかもめ」の走る下を進んだ。ここからは伊豆七島へ毎日何便も出航している。
首都高速も、浜崎ICで環状線と高速1号羽田線とに分かれる。古川に架る浜崎橋を渡ると日の出桟橋で、浅草や葛西臨海公園からの水上バスが離発着している。
芝浦運河に架る日の出橋を渡ると海岸3丁目、左にレインボーブリッジを見ながら、丸く1週するループ橋の取り付け下で、海風というか川風というか涼しい風に吹かれながら、からだ中のほてりを冷まし五色橋を渡り、いよいよ品川区に入った。
五色橋のところで上を通過したモノレールの下に東京港建設事務所がありその前に「第1芝浦丸」と名前の入った古ぼけた古船が屋根着きで展示されている。港南小学校前の交差点を左折すると品川埠頭行くが、ここの交差点で後ろを振り向くと首都高速1号羽田線とモノレールを跨いで新幹線の引込み線は更にその上を通る場所があった。
首都高速1号羽田線下の一般道では、スピード違反の取締り(いわゆる「ねずみとり」方式)を行っていた。個人的には、このやり方は賛成出来ません。警察官が隠れるようにして、罠にかけて判歴まで残して仕舞うやり方には、違う方法はないものか。? これでは、1憶総犯罪者になりかねない。とは云えモータリーゼーションとスピード時代「せまい日本そんな急いで何処へ行く」という交通標語もあるが、ごもっともだとも思う。取り締まりそのものは厳しくても構わないが、「ねずみとり」方式は、このへんで再考してもいいのではないか。
高層ビルが何棟も目に入っていたが、段々大きくなり、とうとうビルの横まできたが、新しく再開発されてモノーレールやりんかい線の駅前広場も出来、益々人気スポットになるであろう天王洲アイルまでやって来ました。
天王洲アイル
1751年;品川沖を航行中の船が、海中に沈んでいた牛頭天王の御面を拾い上げる。この面を拾い上げた辺り(現在の天王洲が在る辺り)は、目黒川の河口の先に広がる浅瀬(つまり海の
中)。面は、後に品川荏原神社に奉納。
1853年;浦賀に黒船来航。幕府は海上に大砲を備えた人工島を配する江戸防衛線(12ヶ所の大砲台場)を計画。
1854年(安政元年);1月にペリーが再来航。5月に第一〜第三台場が、11月に第五〜第六台場完成。第四台場(現在のシーフォートスクエア北側半分)・第七台場は工事中。
1855年(安政2年);10月、江戸を壊滅させる「安政の大地震」。日米修好条約が成立したことから防衛線の意味が無くなったことと、震災による財政難との二つの理由から、台場工事は中止の上、放棄された。中でも工程半ばで中断された第四台場は「崩れ台場」と呼ばれるようになった。
1872年(明治5年);品川駅開業。
1883年(明治16年);第四台場あとに緒明(おあき)菊三郎が造船所を建造。後に陸軍省造船所となる。
1909年(明治42年);第四台場並びにその造船所は内務省管轄となる。但し2〜3年のうちに、今度は東京都に払い下げられ、都有地になったらしい。右の地図はこの頃のもの。画面左上が品川駅。中央下部に見えるのが当時はまだ荏原神社あたりから北にカーブして八つ山通りに沿って流れていた目黒川の河口(現・台場小学校横)。この河口よりも海側に突き出たあたりは、江戸期には「洲崎」とか「猟師町」と呼ばれていたが、江戸末期以降は「利田新地(かがたしんち)」と呼ばれるようになっていた。第四台場は、この地図では右の先に見切れている。
利田新地の名は、この砂洲を開拓した南品川の名主・利田家にちなんだもの。砂洲の先端に祀られていた弁天堂(洲崎弁天)も、北品川・東海寺の沢庵和尚(日本にタクアン漬けを輸入した人ね)が弁財天を祀ったのが初めと言われるが、明治になって利田神社に改名されている。
1912年(大正元年);第四台場は東京都から民間に払い下げられ、民営造船所となる。
1922年(大正10年)頃になると、にわかにウォーターフロントブームと共に、東京湾沿いの浅瀬の埋立が続々行われるようになる。主に、品川駅の貨物駅が増強されたことにより、貨物船の埠頭として使われたことが大きな理由。都バス品川営業所や船清あたりまではこの頃に埋め立てられている。一方、目黒川はこの頃、荏原神社あたりから直接東京湾に流し込むため、現在の東品川海上公園に向かう掘り割り(現在の河口)が開通。かつて目黒川河口だった八つ山通り沿いも埋め立てられ、住宅地として使用され始めた。これから数年の内に、第四台場も西南方向に埋立て始められる。
1937年(昭和12年)水産大のある高浜埠頭が、また埋立途上の天王洲の西側岸壁(T.Y.ハーバー辺り)の原型がそれぞれ見えるが、建物は建ってないだけに白地のまま。このまま埋立を進め、整地されたあと、戦時中は国に接収され、捕虜収容所や軍用馬厩舎として使われた事もあったらしい。
一方で、八つ山通り南側の利田新地からテレ東スタジオ辺りまで(通称;洲崎)が埋め立てられ、住宅地として活用され始める。旧海岸通りや天王洲橋も見える。また品川貨物駅に直接貨物船を接岸するため、現在は品川インターシティが建つ辺りはまだ運河があったことが分かる。
戦後、天王洲の各区画を国から払い下げられた品川燃料や三鱗燃料など石油・倉庫・海運会社が流通基地として使用。天王洲は一躍物流拠点となり、このころ以降、「品川区天王洲町(現・東品川二丁目)」と呼称される。当時、品川埠頭はまだ無く、天王洲は東京湾に直面していた。さぞかし眺めが良かっただろう。
1951年(昭和26年);品川埠頭の埋立て始まる。
1953年(昭和28年);天王洲町に品川区営の「天王洲野球場」完成。右の地図は1955年(昭和30年)。新東海橋や楽水橋の他、既に寺田倉庫・中川特殊鋼(現セントラルタワー)・都営アパート・水産大学などの建物が見える。ところでこの地図でも、現イギン辺りから品川駅前インターシティ辺り迄の運河が残っているのが分かるが、この頃以降、トラックによる陸上輸送が中心となったため、貨物船から貨物列車に直接積み替える必要が無くなり、この回船運河も意味が無くなったことから、やがて埋め立てられてしまう。
1965年(昭和40年)頃;品川埠頭完成。かつての第一台場・第五台場もこの品川埠頭の一部として地下に眠っている。第二台場は、東京湾航路の邪魔になることから、1960年(昭和35年)頃に浚渫されて消滅。その土砂も品川埠頭埋立に使われたらしい。
天王洲アイル |
大井発電所と大井清掃工場 |
天王洲を過ぎると真直ぐな道路が1キロメートル以上も続き首都高速湾岸線から首都高速1号線へ進入するだけの迂回路の手前をを左折して大井2号橋上で、左に大井火力発電所の煙突とその右手前の大井清掃工場の煙突が見えてきた。
その清掃工場の脇を通り、首都高速湾岸線の首都高速1号線への分岐点のところで、湾岸線を走る自動車を見ながら、涼を取った。10分も休んでいると、スッカリ汗も引き元気にペタルを踏むと左にJR東海の大井操車場があり、10数編成の車両が停車し整備を終えた車両が時たま基地から出て行った。私自身こういう光景は大好きなので飽きることなく写真を撮ったり、ぼけっと、暫し眺めている羽目になった。ここから約3キロメートル程が一直線で左側は操車場だった。
右側は品川八潮パークタウンと大井埠頭中央海浜公園が続いていた。
この辺りの品川区と大田区の境界線は運河ではなく、複雑に入りこんでいる。環七大井埠頭交差点の角を左に入ると右側が太田市場の真裏で野鳥公園はその先隣にだった。野鳥大橋を渡ると城南島です。
太田市場 |
車両基地 |
釣人と羽田空港 |
太田市場
東京都では、既存市場の狭隘化の解消、配置の適正化のため、昭和30年代から新市場の建設について計画し、長期にわたり調査・検討してきた。
昭和56年度に策定した「第三次東京都卸売市場整備計画」において、大井市場(仮称 昭和62年4月「大田市場」に名称決定)は、城南地域の地元市場として整備するとともに、都心部に立地する築地・神田両市場の過密化を解消し、今後の都における生鮮食料品等の円滑な流通を確保するため、青果物・水産物及び花きを取り扱う総合市場とする方針を決定した。このうち、青果部は、神田市場、荏原市場、同蒲田分場を移転統合し、水産物は、大森市場を移転収容するほか地域市場として整備することとなった。このため、東京都は、昭和57年10月、建設計画の円滑な推進を図るため、都と市場関係業界との協議機関として「大井市場検討委員会」(のちに「大田市場検討委員会」と改称)を設置した。また、花き部は城南地域にある9つの花き民営地方卸売市場を統合して建設することとした。
昭和58年4月、東京都首脳部会議において、新市場の建設計画を決定し、取扱規模は、青果部3,000トン/日、水産物部300トン/日、花き部150万本/日(平成3年度、第5次東京都卸売市場整備計画で245万1千本/日に変更)を目標とした。その後、青果・水産施設については昭和58年度に基本設計・地質調査、昭和60年度実施計画・地盤改良工事着手、昭和61年度地盤改良工事完了・建設工事着手、昭和63年度末に建設工事が竣工した。また、花き施設については、昭和62年度に基本・実施設計を行い、昭和63年度に建設工事に着手し、平成元年度末に竣工した。
施設竣工にともない、青果部は平成元年5月6日に業務を開始し、水産物部は大森市場を移転収容するとともに、築地市場業界からの出店により機能を拡充し、同年9月18日に業務を開始した。また、花き部については平成2年9月8日に業務を開始した。
東京都が建設した最も新しくかつ近代的な市場であり、水産物・青果物・花きを取り扱う総合市場である。特に青果物については、水産物における築地市場と同様、施設規模・取扱量ともに我が国最大の市場である。
太田市場や野鳥公園には寄らずに上り坂のキツイ京浜大橋をやっとこのおもいで渡りきった。道成に左カーブしながら進むとそれまでずうっと右側に並行していた首都高速湾岸線が、ここから地下トンネルになっている。トンネルから出ると、そこは羽田空港だ。
ここでも暫くの間、B滑走路に着陸する日航、全日空やJASジャンボ、727、DC10などの機種を眺めながら、木陰でお茶を飲み暑さを凌いだ。
工場や倉庫の建ち並ぶ道を折り返して交差点を左に曲がって京和橋上で360度グルリと見渡すと真前が昭和島で森ケ崎下水処理場で橋の坂を一気に下ると、一帯は工業団地とがあり、工業団地の中を進むと森ケ崎の下水処理場の入口に出た。門のトビラは開いていたが、場内を覗こうとしたら誰もいないのにトビラが自動で締まり出した。
運河沿いに京和橋まで戻り、橋を渡って戻り交差点で左折して京浜大橋を渡り、橋の坂を下り切った交差点を右折して左側に太田市場の正門がある前を通り城南大橋を渡り、左手前の野鳥公園を振り向き見たが、鳥影一つ見えなかった。すぐ交差点だったがそのまま進んだ。次の交差点を過ぎると大きく左にカーブし汚泥処理工場の前を通り過ぎると行き当たりのT路地になり右に曲がるとすぐに行き止まりになっていたので、折り返し左折して汚泥処理工場を通り過ぎ左折して右にカーブすると城南島のキャンプ場の有料の駐車場と入口のゲートが見えてきた。
中には入ると舗装道路と砂浜までは芝生の広場が左側にあり、右側は有料のキャンプ場になっていた。無料の広場には、自転車にのってでも自由に走ることが出来たので、端から端まで行ったり来たりと乗廻し木陰で、持って来た梅干の入った握り飯を2つ頬張り、お茶の入ったボトル(500cc)をアッという間にのみ干した。この間上空をジェット旅客機が2,3分間隔で羽田空港へ着陸するために低空で轟音を発てて飛来していた。空港の回りでもこんなに近くで機影を見れるところは、ここが1番だろう。
キャンプ場 |
砂浜と飛行機 |
大井埠頭を望む |
1時間程いて出発し、野鳥大橋を渡り東京湾環状道路の1つ手前の道路を右折して埠頭の倉庫が並ぶ日影を走ると、まもなく大井水産物埠頭の入り口前にやって来た、左折して、また、右折すると、街路樹の柳の木の枝が歩道につきそうなくらいに。垂れ下がっていた。お陰で飛び飛びながら日影があって強い日差しを遮ってくれたので、非常に助かった。
左側へ行くと大井中央陸橋を越えると大井競馬場、海岸通りになり、左先角にはみなとが丘埠頭公園がある。そして東京貨物ターミナル駅が続き、右側は大井・・・が、交差点の角にあり、その先には、日本郵船コンテナターミナル、大阪商船コンテナターミナル、第3埠頭公園、その奥に国際コンテナターミナル、川崎汽船コンテナターミナル、と海上輸送の建物が続いていた。
今日の暑さは並み大抵の暑さではなかった。朝から500ccのペットボトルのお茶を3本も空けていたが、のどは良く乾いた。それと何となく足の筋肉に異様感を感じ始めていた。これから登る坂は何となくきつくて長く気も進まなかったが、気を取り直してペタルをこいで、ほぼ登り切る頃に軽いけいれんのようなものを感じたので自転車をおり、押して頂上まで行き、1番下を通る首都高速湾岸線、その上の貨物線と並行に走る新幹線の車両基地への引込み線と3層に立体交差する真上から前もってコンテナターミナル前の自動販売機で特大コーラ缶買っていたので、のんびりと高速の車の流れや基地から出てくる車両を眺めていた。そして30分もすると足も軽くなったので出発し坂を下り始めると品川運河の手前で右折して運河に沿って走り、若汐橋を渡り品川埠頭に入り東電品川発電所、東京税関の前を通り港南大橋渡り首都高速1号羽田線下の海岸通りを右折して、海岸3丁目までくると埠頭公園があり、そこには帆船のデッキから滑り台が着いて盛んに子供たちが大きな声を上げて楽しんでいた。
その後は、足の方も順調で浜離宮まで戻り、新大橋通りを横切り蓬莱橋で右折して昭和通りに入り、東銀座の三原橋、宝町、日本橋の江戸橋、本町ランプ、本町3丁目で右折して、東京駅から地下を総武本線が走っている江戸通りを小伝馬町、馬喰町、浅草橋、蔵前橋では、信号待ちしていると、ふと目に入った台東区の史跡プレートがあり「天文台跡」が西側通りを1本隔てた区画にあると表示されている。
看板の内容を読み終わると、信号が点滅していたので、あわてて渡ったのが良くなかったのかそれまで、しっかりしていた足が、急にまた怪しくなってしまい、「駒形どじょう」のはす斜手前で、とうとうカバッテいた右足が、バッチリとケイレンして「ツッテ」しまった。
見る見るうちに硬く凝固まりハチキレそうだったが、急いでガードレールに越し掛けようとしたが、少し高くて、案配が良くなく、仕方がなくスタンドを立てた自転車のサドルの下の丸くなっているフレームに腰掛けて座り、曲がった膝の後ろに両手の指を組んで回し、少しづつ持ち上げていたら、次第に圧迫感がなくなってきて、5、6分もするとスッカリ元通りになったが、大事をとって30分ぐらいその場にいた。なんと、まのいい、自動販売機の真前だったので、コーラを買い350ccよりお買得のロング缶を一気に呑み干し、また、屈伸運動やふくらはぎや太腿の筋肉のマッサージを入念におこなった。
我家まで僅かであったが本当に今日は終盤で、ちょっと自身をなくしたが浅草松屋前を通り,花川戸、今戸から台東体育館、横のプールは老若男女などで芋を洗うような盛況で、外国人のカップルなんかはプールサイドで甲羅干しているのを尻目に桜橋を渡り、娘夫婦の家に立寄り孫ふたりと1時間近く遊んで、午後5時に帰着した。ああ、くたびれた。