フーリガン
(ならず者)
日韓共同開催
平成14年5月31日(金)〜6月30日(日)
参加国数 32国(赤色予選通過)
A組 | デンマーク | セネガル | ウルグアイ | フランス |
B組 | スペイン | パラグアイ | 南アフリカ | スロベニア |
C組 | ブラジル | トルコ | コスタリカ | 中国 |
D組 | 韓国 | アメリカ | ポルトガル | ポーランド |
E組 | ドイツ | アイルランド | カメルーン | サウジアラビア |
F組 | スウェーデン | イングランド | アルゼンチン | ナイジェリア |
G組 | メキシコ | イタリア | クロアチア | エクアドル |
H組 | 日本 | ベルギー | ロシア | チュニジア |
1 回 戦 | 準々決勝戦 | 準決勝戦 | 決勝戦 | 優 勝 | 決勝戦 | 準決勝戦 | 準々決勝戦 | 1 回 戦 | ||
対 戦 相 手 | 対戦相手 | 対戦相手 | 対戦相手 | 対戦相手 | 対 戦 相 手 | |||||
1 | ドイツ | ブラジル | イングランド | デンマーク | 5 | |||||
1 | パラグアイ | ドイツ | イングランド | 5 | ||||||
2 | メキシコ | アメリカ | ドイツ | ブラジル | 6 | |||||
2 | アメリカ | ブラジル | ベルギー | 6 | ||||||
3 | アイルランド | スペイン | 韓国 | ドイツ | ブラジル | ブラジル | トルコ | セネガル | スウェーデン | 7 |
3 | スペイン | セネガル | 7 | |||||||
4 | 韓国 | トルコ | 日本 | 8 | ||||||
4 | イタリア | 韓国 | トルコ | 8 |
優勝:ブラジル、準優勝:ドイツ、三位:韓国、四位:トルコ
平成14年6月2日(日)
いよいよ、5月31日(金)から韓国の首都ソウルで入場式が行われ、日本からも高円宮ご夫妻のお二人と小泉首相が金大統領とが並んでにこやかに微笑む姿が、テレビに映し出されていた。
今日は三日目で午後2時頃にはNHKでイングランド・スウェーデン戦が放送されていたが、興味がないので正午頃から曇り始めて怪しくなった空を眺めながら「濡れたら濡れたよ」と決心してママチャリに跨り家を出発した。
八広中央通りを日の出屋酒店前のを右折して、昔の農道がそのまま現在まで曲がりくねって使われている細い道を行き、京成電鉄の高架化が決まり買収で線路際の所々が虫食い状態で空地になり鉄パイプで囲まれている。曳舟3号踏み切りを渡り、右に元材木店の跡に建ったマンションと左に済生会向島病院の前を通って曳舟川通りに出た。左折して明治通りを横切り、そのまま東武鉄道の曳舟駅前を通りガードを抜けるとクランクに曲がり、向島税務署の前を走り、真直ぐ言問通りまで行き、右左折して東武鉄道のガード下でクランクに曲がり、孫の行き付けの斉藤クリニックの前を通り、浅草通りを右折して三つ目通りを左折し、信号3つ目を右折して駒形橋を渡り、川風が身体を冷やしてくれ、益々元気が出てきた感じ。
橋の右角には、ここから「浅草観音のご神体」が見つかったといわれてる。推古36年、隅田川で漁をしていた檜前浜成、竹成の兄弟が、一体の黄金の聖観音像を網にかけました。土地の教養人、土師真人中知に見せたところ、それは尊い聖観音像であるとし、御堂を建てその像を祀った
祠がある。
真直ぐに進むと、常磐新線の地下工事が進む田原町の交差点で、また、浅草通りと一緒なり右に郵便局そして東京東本願寺、左側が有名な仏具屋街更に行と菊屋橋で右側先角のビルの屋上には白い帽子をかぶったコックさんの像が目に入る。ここからズート言問通りまでは合羽橋道具街が道路を挟んで飲食店のあらゆる道具を揃えることが出きる。最近は一般の家庭の人達も買いに来ていて歩道は歩けなくなるほどの人出である。
松が谷、稲荷町と進むと、終戦後は右側に進駐軍の払い下げの衣類が並んだバラック建の店があった。私も1度だけ買ったことがあったが何分にもデカかったという印象が今でも残っている。今ではこの辺はすっかりビルが建ち昔の面影は全くなくなってしまった。
そして先月お祭が行われた「下谷神社」が左に、右には上野消防署、上野職安、台東区役所、上野警察署と数珠つなぎに並んでいる。上野駅前辺りからやたらと警官の姿が目に入ってき始めたが、この駅前の浅草通りと日光街道の交差する辺りでは、いつ通っても交通取り締まりにあったドライバーが免許証を提示している姿をチョクチョク見かけるが今日も案の定オートバイの二人乗りが道路脇で警官と話していた。
昭和通りの上を走る首都高速1号上野線、駅構内から横断歩道でバス停や上野駅南口の方へ行けるようになったが、双方の施設が空を覆い薄暗くなってしまった車道を横切って上野駅南口の方へ向ったが、相変わらず南口は歩道からあふれ出て信号待ちをしており、昔と変わらない人出です。
西郷隆盛の銅像のある上野公園を右に見ながら左りにカーブして横断陸橋の先の信号で横断歩道を渡って公園口から右に公園と不忍池の間の道路を行くと左に不忍池の大きなハスの葉が見えたが、花は何処にも無かった。
先へ行くと動物園と水上動物園を結ぶ陸橋とモノレールの線路があり、ちょうどその時、派手な絵の描いてある車両が頭の上を水上動物園から大きな木立の間を見え隠れしながら山奥の動物園に消えて行った。
道なりに進むと池之端2丁目で不忍通りへ出た。拡張工事も遅々として進まない道路を根津1丁目の交差点で、谷中から坂道を下ってくる言問通りを横切り、根津神社出口という標識看板のある信号を左折して100mも行くと右に大鳥居が見え奥に社も見えたりしたが、私の住んでいる町には、この様に鬱そうとした木々で覆われた神社は、なかなかお目にかかれない。この次ゆっくり遊びに来ようと心に決めて、今日は失礼して不忍通りへ戻った。
ここ千駄木2丁目から団子坂下、千駄木3丁目、道灌山下、動坂下は計画通りに拡張されていたが、昔の40番系統の都電終点と神明町車庫の跡には高層都営住宅が建ち、広場には黄色い都電と黒ずんだ貨車が2両線路の上に並んで、雨ざらしにして展示されていた。
駒込稲荷坂下の信号を左折して稲荷坂を上り詰めると右の曲がり本郷通りを左折して、警視庁通告センター前を右折して細い路地裏を右に左にめちゃくちゃに曲がって出たところが、都営三田線の千石駅駅前白山通りだった。左に曲がって行くと左に京華女子中高、京華高、商高の校舎が建ち並ぶ、片側4車線の大通りをだらだらと白山下まで下った。ここで右側歩道を行くと右に指ヶ谷小学校があり、ボーイスカウト姿の子供たちがゾロゾロと校門から出てきた。
春日町の交差点を横切り、講道館の前に来ると一般人や学生が稽古を終えたのか、ゾロゾロと出て来た。地下鉄丸の内線がこの辺りから茗荷谷駅先まで地上に出でて走っているガード下を通り抜けると、右には竹中組が請け負ったビルの鉄骨が、まだ丸出しになって網シートで囲まれて建設中だった。壱岐坂下の信号を右に曲がると、東京ドームや後楽園遊園地が目の前をふさぐようにハダカリごった返す人並みと警備のガードマンがやたらと多かった。関係業者用の駐車場前を通り過ぎると、左に後楽園、右に小石川税務署と見やり牛天神、安藤坂を経て、神田川に架る白鳥橋を渡ると、神田川と平行する目白通りがほぼ90度にカーブする大曲を江戸川橋方向へ、そして都電荒川線の終点早稲田の駅のある新目白通りへ、一休橋入口、早稲田鶴巻町、道路の真中にある都電早稲田駅を過ぎると細い路地を左折して早稲田大学の西校舎前の坂道を登り、坂下からの道に合流して更に坂道を登ると早稲田通りに出た。そして左折してゴチャゴチャ曲がると、学習院女子部裏の門前に出て右に進むと諏訪町の交差点で明治通りに出て来た。
左折して明治通りを1kmも行くと職安通りだった。右折すると西武新宿線と並行する山手線のガードが間近に見えた。職安の脇の路地を左に曲がり歌舞伎町のコマ劇場裏のケバケバしいネオンが耀くホテル街を抜けて三光町の靖国通りヘ来るとパトカーや警官、ガードマンがあちこちに2,3人1組で立っていたり、パトロールしてフーリガンに対処していたのだと後で気が付いた。大ガード手前を左折して新宿駅の東口の「さくらや」の真赤なネオン看板を見やり、大きな街路樹の植わっている坂を下り、再び靖国通りに出て、歌舞伎町と富久町の境にある緑道の坂道を新田裏まで下り明治通りに再び戻った。そして明治通りが二又に分かれる三叉路をそのまま進み右側の花園神社境内では「さくらまつり」が、人、人でハチキレそうだった。
新宿3丁目の靖国通りで左折して大木戸下で右折して大木戸の信号を左折して、新宿通りを四谷3丁目まで来ると祭の大神輿や微かにお囃子が聞えてきたが信号が変わったので右折しいてJR信濃町駅方向への外苑東通りに入ると左門町の四谷警察署、信濃町の区民福祉会館、東電病院、四谷郵便局、慶応病院などの建物がJR信濃町駅駅前まで道路の左右にある。
下を走る中央線とJR信濃町駅を見下して通り過ぎると権田原方向から救急車がサイレンをケタタマシク鳴らして通り過ぎた。道路を直進して、バス停傍にある横断陸橋上からグルリと1回転して眺めると以外に周りがよく見えた。中でも南側の権田原、青山1丁目方向は一直線で道路も広いせいでこの上なく素晴らしかったが、この辺りの銀杏の街路樹は私が一抱えでやっとという巨大な太さで歩道は天気も怪しげだったせいで薄暗かった。心配していた雨が誰よりも早く感じる今日この頃の薄くなった頭に一つ二つと感じ初めて、青山1丁目交差点の手前のバス停でにわか雨の雨宿りする羽目になった。30分もすると再び青空になり、青山通りを横切り、右角には世界の「ホンダビル」があり、そのまま進むと左に赤坂保健所があり、右には青山霊園がありこの辺りの一抱えもある大木が街路樹として植えてある。
霊園は起伏に富んだ土地に整然と並び、後に出来たその他の都営霊園は見本にしたのだろうと思う。著名な人物の葬儀というと必ずといって、ここ青山葬儀所で行われ、この広い敷地が人々で埋まってしまう。
京極杞陽(1909年〜1981年)
幕府の重臣だった青山家の下屋敷跡を1874年(明治7年)に墓地としたもので、東京府が管理した。吉田茂ら歴代首相を始め、著名な政治家や実業家、学者、作家、画家らが葬られており、探訪する人も多い
ある夏の夜、京極杞陽(1909年〜1981年)は青山霊園の近くにやって来た。ちょうど花火が上がった。
「青山の墓地の空なる花火かな」
明かりのともった街の一角に、黒々と広がる墓地。その上空に開いた花火は、あやしいほどに美しく目を引いた。それは死者の魂を慰める供花のようだった。
京極杞陽は但馬の国(兵庫県)豊岡藩主の第14代当主として、本所(墨田区)で生まれた。学習院中等科3年だった15歳の時、関東大震災に遭遇。屋敷は焼失し、祖母、両親、弟妹ら家族のほとんどを亡くして。しまった。だが、杞陽は姉とともに九死に一生を得た。
その後、東京大学文学部倫理学科を卒業してヨーロッパに遊学。その2年目の1936年(昭和11年)ベルリンの日本人会で、来遊した高浜虚子(1874年〜1959年)を歓迎する句会に出席した。その時、虚子は杞陽の句に感心し、親しく言葉を交わした。2人の運命的な出合いだった。虚子は杞陽の詩才を見出し、杞陽は虚子に心酔した。
帰国した杞陽は1937年(昭和12年)に宮内省式部官となり、その傍ら虚子主宰の俳誌「ホトトギス」で活躍した。震災で家族を失った杞陽の空虚な心を埋めてくれたのが俳句だったのだろう。
1946年(昭和21年)杞陽は宮内省を退職し、父祖の地である豊岡へ移り住んだ。間もなく休刊になっていた俳誌「木兎」を再刊し、36年間にわたって主宰した。
この句は、1947年刊の句集「くくたち
下巻」に収められているもので、1942年(昭和17年)の作だ。太平洋戦争が始まった翌年で、戦勝祝いなどの花火が打ち上げられていたのだろう。だが、戦時の花火には、どこかで死が重なっていたのではなかっただろうか。
この句の花火が、何の為に、何処で打ち上げられたものかはハッキリとしない。いずれにせよ、震災による喪失感を払いきれない杞陽にとって、墓地の空に開いた花火は、ポッカリ穴があいた胸に咲いた花だったのだろう。亡くなった人々への哀惜の思いが重なり、花火が消えた後に残るのは深い孤独感だ。
今日では、夏の風物詩として花火大会が全国各地で催されている。様々な色や形を競い合いながら、目まぐるしいほどに夏の一夜を彩る。今年もまた、花火の季節が巡ってきた。
都道142号線の下を通り、農水省統計調査資料室前を新しく整備された左側の道の左には学術会館があり、広い道路の先には六本木6丁目交差点に出る車道専用と新道が一般道とが立体交差しているが、人や自転車は迂回して坂道を登らないと首都高速3号渋谷線の下の道路に出て、左折して六本木6丁目交差点から道路を横断して右側に建設されている29階建マンションは、すそを絞ったようなユニークなデザインが特徴で、すそを絞ったデザインは、ビルの影や風害に配慮したものだという。近くある都内で最古の寺院のひとつ、善福寺と対照的だ。この一帯は昔から寺町として知られ、江戸の面影が残っていた。しかし、マンション建設で周囲の景観は大きく変わった。歩道を六本木交差点まで自転車を押して行くが、さすが六本木、普段も若者でぎっしりだがフーリガンで世界に名を知らしめただけに、警察も過剰警備ではないかと思わせる警戒で、交差点には警護車の上に警官が乗り、警官は4、5人が1組になって巡回するし、10mも離れると他の組がいるというありさまです。
サッカーアラカルト
外国人も通常より一層多く、世界中の人種が右往左往して歩道からはみ出している光景は単なる観光客なのか、サポーターなのか見分けは付かないが、この時間には試合も終わり、仲良く引き分けという結果が出た後だったからか落ち着いた感じがした。
サッカーというスポーツは欧州や南米で盛んだそうだが、世界大会はお祭だとか、いわれる専門家もいるが、各会場のチケット、テレビの放映料といい、FIFAの今回のようなやり方では開催国でも不満があるくらいなのだから、極東の日韓両国での開催ということで、地球の裏側まで応援に駆けつけるサポーターも欧州各国で開催される時とは、うんでの差だ。
ワールドカップ日韓大会の開幕を受けて、ユニークで和やかなW杯推進議員連盟(事務総長・衛藤征士郎:元防衛庁長官)の大会盛り上げに一役買おうと、国会議員らが中心になって1日、東京霞岳町の国立競技場で、来日中の英国国会議員らのチームにサッカーの試合を挑んだ。衛藤氏はサッカーの母国だけあって、思ったより強かったと悔しがったが、それでもサッカーは世界の共通語だ。W杯のおかげでサッカー外交が出来たと満足げな様子だった。結果は、後半追い上げたものの、1−2で敗れた。また、11日には、ロシアの議員チームと対戦す ●●頑張れ!!!松島みどり(わが町選挙区選出)
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小泉総理も、にわかファンのようでやたらに、はしゃいでいるがそんなにサービスしなくてもいいのではないか。昨年の大相撲の貴乃花の優勝の表彰式に味をしめてあちらこちらに出かけ一人悦にいっているが、スポーツ、文化には歴代の首相よりはご理解があるようだが、1年以上国の最高責任者として政治、経済は今のようだとおせいじにも不合格といわざるをえない。
民主主義の社会では、時間をかけて審議しなければ決められないという欠点は解るが、指導者如何によっては、もっとスムーズに理解し合い、スピードを求められている時に、なにより国民のために国民から選ばれた総理大臣として国民の期待を裏切ることのないように全身全霊で期待に答えてください。
大相撲、オペラ、サッカーなどに「感動した」は、これくらいにして一国の首相として、逆に「感動した」と国民からいわれる最高権力者になってくれ。民営化や構造改革、規制緩和、景気回復の公約は最もだが実行して欲しい。それでないと小泉サポーターの国民や連合政権が、いつフーリガンに変心するか解らない。
国際試合のサッカーは人気があるようだが、Jリーグとなると年々さいさい人気薄になって来るスポーツも数少ない。世間ではサッカーと野球が例えられるが、サッカーはスピード感があっていいが、野球はのろいともいわれるが、みかたの違いだろう。私の見方は90分闘って1−0で惜敗なんていうが、サッカーに関しては大敗だと思う。ましてや90分闘って0−0の引き分けなんて勝負の世界では考えられない。どのスポーツでもサッカーのようにゴール以外得点にならないものも珍しい。所詮、守りのスポーツ、スピーディで攻撃的といわれるが複雑な連携攻撃でも突破出来ない守備体系に阻まれ、ロスタイムまで延長されても、結果が出ない。更に延長しても引き分け、一転攻撃有利の、よほどのキーパーでなければカットも出来ない、結局PK戦。
こんな具合だからサポーターもハラハラ、ドキドキ、ワクワクすることを期待するが、、殆どなく、やたらと応援に託けて騒いでいなければ、あほらしくて見ていられないのが本音だろう。
また、何時得点が入るかわからないからトイレにも行けないというが、何時行って来ても得点なんか入らないと、いい切れるぐらい、90分フルに戦って0−0や1−1の引き分けというのは余りにも情けない、酷評すればエネルギーの無駄使いをしているスポーツだとしかいえない。
五体満足な大男が「手」を使ってはいけないなんて所詮無理なことと、解っていながら無謀で、「ルールもあってもない同然」の反則は、キックオフからシャツを掴んだり、無謀なスライデングカットしたり、オフサイドの判定のいい加減さ、時に渡されるイエローカード、レッドカードなど、狩猟民族の勝手なごう慢さが、今日までも自分達が考え出した世界一普及した最高のスポーツだと自負しているのだろうが、正々堂々と戦うという道徳心には、いささか理解に苦しむ。
今回など、日本はじめアジア諸国が優勝などしようものなら、長年同じルールで行われていたスキーの複合ジャンプのように日本の荻原が連続優勝をすると、たちまちルールをドンドン変えて、ヨーロッパ諸国が優勝出来るようなルールにさっさと変えてしまうのがおちだろう。
こういう事がファンとしては誰が見ても、大事なここ一番という時に反則、あるいは反則まがいの行為をされて、負けたのでは、納得出きないのが、あったり前。世界中各国で負けると、やたらフーリガンとして騒いで異常行為に走ってしまうのだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と。
墨田区でも、フーリガン対策に英文併記の看板がサッカー・ワールドカップの開催を直前に控え、野宿などの禁止を英語で呼びかける看板を区内の公園に設置した。
隣接する台東区の浅草駅が東武伊勢崎線で試合が行われる埼玉スタジアムと結ばれるため、墨田区の繁華街などにも多くの観戦客が訪れると見られる。
看板が設置されたのは、隅田、錦糸、大横川親水、業平、錦糸堀の5公園。縦約60cm、横約80cmの看板には、「施設を壊したり、近隣に迷惑をかけることはやめましょう」「酒などを飲んで騒ぐのはやめましょう」など迷惑行為の禁止5項目が、日本語と英語、イラストで示されている。
今回は参加国の警察警備も厳重で出国もままならずと、開催国の水際作戦が功を奏して日韓両政府と警察関係者の威信も保てたといえる。
都営汐留駅今秋開業
六本木の坂をだらだらと東京湾に向って進むと首都高速2号目黒線の下の飯倉片町の交差点を横切り、左側に麻布郵便局、関東郵政監察局の前を通り、やがて、右側に何時通っても警備の警察官が多いロシア大使館前にさしかかったが、何時になく、ここも過剰警備ではないかと思う程の警護だった。
飯倉の交差点で、赤羽橋方向へ向い、やがて首都高速環状線の下を通り、古川に架る赤羽橋を渡り、すぐの交差点を右折した。左角には済生会中央病院、都立民生病院、三田保健所、東京専売病院などが、次々に並んでいた。中の橋の左先には1本高い機があり、一の橋の交差点を進み、麻布十番の交差点を左に曲がって行くと都内で最古の寺院のひとつ、善福寺。この一帯は昔から寺町として知られ、江戸の面影が残っていた。しかし、マンション建設で周囲の景観は大きく変わって来た。
この辺をもう少し走ってみようというきもちもあったが、今日はこれくらいにして、何時の日かユックリと時間をかけて、坂道を楽しんで見たいというのと私が都内で一番、道不案内の所でもあり、今日は帰ります。
来た道を、そのまんま赤羽橋まで折返し、そのまま真直ぐ芝園橋の交差点まで行き、左折して芝公園の横を通り増上寺の山門前で右折して浜松町の大門に出て、左折して浜松町1丁目の交差点を右折して、汐留貨物駅跡の再開発で建設が盛んに行われているが、続々と高層ビル群が姿を現しつつある。中でも今秋(11月2日)開業予定の都営地下鉄大江戸線・汐留駅(東京都港区)の周辺に進出予定の企業が駅の「副名称」候補に4社が名乗りをあげているそうだ。
副名称は、正式な駅名に続いて「○○会社前」などと、ホームの看板に表示されるものだが、汐留駅は、旧国鉄操車場跡地を再開発する大プロジェクトの中心とあって、「汐留といえばわが社」というキの(お墨付き)を得ようと、異例の競争状態となった。都交通局は「駅の重要性の証明でもあり、うれしいが、一社に絞りこむのは難しい」と頭を悩ませている。
汐留駅の副名称獲得を目指して名乗りを上げているのは、共同通信社、日本テレビ、電通、松下電工の4社で、何れも新駅の目の前に新しい本社を建設中だ。
副名称は本来は広告としての扱いで、大江戸線の場合、企業は都に年間契約料600万円を支払えば、ホームの駅名看板の下に「○○会社前」と入れることが出来る。
例えば、すでに開業している同線新宿駅は「京王百貨店前」となっており、バス停などでも採用されている。
競合した場合、都交通局が、名乗りを上げた会社の規模や公共性などを勘案して決める権限を持っているが、同線ですでに開業している37駅のうち、副名称のスポンサーがついたのは8駅だけだったが、このうち7駅は無競争で、「勝どき駅」だけが、コンピューターソフト会社と複合ビル「晴海トリトンスクエア」の競合となり、公共性などを考慮して「晴海トリトンスクエア前」となった。副名称候補に4社も競合するのは始めてだという。
汐留駅周辺は現在、再開発工事の真っ最中で、続々と高層ビルが姿を現しつつある。副名称候補に名乗りを上げた4社も、電通が2002年10月末にビルを完成させるのを手始めに、来年夏までに本社を移転する予定となっている。また、三菱地所などのマンションが11月に完成し、巨大なビル街が本格的に始動する。副名称に決まれば、来訪客に対するイメージアップ効果は小さくない。
来年1月末にビルを完成させる予定の松下電工では、東京本社の機能を始め、会社所有の絵画などを展示する美術館や、主力製品のショールームも併設する予定で、「多くの人が訪れる新本社ビルをぜひ社名を駅の副名称に入れたい」(広報部)と意気込んでいる。
都交通局では、今月末には一社に絞りこむ予定だが、選考基準上は「いずれも甲乙つけ難い」のが現状で予想外の事態に「契約料をもっと高く設定すればよかったかも」と、いう声も出ている。
汐留駅は旧国鉄操車場跡地の再開発で姿を見せ始めた「汐留シオサイト」の中心に位置し、大江戸線は地下3階、ゆりかもめは地上3階にホームが既に完成している。開業後は両駅会わせて1日15,000人程度が利用すると見込まれている。
また、現在は新木場〜天王洲アイル駅間を運行している「りんかい線」も、12月1日に大崎駅が開業し、JR埼京線と相互直通運転を始める。新宿から臨海副都心を通り、東京ディズニーランドまで結ぶ列車の運行も計画されている。周辺は現在、JR、新交通ゆりかもめ、都営大江戸線など、インフラ工事の方が進んでいて一大オフィス街が、出来るとまた一つ新名所になるに違いない。第一京浜から新橋の交差点を、そのまま進み首都高速環状線の下を通り、中央通りの銀座8丁目、昔、神戸一郎が歌謡曲で歌った「銀座8丁目は水の上」なんて歌は、よく歌ったものだ。そして7、6、5丁目と北上して、銀座のど真ん中、銀座4丁目、今日は夕方の雑踏と夜景を久しぶりに眺めて帰ろうと決め込んでいたので、予定通りの時間だったが、さすがに天下の銀座だけあって、ネオン耀く夜景も綺麗だったが、表から見れば不景気は何処の話かと思わせる華やかさで、行き交う人も頼もしげに見えるが、中身はどうなのだろうと気にしながら3、2、1丁目と自転車を走らせた。
銀座のシンボル
銀座4丁目の時計、宝飾などの専門店「和光」屋上にある現在の時計塔は、2代目。1894年(明治27年)に完成した「初代」は、当時この場所にあった服部時計店(現セイコー)の本社屋に設置されていたが、その建て替えで、1921年(大正10年)に取り壊された。
新社屋建築中の1923年(大正12年)に関東大震災に遭遇し、ビル建設は白紙に戻り、改めて建設に着手したのは1930年(昭和5年)のこと。現在のネオ・ルネッサンス様式の建物と時計塔は1932年6月に完成した。
銀座のシンボル、「和光」の時計塔が6月10日、完成から70年を迎える。戦火を逃れ、時を刻み続けてきた時計塔は、日本最大の繁華街・銀座の変遷も眺めてきた。「古希」を記念し和光は、6月10日から19日まで、同店6階で記念展を開く(日曜日定休、入場無料)。
屋上に設置された、4面ある時計塔の文字盤は直径2.4m。正確に東西南北の方角を向くように据えられた。4丁目角側が南だ。当時、北のJR有楽町駅ホームからは、しっかりと時間が読み取れたという。
1945年(昭和20年)1月の空襲では、周辺は焼け野原となった。爆風で東・西・南の文字盤は破損したものの、建物と塔そのものは残り、終戦後に進駐軍によって接収された。和光がこの建物にオープンしたのは、接収が解除された1952年(昭和27年)だった。
戦火で傷ついた時計塔は、その後、英国から輸入された文字盤となり、それまで錘(おもり)巻き上げ式だった動力も、クオーツ(水晶発振)式に取り換えられ、より精度を高めた。
現在の時計は、地下2階の親時計が送る信号で動く。塔内には7つのスピーカーから、時報である第一打の鐘が鳴る45秒前に、ロンドン・ウエストミンスター寺院風のチャイムが流れる仕組みになっている。
永井荷風の代表作「墨東綺譚」には、昭和11年のころの銀座周辺とみられる記述がある。<夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から12時を打つ鐘の声が、その頃は何となく耳新しく聞きなされた>
今は午前8時から深夜零時まで、1時間ごとに鐘の時報を響かせている時計塔だが、昭和30年後半から約20年間、深夜に鐘が鳴らなかった時期がある。「夜中の鐘がうるさい」と苦情があり、【騒音】に配慮したためだ。
しかし、深夜の鐘を待っている市民がいた。1981年(昭和56年)12月28日付、読売新聞夕刊に、「銀座のウエストミンスター、今年も黙って年を越します」と見出しが付けられた記事が載った。前年の大晦日、時計塔の鐘を除夜の鐘がわりに聞こうと集まったものの鐘は鳴らず、がっかりして引揚げたスタンドバー客の落胆振りを伝えていた。
1982年(昭和57年)は、時計塔ができて50周年。記事を読んだ「和光」常務になりたての市原照雄さん(70歳・現顧問)が、当時のショーウインドー担当部長と相談して、社長に「記念の年に、大晦日の鐘を復活させたい」とかけあった。社長はすんなり承諾した。
記事掲載の翌年の大晦日、午後11時30分ごろ、4丁目角はまだ閑散としていたが、50分過ぎたころから人が急に集まりだし、市原さんも、ハス向かいのビル前に向った。そこは、時計塔を仰ぐ200人ほどの人でいっぱいだった。午前零時に第一打の鐘が鳴る「わあー」という歓声が上がった。抱き合うカップル、酒を片手に祝杯を上げる人たちで熱気に包まれた。
「あんな深夜の鐘を待っていた人がいるなんて、まったく発想が及びませんでした」と市原さん。同時に、時計塔がいかに愛されていたかも思い知らされたという。これ以降、和光の時計塔の鐘は、午前零時まで鳴るようになった。
京橋、日本橋、日本橋川の上を走る首都高速環状線をくぐり、日本橋川に架る日本橋を渡り、左にある三越を見ながらスッカリ暗くなった室町3丁目の交差点を右折して、日本橋小伝馬町、馬喰町と自転車はヘッドライトを点灯して神田川に架る浅草橋を渡りJR総武線の浅草橋駅を左に見ながら柳橋、蔵前、駒形、雷門、都営地下鉄・東武鉄道浅草駅を左に見ながら、花川戸、浅草、言問橋西詰めの5差路を江戸通りへ進むと左に待乳山聖天、今戸、右に台東体育館、プールと並ぶ手前を右折して隅田川の土手に出て、カーブした坂道を上がると左に陸上競技場のトラック、テニス場、野球場が並んでいるが、陸上競技場のトラックの横を右に曲がると、歩行者専用のX形をした桜橋、ここと言問橋の間で7月第4土曜日に行われる隅田川花火大会が毎年盛大に行われる。今年は墨田区側には特別観覧席が設けられるが、有料にも係わらず応募者多数で、抽選にて今月のうちに決定した。
桜橋を渡り、長命寺のさくら餅、言問だんごのお店の前を通り、堤通りを堤通1丁目で右折して地蔵坂通りへ入り、水戸街道を横切り曳舟川通りを左折して、八広5丁目の薬師橋を右に曲がり、新中通り商店会を通りぬけると拙宅だった。
6月一杯でサッカーも終わり、フーリガンが大騒ぎしたというニュースも殆ど聞くことなく、穏やかなうちに予想通りにブラジルの優勝で、めでたし めでたし。