今朝のような青空を五月晴れというのだろう。何処までも青く抜けるように澄み切った、ここ下町でも荒川の土手から富士山がくっきり眺められた。

 今日は三社まつりに行こうかママチャリサイクリングにしようかと悩んでいるがいずれにしてもどちらかに出かけようと思っている。孫たち家族も昨日雨で途中から帰ってきてしまったので仕切り直しとばかり車で出かけて行ったが今日はなんの外連味もなく遊んでこられるだろう。

 昼ご飯を早めに食べて、中央通から明治通りに出て白鬚橋を渡ると日本堤交差点から左に入り、その昔山谷のドヤ街といわれた細い路地を通り、日光街道を横切り東日暮里1丁目南の交差点で左に曲がると“七五三通り”になり両側に桜が植えられた道が東日暮里3丁目まで続き、直ぐに尾竹橋通りに出た。ここで右折して信号2つ目の交差点を左に曲がると、ここも桜並木が続いたがスーパーのいなげや辺りから桜もなくなり、諏訪台中学校前を通り過ぎると常磐線ガード下を通り広い道路になった。右に行くと宮地ロータリーで、左がJR山手線や京浜東北、東北線の西日暮里駅に行くが、左に曲がってガードを潜り終えると右に線路伝いに曲がると最初は緩やかな上り坂だがその内に急坂になり田端台公園まで続くと平坦になり600mも行くと東台橋になり、下は左が動坂下で右が田端駅前から明治通りの田端新町へ抜ける道路が走っている。

 暫く緩やかな商店街を行くと金属が擦れる音がし始めるが山手線を跨ぐ富士見橋になり更にSの字カーブが大きくコウを描き広い道に出ると中里3信号のある交差点左角では2機のクレーンが動き聖学院の校舎の新築工事現場があったが右に曲がりJR京浜東北線上中里駅の方へ行き線路際のがけに出た。素晴らしい眺望で思わずカメラを構えてパノラマ写真を撮っていた。左先は秩父連邦正面は筑波山と線路越しには王子方面のビルも重なり合って見えた。坂を下らなかったせいか目指していたものは見逃してしまったが城官寺の角に出て中を除き写真を撮った。そして右に行くと上り坂に出て登り切ると西ヶ原2交差点で、右には奥行きの深い平塚神社があり神社左側の道を入って行くと、左角に滝野川消防車、体育館、農林水産政策研究所が突き当たりにあり、神社はこの横丁から中に入ったが未だ奥に進まないと本殿にはならなかった。出てくると先だって旧古河庭園の前の写真を撮らなかったのを思い出し少し戻りカメラに収めて来た。

 飛鳥山方面に自転車を走らせ、右側には北区防災センター、印刷局東京病院と並んでいた。病院前から左に入り直ぐ二股になったので右に入り信号のある十字路角右には東京ゲーテ記念館があり手前右にもレプリカや説明板年譜があった。そのまま坂を下ると正面に滝野川第3小学校の正門に出たが塀伝いに行くと都電の荒川線の踏切で止められたので都電の写真を取り、上り坂になるが目の前が明治通りで高速中央環状の飛鳥山トンネルの出口でもあったが衝立のように覆われた高速はドンドン高さを増し滝野川2辺りまでには3、4階建ての高さであった。左折して次の信号で右側の歩道へ変更して滝野川2角で王子工業高校前に入り左折し直ぐ右折した細い商店街は滝野川八幡商店会で明治通りから国道17号線まで続いていた。ふと歩道右には真っ赤な小さな鳥居と祠があり“正一位伏見稲荷大明神”で、高速滝野川IC入口を過ぎた。

 この辺りは板橋区になっていた。埼京線の陸橋を走り抜けると新板橋出口で、その先に高速が二股になる手前を右へ旧中仙道の板橋宿の旧道になりユックりユックリ自転車を走らせた。

板橋宿

 日本橋から北へ、中山道第1番目の宿場。中山道を京方面から下って来た人や荷物はここから江戸市中に、又、ここから中山道へ旅立っていった。宿場は南から平尾宿・中宿・上宿で構成され、本陣は1軒・脇本陣3軒・54軒の旅篭屋があった。明治16年に建造
 された旧板橋警察署は昭和8年に新中山道が開通するまで中山道と川越街道の分岐点となっていた。
 
 東海道品川宿・日光街道千住宿・甲州街道内藤新宿とならび、江戸4宿に上げられている。

加賀藩下屋敷

 板橋の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、南東部一帯は22万坪(約72.6haにおよぶ加賀藩の下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和3年(1683)とされる。
 
 明治維新により、江戸内の藩邸や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋敷も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治9年(1876)のことである。これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に集積する契機となった。

 3階建てのビル角ガラスで覆われた掲示板には旧板橋警察署のきりえ(佐藤廣士)の説明書きを見ると、江戸から1番目の宿場で中仙道を下って来た人や荷物は江戸へ中仙道へ旅立って行った。宿場は南から平尾宿・中宿・上宿で構成され、本陣1軒・脇本陣3軒・旅籠屋54軒があった。この地点は昭和8年新中仙道が開通するまで中仙道と川越街道の分岐点であった。

 中に入ってゆくと両側に商店が並び老若男女がそぞろ歩きで、自転車に乗ってた私は迷惑者といわれそうな顔に見えたが、それでもすれ違う自転車は多かった。高速5号線から分かれて旧中仙道に入ると右側には如意山観明寺があり両脇に石の門があって塀には附近の説明板が立ち(板橋宿・加賀藩下屋敷・如意山観明寺・近藤勇と豊田家・いたばし七福神)、そして、きりえの写真(1・板橋、2・旧新藤桜、3・花の湯、4・如意山観明寺、5・旧高砂座、6・脇本陣豊田家、7・旧豊島郡役所、8・旧板橋警察署)。

如意山観明寺

 真言宗豊山派で、室町時代の創建、本尊は正観世音菩薩。入口に寛文元年(1661)に建立された庚申塔がある。境内の豊川出世稲荷と赤門は、かって加賀藩下屋敷にあったもの。明治時代には、宿場の賑わいを回復しょうと成田山のお不動を勧請し、縁日を開いて繁栄した。

 如意山観明寺の中へ入って行くと左に庚申塔と説明板、正面の赤門を潜り右に水盤舎、会館、左にお堂と石仏や一番奥に本堂。当寺は、真言宗豊山派の寺で、創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
 
 明治6年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来します。

 境内に鎮座する稲荷神社はもと加賀藩下屋敷内に祀られていた3稲荷の内の1社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遍座されました。

 また、参道入口にある庚申塔は、寛文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られてものとしては都内最古です。昭和58年に板橋区の指定有形文化財になりました。

 如意山観明寺、平尾宿平尾宿名主・脇本陣跡、王子新道と交差する仲宿交差点、遍照寺、板橋町役場跡、板橋宿本陣跡、板橋宿中宿・脇本陣跡、文殊院、石神井川に架る板橋と続き縁きり稲荷となり環七になる。

  出てくるとお風呂屋さんが右側にあり煙突には“花の湯”と黒く書かれていた。

近藤勇と豊田家

 新撰組隊長であった近藤勇は慶応4年(1868)板橋刑場で処刑された。近藤の墓そのものは現在のJR板橋駅前にあるが、処刑される直前まで平尾塾の脇本陣豊田家に軟禁されていた。
 豊田家は代々平尾宿の名主として、江戸時代の中期より脇本陣を務めた。脇本陣の建物自体は現存していないが、明治末期まで江戸時代の風情をとどめていた。現在、脇本陣の跡には碑が立っている。

 右に広い道が見え左の駐車場隣には3階建ての板橋区立の板橋地域センター、いたばし観光センターの和風建物がある。甘味処には若い女連、店先の日毛氈の縁台に腰掛け楽しそうな会話が聞こえ来そうだった。いたばし史跡観光案内や中仙道板橋宿観光案内板が並び、元に戻り先へ200mも行くと旧中仙道仲宿の交差点で左角が薬のセイジョーで左に行くと板橋区役所がある。右角はDo Co Moで左は王子新道だが板谷公園や加賀公園へ行ける道である。

 緩やかな坂を下り始めると右には成田山新勝寺の末寺の遍照寺がある。この寺は江戸時代大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院だった

が、明治43年廃寺となった。その後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗の寺院として復活。寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型に名残をとどめるだけで、境内には宿場時代の馬つなぎ場で幕府公用の伝馬使う囲馬、公文書伝達の立馬、普通継立馬などがつながれていた。

 また堂内には上宿に居住した町絵師・柴左一の描いた明治期の板橋遊廓千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)

 玄石神医院角には、幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(1804〜50)は、弘化元年6月晦日小伝馬町獄舎くの火災による切り放しのとき脱獄、そして逃亡した。出牢後1ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘らず消息不明であったが、7月下旬のある夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。

 玄洞は身の危険を知りながら1両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。

 長英は、その後、郷里水沢に老母を訪ね、さらに江戸・近畿・四国・九州と逃亡生活を続け、再び江戸に舞い戻ったが、嘉永3年10月30日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。

いたばし七福神

 いたばし七福神は昭和12年(19937)に現在熊野町に住んでいた彫刻師・田中金太郎が製作し、各寺へ寄贈したものといわれている。いたばし七福神の所在地は次の通りである。

恵比寿   ―――――  観明寺(板橋3丁目)
大黒天   ―――――  西光院(南町)
毘沙門天  ―――――  文殊院(中宿)
弁財天    ―――――  安養院(東新町2丁目)
福禄寿   ―――――  長命寺(東山町)
布袋尊   ―――――  西光寺(大谷口2丁目)
寿老人   ―――――  熊溝寺(練馬区旭ヶ丘2丁目
 

 遊戯施設の“やすだ”前の100円ショップを通り過ぎると道は右にカーブしながら勾配がきつくなり右角のライフ角を右に折れると坂の途中左に“文珠院”(真言宗豊山派・幡場山大聖寺、本尊・文珠菩薩)という出世寺とも呼ばれているがある。

文殊院

 当寺は、
真言宗豊山派、幡場山大聖寺文殊院と号す。本尊は文殊菩薩。江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降住職を置かず、赴任する仮住職と短期間で他の大寺へ転任し、出世寺とも呼ばれた。

 山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。閻魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また。本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。

 戻り角の下り坂を250mも行くと名高い石神井川だが、手前に緑道があって、昔の流れを感じさせる川筋が下流側に100m余あるが90度ぐらい左に曲がって堤防に向っているが池のような水溜りには錦鯉が泳ぎ、またザリガニ釣りをして遊ぶ子供たちで賑わっていた。遊歩道の“ふれあい橋”に出ると、直ぐに“番場橋”になる。其処には、この河川の下には下記のように埋設物がありますと書かれていた。

埋設物の種類

下水道管

1650mm

埋設位置

これより下流

4.00m

埋設深さ上

上端A・P±

7.18m

埋設深さ下

下端A・P±

5.19m

埋設幅

 

2m

施行年度

 

昭和41年度

管理者

東京都下水道局西部第二管理事務所 電話03(39692374)

 その先に石神井川が流れている。昔のままの自然地形なのか両岸が掘り下げられえたコンクリートの流壁なのか遊歩道には桜の木が植えられていたが蓋い被るほどに成長した桜の枝葉の緑で前方を遮られてしまう。

板橋

 ここに日本橋から10粁642米という標識が立っている。また橋の横には隠れるように説明板もあるが、橋は板橋と称し、地名はこの板橋に由来するといわれている。板橋の名称は古くは鎌倉室町時代に書かれた古書の中にも見える。江戸時代に中山道の宿場になり、明治22年市制町村制が施行すると町名となり昭和7年東京市が拡大すると板橋区が誕生すると板橋の名称が採用された。

 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境までの20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿・平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことが伺えます。
 
 江戸時代の板橋は太鼓状の木製の橋で、長さ9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の2度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。昭和47年に石神井川の改修の際、新しく架け替えられたものです。

 橋は黄土色に塗られ周りの景色に溶け込んでいて違和感は感じない。橋を渡り左にわずかばかりカーブしているが、ここは板橋宿上宿板橋本町商店街のペナントがハタメキお江戸日本橋から2里半と染め抜かれていた。

板橋十景

 昭和15年2月に区制70周年を記念して区民応募により「板橋十景」を選定した(板橋区)。

1 ・赤塚溜池公園周辺(赤塚5丁目)
2 ・板橋
3 ・いたばし花火大会(荒川河川敷)
4 ・志村一里塚(志村1丁目)
5 ・石神井川の桜並木(石神井川沿い)
6 ・松月院(赤塚8丁目)
7 ・田遊び(徳丸・北野神社/徳丸6丁目
       (赤塚・諏訪神社
/大門)
8 ・高島平団地と欅並木(高島平2・3丁目)
9 ・東京大仏(乗蓮寺
/赤塚5丁目)
10・南蔵院の枝垂桜(蓮沼町)

中山道板橋宿上宿

 江戸時代の5街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などを支えてきました。板橋宿は中山道の第1番目の宿場であり、その長さは15町49間(1.7km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋・料理や・かご屋など様々な店屋が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川に架る“板橋”から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
 
 平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立した。

 愛知針灸整骨院、チョンマゲ姿の力士の立体看板の力士料理くらち、などが右側のあって右にカーブし終わると本町にぎわい広場の一角に警視庁板橋警察署板橋本町交番が見え脇には、石碑が建ち中仙道板橋宿・ここは上宿と刻してあった。

広場の一角には櫓が建ちトビラに銅版画が2枚貼ってあって“江戸名所図絵”で乗蓮寺・相生杉、女男松と板橋宿の町人の様子が刻されている。

 少し上り坂になった信号下には史跡”縁切榎”(板橋区の登録文化財)がマンションと道路に挟まれて立っている。





縁切榎

 江戸時代には旗本近藤登之助の抱屋敷があり、榎と槻の古木があり何時しか榎が縁切り榎といわれだし、嫁入りの時には縁が短くならぬようにと下を通らなかったといわれた。


 板橋宿中宿の名主であった“飯田侃家”の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるため迂回路が作られています。そのルートは中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬街道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染め通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1kmの道のりでした。

 なお、この時に榎を弧もで覆ったとする伝承は、その際に出された不浄なものを筵(むしろ)でおおうことと命じた触書の内容が伝えられたものと考えられます。
 
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませると、その願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近年以降は難病との縁切や良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。

 榎の奥には祠も祀られお賽銭箱も置かれている。脇の道路のT路地突き当りには公文書館がある。旧中山道はここから250mも行くと環七になり、更に突き進むと国道17号線と高速5号線が分かれる地点まで来ると清水町交番角に出てくるが、この先は分からなかったので折り返し、先程の交番角から左に入り道なりに進むとリンテック本社前に出るが、もうそこには石神井川が底を舐めるようにチョロチョロと流れ、暴れ石神井川は想像も出来ない綺麗な流れだった。

 川沿いの遊歩道を王子の駅目指してノンビリペタルをこいだ。間もなく遊歩道は狭くなる頃には人道の橋が架けられている。川は右に鋭角に曲がり、左には大きなマンションが、その間には稲荷台おなりばし緑地があって川には御成橋も架かり渡って行くと向こう岸には帝京大学福祉保育専門学校が見える。

 左は急坂になっていて坂の途中右に真っ赤な三菱東京UFJ銀行の看板があり、その先が帝京大学医学部と付属病院で、車寄せや駐車場にはタクシーが横付けになっていた。坂の途中の見晴らしのいい所でグルリと見晴らすと其処此処に帝京の文字が目に入る一帯は、正に帝京一色。付属病院の増築工事も大々的に行われてもいた。更に坂を上り切り稲荷台交差点を左に行き環状七号線の姥が橋の交差点角には、庚申塔と地蔵尊がある。

姥が橋延命地蔵尊

 この地蔵尊は袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ安山岩系の石材を丸彫した地蔵菩薩像です。台座は、「享保9年(1724)甲辰天11月吉日石橋供養」の銘文が刻まれています。向って左側の堂内には石造の子育地蔵尊がまつられています。説明板横には、道しるべでもある小型の庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。

 像は「姥が橋の地蔵様」と呼ばれています。姥が橋とは、稲付川に架っていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥が橋には、誤って川に子供を落として死なせてしまった乳母が自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は乳母の供養の為と伝えられていますが、銘文によれば川に架る石橋の安全供養の為によるものです

 また、地蔵尊は、二つの道が出会う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へ向う王子道とが合流する交通の要所だったのです。

 現在は環状7号線建設で川は暗渠となり、姥が橋も姿を消しました。しかし延命地蔵尊には参詣者の耐えることなく毎年8月24日の縁日には人々で賑わいます。

 寄り道してしまったが、坂を下り元に戻った角には“いこいの水辺”と記したプレート説明板がある。それによると、

◎「ふるさとには川がある」私たちの暮らしは、昔から川と深く結びついて発展してきました。川は私たちに豊な自然の恵みをもたらし、心に  うるおいを与えてくれます。都市の変化とともに、私たちから遠ざかってしまった河川を身近なものに取り戻し、ふるさとの川として大切にし  ていきましょう。

◎「名前の由来」石神井川は石神井村を流れていたので、この名になったといわれています。石神井村の起こりはその昔、井戸を掘ったと  ころ石棒が出たので、これを石神とあがめ、その井にちなんで石神井となったと伝えられている。また、一説には三宝寺池から出たともい  われている。

◎「水源と流れ」石神井川は小平市御幸町を源としています。途中、富士見池や 三宝寺池からの水を集め、隅田川の注いでいます。江戸  時代や大正時代の地誌や紀行文等には、石神井川の源流を三宝寺池とし、富士見池方面からの流れを支流のように記しているものもあ  ります。また、中世以前は、飛鳥山の西側から不忍池の方に流れていたという説もあります。

◎「川の規模」延長25.2kmあり、流域の面積は61.6kuです。

「板橋」板橋の地名は“源平盛衰記”“義経記”などの鎌倉から室町時代にかけて書かれた軍記物に登場することから、平安末期には知ら  れていたことになります。当時の橋が具体的にどの橋を指しているかは、はっきりしませんが、一般的には中山道が石神井川を横切る板
    橋宿の中宿と上宿に架けられた板橋を指しているといわれている。  


 
川沿いには広い車道があるが加賀学園通りと標識があり、遊歩道はカラスの大群がネグラにしているらしく飛び交い、そして頭を掠めるように騒々しく鳴く鳴き声が不気味だった。右岸の遊歩道には東板橋ジョギングコース案内という看板があり、それによると4コースが書かれている。

トライアルコース3500m 桜並木コース1400m リバーサイドコース1250 ニリンソウコース300m

 帝京大学福祉保育専門学校への人道橋が架っている。欄干はガードレールのよな粗末なものにネットが高く二重に重なっている。遊歩道の柵には物を捨てないで下さい(板橋区土木部工事課)とあるがゴミなどは落ちていなくて綺麗な流れだった。築山のようにこんもり盛り上げた一角には、ステンレスの看板に下記のように書き込まれている。

加賀二丁目緑の広場

 この緑の広場は、グラントアルト加賀建設に伴い、板橋区大規模建築物等
指導要綱に基づき土地所有者より無償で板橋区が借り上げ、解放している
ものであります。
  (※なお借り上げ期間等が終了した場合は、返還する事があります)
 利用ルール:次のことはしてはいけません。
   @犬や猫を連れ込み、または誘導すること。
   Aボール遊びや花火などの遊び。
   B自転車、バイク、車の乗り入れ。
   Cその他、他の利用者や近隣の迷惑になること。

管理者:板橋区役所土木部みどり公園課

 そして、加賀さくら橋の人道橋と1mも離れないところに車も渡れる加賀学園橋がある。北園女子学生会館の茶色の建物がある。帝京学園角の信号を過ぎると加賀二の橋が架っており渡って行くと、帝京大学付属病院が管理する帝京若草公園という広場がある。道路はそのまま真直ぐ行くが、川は尚も右に鋭角に曲がり、遊歩道だがこの一角だけが広くなっていてベンチなどもあってノンビリ腰掛けたりして微睡んでいたり、散歩する人、ジョギングする人と結構賑わっていた。真ん中辺りには御影石の真中に細い切込みで反対方向が空ける溝と2つの穴が開けられて建っているオブジェがある。直ぐ傍には、真新しい都市計画案内板があり、其処にはこんな文が書かれていた。

加賀1丁目及び2丁目各地内には、「地区計画」が定められています。
この、地区では
@土地に区画・形質の変更(敷地の分割、切土、盛土など)
A建築物の建築(新築、増改築、移転など)
B工作物の築造(よう壁など)
C建築物の用途、形態または意匠の変更
 などを行う場合には、都市計画法に基づき工事着手の30日
以内までに区長に届出をする必要があります。
 届出の方法、届出が必要かどうかなどについては下記まで
お問い合わせください。
 問合せ先 板橋区都市整備部地区計画担当
        〒173−8501板橋区板橋2丁目66番1号
        電話(3579)2553

 遊歩道は緩やかに左に曲がりながら大小の木が植えられていて憩いの場所には最適で、流れる石神井川の水量は川底を舐める程度しか流れておらず水の音も殆んど聞こえず、カラスや小鳥のさえずりがまた心を和ましてくれる。左にV字型に曲がりきった所に緑橋が架っていた。右岸の遊歩道はマンションが遊歩道一杯に建っているので狭い遊歩道は尚一層狭く感じた。となりは加賀保育園でその先奥には金沢小学校の校舎が並びつながっている。緑橋の手前には金沢小学校の1990年3月の6年生有志の作品(自然の中で)と浅井健作の(早春)という魚と鳥の彫刻が大きな自然石の上に1990年3月と表示されている。緑橋を左に行くと東洋インキの工場あり、右に行くと板橋消防団第一分団防災資機材格納庫、金沢小学校、東板橋体育館と並んでいる。

 道路を横断して左にカーブし終わると広場が続くが、自然石に“若鮎の 二手になりて 上りけり” 子規と刻み込まれた石の裏側には
“その昔 石神井川は魚の群れる清流であった。石神井川の清らかな流れの復活を待ち望む板橋区民の願いに応え「若鮎の清流におどる姿」を詠んだ子規の代表句を刻んだ碑をここに建立するものである”、平成4年8月吉日 財団法人 板橋区文化振興財団 理事長 石塚輝雄と記された前を過ぎると、ほんの僅かな間に右左にと鋭角にカーブしてやってくると俳句が短冊に10首ばかり書かれ張ってあった。

 このあたりの流壁には蔦だか何だか分からないが蔓物がビッシリへばり付いていたが、この光景を見ると最近増水したことがない事が分かる。流れも岸から幾分離れて流れているが増水した時にはさぞかし騒がしい事だろうと他人事のようにいっている私だが、住んでいる下町も以前は床下床上は雨が降るたび、日常茶飯事で畳を台に載せ、布団を押入れの上段に載せたりと水害には悩まされた事をふと頭を過ぎった。

 右岸は、加賀1丁目みどりばし緑地と煉瓦の台に白い板がはめ込まれ、その後ろには、この広場は河川管理用通路(緑道)、区立公園(緑地)、及び民間マンションの自主管理公園とを一体的に整備しています。と、川から順に並んでいる。中に入ってゆくとコミニケーションステージ

 このミュにメンとは明治から大正に建てられたレンガ造建物の
一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1、2丁目には、
日本陸軍火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称
「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷
の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の
事故に備えて土塁で囲まれた建物やレンガ造りの建物が建ち
並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研
究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていました
が、日本の近代建築史を伝える貴重なレンガ造建物を保存・活
用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりま
した。
 
建物の概要
耐火レンガ構造・1階建 切り妻・スレート葺屋根
桁行(横幅)・23.7m 梁間(奥行)・42.2m
高さ・10.4m  

 広場を抜けると、グランフィーネ加賀のマンション群を過ぎると遊歩道左に灯ろうが建ち、大木の間を通り抜けると、左にカーブし加賀橋だ。たもとには河川敷に入る階段があり、そこの注意書きの看板には、“加賀親水護岸利用のお願い”解放時間:午前8時から午後5時まで(4月1日から9月30日の間は午後6時まで)。※降雨等、状況にによって解放時間内でも閉鎖する場合があります。※ゴミは持ち帰ってください。※川の水位が上昇すると警報が放送されますので、護岸の外へ出てください。(管理者 板橋区土木部工事課) 階段にも護岸にも手すりが取付けられ、護岸の下へ行ける階段が更にあるが、扉が付いて締め切ってある。加賀橋を左に行くと板橋給水所や東京家政大学があるT字路になる(帝京大前からの学園通り)。左もT字路になり板谷公園に突き当たる道は王子新道。

 この橋は幾分狭く道路も狭いし人も車も行き交う姿はなかった。しかし、遊歩道は俄然賑やかになってきた。自転車で入って行ってはいけないかなと思わせるように人が次々にやってくる。ふと立て看板を見ると“自転車は安全運転を(歩行者優先)犬を引いての自転車運転はやめましょう”板橋区と書かれていた。道路から遊歩道に入るには人が一抱えでは抱え切れないほどに成長した桜の木が仁王立ちはオーバーだが、遊歩道に通路を塞ぎ、四角い石像や鉄柱も立ち狭くしている。桜の木を過ぎ向こう岸を見ると川底からの水量を計る物差しが壁に張り付いていたが、5mまであったが壁はその上に未だ4mはありそうだった。左側は愛誠病院の敷地で金網が張られているが草木が生い茂っているのと壁が高いので中の様子は何にも見えない。金沢橋の間までに、2個所に10首づつ掲示され都合20首も短冊に書かれていた。この二箇所の間には“安らぎ水辺”のオブジェもあった。

 平成5年2月石神井川のこの付近で心無い人の
放った矢を背に受け、傷つきながらも生きているオ
ナガガモが発見されました。
 板橋区でもこのカモの救出に努めましたが、幸
にも上野の不忍池で保護され、治療の後、旅立っ
て行きました。
 板橋区では、このような心無い行為が二度と繰
り返さることなく、野生動物が豊な自然環境のなか
で生息できることを願って、このモニュメントを作成
しました。

 この、モニュメントの正面には
●「水車」石神井川の流域には、所々に水車が作られ、米や麦の精白・製粉に利用されていました。幕末から大正期にかけては火薬製造や製紙などの工業用の動力として利用されました。板橋区内の下流に設立された火薬製造所では、明治9年12月水車動力を利用した黒色火薬の製造が開始され、これは、日本における黒色火薬の西洋式工業生産の始まりとされています。と石柱にプレートがはめられている。
 人道橋も架かり、渡って小高い公園は旧加賀前田家下屋敷跡という説明板があった。


加賀前田家下屋敷跡


 この付近一帯は江戸時代、加賀前田家の下屋敷
跡である。延宝7年(1679)に幕府から7万坪(19
万8千u)を拝領したのに始まり、その後他の下屋
敷を返上して天和3年(1683)には合計約20万8
千坪(約72万1千u)拝領し、ここを「平尾の下邸」
と称した。
 文政7年(
1824)下屋敷御林大綱之絵図(金沢
市立図書館所蔵)は、石神井川を包む広大な敷地
に回遊式庭園を設けた屋敷の概要を伝えているが
変貌が甚だしく、いまは庭園に築かれた山と思わ
れるこの加賀公園に立つ時、わずかに往事を面影
を偲ばせてくれる。



平成元年3月 板橋区教育委員会

 


 明るくなると左に愛誠病院の駐車場と病棟建物が何棟も見え、右には金沢橋があり、その先は二股になっていて信号機が付いている。右の方へ入って行くと板橋宿の旧中仙道仲宿の交差点へ行く王子新道。橋は歩道分は後から付け加えられたように見え両方とも車道とは別造りになっていた。その先には処方せん受付の看板も見えたが、薬剤分業で病院のそばに来ると何処でもお目にかかれるが。

 道路を渡り遊歩道に入るが、先ほどの加賀橋付近同様に散歩や散策する人、ジョギングをする人で、引っ切りなしに擦れ違うが、橋の両側には手すりのほかに金網のフェンスが10mほど張られ蔦が絡みついたり木々の枝がまつわりついている。その金網に俳句の散歩道と印され、番号の書かれた立て板に張られた3首の俳句が次々に現れ、川は蛇行しながら流れ遊歩道の膨らみに若葉小学校の美術クラブ製作“水鳥”の彫刻が鎮座し、木立が切れると広場があり、坂道が現れ人道橋の“東橋”の上り口で上がり切ったところで右に曲がる。橋の中央に行くとバルコニーになっていて眺められるが木立が茂っていた周りの町の様子は全然見えない。元に戻って広場を抜けて遊歩道を下ると左にカーブし、川のカーブが終わると大きな音がし始めると埼京線のガード、左に高いコンクリートの壁が現れ鬱蒼と茂った木立の森がある。“板橋東いこいの森”で公園事務所の看板には、野鳥や樹木など身近な自然に触れることが出来、野鳥板や樹名板を見ながら、そっと観察してみましょうと書かれていた。公園への階段を上がってゆくと木立が生い茂った小公園で、その先は人家が密集しており一般道に出られる。

よく見られる鳥 ヒヨドリ、すずめ、メジロ、オナガ、シジュウカラ、キジバト、ツグミ
よく見られる樹木 スダジイ、サワラ、シラカシ、ミズキ、イロハモミジ、イチョウ、エノキ

 向こう岸がよく見えぽっかりと大口を開けている。どうやら暗渠の千川上水らしい。流れは殆んどないが切れ間なく流れ出ている。そのこちら側には看板が立っていた。それによると、

千川上水の放流について

 東京都では水と緑にあふれる水辺環境の整備を図るため清流復活事
業を行っています。千川上水にも玉川上水野火止用水に続いて清流がよ
みがえりました。
 千川上水は武蔵野市関前地先で玉川上水から分水しており、分水点か
ら練馬区関町南地先までを清流復活区間として開水路を流れています。
 その下流は管きょとなっており、練馬区・板橋区を結び、対岸の雨水管
を利用して石神井川戻しています。

流出量   3000t/日
放流期限   平成19年3月
問合せ先   東京都第4建設事務所 管理課
電話(3947ー3141(内線・・・・)

 公園の階段を上がり、広い道に出ると北養護学校がある。滝野川4丁目交差点を左に埼京線方
面に向うと手前右には北療育医療センターがある玄関前には、“つどい”の像がある。

つどいの像の由来

 当センターの前身は肢体不自由児施設「北療育園」である。昭和40年4月北療育園の事業規模が拡大された事も記念して同年12月、父母の会が機関紙“つどい”を発刊した。その際に一保護者の紹介により日展会員の小笠原安兵衛先生が視察され、園児の姿を見て、3人の童子が無心に遊んでいる像の製作を思い立たれ完成後に“つどい”と命名した。

 ここに当院受診児・者が此の像の精神を生かして幸せにならん事を祈念して、その由来を記した。(都立北療育医療センター)

 ここから下流は北区、右岸の金沢橋を入ると、ジョギングコース案内があり、ここ金沢橋から右岸沿いにカーブしながら東橋、音無くぬぎ公園と音無こぶし公園をつなぐ谷津橋を経由して帰るコースで880mのコースが紹介されている。ジョギングの注意書きもある。

ご利用の皆さまへ

この施設はみなさまの健康増進・維持を目的に設置した
ものです。次の事項を守って楽しく気楽にご利用ください。

1・ジョギング専用道路でありませんので他の歩行者
  の迷惑にならないようにしてください。
2・走る前は十分準備運動を行って下さい。
3・体調に注意し、無理をしないで走って下さい。
4・植込みに入ったりしないでコースに沿って利用して
  下さい。
5・紙くず・空き缶・ガム等の投げ捨てはしないで下さい。
6・犬猫等つれて利用することはやめてください。

板橋教育委員会

 北区に入ると今度は瀬戸物だか石だか良く分からないが野鳥の絵が焼き付けられたものが石柱に填め込まれ音無橋まで所々にあった。

石柱の野鳥 オナガ、コチドリ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、ウミネコ、セグロセキレイ、マガモ、キンクロハジロ、ユリカモメ
鳥は友達の写真 ツバメ、ムクドリ、ハシブトカラス、シジュウカラ、スズメ、カルガモ、マガモ、コガモ、オナガガモ、オシドリ

 以上が見られるらしい。

 川向こうには子供たちが水遊びをしていた“音無くぬぎ公園、そして、音無こぶし緑地がこちら側にある。その両者の公園へ行き来できる谷津橋が架っている。音無こぶし緑地には6つの注意書きがあるがノッペラな遊び場になっていて子供がボール打ちをして遊でいた。先ほどの遊歩道が下ってきて一緒になり、川は次第に右の緩やかにカーブする右岸には、区立音無かつら緑地があって、カーブし終えた遊歩道は観音橋の袂に出てきた。橋の上では春の交通安全運動最終日で町内会の役員が黄色い帽子と薄緑色のジャンパーを羽織ってパトロールなのか監視なのか5人ほど屯していた。

武蔵野の路

 各地域の自然・歴史・文化にふれながら東京を周回する全長270kmの散策路です。東京湾を臨む海の路や、河川沿いに延びる川の路、緑地や湖を巡る森の路、首都圏自然歩道につながる山の路など、それぞれ特色のある21のコースが用意されています。これらの路を徒歩や自転車でたどりまがら私たちのまち東京の大きさや変化に富んだ四季の豊かさ、歴史や文化の奥行きの深さをふれてください。

ーーー石神井コースの概要ーーー

 このコースは練馬区内石神井川長光寺橋から荒川の江北橋までの、主に石神井川に沿った16.7kmのコースです。市街地のなかの水と緑を楽しめるコースで、周辺には豊島園、城北中央公園等の都市型大型レクリエーション施設や板橋、飛鳥山公園、名主の滝、旧古河庭園等の名所・旧跡があります。
ーーー名主の滝ーーー
 王子七滝とは、その昔、石神井川およびその用水がかっていた滝で、弁天・不動・権現・稲荷・大工・見晴らし・および名主の七つの滝のことをいいます。王子七滝は名主の滝公園にあるもの意外はすでに現存しませんが、ここからすぐ下流にある音無親水公園には、権現の滝をイメージした滝がありますと書かれた説明板もある。


 川は左にかなりカーブするが向こう岸には、音無けやき緑地、こちら側には音無みずき緑地と木立がある。右岸にはピンク色の派手な紅葉小学校、手前の遊歩道には音の出る5種類の小鳥の彫刻があり、滝野川橋にやってきた。北区に入ると植わっている木も変わっていて桜のように枝を向こう岸まで延ばすような木ではないので空は明るく見えるが流壁には吊る物が下の方まで延びて護岸を隠す所もあり、遠く王子の駅近辺のビルも手に取るように見え始めた。

 橋の袂には丸い略図がある。護岸には青々した蔓が一面に伸び水量も僅かで未だ水も透き通っている。道路を横切ると左にはマンションや左側奥の北区中央公園、この先までつながっている都営王子本町3丁目

住宅が紅葉橋の先まで見られる。ここには自分の叔母が終戦後からずっと住んでいて、何度か王子駅から急坂を上って訪ねた事があったが、その時からこんな所があるとはつゆ知らなかった。今は一戸建てを建てて別の場所に移転したので来る事もなかった。右側にはマンションの崖下のようになったところに“音無もみじ緑地”がある。階段が2ヶ所あって水辺まで下りられるので子供たちがいっぱいおり、水溜りの中央には島にもなっている。水溜りの周りは鎖が張り巡らされていて散歩も出来ようになっている“ウミネコ”や“セグロセキレイ”などの説明板を過ぎると紅葉橋にやって来た。

 橋の向こうに立派なお寺が見えたので橋を渡り、歩道から山門の写真を撮ったが逆光線でまともな向きからは光が目線とあってしまい強くて取れないので、斜めになるように移動して写した。そして境内の中に入りアチコチの写真を撮って出てくると、門前にはパンフレットを片手に十数人のグループでリーダー格の人の周りに集まって説明に聞き入りながら中に入って行った。

金剛寺・源頼朝の布陣伝承地

 治承4年(1180)8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れました。上総・下総を経て、隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向かい、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。

 この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる右の弁財天が祀られていましたが、頼朝は弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。

 金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていた事に由来するからです。

富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑

 富士山は神宿る霊山として古来から人々により崇拝による信仰を集めてきましたが、登拝すると数々の災難から逃れられるとも信じられ、富士山参詣による信仰が形成されてきました。富士講は、これらを背景に江戸時代、関東地方を中心とする町や村につくられた。信仰組織です。

 ここにある富士山をかたどった記念碑は富士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参という文字を丸でかこんで講紋および「三国の 光の本を たちいてて こころやすくも 西の浄土へ」という天保8年□月12日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。裏側の人物誌よれば、冨五郎は宝暦5年(1755)滝野川村に生まれましたが、青少年時から富士信仰の修行を行い丸参講という講組織をつくって富士信仰をひろめるのに努力した。その甲斐もあってか中興の祖である食行身禄伊藤伊兵衛の弟子の小泉丈六郎から身禄が姓とした「伊藤」という姓を許されて伊藤参翁と称した。冨士への登山・修行は50回におよび、富士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、80才を越えてもなお、顔立ちは早春に野山の枯れ草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。

 冨五郎が生きた時代、富士信仰は、政治・経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現すべきだとという信仰思想に誘発され、人々のあいだに急速にひろまりました。

仏足跡

 約2500年前にインド大陸にて、お釈迦様が仏教をお開きになりました。仏足跡は、お釈迦様の足跡を刻んだもので、仏像が作られる以前から礼拝の対象とされてきました。ここにある仏足跡は、インドでお釈迦様が悟りを開かれたブッタガヤに安置されているものを原寸大に刻んだものです。

 再び護岸の遊歩道に入ると手すり越しに川面も見えるが上り下りが激しくなり、護岸も背丈以上の高さになり右岸は音無さくら緑地があり水は流れていない“緑の吊橋”も見える。そばの松橋を渡って左岸に来ると、ますます下り坂になり護岸は高さを増し、その上に柵がしてあった。

松橋弁財天洞窟跡

 もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした「江戸名所図会」に描かれた「松橋弁財天窟石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井川の流れに臨み、自然の山水あり、両岸高く桜・楓の二樹枝を交え、春秋ともにながめある一勝地なる。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると岩屋の前、鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶屋も描かれ、行楽客が景色を楽しんでいる様子が見て取れます。

 崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像が祀られていました。このため松橋弁財天は岩屋弁財天とも呼ばれていました。「身辺武蔵風土記稿」によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振りを奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。

 また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏にはこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の名所「江戸百景」や「東都名所」をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。

 滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内を初め、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。

 護岸はそれまで手すりがついていて川面も見えたが、ここからは下り坂の分だけ城壁のような高さになり、蔓が全面に絡み付いて緑一色と変わり雰囲気がガラリと変わった。右にわずかばかりカーブし左にカーブすると開けて来た。かなり大きな建物がトイレでベンチなども用意され、左奥は駐車場があり結構車の出入りもある変則遊歩道になっている。駐車場の斜面には北区役所の建物が並び第4、第3、第2、一番高い所に区役所本体がデーンと建っている。

 左側には“武蔵野の路”石神井コースの案内板がある。それによると全部で21コースがある。この一角には休憩場所やトイレもある。

武蔵野の路
狭山・境コース 六郷コース 野川コース
千川・石神井コース 丸子・二子コース 玉川上水コース
石神井コース 二子・是政コース 光が丘・赤塚コース
水元・柴又コース 是政・昭島コース 浮間コース
葛西コース 滝山・草花コース丘陵 日の出山コース
夢の島・お台場コース 羽村コース 舎人コース
大井・羽田コース 多摩湖コース 梅の木平コース

音無橋

 音無橋の名の由来は架橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東流し、北区において隅田川と合流するが、王子権現付近より以東の路線はかって瀧野川あるいは音無川と呼ばれていた。音無川の名は紀州熊野権現本宮の近くにある音無川に因んだものである。本橋は昭和5年架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要として機能している。

音無親水公園

 音無川のこの辺りは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝・不動の滝・石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれたことがわかります。
 
 「江戸名所花暦」「遊暦雑記」なぢには、一歩ごとに眺めが変わり、投網や釣りもできれば泳ぐことともできる。夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶は美味しいとかかれており、江戸幕府による地誌「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ堰にあたる水の音の響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。

 こうした恵まれた自然条件を今に再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、きたくはこの音無親水公園を整備しました。

  たきうせの 絶えぬ流れの 末遠く すむ水きよし 夕日さす影    ・・・飛鳥山に景のうち滝野川夕照より・・・

 反対右岸も似たり寄ったりだが、音無橋の袂へ行く急坂が厳しい。上に上がり切ると音無橋交差点で明治通り、そして飛鳥山、JR王子駅、暗渠になった石神井川が上か下かは定かではないが東京メトロ王子駅、都電王子駅と潜りもぐって、サンスクエアの脇に出てトンネルから出て来た首都高速中央環状線と合流し、高速は川の上を明治通りまで行き、其処から先は石神井川沿いに隅田川まで行く。

 一方親水公園になったは水路と遊歩道は音無橋の下をくぐり、水路の先のコンクリートの壁しか見えない。流れに入れる所駄目な所・泉・急流・滝・中州・いも洗い水車・揚水水車・桟橋・石橋・木橋・舟串橋・魚道・水飲み・足洗い・シャワー・四阿・便所・管理室・機械室・木舟・4時間まで無料の有料自転車置き場などが凝縮されている。、王子神社への階段、山麓を流れJR線のガード辺りで途切れる。王子駅近辺の飲食街ガード下を潜れば駅前バスターミナル。

 駅前の信号を渡り、サンスクエアの脇の細い道と駐輪場の間を走り、国立印刷局王子工場に突き当たり塀沿いに石神井川に出て、川沿いに行くと高速が川の上を走り、ここに“ほりふね橋”が架り、
悪臭漂う上を我慢して走り去り、新しく出来た側道を走ってJRの高架線下へ行き、都電の踏切りを越えて左折、前方に東北本線が高架から下りて来て平面交差する踏切は良く渡って通るので、今回は東北線に沿ってJR尾久駅を目指した。

 すると左に小さな祠があって其処には地蔵さんや交通安全の菩薩が祀られ横には栄町町会の“礎”の碑も立って、広町地下通路がJR東北線の下に入って行く。しばらく走ると梶原踏切が見えてくる。ここには線路を横断する陸橋もある。立派な入口にはエレベーターが付き、先ほどの地下道といい、並々ならぬ安全に気配りされている事がわかる。線路に沿って栄町から上中里と走り昭和町に来ると東北本線高崎線の尾久駅だが、この駅が田舎の寂しい駅のような佇まいと丸見えのホームには、乗車を待つ人の少ないこと。

 回り込むように駅前に行くと自動改札にはなっているが、時たま改札を抜けていく姿が見られるくらいの駅ではあるが、その奥には田端と尾久の操車場が小高い丘の上まで続き壮観だ。鉄道ファンなら何度でも通い在来線特急、夜行寝台列車、行く種類の電気・ヂーゼル機関車等々が停車している。田端側には東北・山形・秋田、上信越の新幹線もズラリと並んで待機している。

 駅正面左の東側には地下道があり、操車場を含めた地下を200m近く先き、JR東日本尾久車両センター脇の上中里2丁目付近で田端側の地上に出る。

 ここから田端駅付近までは明治通りと線路に挟まれた側道を走る。半高架辺りで先方から黄色い車体が近づいて来る。ご存知“トワイライト”が、ドンドン近づき轟音を発して走り去った。そして線路は高架になり田端新町の町に入ると明治通りと離れカーブして、西日暮里に入ると道路は行き詰まりとなる。

 2、3曲って田端方面から常磐線につながる踏切りを渡り、建設中の舎人ライナーの高架下から尾久通りと道灌山通りが交差する交差点から再び横道に入り、西日暮里5丁目東から常磐線のガード下を潜り中学校バレーボール代表で全国大会に出場する諏訪台中学校前、コカコーラ日暮里営業所、スーパーいなげや、東日暮里6丁目西交差点から753通りを走り、東日暮里3丁目の尾竹橋通りで右に曲がり2つ目の信号で左に入ると桜並木で交番を過ぎ東日暮里1丁目で右折する。

 瞬く間に日光街道に出る。道路を横断して国際通り、馬車通り、吉野通り、江戸通りから白鬚橋を渡り墨田区に入り今日のママチャリサイクリングも終了となりました。

上中里・西ヶ原
巣鴨地蔵通り