地蔵通り



板橋駅

 由緒ある中山
道の板橋宿にそ
の名を負う板橋
駅は明治18年
3月日本鉄道株
式会社により品
川・渋谷・目白・
赤羽の各駅と共
に開設され、同
39年11月10


より国有となる同42年12月26日より汽車電車の併用運転を実施し付近住民の利便を更に高
め北域の発展と大きく促がす誰かその業績に対し賛辞を惜しむものがあるか星霜既に一世紀
ここに板橋駅開業百年に当り碑を建て由来を刻し以って後世に伝うという。

(昭和60年3月吉日)  板橋区

中山道と板橋宿

 中山道は江戸日本橋を基点として板橋宿から武蔵・上野・信濃・美濃を経て近江守山まで続き、近江草津で東海道に合流する街道で五街道の一つでした。江戸幕府は幕藩体制を整えるために道幅を5間(約9m)と決めて整備を行ったり、一里塚を築造したりなど街道の整備に努めたということです。江戸日本橋から約2里(約10km)のところにあたる板橋宿は中山道第一の宿で江戸四宿の一つとして発展しました。板橋宿の延長は15町49間(約1.7km)にもなり、江戸に近い方から平尾・中宿・上宿と三つの宿に分かれていました。中心だった中宿には問屋場・本陣・脇本陣・料理屋などが軒を並べていたそうです。


近藤勇と新撰組隊士供養等(北区寿徳寺境外墓地)

 慶応4年(1868)4月25日、新撰組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里
塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴
体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。

 本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の1人であり近藤に私淑していた永倉(本名
長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.
6m程ある独特の細長い角柱状で4面の全てにわたり銘文が見られます。正面には近藤勇 
¥ケ 土方歳三義豊 之墓と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されて
います。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が¥ケとされたことについては明かになってお
りません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊
士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年4月25日 土方 明治2
年5月11日 発起人旧新撰組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込下横町平田四郎右衛門」と
刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。

 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送っ
たと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数人の新撰組ゆかりの者たちが祀られ
ているので、新撰組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。

                         (平成16年3月・北区教育委員会)


近藤勇 土方歳三両雄墓地改修記念碑

 新撰組は文久慶応の此幕府の命に依り、時の京都守護職参議松平容保郷に附属し京都の
安寧秩序を保護し、近藤勇が隊長となり、土方歳三が副長にたる及び特に責任の重きを自覚
し、規律を厳にし恒に守護職の命令に依りて行動せる適法の警察隊なりき勇は夙に剣豪とし
て知られ其侠勇は当時有志の徒を辞する過激派の浪士をして心膽を寒からしむ而も混沌たる
幕末の政変期に際し此一代の剣豪はついに朝敵の汚名を□り明治元年4月23日滝野川町
三軒家(当時板橋刑場と云ふ)に於て斬にショ處せられ其首級は京都に送られ胴以下を此地
に埋めたるが明治8年元の新撰組助勤として勇と肝膽相照せる永倉新八事杉村義衛翁は副
長土方歳三を加えて追悼の碑を此地に建設せり、爾来墓地は其所有者たる壽徳寺に於管理
しあり、而して幾度か改修の議起これるも遂いに其機会を得ずして今日に至れり、 昭和3年
秋偶に秩父宮家に新撰組に縁故最も深き旧会津藩松平家と御婚儀の盛典あり又畏くも聖上
御即位の天典を挙げさせられ世を挙げて奉祀の誠意を捧げまつる此時に当り曠古の御大典を
奉祀し併せて秩父宮家の御盛儀を紀念する意味に於て此近藤土方両雄の墓地を有する当滝
野川町北谷津睦会は会長以下各幹事29名発起人となり7名の実行委員を挙げて境内改修の
議を進むると共に壽徳寺住職宮木宥弌師を始め近藤の生家たる宮川氏並に義衛翁の令息杉
村義太郎氏へ提議せるに何れも双手を挙げて賛同せられて、尚其経費を広く有志並びに縁故
関係者に募りしに石碑裏面記さいせる諸氏の外、300余名の熱誠たる後援を得て同年10月
14日を以て起工し同4年4月15日竣工して境内の面目を全く一新し長へに明治維新の史跡を
保存する事となりぬ 世に近藤勇の英名を知るもの多きも其修焉の地を知るもの甚だ尠し茲に
泉下の英霊を吊ふと共に此碑石の前に立って願望すれば幕末の天地に活躍せる両雄の面目
眼前に髣髴たるものあるべし。
                                               趣趣趣(昭和4年4月)

伝通院

新撰組の前身“新微組発会の処静院跡

 幕末の歴史に一頁を残した新撰組の前身新微組は、江戸市中から応募した浪士隊として、
清川八郎・山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らがさんかし、文久3年2月
4日、伝通院山内処静院で発会したと記録されております。

 処静院はその後火災に遭い焼失しなしたが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接
しておりました。幕末時処静院住職淋瑞和尚は、清川八郎らを支援したとして佐幕派浪士と
見られた武士らに暗殺されましたが、いまなお伝通院内に墓碑が建立され供養されています。



江戸の名所

 巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代 から近郷近在に聞えた名所でした。江戸と板橋 宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていた と伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描 かれていなす。

 現在では、特に庚申の日ともなると近くの「とげ ぬき地蔵(高岩寺の縁日(毎月4の日)と同様に 多くの参詣者があります。庚申塚では町内会の 人たちが参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらし た。食事を作ってもてなしています。

 「江戸名所図会」の茶屋の屋根の葭簣(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば1657(明暦3)年に造立されたものということがわかります。これにより依然1502(文亀2)年に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。

 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。

庚申塚

庚申塚の起源は、中国から伝わった道教の三戸(さんし)説にあることができる。それによれば、人の身体にいる三戸という虫が、60日に一度訪れる庚申の
日の夜に人の罪状を大帝に告げに行くため、人はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮まるのを防ぐというものである。

 こうしたことから室町時代の中頃から庚申待ちが行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
 さて、江戸時代の文化年間(1804
〜1817)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内におさめられている庚申塔は、明暦3年(1657)1月の江戸の大火後に造られ、その際文亀2(1502)造立の高さ8尺の碑は、その下に埋められたとされている。

 この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち、旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1803〜1843)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人やとげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が後を絶たない。

庚申塚縁起

 巣鴨旧中山道庚申塚所在、猿田彦大神庚申堂は古く江戸時代から当地にあって今上天皇御大典記念に近隣有志により代々奉祭してきましたが、その後立派に建造し、社務所兼庚申塚町会事務所、会合場として時代に即応してきたが、昭和19年3月の戦災により焼失し仮堂におまつりして来たのである。

 昭和47年隣接4町会及び広く崇敬する信者の賛同を得て現在のような立派な御堂を建て直すことが出来、又、続いて御水屋も完成、境内も一層荘厳さを増したので茲に関係者の名を刻して後世に伝える。                             (庚申堂猿田彦大神奉賛会  代表 榎本留吉)

庚申塚由来記

 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は高さ8尺で文亀2年(1502)造立、現存していれば区内最古の石碑。

 昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の1つ手前の立場として上り、下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在り、、人足や馬の世話もした。

 広重の絵にも描かれ、江戸名所図会で見ると茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。

 ここに団子などを売る茶店もでき、、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で花の頃は小林一茶も訪れて、  (ふじだなに 寝て見てもまた お江戸かな)の句がある。

巣鴨猿田彦大神庚申堂

 江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。「
武蔵州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なり、よしで囲いの茶屋あり団子茶屋と称す。石碑を見るに明暦3年と彫られ、又、古老からの聞き書きとして文亀2年(1502)に塔を建立高さ8尺なり然るに、明暦3年正月世にいう振袖火事の大火起こり江戸中9分通りを焼き払う。復興資材をひさぐもの引きも切らず、たまたま当庚申塔に立て懸けたる竹木倒れ石碑4つ5つに裂けたり、故に村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀2年の碑を塚の下に埋めたりと言い伝えを物語る。されば巣鴨庚申塚というは文化12年(遊歴雑記発行年)に到りて314年に及ぶ、故に庚申塚として、その名高し」と書かれている。

 又、長谷川雪目の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」には、この庚申塚に中山道の立場があり、旅人が茶屋で休息している様子が描かれている。広重の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑わいが見られる。庚申様を神として祭ったのが、いつの頃か判然としないけども、神社としては伊勢皇太神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道祖神との関連も結びつくようである。新道による庚申信仰も相当歴史をもって受け継がれて来たものであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。

 前述のように文亀2年(1502)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦3年(1653)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で焼失、この碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。

 ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過ごすという祭が流行した。今では廃れたけれども当庚申堂にも、その名残りが偲ばれる。昭和46年に御本堂を再建し、以後49年には御水舎、平成3年には山門も形を整え、荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。年に6〜7回、庚申の日にはお祭をして多くの信仰者を迎えている。

 御祭神は下記の通りである。
地津主   甲子巳貴神関
天津祖   庚申猿田彦大神連
人津霊   巳己少彦名神
 道祖神・寿命神・金神・塩竃神・幸神・縁結神・船王神

 



巣鴨地蔵通り商店街


とげぬき地尊蔵


 山号・寺号    萬頂山高岩寺
 開創 年代    慶長元年(1596)頃
 開    山     埼玉県熊谷市大字下奈良萬頂山集福寺5世扶嶽大助和尚
 開 創  地    神田明神下(現千代田区外神田2丁目)のち下谷屏風坂下(現台東区
           上野7丁目岩倉高等学校附近)に移転
 当地 移転    明治24年5月28日・同年9月24日入仏式。昭和初期に中山道新道
           (現国道17号)建設により境内分割。現本堂完成昭和32年11月30
           日。庫裡完成昭和59年12月18日。


とげぬき地蔵尊御縁起


 正徳3年5月(徳川7代将軍家継の治世)、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、1人の男児を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。諸々の医者が手を尽くしたが、病気は悪化の一途。彼女は生家に宿る怨霊によって女はみな25才までしか生きられないという父母の話を夫に伝えた。
  
 田付氏は悲しみの中に、この上妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかはないと毎日一心に祈願を続けた。

 ある日のこと田付氏の夢枕に1人の僧が立ち「自分の形を1寸3分に掘って河水に浮べよ」という。田付氏が「急には彫り難い」と答えると「お前に印像をあたえよう」といわれ夢がさめた。不思議な夢と枕元をみると、木のふしのようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。

田付氏は夢にあった通りと不思議に思いつつも、地蔵尊の宝号を唱えながら形を印肉にしめして1万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ一心に祈った。

 その日の夜、午前2時ごろ田付氏は妻の呼ぶ声にいって見ると「今夢うつつの中に男があらわれ、長い棒と籠のようなものを持って枕上に立ちました。すると香染の袈裟をつけた1人の僧が出てきて蚊帳の外に引き出し、次の間で錫丈で背中をついて追い出してしまいました」といった。

 このことがあって以来田付氏夫人の病気がしだいに快方に向い、11月中旬には床をはなれ、以後無病になった。田付氏がこの霊験を山高氏で話していると、一座の中に西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ二枚をあたえた。西順は毛利家に出入りしていたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲みこんで大いに苦しんだ。西順がもっていた地蔵尊の御影1枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲み込んだ針がささって出てきた。(享保13年7月17日・八大将軍吉宗の治世、田付氏が自ら記して高岩寺に献納された「霊験記」より)


洗い観音

 江戸時代最大の火事であった「明暦の大火
(1657年)で、当寺の檀徒の1人「屋根屋喜平
次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音
菩薩」を高岩寺に寄進した。 この聖観世音菩
薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治
るという信仰がいつしか生まれた。これが「洗
い観音」の起源。その後、永年に渡ってタワシ
で洗っていた聖観世音菩薩の顔などもしだいに
すりへってきたので、平成4年11月27日、この
仏像にご隠退をいただき、あたらしい聖観世音
菩薩の開眼式を執行した。新しい仏像の製作
者は彫刻家の八柳尚樹先生、寄進者は仲堀義
江氏で、同時にタワシを廃止し布で洗うことにな
った。



醫王山 東光院 眞性寺

宗    派    真言宗 豊山派
宗    祖    弘法大師 空海上人
中  興 祖    興教大師 覚鑁上人
派    祖    専譽僧正(豊山長谷寺第一世化主)
総  本 山    豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
大  本 山    神齢山 護国寺(東京都文京区大塚5丁目)
当山開基    年代等不詳
中興開基    元和元年(1615)祐遍法印
本   尊    薬師如来(秘佛)木彫
脇   侍    日光菩薩・月光菩薩・12神將
境 内 佛    地蔵菩薩大像 江戸六地蔵 第三番
                    地蔵坊正元勧請
                    正徳4年9月西暦1714年造立
                    金銅製 像高2メートル68センチ
          阿弥陀如来像 阿弥陀堂本尊 金銅製
          九品佛      阿弥陀堂内安置 阿弥陀如来像九体 木彫
          閻魔大王    阿弥陀堂内安置 木彫
札   所    弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番
行   事    江戸六地蔵尊百万遍大念珠供養毎年6月24 

眞性寺由緒沿革

 当寺は醫王山東光院眞性寺と称し、眞言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。

 当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられている。中興開基は元和元年(1615)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されておりません。当寺は江戸時代より弘法大師御府内88ヶ所第33番札所・江戸六地蔵尊第3番となっています。

 巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が、度々狩に来られ、当寺が御善所とされていました。

江戸六地蔵尊第三番

 当寺境内に安置されております江戸六地蔵尊第3番の尊像は、地蔵坊正元が初願主となって、宝永3年(1705)造立の願を発してから、享保5年(1720)に至る15年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された6体の大地蔵尊の1体で、正徳4年(1714)に完成されました。

 初願主の地蔵坊正元は、若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば、世の中の人々に地蔵菩薩の御利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したとにより、誓いの通り地蔵菩薩を江戸の出入口にある6ヶ寺に造立されたのであります。

銅造地蔵菩薩座像(江戸六地蔵の一)

 ●附石造蓮瓶、石造灯明台

 所在地:豊島区巣鴨3丁目21番21号
 指  定:昭和45年8月3日

 像の高さ2.68メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸府中から多くの賛同者を得て江戸六地蔵第4番(巡拝の順番は3番目)として、正徳4年(1714)ごろ建立したものである。

 製作者は神田鍋町鋳物師太田駿河守正儀。大正12年(1923)の震災により破損したが修理されている。

 なお、江戸六地蔵は次の通りである。

1・品川寺(東海道)   品川区南品川3丁目
3・太宗寺(甲州街道) 新宿区新宿2丁目
5・霊厳寺(水戸街道) 江東区白河1丁目
2・東禅寺(奥州街道) 台東区東浅草2丁目
4・眞性寺(中山道)   豊島区巣鴨3丁目
6・永代寺(千葉街道) 江東区 (消滅)

 東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京と指定有形文化財に変更になりました。

 


染井霊園

事務所名:財団法人東京都公園協会 染井霊園事務所 電話(03)3918-3502
所在地  :〒170-0003 東京都豊島区駒込5丁目5番1号
交通機関:山手線巣鴨より徒歩10分
面積   :67,911u

 染井霊園は、もと上駒込の建部邸跡地を東京府が引き継ぎ、明治7年9月1日、染井墓地として開設した。その後、明治22年東京市に移管、昭和10年5月には名称を染井霊園と改め、げんざいにいたっている。

 都営霊園の中では規模が小さく、ほぼ平坦な地に桜の古木が点在する中に墓地が設けられている。霊園の附近には幹線道路がないことから区内霊園としては、静寂な地となっている。

慈眼寺

 大正元年(1912)深川から移転。日蓮宗。芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓がある。

本妙寺

 明治43年(1910年)当地へ移転するまで本郷丸山にあった法華宗の寺。明暦3年(1657年)に発生し、10万8千人の命が奪われ史上最大の火事とされる「明暦の大火(通称振袖火事)」の火元とされるが

、実際は幕府の要請により火元の汚名をかぶったということである。遠山の金さんこと遠山金四郎景元、千葉周作の墓がある。

専修院

 専修院は、元和3ねん(1617)に【一説に慶長2年(1597)】開山である得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草寺町(現台東区松が谷1丁目)に創立した浄土宗の寺院であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。

 その後、東京府による市区改正事業のため、明治41年(1908)に浅草区北松山町61番地から北都島郡巣鴨町大字上駒込字染井888番地(現在地)に移転し、現在に至っている。

 この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた。上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、平成9年(1997)4月から6月にかて実施さた埋蔵文化財発掘調査では、おもに植木屋が繁栄した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のなか、溝や生垣を何度も作り直した跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。さらに、縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺跡が広がっていることも確認された。

 境内には、伊兵衛に関係すると見られる寛永18年(1641)造立の宝篋(ほうきょう)印塔をはじめ、乾元2年(1303)造立の板碑、冨士溝先達の元祖である藤原角行や浄瑠璃の宮本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。



中央卸売市場豊島市場

 豊島市場の前身である駒込青果市場の起源は、元亀、天正(西暦1570〜1591年)の頃、駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺の境内の「さいかち」の大樹の下に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であると伝えられている。

 東京の市場の歴史は、江戸に幕府を開いた徳川家康が城内の台所を賄うため、現在の大阪市佃町から漁師達を呼び寄せ、魚を幕府に納めさせる一方、日本橋のたもとで売ることを許し、青果市場もほぼ同じ頃、数カ所が自然発生的に形成されたのが始まりとされる。

 東京府の許可のもとに民営市場が開設され、庶民の食生活の安定に寄与し、大正7年の「米騒動」等社会不安の増大をきっかけに、大正12年3月公設の中央卸売市場開設の根拠となる「中央卸売市場法」が制定され、関東大震災による民営市場の壊滅的打撃を契機に計画は加速化され、昭和10年に築地、神田、江東の3市場が、また、荏原、豊島、足立、大森、食肉等次々と開設。

 豊島分場の建設は、昭和10年3月7日分場設置の認可とともに分場用地(15.988u)を買収し、昭和12年3月25日竣工と同時に開場した。
江戸時代、この地には薬草を採取する幕府の御薬園があった。また、文化14年(1817)に日本で初めて綿羊を飼育した場所である。

 都市人口の増加や、流通環境の変化で、板橋、世田谷、北足立、多摩ニュータウン、葛西(江東市場3分場を整理・統合)、大田(神田、荏原及び蒲田分場、大森から移転)の各市場が開設され、花きについても、昭和63年の北足立市場花き部の開場を皮切りに、大田、板橋、葛西と青果市場に併設する形で整備された。



徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)梅屋敷跡・巣鴨1−18


徳川 15代将軍、徳川慶喜が、 明治30年11月から日本鉄道豊 島線巣 鴨駅(現在の JR山手線巣鴨駅)が設置されることにより転居するまでの4年間を過ごした巣鴨邸の跡。決して大きな屋敷ではなかったが、建物に比べて敷地は広く、庭にはたくさんの梅が植えられ梅屋敷とよばれていた。(「女聞き書き徳川慶喜残照」による)平成10年7月この地に記念碑が建立された。

 徳川幕府15代将軍徳川慶喜・天保8年(1837)〜大正2年(1913)がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月・慶喜61歳のことであった。太政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。

 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥には故郷水戸に因んで梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向)1・4丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸の直ぐ脇を省線(目白・田端間の鉄道)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている

 巣鴨から転居先の東京市小石川区小日向第六天町54番地(現在の文京区春日2丁目8番地)で、明治34年(1901)12月24日に転居。

 小日向邸があった場所は、江戸時代は大久保長門守下屋敷跡でした。最近まで、財務省第六天町宿舎となっている。その裏は、帝都高速度交通営団小石川検車区となっていて、営団地下鉄丸ノ内線が走っています。小日向邸跡も地下鉄で囲まれる形となっています。徳川慶喜は、よほど鉄道に縁があったのかもしれません。

 



六義園

 六義園は国の特別名勝にも指定されており、緑豊かな景観と広い池は都会の中心にいることを忘れさせるほどであり、元禄15年(1702年)に5代将軍綱
吉に仕えた川越藩主柳沢出羽の守吉保により築園された池、築山を中心にした回遊できる日本庭園(回遊式築山泉水庭園)です。江戸時代の大名庭園
の中で現存する屈指の名園です。昭和15年8月史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和28年特別名勝となり日本でも特に優れた名園として大切に保存されています。

 この庭園は柳沢吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化7年にいたり漸く整備され、明治11年頃付近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに岩崎彌太郎氏の別邸の一部となるに及んで、再び昔の美しさを取り戻し、昭和13年4月岩崎彌太郎氏から庭
園を中心とした3万余坪を市民の完勝・休養地として、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。

 名前の由来は、中国最古の詩篇「詩経」の体裁上の形式(風・雅・頌)、表現上の形式(賦・比・興)である「六義」に因る。なお、“六義園”のよみかたですが、築造当時は“むくさのその”と呼んでいましたが、現在では漢音読みで“六義”を“りくぎ”と読む習わしから“ろくぎえん”ではなくて、“りくぎえん”と読む。

 詩道の根本を構成する6つの体、即ち

賦(ふ)    感想をそのまま述べたもの
興(きょう)  外物にふれて感想を述べたもの
雅(が)    朝廷でうたわれる雅正(がせい)の詩藻(しそう)
比(ひ)    例をとって感想を述べたもの
風(ふう)   民間で行われる歌謡
頌(しょう)  栄廟頌徳(そうびょうしょうとく)の詞藻

以上が詩経大序にいう六種の分類であり“六義”といいます。

庭園内の主なもの

出汐の湊  =大泉水の池畔の一つで入って直ぐの眺
          めの良いところです。
妹山・背山   =中の島にある築山でイザナギ・イザナミ
          の故事にちなむ“せきれい石”もありま
                     す。
つつじ茶屋 =つつじの木で作られたあずまやです。
ささかにの道=クモのことを昔は“ささかに”といい、こ
          の道がクモのイトのように細いのでそう
          名付けられています。
藤代峠    =園内が一望できる一番高い築山(標高
          3.5m)です。
渡月橋    =2枚の削った大石を下から岩で支えた
          橋です。
滝見の茶屋 =あずまやの横を渓流が走り、滝の景観や水音が楽しめる。
臥竜石    =竜の背のような姿を見せる石です。
蓬莱島    =神仙島の三つの島のひとつで亀の形をした島です。   

 しだれ桜、つづじ、紅葉の名所として知られ、特にライトアップされる春のしだれ桜と秋の紅葉の時期は連日多くの人々で賑わう。巣鴨駅からは徒歩15分ぐらいかかるが、JR巣鴨駅から山手線で一駅の駒込駅からは徒歩5分。

レンガを使用した外周塀

 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。

 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れたこれらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家が所有当時の外周塀ではありません。しかしながら柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変わってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷も採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。