平塚神社とその付近




御祭神:八幡太郎源義家命(はちまんたろうみなもとよしいえ)

御由緒:「武略神に通じ、騎射神の如し」と謳われた平安末期の英雄である八幡太郎源義家
     公と二人の御弟を元永年中(1118年)よりお祀りしている。拝殿の裏手には源義家
     公の鎧が埋められている甲冑塚がある。(ただしご神体のため非公開)

例祭日:9月15日
          
 平塚神社付近は、平安時代に都島郡を治める郡衙(ぐんが)のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には秩父平氏庶流の都島太郎智近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は、源義家が後3年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の11面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟3人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった都島家代々の居城となりましたが、文明10年(1478)1月泰経の時代に太田道灌によって落城しています。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は3代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を、暫くして知った家光は感謝し、250石の知行地を与え、このうちの50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。


注連縄(しめなわ)・紙垂(しで)

 注連縄は、神聖な場所であることを示すものです。ふつうは太い方を神棚に向かって右になるように取り付け、四垂(た)れの紙垂を等間隔にはさみこみます。紙垂が切れたり汚れた場合は半紙で新しいものを作ってとりかえましょう。

お供え・お榊(さかき)

  毎日お供えするものは、米・塩・水です。初ものやいただきものがあった場合は、まず神さまにお供えしましょう。神棚からお下げしたお供えは、神さまの御霊(みたま)がこもっているので、家族でいただきましょう。
御神前には神の宿る木、栄える木という意味をもつ一対のお榊を立てます。

お参りの仕方

 身内に不幸があった場合は、神棚に半紙を貼って、毎日のおまつりを中断します。地方によって違いがありますが、大体は五十日が過ぎるとおまつりを再開します。それまでの間は、神社へのお参りも遠慮します。



城官寺

 住職の登城時には檀家を集めてにわかの武士行列を作り、住職は駕籠に乗ったという。土地の人々は住職を旦那 と呼び、耕作時に住職を目にすると後ろを向いて見ぬ振りをし、土下座することを避けたという。維新後は、震 災も難から免れたものの、昭和20年アメリカ軍の無差別空爆により全山烏有に帰したが、辛うじて城官供養塔 と多紀家代々の墓は残った。ここに徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡となっている。 明治以前は、神社の経営には特定の寺院があたり、こうした寺院を別当寺と呼ぶ。城官寺は平塚神社の別当寺に あたる。

◎北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」

 原題は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」といい、上・中・下の3巻から構成 されている。平塚明神の別当であった城官寺の、中興住職とされる真惠を中心に製作され、元禄5年(1692)に 完成した。詞書の撰文・清書は真惠が行い、絵は狩野信良という人物が描いたことが確認されているが、信良が どのような人物であるか、詳しいことはよくわかっていない。絵巻では、江戸時代に山川城官貞久によって平塚 明神・城官寺が再興され、寛永17年(1640)に幕府から50石の朱印地が寄進されるまでの経緯を、平塚地域 に残る伝承や歴史を織り込みながら描かれている。こうしたところから、地域の政治史的・文化史的な特徴を視 覚的に理解する上で貴重な資料であるとして平成3年に北区指定有形文化財(歴史資料)に指定された。


滝野川女子学園

大正15年の創立

教育目標

知性や個性を伸ばし、豊かな人間を育てる。
正しい価値を判断する力をもち、
主体性のある女性を育てる。
心身ともに健康で、よりよい
社会の形成者を育てる。

教育の力点

充実した学習指導の徹底。
きびしさと温かみのある生徒指導の推進。
目的意識を持たせる進路指導の強化。

 ◎中学校は週6日34時間の授業で、
   少人数クラスの習熟度別学習
   始業前10分間の朝学習と読書
   補習・講習で実力アップ
   特色ある総合学習
 
土曜日の午前中は、北区の防災センターへ通い、防災学習を行っている。

 ◎高等学校で進学の希望をかなえる。
   希望進路に応じたコース制
   ●特別選抜クラス(45分授業を週38時間)
   ●特進コース(週あたりの授業時間数を36時間)
   ●進学コース(基礎学力の充実を図り、四年制大学・短期大学・専門学校への進学)
 ほぼすべての生徒が大学進学を希望「授業で勝負」、実験・学習などの体験、サテライン講座、 夏期進学合宿、補習、講習等の進学指導を積極的に行い習熟度に合わせた授業。

 



女子聖学園

 
1905年(明治38年11月1日)女子聖学園は、築地A14番館の宣教師館を校舎として発足しました。
 
 1907年10月に滝野川中里村大字中里字西坂に移ってきます。土地3970坪の購入代金は17,879円50銭でした。そこは麦畑・茶畑・桐畑だったといいます。
 
 1903年に池袋と田端を結ぶ山手線が出来1910年までは、駒込駅はありませんでした。

 明治以来、日本は国を挙げて欧米に追いつくための組織を作り、直接国のために役立たぬといわれた美術家や文学者は、粗略に扱われ、苦しい思いをしました。

 こうした時代、芸術家にとって、ミッションスクールの存在は正しい目でものを見る教育の場所と考えられ、信頼するに足りる学校と思われたに違いありません。

 
女子聖学園の初代PTA会長は、北村西望(彫刻家)でした。その他山田敬中・吉田三郎・油木久太・國方林三・嶋野重之など多くの芸術家が、お嬢さんを女子聖学園に託されたのです。

 1912年4月開設の中里幼稚園(現聖学園幼稚園)にも、芥川龍之介、室生犀星のお子さんがたが通われました。室生犀星の詩の中には聖学園の教会や宣教師が登場します。

             第5代校長・内藤淳一郎(1992年講演・田端芸術家村の成り立ち)から



旧古河庭園

 この庭園(面積37180u)は、英国風古典様式の本館を中心として、その前庭の欧風花壇及び池泉回遊式日本庭園よりなっております。

 もと古河氏の所有でありましたが、昭和30年4月、東京都の管理するところとなりました。

 本館及び前庭欧風花壇は、英国人、ジョサイア・コンドル博士の設計によって、大正6年竣工したもので、また、心字池を中心とする池泉回遊式日本庭園は、京都の庭師、植治の設計施工によるものでありますが、ともに和洋の様式が調和した稀にみる設計というべく、その文化財としての価値もまた大なるものがありますので、これを永く保存すると共に一般に開放するものです。


 

地震の科学館 

 昭和59年に開設された東京初の防災センター。全国で4番目、区立の防災施設。こちらの大型起震器はコンピューター制御により、関東大震災・兵庫県南部地震など、過去に起きた地震の揺れを実際に体験することが出来る。東側に隣接して滝野川消防署、西隣に滝野川公園(「防災公園」として災害備蓄倉庫1500トンの応急給水槽、深井戸、散水塔などの防災設備を整える)、この公園を挟んで財務省印刷局東京病院、さらにその西隣に滝野川警察署北隣に(予備避難所=小規模公共施設)の滝野川体育館がある。


 


東京ゲーテ記念館


 ドイツの詩人・思想家として名高いゲーテの著作や関連資料を約15万点収蔵。内容は世界トップクラスであり、海外にも知られている。

 『ファウスト』(Faust)は、18〜19世紀ドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作
とされる長編の戯曲。若い頃からこの伝承に並々ならぬ興味を抱き、こうした様々な伝説に取材して、彼を主人公とする長大な戯曲を仕立て上げた。

 ファウスト博士は、錬金術や占星術を使う黒魔術師であるという噂に包まれ、悪魔と契約して最後
には魂を奪われたという奇怪な伝説、風聞がささやかれていた。戯曲『ファウスト』は、15〜16世紀
頃のドイツに実在したと言われる“ドクトル・ファウストゥス”の伝説を下敷きにして、ゲーテがほぼその一生をかけて完成した畢生の大作である。

 献辞と前戯・天上の序曲に至っていよいよ悲劇の本筋に入る。
第一部
 ファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの契約
 ファウストの恋とその顛末
 ヴァルプルギスの夜
  悲劇の結末
第二部
 第一幕:ファウストは爆発に巻き込まれ気を失い幕が閉じる。
 第二幕:精霊達の、地、水、風、火の四大元素への賛歌のうちに幕は閉じる。
 第三幕:合唱隊が歎きの歌を唱和する中、ファウストは再び新たな人生へと旅立つ。
 第四幕:皇帝がファウストに海岸地帯の土地を与え、国家の解体する姿が痛烈に風刺。
 第五幕:
最愛の女性マルガレーテがファウストの魂のために聖母に祈りをささげ救済が成立する。