箱根駅伝

(平成14年1月2日)



 明けまして おめでとう ございます。本当に1年経つのが、年々済々早く感じる今日この頃です。若い頃には子供や両親を乗せて房総半島の白浜や野島崎の灯台、大東岬や銚子の犬吠崎などに、初日の出を見に行ったり、実家に行ったりと、我が家でのんびりと迎えるのは、ここ数年です。
 元日の朝といえば、2回に分けて配達される膨大な朝刊と年賀はがきが、朝起きると配達され、おトソ気分でながめていると急に眠くなり寝こんで仕舞い、目が醒めると何となく疲れを感じる。我が家では、元日に、お金を使うと、1年中、金に苦労すると職人だった父親からの戒めで元日1日、買物には行きませんでした。また、料理も掃除もしませんでした。
 2日は、職人だった父親は、仕事始めだといって1時間ぐらい働き、終えると、一杯飲のむのが楽しみだったようだ、正月三が日は、誰よりも早く起きて朝酒を楽しんでいたが、子供の我々兄弟には机に向わせ毎年、書初めだといって、朝露を集めさせて硯ですった墨(何故か字が上手に書けるんだといって)を作り、最初は何枚も新聞紙で練習させ、最後の2、3枚を半紙に書かせ、その中で一番いいのを選び、冬休みが終わると、冬休みの宿題として学校へ持って行った。
 今年は、生れて初めて早起きして、自転車で大手町まで行き、箱根駅伝見物に出かけました。毎年、布団の中でテレビを眺めていましたが、そもそも、私がパソコンをはじめ、ホームページを作り初めたのが、昨年優勝した中央大学選手の優勝インタビューを聞いていた時、「優勝の喜びを1番最初に誰に知らせますか」とのアナンサーの質問に「すぐ帰ってパソコンの自分のホームページで全世界に知らせます」という答えを聞き、思わず、今の大学生は金持ちだな〜〜〜と、つぶやくと、居合せた娘婿が「無料でホームページは出来るんですよ」というので、早速製作に取り掛かって、ちょうど1年が経ちました。
 今年はデジタルカメラで写真を撮り、一つのページをと、張り込んで出かけましたが、結果は散々でした。読売新聞社北側の、スタート前(早かったので選手はいない)の写真は何とか撮れ、日比谷通りから通り過ぎる各校の選手を撮ろうと大手町の交差点で、待つこと20分、スタートしました。左折して各校選手が一団となって、走ってきました。今とばかり、シャッターを切ること2、3回、選手を見やり確認して見ると、いやはや1つも映っていない。私の手違いだったのでしょうが。初めてといえども正月早々こんな悔しく、悲しい思いは初めてだった。
 何としても、各校選手が、一団となった勇姿を収めた写真を1枚が撮りたくて、5分遅れで、日比谷通りを南下し、どんなに、遅くても品川駅前までには追いつくだろうと高をくくっていたら日比谷公園、芝増上寺、三田、札の辻、品川駅前、新八ッ山陸橋、青物横丁、鮫洲、大森海岸近くまで行ったが、とうとう、追い付けなかった。上空には数機のヘリコプターが旋回していたが、聞きしに勝る、ちょっとした速さだとは聞いていたが、行けども行けども、道路に立てられた赤い三角柱を片付ける関係者と警察官の姿ばかりだった。今日は、嫌という程、後味悪い、思いをさせられた。
 来た道(第1京浜)を南品川4丁目交差点まで戻り、右折して品川警察署の前を左折し目黒川に架る新品川橋を渡り聖蹟公園前を右折して海岸通りを横切って、新東海橋渡り品川埠頭に出て、高速1号羽田線下の道路に出た。そして、天王洲運河に架る天王洲大橋を渡り、直ぐ、右折して岸壁に出て、対岸のお台場とレインボーブリッヂを横から朝日の眩しい逆光であったが正月の清々しい風景をカメラに収め、高速1号羽田線下の道路に出た。直ぐ、日の出橋を渡り右折すると、倉庫が並ぶ埠頭に出た。そこでも、竹芝桟橋に向って写真を撮ってきた。そして古川の浜崎橋を渡り、ガラガラの竹芝桟橋にある東海汽船の待合室を横目で見ながら通り過ぎ、都立芝浦商業高校の横を通り、汐留川の川沿いを走り右に浜離宮庭園の木立を眺めながら、左は、「汽笛一声新橋の」で、有名な日本国有鉄道の起点だった新橋停車場があった汐留、今もJR新橋駅は、都営浅草線、営団銀座線や1995年11月、東京臨海新交通ユリカモメが、2000年12月には都営大江戸線が開通し、東京臨海新交通ユリカモメや都営大江戸線の汐留駅もすでに完成しており、2002年の秋には、共用が開始される。一段と乗降客には便利に交差する要衝だが、明治の初め、日本の鉄道が産声を上げた旧新橋駅。昭和の初期、日本一たくさんの荷物が運び込まれた汐留貨物駅になり、モダンで活気に溢れた汐留地区は、再開発でもう1度、時代の最先端をゆく街に蘇ろうとしている。役目を終えた敷地の大半は、1986年に使われなくなったJR汐留貨物駅の跡地です。利便性の高い貴重な土地を有効活用しようと、国と都の方針で再開発する事になり、1995年3月に事業が始まった。以来、敷地では昼夜を問わず、大型クレーンやショベルカーが稼動し、ダンプカーが走りまわっている。国鉄事業団から売却され、今、盛んに超高層のビル建設が行われている。幾らも、たたないうちにビルが林立するんでしょうね。
 東海道新幹線と首都高速都心環状線に挟まれた31haの敷地は、オフィスビルや高層マンション、劇場、公園などの複合型都市に生まれ変わり、銀座に最も近い43階建の汐留シティセンター(215m)、48階の電通の本社ビル(210m)、階数で、国内最高となる56階のマンションなど、主な高層ビルだけで13棟が建ち並び、2006年には、6万人が集う地方都市並みの街になる。
 汐留IC横の小道の角に、昔、汐留貨物駅から東京中央卸売場(築地市場)への、引込み線の踏切があり、その踏切にあった警報機が歩道の上に立っており、下には説明板もある。
 蓬莱橋で一緒になる昭和通りから中央通りへと進み、正月朝の銀ぶらと思い北上したが、正月の東京は例年通り、人影はなかった。それでも、車の行き来は激しかった。日本橋渡り、室町3丁目を右折して高速1号線の下を通り、日本橋小伝馬町、日本橋馬喰町から靖国通りに出て両国橋を渡って、左折し両国国技館、そして、安田庭園脇の道を進み、横網公園と並ぶ、震災記念慰霊堂の中を横切り石原1丁目の交差点に出た。清澄通りを北上して、厩橋東、駒形橋東、吾妻橋際のアサヒビールリバービア(俗に、うんこビル)、墨田区役所前を通り道なりで、隅田公園の土手道を走り言問橋の写真を撮り、桜橋の手前でも写真を撮り、提通りから、地藏坂の交差点で地藏坂通り入り、水戸街道を横切り曳舟川通りを左折して、明治通りを横切り向島済世会病院を右折して、下町特有の細い路地を抜けて午前10時30分に我が家に到着。
 早速、沸かしてあった朝風呂に入り、女房と二人で、おせち料理をつまみながらビールで乾杯をし、大好物の雑煮を年甲斐もなく腹いっぱい食べてしまった。何時もならば、夕方近くまで寝込んでしまうのだが、今年は、昨年暮れ、新宮誕生という「おめでた」があり、記念して宮中参賀に行こうと考えていたので、食休みを1時間して食べ過ぎた腹減らしを兼ねて、ママチャリで皇居前へ出かけた。我が家から皇居前まで40〜50分で楽々行ける。皇居前の祝田橋通りは日曜日には歩行者天国になるので、よく行くがジョギングする人かサイクリングするぐらいの人が楽しんでいる、だだ広い道路だが、今日は凄い人出だった。ママチャリは皇居前広場の木陰に置き、身体チェックのテントが幾張りもあり、3方向(東京駅、馬場先門、日比谷)から長蛇の列だった。私は、真中の馬場先門からの列の後ろに並んだ。すこし進と白い割烹着を着た婦人や、若い子が、日の丸の小旗をみんなに手渡していた。左右には制服の警察官と見ると直ぐ分かる目の鋭い私服の警官が、忠実に職務を果たしていた。わが子が小さい頃や田舎の叔父伯母が正月休みを利用して遊びに来た時などに何回かは来たことはあるが、こんな光景は初めてだった。テントのそばに来ると、ここまでしなくてもいいんではないかと思うほどの、ボデーチェックと持ち物の検査を厳しく行っていた。
 私のボデーチェックが始まった、担当の婦人警官は手荷物はないようですがポケットには危険物その他怪しいものは在りませんかといいながら手際よくチェックしていたが、右のポケットの所に来た時に、これは何ですかという質問があり、はじめて口をきいた。そこで、ポケットの中から持っていたデジタルカメラを出すと、「解かりました」どうぞ、「お進みください」と大きな声でいわれた。何でもなくても気分のいいものではない。
 これも、みんな新宮誕生人気やアメリカの同時多発爆発を警戒しての措置で止む得ない。二重橋手前で、交番と警官のうしろに二重橋が撮れる場所に移動してカメラを向けると、警官が来て写真撮影はだめだといわれ、記念の写真は撮れなかった。
 二重橋の正門を入り、右に、180度大きくカーブする坂道を登り、月見橋を渡りながら丸の内のビル街を久しぶりに眺めた。この頃から、空はどんどん黒い雲が蔽い始めてきて次第に薄暗くなってきた。それでも丸の内のビル街の方は日がさしていて珍しい光景を見ることが出来ました。左には伏見櫓があり、新宮殿の広場には、午後2時20分からのお立ち台への「お出まし」を待っている善男善女で一杯だった。
 到着したのが、午後2時過ぎだったのでドンドン先の宮殿の出口となっている坂下門の方まで行かされてしまったが、間を縫うように歩き、ほぼ中央近くのウシロに立って待つ事に決めたが「多分お出ましに」なってもだめだと思ったが、これ以上は近づくのは無理と諦めカメラのファインダーをのぞいたが、認識するのは無理な距離だった。私も年齢的には普通より背は高かったが、最近は何処いっても「わたしゃ、もう少し背が欲しい」の心境なので、都心のビルのような高い所を避けてと周りをキョロキョロしたが、あっちにニョキニョキ、こっちにニョキニョキと180センチメートルを遥に越える若者が多勢宮中参賀に、このように新春の喜びを分ち合える事は、本当に幸せなことだと思います。
  その内に前のほうから、ざわめきが始まると一斉にサッキ貰った日の丸の旗をちぎれるほどに振りはじめた。なお、一層周りは見えず、その内に万歳、万歳、・・・・・・・・・、ただただ黙々と旗を振り続けた。5、6分もすると次第に静かになると、天皇一家の退室だ。周りは、ちぎれた日の丸が無残に散らかっていた。そそくさと出口になる桔梗門や坂下門に向って三々五々そぞろ歩きが始まり、また、あちらこちらを眺めカメラのシャッターを切る人など様々だった。私は、空模様がドンドン怪しくなってくるので、足早に坂下門から写真も数枚撮りながら退場した。桔梗門と坂下門から出てきた人が一緒になる辺りから内堀通りまで露天の土産物屋も出ていた。
 急いで内堀通りを横切り、自転車の置いてある所まで小走りで行った。すると、警視庁の白馬も、ちょうど引き上げる所で、アスファルト道路なので蹄の音が、やけに響き渡った。自転車に跨り日比谷通りまで出ると、左折して和田倉門、大手町で右折して常盤橋で左折し、新常盤橋で右折するとミチナリデ、中央通り、昭和通りを横切り小伝馬町、馬喰町過ぎ靖国通りを横切り、JR浅草橋駅、蔵前、厩橋を渡り、本所一丁目から春日通りを東に本所三丁目、横川橋を渡り、日本たばこ業平工場手前角を左折して浅草通りを横切り、東武日光線の業平駅前を通り、曳舟川通りを北上して、東武日光線の曳舟駅の手前でとうとう頭髪の薄い頭に冷たい物が感じ始め出した。ここまで、よく持ちこたえてくれたものだと思いながらペタルに力をこめたが、雨粒は大きく激しくなって仕舞ったが、やっとの思いで我が家に着いた。それほど、濡れずに、寒い思いもせずに暖房の効いた部屋でテレビを見ている内に寝こみ目が醒めると正月二日は終わり。

歴代優勝校