東京湾埋立て地、夢の島
(第1部墨田区編)
第1章(鯉のぼり)
久しぶりに晴れ上がった五月晴れに誘われて、ぶらりと宛ても無く家を出た。今年のゴールデンウイークの連休は雨続きで、おまけにすずしいを通り越して真冬のように寒く、やっと五日の日に回復した。すると本来の暑さが戻ってきた。まずは新聞で見た隅田川沿いにある墨田区役所にいってみた、すると3階まで吹き抜けなっている同区役所のアトリアムの天井付近から吊り下げてあった。暫くはその大きさに見惚れていたが、あるところには、まだこんな立派な鯉のぼりがあるんだと感心しながら、堤通りを北上すると、白鬚団地内の公園には数え切れないほどの鯉のぼりが五月晴れの空に悠然と高速道路越しに吹く風を受けて泳ぐ、見事な光景に大人も子供も端午の節句の気分を味わっているようだった。また、ある子は仮設のミニSLや電車に乗ったりして、又、丸太切りに興じたり、おおはしゃぎだった。今日は時間がタップリあったので、これから明治通りを走り東京湾の風に吹かれてみたい気になった。今、私が立っているところは墨田区の西の端です。これから今回は我が区内(明治通り沿い)の紹介をしながら進めます。
法泉寺(東向島3丁目8番1号)
白鬚橋を東に向かうと直ぐ堤通りを横切り暫くすると信号2つ目を右折して50mも行くと右側に法泉寺があります。ここは、私の先祖が眠る菩提寺です。子供の頃から、ネコの額ほどの庭に咲いた花を摘んで、兄弟5人で遊びがてらに毎週のように出かけ、その帰りに浅草の松屋デパートへ行きエレベーターに乗り、上がったり下がったりを繰り返して1日遊んで来たものでした。また、先代の奥さんには、お線香を買う度にお菓子や果物を良く頂いたものです。今でも良く思い出します。 このお寺は曹洞宗に属して晴河山法泉寺といい、文京区駒込吉祥寺末で区内でも古い寺院です。寺伝によると、昔、葛西三郎清重が所領地に両親の追善供養のために建立されたとしています。度々の兵火に焼かれた後、荒廃しましたが、天文元年(1532)に僧安元が中興し、それまでの真言宗から曹洞宗に改宗したと言います。本尊は釈迦如来を安置し、かっては、新田義貞の守本尊という伝承を持つ「髻不動尊」があって、信仰を集めたといいます。又、法泉寺には区内でも多数(8基)の板碑が保存されています(原則として非公開・いずれも区登録文化財)。次に年紀等を掲げて紹介しておきます。 |
貞和3年1347年弥陀一尊 | 延文6年1361年弥陀一尊 |
応永8年1401年弥陀三尊 | 永享4年1432年弥陀三尊 |
延徳4年1492年弥陀三尊 | 永禄11年1568年日蓮題目 |
銘欠弥陀三尊 | 銘欠弥陀三尊 |
1) 千鳥庵鳥奏「散る日から」の句碑(「短冊塚」)
寺門を入ってすぐの右側、藤棚の下に「短冊塚」の篆額のもとに、三世千鳥庵(川崎重亮・肥前唐津の人)の
次の4句が刻まれています。
「散日から ちるを盛りや 花の山」
「思ひきって 飛姿なり ほととぎす」
「我を山に 捨て名月 入りに鳧」
「夕煙 雪の野末に 里ありや」
季語を配した一連の句碑と言えましょう。
2) 尚左堂俊満「故郷の」の歌碑
本堂前の樹木の下に、表に彼の次の和歌、裏に友人石川雅望(宿屋飯盛)による彼の人となりを紀したものです。
「故郷のおやの袖にもどるかと おもへば月はふたつなきもの」
尚左堂俊満(1757〜1820)は幕末の浮世絵師で戯作者でした。本姓を窪田(窪とも称した)安兵衛といい、生来、
左利きの故に尚左堂、また左尚堂と号しました。その色彩感覚は繊細であったとされます。また、多芸であったとみえ狂歌では一筋千丈、川柳では塩辛房、戯作では黄山堂、あるいは南陀伽紫蘭と称しました。窪俊満・石川雅
望ともに、台東区蔵前3丁目の正覚寺(榧寺)に、隣り合って葬られています。
3) 中山胡民の墓
中山家は寺島村の名主をつとめた家で、胡民は通称を祐吉という江戸末期の著名な蒔絵師です。大変緻密な
蒔絵を作ったことで知られ、古い蒔絵もよく研究し、巧みに応用した作品もあります。晩年、法橋(僧侶の叙階)に叙せられ、泉々と号しました。茶道・俳句にも優れていました。明治6年、齢63歳で没しました。胡民の墓は自然石
(高さ78cm)に「泉々胡民墓」とあり、台石に「名花山」と刻まれています。
4) 地蔵諸像等
イ、「寛文2年」銘 地蔵像、<区登録文化財>
本堂横の、墓城入り口近くに起立するものです。錫丈こそ失われていますが、ゆったりした規格正しい舟型光背を持った眉目秀麗な地蔵尊と言えましょう。さすがに江戸初期(1662年)の雰囲気を十分にかもしだしています。
とくに、光背部に回向文を有する点では、この一点のみではないでしょうか。「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」は法華経化城喩品の一節で、自他共に及ぼす無我の功徳をもって彼岸に達しようとする信仰心を表しています。
ロ、「寛文6年」銘 庚申地蔵像
新墓城に安置されといる(他所からの移転か)もので、顔面に損傷はあるものの、高さ91cmの愛くるしさのただよう地蔵像です。「奉造立地蔵尊為ニ世安楽也 庚申講中」「寛文六丙午天(1666)8月12日」として居ます。
ハ、「延宝8年」銘 庚申阿弥陀坐像
本堂の左側、墓城参道の左側にある笠塔婆型の庚申阿弥陀坐像です。今では宝珠・笠石は失われていますが坐像の半肉彫はできがよく、保存状態も良好のものです。銘を「延宝八庚申天(1680) 奉供養庚申ニ世安楽11月
5日」としています。
ニ、「延宝9年」銘 念仏供養龕
先の「尚左堂利満の歌碑」の近くにある96cmほどの、見落としがちな龕です。「龕」とは神仏を安置する小さい箱の意ですから、石造りの厨子と考えていいでしょう。区内にあっては、龕の形式をとるのは極めて稀なものです。
龕正面の銘に「延宝九辛酉歳(1681)6月28日」右側に「念仏供養」と見えますが、龕に祀られているのは神像で、宝冠に鳥居、上部に日月をいただいているところをみると、神仏混交の姿をとどめていると言えましょう。
ホ、「元禄6年」(1693)銘 地蔵坐像
墓城中央のやや奥まった位置にあり、持ち物等は一切失われていますが、頭部や右手の様子から見て、地蔵尊と判断されます。
へ、「享保2年」(1717)銘 金銅製地蔵像<区登録文化財>
本堂に向う左手にあって、台座の上に立つ高さ160cm余の金銅製の地蔵像で、「延命地蔵」されるものです。
台座の銘に「奉造納 東海道武蔵国葛西郡西葛西領寺島村仏頂山法泉禅時」とし、背後と袖の銘に「導師」前
永平吉祥15世大宣伝大和尚、「願主」念蓮社十誉、「施主」浅草御堂前俗名阿部主水としています。
これだけの大作ですから、多くの資材を必要としたことでしょう。そのための喜捨に応じた人々の名が、全身(法衣)に隈なく刻まれています。十方万霊供養と施主の先祖、及び一家霊魂菩提のために建立されたことが記されています。この像には、作者名(鋳物師宇田川善兵衛)を陰刻し、結衆者の名前と職業(やかん屋、豆腐屋などと分かることは特筆されます)が宇田川姓の鋳物師は中世末期から続く名家で、代々小伝馬町(現日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけています。
5) 保護樹木「しいのき」「たぶのき」
区内にはかって多くの名木・大木がありました。松浦上屋敷の椎の木、東江寺の「見あひの松」吾嬬神社の「相生の樟」高木神社の「臥龍の松」、秋葉神社の「千葉の松」、常泉寺の「十返り松」などがあげられましたが、これらは都市化の波と度重なる変災とによって、全て失われてしまいました。
墨田区では、数少なくなった樹木を後世に遺すために、「緑化の推進に関する要綱」(昭和48年制定)に基づいて、その保護に乗り出しました。この法泉寺の「しいのき3本」「たぶのき1本」を含めて、現在(昭和55年3月末)69本が指定を受けています。
記録によりますと、法泉寺の「しいのき」は(目通り)、1・30m(2本)、1・35m、「たぶのき」は(目通り)2・85mと成っています。
ここより路地を右折すると直ぐ、堤通りにでる。左折して100mも行くと左に白鬚神社がある。
白鬚神社(東向島3丁目5番2号)
牛島神社同様、区内でも古社に属します。社殿は元治元年(1864)に造営された白木造りで、区内では震災・戦災を免れた貴重な建造物でしたが、平成2年、放火によって焼失。その後、同4年に再建されました。
社伝によると天暦5年(951)慈恵大師が関東に下向の折、江近国志賀郡境打下(滋賀県小松村)に鎮座の白鬚大明神を勧請したものといいます。これらのいわれは「白鬚神社縁起碑」に詳しく述べられています。
主神を国っ神の猿田彦命とし、四神を祀っています 。なお、明治40年には、当社の南にあった諏訪神社を合祀しました。
1)白鬚神社縁起の碑
かって白鬚神社の東隣に別当寺西蔵院(現廃寺)がありました。享和2年(1802)社殿修理を機に、その持住の興元の求めに応じて、高名な橘(加藤)千陰(回向院)が筆をふるったものです。
又、社地の一角には「鎮座一千年記念碑」(昭和28年)もあります。
2)北島玄二「うつせみの」の歌碑(「黒人塚」)
白鬚神社にあるもののうち一番の古碑で、寛政12年(1800)の建碑です。高さ100cmに満たない四角柱の碑ですが、彫りも深く風格もある碑と言えましょう。
「黒人塚」と大書して、右面に「天やこの人を生み 天やこの人亡る この人阡人の玄 崑崙一人に選る倚る」(原漢文)、左面に「うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし」としています。
北島玄二は本名を源二、色が黒(玄)いので玄ニと称したといいます。本業は医師で
(くすしのみち)を著したともいいます。
3)天広丸「くむ酒は」の狂歌碑
天広丸(1756〜1828)は本名を磯崎広吉、号を酔亀亭と名のり、宝暦6年(1756)鎌倉市今泉に生まれ、文政11年(1828)に没しています。
青石の自然石上部に酒を表すとみられる標記(酒の印篆のひとつか)をおき、次の狂歌を刻んでいます。「くむ酒は 是 風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも」
この狂歌は彼の出生地、鎌倉市今泉の白山神社参道入り口にある自筆の狂歌碑(文化元年)<1804>銘)と全く同じ筆勢ですから、これも自筆であり、建碑も文化初年を下らないものと思われます。
彼は狂歌を唐衣橘洲に学び、生涯、酒好きで、その著「狂歌酒百首」の巻頭(第一首を飾るのが、この歌でもあります。
4)春秋庵白雄「人こいし」の句碑
高さ140cmの四角柱の句碑ですが、損傷が大きく裏面はほとんど読めません。
「人こひし 火ともしころを さくらちる」
春秋庵白雄(1738〜1791)は本名を加舎白雄といい、信州(長野県)上田の生まれで、多年各地を放浪して後、江戸に春秋庵を開き、句作に励みました。
隠逸潔癖、純真多感、飾りのない作風を主張し、蕉風俳諧の作法を平易に説いたといいます。上の句も、その著(白雄句集)からの出典です。
なお碑陰は、「于時文化歳在癸酉(1813)春3月 拙堂創建之 補助居行」と補うことができます。
5)中原耕張「つくづくし」の句碑(「筆塚」)
高さ123cmの四角柱正面に「筆塚 中原耕張」として次の句を添えています。
「つくつくし つめよ硯の すみ田川」
筆塚は退筆塚とも言われて、使いふるした筆を地に埋めて塚としたものです。
この句の面白さは、ことばの言い懸けを多用しているところです。念入りにの意の「つくづく」と筆塚にちなんで「つくし(土筆)」、「つめ」の積む(蓄える・ためる・励む)と摘む(集む)、硯のすみ(墨)」と「すみ(隅)田川」が、それです。
中原耕張は、この筆塚を建碑した2年後にの冬に、近くの蓮花寺に「算子塚」をも建碑していますから、おそらく筆(長雄流)とそろばん(最上流)で生計をたてていた、山谷(台東区)鳥越の人物と思われます。
6)桑楊庵干則「久かたの」の歌碑
「久かたの天津をとめもうらやまむ 人間界の華のしら雲」
桑楊庵干則は浅草干則のことでしょうか。初代桑楊庵(別号 頭光。江戸後期の狂歌師で狂歌四天王の一人)は享和2年(1802)に門人真砂庵干則に、その号を譲ったとのことです。
7)佐羽淡斎「墨多三絶」の詩碑
佐羽淡斎の三連の絶句(4句からなる)の漢詩に、巻菱湖の「墨多三絶」の篆額、大窪詩仏(行)の筆(草書)、裏面の讃を亀田鵬斎(興)になる名碑と言えましょう。
佐羽淡斎は上野(群馬県)桐生の出身で、富豪初代佐羽吉右衛門の実兄丑之丞の次子で2世吉右衛門を継ぎました。名は芳、字蘭卿、淡斎と号し、幼きより学を好み、賦詩をよくしました。文政5年(1813)の建碑ですが、達筆な碑文は相当に難解です。
8)「空谷等周先生衣嘖之蔵」の碑」
下総(千葉県)出身の画家、川村等周(号空谷)の衣嘖(衣と頭巾)を埋め、その彼と親交のあった清水武によって営まれた碑で、その子2人の書で、碑面を8歳の孝(孝蔵)の、碑陰を12歳の姉美智の筆によるもので幼少の者が揮毫したという大変珍しい碑と言えましょう。文政11年(1828)の建碑です。
撰文者の綾瀬亀田長梓は亀田鵬斎の義子(一説に長子)で亀田三蔵(綾瀬)のことです。
なお、この碑そのものに移動があったのか、表裏が反対となっており、碑面の下部は土に埋まっている現況です。
9)「亡友蒼山衣剱之蔵」の碑」
碑面の添え書きによれ 、蒼山は本名を小野田大三郎といい、24歳で没し、市谷善慶寺に葬られました。彼の衣と剱(刀)を埋めて塚としたものです。
碑陰の建碑者の中に、亀田三蔵(綾瀬)・清水美智・孝蔵(孝)姉弟の名が見られます。前の「空谷等周先生衣嘖之蔵」と何らかの関連があるでしょうか。天保4年(1833)の建碑です。
10)三十六湾漁叟「隅田川観楓詩并序」の碑
隅田村から小梅村界の墨堤に楓を創植するのに、独力でなしとげた女性のけなげさに打たれて絶句五連を得た36湾漁叟(越後人。館柳湾。雄次郎。)の漢詩の碑です。天保7年(1836)建碑 女性の名は川口娜保(直)といい、もと吉原の名妓で太田南畝(獨山人)作詩の「北洲」に節付けした三味線の名手であったとも言われています。芸妓をやめ、日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、のち橋場に移り、繁盛したとのことです。
11)四世今日庵「こころほど」の句碑
高さ190cmの自然石に「四世今日庵 元風」として次の句を刻んでいます。
「こころほど こと葉のたらぬ さくらかな」
元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保年間(1830〜1844)に活躍した江戸の俳人用です。息子、盛義(小衰)による天保7年(1836)の建碑です。また、彼の手になる碑は区内に多くあります。
12)「岩瀬鴎所君之碑」
高さ2mを越える大碑です。幕末の外交家、岩瀬忠震(1818〜1861)の一代記といってよく、若冠44歳で不遇のうちに没したのを惜しみ、現役時代の同輩、永井介堂の撰文・書・篆額による、没二三年後の顕彰碑です。岩瀬鴎所は、幕府の徒頭、設楽貞丈の第三子に生まれ、のち岩瀬忠正の嗣子になりました。安政元年(1854)、老中阿部正弘によって目付に抜擢され、黒船来航にあたり外国奉行・作事奉行として、井伊大老のもと条約締結の任に当たりました。後、将軍継嗣問題で左遷・譴責を受け、寺島の岐雲園に蟄居しました。文久元年(1861)7月岐雲園に没し
文京区蓮華寺に葬られました(後、雑司が谷霊園に改葬)。
13)「鷲津毅堂之碑」
前の「岩瀬鴎所君之碑」を上まわる、高さ256cmの大碑で字数は区内一の多さでしょう。篆額は明治の元勲三条実美、撰文を友人三島毅(二松学舎の建学者)、書は巌谷修(16。小波の父)の手になるものです。
鷲津毅堂(1825〜1882)は幕末・明治初期に活躍した漢学者・政治家で、明治政府に登用され、登米県(宮城県北部)権知事、権大法官五等判事・司法権大書記官となり、勲五等従五位に叙されました。
永井介堂(尚志)とは、混乱期の伏見(京都府)の地において知遇を得、また、同姓の永井久一郎に長女を嫁し、外孫、壮吉(荷風)を設けています。
14)石灯籠(ニ其)
イ・「寛政13年」銘石灯籠
立派な基壇の上に起立する宮前型の灯龍です。損傷・磨滅の少ない保存の行きとどいたものです。
銘は「寛政13め(1801)辛酉正月吉日 献燈両基 両替町田中氏」とあります、田中氏は寺島村出身で、名主中山氏の一族と思われます。
ロ・「寛永2年」銘石灯籠
形式は春日型です。銘に「寛永2年(1849)次歳 法橋胡民斉 巳酉五月吉日」ありますから、寺島村の中山胡民(祐吉)の奉納であることがわかります(法泉寺の項参照)。
15)「文化3年」銘狛犬一対<区登録文化財>
文化3年(1806)に作られた、安形・吽形一対の狛犬です。阿形の台座に損傷が見られますが像そのものは磨滅は少ないと言えます。白鬚神社の「御宝前」に「奉納」されたものです。作者は神田今川町の石工、六兵衛明貴の手になるものです。
白鬚神社が墨堤という場所がらにあることと、祭神猿田彦命が商売繁昌の神として信仰を集めていたことにより、奉納(建立)者は、当時、通人として知られた人々、松葉屋半左衛門(吉原の遊女屋)、八百屋善四郎(浅草の料亭八百善)、駿河屋市兵衛が合力したものです。
16)岐雲園の跡
岐雲園は寺島7丁目207番地(墨田1丁目4番)にあって、広さ約500坪(1650u)、隅田川の水を引き入れた汐入の池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(鴎所)が自分の所有する画巻の筆者、明の魯岐雲にちなんで名づけたものです。
彼は職を免ぜられた後、憂憤の退隠生活をここ岐雲園で退り、再び世に出ることもなく、風雅な生活を送りました。「鴎所」の号も、隅田川にとぶ都鳥にちなんでつけたといいます。この地にあること2年にして、44歳の若さで生涯を閉じました。
忠震没後、同僚でもあった永井介堂(尚志)も晩年を岐雲園で送り、ここで没しています。また
幸田露伴(幸田露伴)旧居跡の項参照)の父成延、長兄成常もここに住み、露伴自身も一時期住んでいました。そして次兄の郡司成忠が北千島探検に出発の前夜、明治26年3月19日、別離の宴を催したのも、ここ岐雲園でした。
白鬚神社を出て堤通りの旧道を左に5・60m行くと地蔵坂の信号が見えますが、角には子育地蔵尊がありますが、また、次の機会に詳しく書きますので、ごめんなさい。これから手前の4mぐらいの路地の坂を下り行くと左に、青い壁の向島青色申告会の3階建てを見ながら進と左に百花園の入り口が見えます。ここは皆さん、よく、ご存知の所だと思いますが、ちょっと書きます。
向島百花園(国指定名勝及び史跡)東向島3丁目18番3号
百花園を造ったのは佐原鞠塢で、文化元年(1804)のことでした。鞠塢は宝暦12年(1742)仙台に生まれました(一説に明和3年生まれ)天明年間(1781〜1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大家に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千陰・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・獨山人(大田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。
その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠塢と号し、寺島村の多賀屋敷跡3000坪(約10000u)を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧をうけた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たと言います。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。
百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で酒井抱一(画家・俳人)が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠塢亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。
こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして獨山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が門の左右の柱に「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千陰は「お茶きこしめせ梅干もさむらふそ」掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地になりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。
鞠塢は天保2年(1831)8月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は、近くの蓮花寺にあります。
この庶民の庭に、文政12年(1829)3月に11代将軍家斉が、弘化2年(1845)1月に12代将軍家慶が来園したことは当時としては破格のことでした。
この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて圓地を収め旧景の保存に努めました。そして後に公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃意向のことです。ただ、福禄寿の像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀利します。
百花園は昭和53年、<国指定名勝及び史跡>に指定されました。
1)「福禄寿尊」案内碑
碑の表に「隅田川七福之内福禄寿尊 正ニ位勲1等伯爵 土方久元」と刻まれ、碑陰に建立者名が連記されています。明治41の建碑。
2)松尾芭蕉「春もやや」の句碑
「春もやや けしきととのふ 月と梅 はせを」と刻まれています。元禄6年(1693)の作で「梅月」と前書のある画賛の句です。天保7年(1836)の建碑。
3)千樹庵益賀「鳥の名の」の句碑
「鳥の名の 都となりぬ 梅やしき」
と刻まれ、碑陰に、抱一暉真書とあります。文化11年(1814)の建碑です。抱一暉真は酒井抱一のことで、徳川末期の画家・俳人です。
4)亀田鵬斎「墨沱海荘記」の碑
高さ187cmの、さして大きくない碑ですが、亀田鵬斎の撰并書になるもので、名碑といわれています。「墨沱之瀬葛陂之傍荒圃鋤而新園成植之梅一百株」の書き出しで百花園の成り立ちを述べ、鵬斎が自分と百花園や鞠塢との関わりの中で、梅荘(百花園)の美しさや鞠塢の風流瀟洒を称えた美文が刻まれています。文化11年(1814)の建碑です。
5)雲山先生看梅詩の碑
宮沢雲山のこの詩碑は、それぞれ「金盤銀燭酔って郷たり」「林下の僊妹清浄の身」「清標高格百花の冠」で始まる三つの七言絶句が刻まれています。文政10年(1827)の建碑です。
宮沢雲山、名は雉、字は神遊、雲山はその号です。詩人で小説も書いていました。
6)茶筅塚
「茶筅塚 おりたらん 草の錦や 花やしき 黙翁」
木石庵柘植黙翁の一周忌に門人達が師の遺志を継いで建てた碑で、漢学者大槻磐渓の長男大槻修の書です。
碑陰に関東空也門中として大勢の門人の名前が記されています。関東空也門については詳らかではありません。しかし空也上人門徒が茶筅を作りこれらを商ったという話しや、門人の号などから、茶道の一派ではないかと考えられます。
7)松尾芭蕉「こにやくの」の句碑
(こんにゃく)
「こにやくの さしみも些し うめの花 はせを」
元禄6年(1693)の作で、芭蕉と去来との共通の知人の死を悼んで去来へ送った句です。梅の咲くこr、せめて心ばかりでもと、梅を折り蒟蒻の刺身を供えて故人を祀ったとのお意でしょう。金令舎鈴木道彦の書で、文化11年(1814)の建碑です。
碑陰の「イ文ヒ」という字は、「化」の字の中に「文」の字を入れたもので「文化」と読みます。この手法は割書きといい昔の公文書などで、位勲、役職名、氏名などを一行に書かなくてはならない場合など、短く詰めるためによく使われました。
8)山上憶良「秋の野に」の歌碑
万葉歌二首の碑。憶良の和歌の碑というよりは、董堂敬義の絶筆となった「秋の七草の書」を残すために、門人達によって遺言通り百花園に建てられたものです。
董堂敬義は、本名中井敬義で、嘉右衛門と称しました。商家の番頭ながら書に巧みで江戸の三右衛門の一人といわれました。狂歌でも活躍し、腹唐秋人と戯号しました。董堂が亡くなった文政4年(1821)の建碑です。読みは
「秋の野に 咲きたる花を指折り かき数うれば 七草の花」
「芽の花 乎花葛花 なでしこの花 姫部志 又藤袴 朝貌の花」 「朝貌」は桔梗のことです
9)大窪詩仏の竹の画に、詩人佐羽淡斎が詩を題し、碑陰には、詩仏老人碑竹記として、碩学朝川善庵(常泉寺に墓碑あり)の撰、巻菱湖の書という、文人四大家の合作です。文政5年(1822)の建碑です。
大窪詩仏(行)は徳川中期の漢詩人。草書と詩で名高く、また好んで墨竹を画き、気韻に富んでいたといいます。
10)金令舎道彦「きょうの月」の句碑
「けふの月 さてもをしまぬ 光かな 美知彦」
碑陰に「世中の 梅のさきけり すみた川 文政13年(1830)9月一桑庵野月建之」とあります道彦の13回忌に、野月が道彦門の有志を語らって建てたものです。道彦は鈴木氏、春秋庵白雄(白鬚神社の項参照)門の俳人であり医者でした。
11)其角堂永機「朧夜や」の句碑
「朧夜や たれをあるしの 墨沱川 永機」と表に刻まれ、碑陰には、永機の略歴が記されています。
永機は、穂積氏、名は美之、老鼠肝の子で其角堂七世です。28歳で受戒して無諍と名づけました。明治32年77歳の時、友人等がこの碑を建てました。建碑者は魚河岸の人が多いのですが
俳優の5代目尾上菊五郎や書家の永井素岳の名も見えます。
12)しのふつか(忍ぶ塚)
2世河竹新七が、初代河竹新七の作った歌舞伎狂言「荵売」の正本をここに埋めて、その功績を遺すために建てたものです。明治13年の建碑。高林ニ峯書。
13)きやうけん塚(狂言塚)
2世河竹新七(古河黙阿弥)顕彰の碑。
娘と門弟達が明治27年に建てたもので、高林ニ峯書。
古川黙阿弥は、幕末、明治の脚本作者で、「3人吉三」「鼠小僧」など350余りの作品があります。本所南二葉町に没しています。なお現今では「河竹黙阿弥」が一般的な作者名となっています。
14)「飯島光峨翁之碑銘」
幕末江戸の画家飯島翁の顕彰碑。光峨は沖一峨の弟子で、東海、近畿、関東各地を巡って自然や風俗を師ちし精進しました。門人達が翁の徳に報いるため、翁の知人の五峯高林寛(ニ峯の長男)に碑文を依頼し、明治33年に建てたものです。
15)井上和紫「紫の」の句碑
「紫の ゆかりやすみれ 江戸生まれ 和紫」
碑陰には建碑者名と和紫の人となりが記されています。
和紫は永機の門弟で、魚河岸の鷲屋という魚問屋の主人です。明治32年の建碑。
16)「哥沢芝金之碑」
哥沢芝金顕彰の碑で、榎本武揚が篆額を書いています。
芝金、本名は柴田金吉といい幕臣の子として江戸に生まれました。同好の士と共に、古くからの小唄節が野卑に流れているのを改めて一流を興し、盛んに行われるようになりました。のち、故あって「歌沢」を「哥沢」に改めました。哥沢節が歌舞伎の舞台に登るようになったのも、芝金の功績といえます。碑面の終わりに、次のような芝金作譜の名曲が記されています。
「ほととぎす いま一声のきかまほし 月はさゆれど姿は見えず
エエぢれったい 何としよう しんきくさいじゃないかいな」
明治32年、3世芝金等の建碑です(妙緑寺・法恩寺の項参照)。
17)「矢田寫ニ翁之碑」
「鷲流狂言師 矢田寫ニ翁之碑」で脇に、辞世の句、
「花暮れぬ 我も帰りを 急うずる」が記されています。
鷲流は能狂言の一流(大蔵流・和泉流に対し)ですが、今は絶えています。寫ニは、鷲流の最後を飾る名手でした。寫ニが没した年(明治26年)の7月に、寫ニと縁のあった人々によって建てられました。表面の辞世の句以外の字は普永機の筆になるものです。
18)鶴久子「空蝉の」の歌碑
「空蝉の
世のうきことはきこえこぬ いはほの中も秋風ふく 久子」とあり、左側には、渋沢兼子等久子の教え子たちが、明治35年、久子の3回忌に建碑した経緯と、久子を偲ぶ歌とを、御歌所歌人藤原粲が記しています。
久子は明治初中期の歌人で、和歌を以て宮内省に仕えました。また、本所松井町(千歳1・2丁目)の家宅で歌学を教えていました。
19)ニ神の碑
「く々のちの神 かやのひめの神」
この二柱の神は、古事記にあるイザナギ・イザナミの両神から生まれた神で、「古事記」では「くくのちの神は木の神、鹿野のひめの神は野の神」としていますが、本居宣長は「かや」を「茅」として、野の神のほか草の祖神という解釈をしています。百花園の成り立ちから見ても、やはり、木の神、草の神ちしてここに並べて祀ったのでしょう 。
20)最中堂秋耳「限りなき」の句碑
「限りなき そらの要や 望の月 最中堂秋耳」
最中堂秋耳の履歴についてはほとんど分かっていません。「もなか屋」だったという説もありますが、真偽のほどは不明です。明治33年の建碑。
21)「月岡芳年翁之碑」
二条基弘の題字、小杉榲邨の撰並びに書で、浮世絵師月岡芳年の伝記が刻まれています。
芳年は浮世絵を歌川国芳に学びましたが、画風は北斎の影響を多分に受けています。好んで奇嬌な姿態を写しましたがその筆は写実的で明治時代の浮世絵に芳年風という一種の様式をもたらしました。明治中期の版画家として版画界の最後を飾った人といえましょう。門弟もすこぶる多く、建碑者の中に岡倉天心等の外、孫弟子の鏑木清方等門弟多数の名が見られます。明治31年の建碑。
22)杉谷雪樵「芦雁図」の碑
表に雪樵の遺墨、「芦雁の図」が刻まれている高さ190cm、幅104cmの大きな碑です。門弟の根本樵谷が明治31年に建てたものです。
雪樵は雪谷流の画家で旧熊本藩士。明治20年上京し大いに名声を博し、しばしば宮内省の命で絵を描き、いつも褒賞にあずかりました。雪谷流掉尾の作家です。
23)螺舎秀民「芦の芽や」の句碑
「芦の芽や 田へ来水も 角田川」の秀民の句と共に3世螺舎孝節によって秀民の履歴が記されています。句は晋永機の、略歴は市川三兼の書です。
碑陰には 「田へ引た あとの流れや 芦の花」と孝節の句が刻まれています。
3世螺舎孝節が欽慕の意を表すため、明治18年に建てたものです。螺舎秀民は本性片岡氏、江戸吉原の人で、其角の別号の一つである螺舎を継いで二世となりました。
24)七十二峰1十湖「何事も」の句碑
「何事も かかる浮世か 月の雲 七十二峰十湖」
「古今俳諧明治五百題」(明治12年刊)に「十湖は、遠州豊田郡中善地 松島幸平」とあり、入集の句に、 「沫雪や 隣はこぶ 膳のうへ」 「茶畑に 裾はひらけて 春の山」などがあります。
碑の句の説教臭いのにくらべて平明自然な諷詠です。明治34年の建碑です。
25)雪中庵梅年「黄昏や」の句碑
「黄昏や 又ひとり行く 雪の人 雪中庵梅年」
雪中庵梅年は原田氏、通称を幸次郎といい、江戸四谷の人。雪中庵5世対山の門に入り、後7世の鳳洲から譲られて8世雪中庵を継ぎました。明治21年、雪中庵を門弟雀志に譲り、不白軒と号しました。この碑は、雀志が明治18年に建てたものです(要津寺の項参照)。
26)北居居士「水や空」の句碑
「水や空 あかり持あふ 夜の月 北元居志」
北元は完来とまた午心の門下生で、江戸の人。初め都喜丸(月丸)、別号を橿の木・葎雪庵2世といいます。午心を追慕してその遺稿『玉田集』を上梓しています(完来は雪中庵4世、午心は雪中庵蓼太門で同門です)。天保9年(1838)旭惣連の建碑です(要津寺の項参照)。
27)宝屋月彦「うつくしき」の句碑
「うつくしき ものは月日ぞ 年の花」
松本蔦斎書、明治24年宝組の建碑です。宝屋月彦については詳らかではありません。蔦斎は明治大正の俳人で『古根草』『白がね草』その他数種の著書があります。
いつ、入り口の前を通っても人だかりがあり、中に入れば四季折々、草木には新芽や花が咲き乱れ、人々の目を楽しませてくれます。正月の七草、春の花見、夏のホタル、秋の月見などなど数え切れないほどの楽しみがあります。私も以前ここの茶屋で中学の同級会があり、出席して庭を眺めながら酒を酌み交わしながら過ぎし去り過去を語り合ったこともあります。中から眺めると周りにビルもありますが、そんなに広い所だとも思いませんが、周りの建物を見えず一瞬別世界に来たかの錯覚を覚えます。表に出て左にほんの少し行くと右に2mぐらいの路地があり、すぐに突き当たります。ここが何を申します、私の生まれた所です。ちょうど蓮花寺の、ま裏です。
蓮花寺(東向島3丁目23番17号)
清滝山蓮花寺は、京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられています。
この寺の開山については諸説がありますが、一説には次の通りです。
最明寺入道時頼(鎌倉幕府第5代執権)が、兄の武藏守経時追福のために、寛元4年(1246)鎌倉佐介谷に巨刹を創建、蓮華寺と名付け、良弁法印審範を開祖として聖徳太子の御像を安置しました。その後京都禁裏から空海自筆の「女人済度厄除弘法大師」を請し、奉送を怠ってそのまま寺に安置しました。
経時の死後、子頼助は病身なので、執権職は叔父時頼に譲り、自ら剃髪して諸国を廻りました。その折、偶偶今の寺島に来て一寺を建て、鎌倉の蓮華寺を遷し「「女人済度厄除弘法大師」を本尊とし、右側に小さな堂を建て聖徳太子の御像を納め、佐々目大僧正頼助と号し、自ら開山となりました。時は弘安3年(1280)8月2日でした。これが今の蓮花寺です(当時も、昔は「蓮華寺」と書きました)。
この説には、宗派のこと、建立年月のこと、開祖のこと等から異論もあります。
1)「文政5年」「文化15年」銘道標<区登録文化財>
文政5年(1822)銘のこの碑は、厄年の参詣人のために道標として門前に建てられたもののようです。とにかく霊験あらたかなお大師さまとして賑わいました。
なお、左側面には建立年月日が、右側には「西 白ひけ はしはみち(白鬚 橋場道)」と刻まれています。
もう一基の道標は正面に「女人済度 御自筆 弘法大師」、左右両側面には、ともに「大しみち」とあり、裏面に、文化15年(1818)の銘があります。これはもと、地蔵坂を上がった墨堤に建てられたものです。
2)「天保3年」銘燈籠
参道両側の赤御影石造りの大きな燈籠一対は、田中金六の寄進で、天保3年(1832)に建てられたものです。金六は江戸幕府の蝦夷地御用達をつとめ、その功により浅草新寺町(台東区菊屋橋付近)に屋敷を拝領して三人扶持をあたえられ、天保3年88歳で没しました。
なお、金六の父金左衛門は名主中山家の一族で寺島村に住んでいました。
3)最上算子塚(「そろばん塚」)
最上流算術は会田安明が始めたものです。安明は出羽最上(山形県)の人で、はじめ鈴木安旦といいました。字は子貫、自在亭と号し、俗称は算左衛門です。
この塚は弟子と思われる中原耕張が文政3年(1820)に建てたもので、上部に丸い穴があり、碑文は「最上 算子塚 山谷新鳥こへ 中原耕張 世中は何れの道もそろばんの かけはしわたる士農工商」とあります。
4)聖徳太子像
『江戸名所絵図』によると、太子堂の縁起は次の通りです。「太子堂本堂の右にあり。本尊聖徳太子の像は16歳の新影にして、太子自ら彫造ありしという。北条経時の念持仏にて、往古相洲鎌倉、佐々目谷にありしを、弘安3年(1280)秋、北条頼助、寺院並びに本尊と共にこの地へ引き移し、同年8月2日入仏供養を営みし故、今日に至るまで、この日をもって縁日とす。」 なお、現在の太子堂及び太子像は戦後復興されたものです。
5)四国88ヶ所写しの石碑
境内に四国88ヶ所写しの石碑が11基建てられています。年紀が慶応2年(1866)から明治3年までのものが10基、明治9年のものが一基です。最後の一基以外は22世住職宥盛法印の時に建てられたものです。
これらを建てた人は、ほとんどが寺島村の住人ではなさそうで、浅草、下谷、上野、神田あたりの富裕な人々が「大師の寺」である当時に写し碑を建て、先祖の菩提を祈ったものと考えられます。
イ・「四国拾番写 阿波国 切播寺 天下泰平国土安全 五穀成就万民豊楽 子孫繁栄 為二世安楽」「慶応2年建」
ロ・「第五番 阿波国板野郡矢竹村地蔵寺写 本尊地蔵菩薩 六道の 能化の地蔵大菩薩 みち引たまへ此世後の世」「慶応3年造立」
ハ・「四国七十五番 善通寺之写 本尊薬師如来 我すまば よもきへはてじぜんつうじ ふかきちかひの法のともし火」「慶応3年建之」
ニ・「四国七十三番 本尊釈迦如来 まよひぬる 六道衆生すくはんと たつとき山にいづるしやかでら」「讃岐国出釈迦寺写」「慶応4年建」
ホ・「四国七十六番 まことにも 神仏僧をしらくれば 真言加持のふしぎなりけり」「明治3年 讃岐国金倉寺写」「しらくれば」は、原詠歌では「開くれば」です。
ヘ・本尊大日如来 わづかにも まんだらおがむ人はたた ふたたびみたびかゑらざらまし」「七十二番 四国88ヶ所之内 讃岐国曼茶羅寺之写」「明治3年」
ト・「七十四番 本尊薬師如来 十二神 みかたにもてるいくさにも おのれと心かぶと山かな」「讃岐国甲山寺之写 明治3年建之」
チ・「観音の 大悲のちからつよければ おもき罪をも引あげてたべ」「六十九番 讃岐国観音寺写」「明治3年」
リ ・
「拾九番阿波国立江寺之写 本尊地蔵菩薩いつくくて 西の住居のわがたちへ 弘誓のふねにのりていたらん」「明治3年建」
ヌ・「四国八十八個所 第一番阿波国霊山寺写 本尊釈迦如来 霊山の 釈迦の御前に巡来て よろづの罪もきえうせにけり」「明治3年」
ル・「第十七号 阿波国名東郡井戸邑 明照寺之写 本尊薬師如来 おもかげを しばしもうつせ井戸の寺 心のあかをそそぐところぞ」「紀元二千五百三十六歳(明治9年)建之」
原詠歌は、「面影を写して見れば井戸の水 むすべば胸の垢やおちなん」です。
6)亀田則恒の碑
「老の身の 枯木にもまた死に花の さきだつ妻の碑に向島 91歳翁亀田則恒」「浦嶋の 亀田則恒齢さへ つくことあらじ呉竹の杖 呉竹亭真直 俗称金子勝五郎治喜」
この歌に、妻の七回忌に歌を手向けたこと、娘婿の金子勝五郎が歌を添えて彫らせたこと等が、歌同様懸詞をふんだんに使った技巧的な文で綴られています。
文政8年(1825)の建碑。
7)「題郡盲評古之図」の碑
昔、鏡面王が郡盲者に象を撫でさせ、それぞれ自分の思った象の形を述べさせた所、皆的外れの答えをしたという話がありますが、郡盲者とは肉眼の盲者のことでなく、見性の無い衆生即ち衆愚のことである等、心眼の大切さについて述べています。
環中斎高独歩の撰並びに書で、その門人山中抜山が、天保5年(1834)に建てたものです。
8)宮内源之輔「先嬉し」の辞世句碑
「先嬉し 雪に明るき 西の空」 明治3年の建碑ですが、詠者・施主については不詳です。
9)「雪月雅望」の詩碑
「雪月雅望 山幽囗離 春花秋葉 雲囗鳥飛」
この碑は、石工の娘で13歳の繁(号、春山)の筆になるもので、文政11年(1828)の建碑です。世話人の下谷御成道白鼠屋寺島村出身で、この碑の外、写し碑ニ基の世話人にもなっています。
10)永谷秀葉「常磐木の」の句碑
新派芸術家月野喜代美の為 常磐木の 月かけ清し 秋の暮」と刻してあります。
亡くなった月野喜代美のために、浅草公園の常盤座関係の人達が建てたものです(「秋の暮」は晩秋のこと)。
11)六地蔵
六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの迷界で苦しんでいる人々を救うという六種の地蔵菩薩を表したものです。
当時の六地蔵は、小林惣吉氏によって明治34年に安置されたものです。
この六地蔵の傍らに、地蔵真言を刻んだ木製の輪がありますが、これは転輪蔵を模したもので、これを回転させると真言を唱えた功徳があるといわれています。(転輪蔵は経典を納めておく回転式書棚で、信者がこれを一回転させると、看経したのと同じ功徳があるといいます。
12)植村盧洲の墓
墓碑の「山東野老埋骨之処」は大沼沈山の書で、碑陰は沈山の撰文です(「野老」は田舎老人の意)。
盧洲の生家は代々幕府の与力でしたが、若い時から文学に親しみ、わずか19歳で大沼沈山の弟子となって漢詩を学びました。やがて家を弟に譲り文学に専念し、40年間も沈山に師事して一家を成しました。盧洲は、師に深く愛され信頼されていましたが、明治18年8月56歳で師に先立ちました。『盧洲詩鈔』『古詩註釈』等の著書があります。なお、大山沈山は江戸下谷の生まれで、儒者で詩人。明治24年没。
13)東条琴台の墓
琴台は寛政7年(1795)6月、江戸の芝宇田川町(港区浜松町)に生まれました。名は耕、字は子蔵といい、琴台はその号です。若い時から学問好きで博覧強記で知られ『儒林小史』(10巻)、『経籍通史』(20巻)等多くの著述があります。幕末に越後高田藩榊原氏に招かれて学問の師となりましたが、明治5年8月か亀戸天神社の神官になりました。晩年に眼病で失明、明治11年9月84歳で没しました(木母寺の項参照)。
墓碑は「琴台東条先生之墓」となっていたものを昭和51年「東条氏累世之墓」とし、側に墓誌を建てました。
14)大矢市次郎の墓
となりの北条秀司撰文の墓誌に次のように記されています。「明治27年2月11日、東京浅草に生まれ、昭和47年5月28日、78歳にて歿す。全生涯を新派演劇に捧げ芸格高厳、気骨稜々、明治、大正、昭和を通じて最も偉秀なる大名優であった。その示した演技のすべては後進にとって永遠の経典である。
15)佐原鞠塢の墓
百花園の佐原氏代々の墓で「浄」の一字が記されているだけです。昭和52年、歓明寺(台東区元浅草3丁目)から当寺に遷されたものです。
香取神社(文花2丁目5番8号)
当社のある土地一帯は小村井村と呼ばれ、応永五年(1398)の「葛西御厨注文」によると、葛西三八郷の一つとして「小村江十五町」と見え、この土地の開拓の古さがわかります。
香取神社はこの開拓者の氏神として永万元年(1165)に創建され、以来、村の鎮守として崇められてきたと言われています。祭神は経津主の神で、武神であると同時に産業開発、開拓の神であることから、これら開拓者に祀られたものでしょう。もちろん香取神宮(千葉県)の分社です。
1)「文政11年」銘水「鉢禊」 <区登録文化財>
境内の摂社諏訪神社前にあるこの水鉢は、文政11年(1828)の銘があり、かなり大型のものです。この水鉢は、もと当社本殿にすえられていたものです。銘を拾うと、「禊盥 文政11年戌6月吉祥日 氏子中 星塢泰鐘 書」とあります。
水鉢には一般に「奉納」「奉献」と刻まれますが、とくに「禊盥」としたところに、この石造物の役目を端的に物語っています。造作も丁寧で刻印も闊達で優品と言っていいでしょう。
石造水鉢は、水盤・手水石などとも呼ばれ、神仏の前に安置され参拝者が手や口を洗い清めるものです。これは古代から行われていた斎戒沐浴の名残で、けがれを祓うために川の水で体を洗い清める行為が簡略化され、神仏の前で水鉢などが常備されるされるようになりました。篤信者たちが神仏前に奉納する風習が江戸時代の後半には全国に広がりました。
区内の水盤は、イ・庚申信仰に関するもの ロ・墓前・霊前に奉納されたもの ハ・神社・仏閣に奉納されたもの ニ・その他に大別することができます。
この水鉢は安山岩製で、寸法は幅121cm、奥行60cm、高さ50cmです。
2)玉垣「獅子」
本殿玉垣の石組にはめ込まれて、左右に安置されていますが、本来は玉垣の一部として奉納されたものと思われます。左が阿形、右が吽形ですが、両者とも頭部を左に、尾部を右にした非対称的な図柄になっています。
慶応4辰年(1868)正月の銘があり、旧小村井村の氏子中が奉納したものと考えられます。
3)「文政13年」銘石燈籠
摂社三峯神社前にあり、「文政13年(1830)寅八(以下欠)の銘を持ち、当社の石燈籠では最も古いものですが風化による剥落が激しく、銘文も十分読み取れないのが惜しまれます。
春日型の石燈籠であって、火袋は雄大であり、竿の部分と等しいことは、ある種の落ち着きを見せます。なお、近年隣地にあった「小村井梅園」にちなみ、境内に「香梅園」を開いています。
吾嬬神社(立花1丁目1番15号)
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮洲の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地でその中に祀があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地(築山)は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神は弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり乗船も危うくなったのを、弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾嬬恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召し物がこの地の磯辺に漂い着いたとので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだといわれています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬<区登録文化財>が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2巳年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(中央区築地6・7丁目)・本船町地引河岸(中央区日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かってはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。
1)「吾嬬森碑」
明和3年(1766)の夏、藤原博古(山県大弐)の撰文になるもので、柱状の三面に「下総国葛飾郡吾嬬森碑」として日本武尊の東征と弟橘媛命の入水のこと、碓日嶺(碓氷峠)に登って「吾嬬はや」と歎かれたこと、吾嬬の森が命の墓であることなどを述べて、命の貞烈を顕彰しています。
なお、碑文中には敬意を示した五字分もの闕字の手法が見られます。山県大弐でしられる藤原博古は江戸中期の兵学者・勤皇家で、柳荘と号し、『柳子新論』を著すなどして、幕政を批判して忌諱に触れ、明和事件で捕らわれて処刑されました。
2)「縁起」の碑
当社の御神木であり、吾嬬の森の「相生の楠」として有名な楠について、そのいわれ及び霊験を記し、合わせて、吾嬬神社の縁起・日本武尊の東征の事跡などを述べています。楠は現在は枯れて、その根だけが境内に保存されています。
裏面には、「天下泰平国家安全」と大書きし天明3年(1783)の年紀を掲げて、田所町(日本橋堀留)の住吉屋庄兵衛の母そゑの発願で建立されたものです。
3)紀真顔「高麗剱」の歌碑
「高麗剱 わざこそ歌の 一風流を 我がたましひと いよよ磨かし 文政12年(1829)6月6日 俳諧歌場 紀 真顔」とし、裏に「昭和40年9月破損に付き再建之」としています。
紀真顔は狂歌堂と号し、また鹿津部真顔ともいい、狂歌を蜀山人に学び宗匠となった人ですが、俳諧歌とも称え一派を作ったりしていました(隅田川神社の項参照)。
4)「文化十四年」銘水鉢
銘「奉納 文化14年(1817)丑10月吉日 白木屋清兵衛」としています。
大柄に属するものであり、正福寺・天祥寺、とくに香取神社のものと共通しています。脚部の造り出しと、その曲線は萎縮することなく、刻字も太くのびやかです。また、現に使用されている点でも極めて数少ない例といえます。
5)源延平「皇国は」の歌碑
自然石に円を隈どりして「皇国は かみ代のままの 道しあれば ことなる文の をしへ何せむ 源 延平」と刻みますが、年紀はとくに見当たりません。
6) 「天保9年」銘鳥居
境内の福神稲荷社前に建つ鳥居で、銘を「天保9戌戌歳(1838)2月初午 願主 信濃屋筆女」と刻んでいます。女性によって奉納された点、区内でもこの一点かと思われ、大変貴重です。
「初午」は2月の初の午の日で、京都の伏見稲荷神社の神が降りた日とされ、全国的にはこの日、蚕や牛馬の祭日とする風習の中で、この信濃屋の「おふで」は何を願かけたものでしょうか。
7) 「櫪而不隣」(ますれどもうすろがず)の碑
前の「吾嬬森碑」撰文者、藤原博古すなわち山県大弐の顕彰碑とも言えるもので、高さ450cmの大碑で、一部に欠けるところがあるものの、読み下すのに不便はありません。
昭和7年、徳富猪一郎(蘇峰・1863〜1957)の撰文になるものです。前碑と共に、国粋・国家主義の高揚期を背景にした建碑であることがわかります。なお、篆額の「櫪而不隣」は『論語』からの出典で、本当に硬いものは削っても薄くならないという意味で、他の悪い感化を受けないたとえにしています。大弐の忠節を形容したものでしょう。
福神橋橋台地(文化2丁目1番
明治通りと浅草通りの交差する福神橋橋畔に銅像と一碑があります。
1)「築道碑」
明治中期から、かっての吾嬬町にも都市化の波が打ち寄せ、純農村地帯の道路の拡幅・新設が問題となり、町長大沢梅次郎はじめ地主・町民の協力によって成った道路整備事業を記念して建碑(大正14年)したものです。「人類相愛の情理と人類群居の態様と物質生産の現状と文化進展の帰趨とは」で始まる、高さ200cmのこの碑は初め旧吾嬬町役場(現向島警察署)前の宮田橋橋畔にあったものを、のち昭和37年に移設したものです。なお、この碑と軌を一つにするものに、原公園(京島3丁目)に「新薬師道之碑」(大正6年建碑)があります。
2)大沢梅次郎銅像
氏は明治22年、この地の旧家小山家に生まれ、大正6年28歳で町会議員となり、ついで同13年から昭和2年まで吾嬬町長におされ、同3年東京府会議員となり、以来、市会・都議会議員として同34年9月に没するまで、地方政治に徹した人物です。昭和38年11月建立。
旧小山家住宅(指定有形文化財『建造物』立花6丁目13番17号、立花大正民家園内)は、大正6年(1917)に建てられた住宅です。桁行八間、梁間四間半で整形四間取寄棟造瓦葺の母屋の四面に下屋庇をまわしています。
創建当初の素材・意匠が充実している上、保存状態は極めて良好といえます。昭和10年代に土間の一部が座敷として改造され、新しい玄関が設けられて、萱葺きから瓦葺になりました。昭和32年(1957)には水害対策として建物全体を50cmほどかさ上げしました。
町屋づくり部分と農家づくり部分を一軒の家の中に残していることや、土間が狭いこと、接客空間が充実している点は、近代以降の都市近郊住宅の特徴を現すものとなっています。
この住宅は、平井・吾嬬を中心に大正・昭和初期に住宅大工として活躍した田口鉄五郎の手により建てられました。」
白鬚橋たもとから、ここまで約5kmほどですが、調べれば調べるほど多くて書ききれないほどあり、また、少しずつ書かせてもらいます。なお、資料は、墨田区教育委員会発行の書より。