親水公園と緑道
親水公園は、比較的川幅のある水路を広域的な水辺の空間として整備した施設です。水を浄化滅菌処理して(一之江境川を除く)子どもたちがより安全に遊べるように配慮したり、アスレチック遊具を配置するなど公園的なものとしています。 また、一之江境川親水公園では、遊水性に加えて生き物の棲息しやすい環境づくりも行っています。 |
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親水緑道は、親水公園に比べ規模の小さなもので、生活道路のかたわらに幅1mほどの小川が流れる空間です。魚の泳ぐ姿を楽しみながら、緑陰を散策することができる“みち”です。 親水公園は公園、親水緑道は道路という区分で整備・管理しています。 |
1級河川である旧中川や新川の周辺は、地盤が低いため水門や閘門を整備し、人工的に河川の水位を下げて、浸水に対しての安全性を高めています。その結果、従来の堤防を低くすることが可能になり、その川の特徴である自然の形態を生かした整備を進め、人にも自然にもやさしい水辺の空間となっています。
新小岩
JR総武本線の起点から10qの地点に新小岩駅があります。「寅さん」で有名な東京都葛飾区です。
乗降客は1日 138000 人と、市川駅より多いくらいです。今でこそ”下町”とも言われますが、大江戸八百屋町の市中は旧15区の本所の横十間川まででしょう。
新小岩は一面畑の地に鉄道が出来てから発展した街とも言えます。
新小岩駅の北東の位置にはかつて機関区、工場、操車場があり、日本通運と大同製鋼の専用線(作業キロ各0.4)がありました。そして、現在でも総武本線の他に、新金線、越中島貨物線が接続しています。
葛飾区の中心部を走る京成電車は新小岩には在りません。バスは京成と都営が接続しています。
新小岩の地名
現在の新小岩と言う地名ができたのは昭和40年のことです。
では、それまで何という地名だったのでしょうか? 答えは、上平井町、平井中町、上小松町、下小松町といったかんじで江戸川区の小岩とは関係無い地名でした。
明治時代の新小岩は、なんと荒川も新中川も無く、蔵前橋通りも平和橋通りも環七もありませんでした。そして、総武鉄道は開通していたものの駅はありませんでした。やがて信号場が出来ますが「新小岩駅」の旅客営業が正式に始まるのは昭和3年7月1日(10日)になってからのことです。当時の地元では駅名を「小松駅」にしたかったようです。
小岩の手前に出来た新しい駅なので新小岩らしいです。駅の周りは一面の田圃でした。
地名について
平井は約400年位前までは平江と呼び、ここまで海水面が来ていたのではと考えられています。野菜の小松菜は小松川の地名から来ています。
葛飾や江戸川の地名の由来や、区名決定の際の争いは各区史等をご覧になってください。
交通機関の発達
明治、大正期の総武線は隅田川に遮られて他の国鉄線に接続していない陸の孤島でした(千葉県は四方を水に囲まれてて本当に島だけど)。そこで、常磐線の金町と総武線新小岩信号場を連絡する貨物線が作られ、同時に新小岩操車場が開設(大正15年)しました。この頃、新小岩では貨物ホームに列車を止めて乗客の便を図っていました。
昭和3年、現在地に新小岩駅が開設されますが、江戸川区側の南口だけで、北口は今は無き大同製鋼、那須アルミ、太田鉄工所による請願で昭和19年開設します。
葛飾区は関東大震災、第二次世界大戦であまり被害を受けませんでしたが、洪水に関しては常習地域でした。新中川放水路は昭和38年に開通します。
昭和30年代になってやっと市街化が進みました。その後、蔵前橋通り開通、複々線化、快速用ホーム設置とさらに発展しました。
移り変わり
街の発展と共にだんだん大きな工場が郊外へ移転し出します。
昭和50年、日軽アルミニウム工業鰍ェ船橋工場へ移転し、西新小岩2丁目が空っぽになり、隣の西新小岩1丁目も大同製鋼が移転、ボーリング場も消えて、だいどー跡地は大人子供を問わず格好の遊び場になました。
その後、日軽アルミ跡は公団や学校(56年)になり、だいどー跡地は都営住宅と整備された公園になりました。
日曜ごとに賑わった中土手のモトクロスコースも首都高速の工事で消えました。そしてだんだん田んぼやザリガニのいた沼地も消えてゆきました。
昭和62年、千葉県からの車の流入もあって巽橋周辺の渋滞が著しく、なんと地元の足であるバス路線が廃止になってしまいました。厳密には朝9時までの東新小岩4丁目からの蔵前橋通り上り線の便が路線変更に追い込まれたと言うことです。
平成2年頃、西井堀が下水道の普及によって埋め立てられました。この頃に生産緑地法の改正やバブル景気があって残っていた農地はほとんど消滅し風景が変わりました。
昭和59年、貨物のヤード系輸送の廃止(この時貨物駅851→457駅へ)。そして昭和62年、国鉄からJR貨物になり、大宮貨車職場は新小岩車両所と変わりました。
ヤード廃止から13年、ついに跡地売却、平成9年8月25日、新小岩車両所移転。そして9月14日、この日、70余年にわたる旧新小岩操車場の機能は止まりました。
鉄道が出来てから発展した新小岩の街ですが、鉄道の基地であった機関区や工場、ヤードのある旧操車場は無くなり、街の発展を見続けてきた転車台をはじめとする貴重な蒸気時代の遺物は保存されることなく消えて行きました。
新小岩地区で大規模な工場は森永乳業(昔は製紙工場)くらいになってしまいました。
蔵前橋通りのかつては日本一?とも言われた中古車店街も少し減ってきたようです。
平成11年前後、バブル崩壊以後沈静化していたマンション建設が活発になり高層マンションが増える。時を同じくして50人規模位の工場が次々と閉鎖され消えてゆきました。
大工場もいなくなり、商業地なのに大店舗はいなくなってしまい、ただのベットタウン(夜間人口の方が多い)になりつつあります。